10.14〜15辺野古現地阻止行動に参加して
台風も反対運動に味方した
「海を取り戻した」と山城博治さん
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「復帰闘争碑」に
刻まれた言葉
七月後半からの安倍政権による辺野古新基地建設のための強行突破が本格化して以来、インターネットなどで情報を収集しながらも現地に駆けつけられないもどかしさを抱える日々だったが、ほぼ二カ月の準備期間を経て一〇月一二日から仲間と現地に三泊で駆けつけることができた。
もっとも、この日は巨大台風一九号が沖縄を直撃した翌日であり、一一日に沖縄入りの予定だった仲間は飛行機の欠航により、今回の沖縄行きを断念。私ともう一人の飛行機も六時間遅れで夜八時に那覇空港に到着。羽田〜那覇の前二便は那覇空港の直前まで行きながら着陸を果たせず、羽田に引き返した。私たちの便は、日航で那覇空港に到着した最初の便になった。無理に着陸しろとは思わないが、全日空機が昼過ぎには着陸を果たしていることを考えれば、日航がベテランのパイロットをリストラした影響もあるのではないだろうか。
翌一三日、台風が過ぎたとは言え台風一過というものがない沖縄のこと、まだ風も強く時折強い雨も降ってくる。当然と言うべきか、辺野古も高江も座り込みなどの阻止行動は中止となり、仕方なく二人で沖縄北部一周のドライブをするしかなかった。北部訓練場の広大さを体感したり、あるいは辺戸岬の一九七六年の復帰協解散直前に建立された「祖国復帰闘争碑」を見る。「この碑は喜びを表明するためにあるのでもなく、ましてや勝利を記念するためにあるのでもない」、「闘いをふりかえり大衆が信じ合い、自らの力を確かめ合い決意を新たにし合うためにこそあり、人類が永遠に生存し生きとし生けるものが自然の摂理の下に生きながらえ得るために、警鐘を鳴らさんとしてある」という苦々しくも、誇り高い碑文に沖縄闘争の心象風景を垣間見る。
「復帰闘争碑」に
刻まれた言葉
一〇月一四日、この日から四日ぶりに台風で中断していたキャンプシュワブのメインゲート前での座り込みや海上行動が再開される。ゲート前で陣頭指揮をとる沖縄平和運動センターの山城博治さんは、「連日の闘いだったので、いい休養になった」と語る。ゲート前の日よけのブルーシートは、毎朝八時に設営し、毎夕撤収作業をする。山城さんの手際のいい指示で組み上がりも解体も早いものだ。私たちも到着するなり、「設営部隊」に加わる。
この日は、平日とは言え連休に連なっているからか、ヤマトから初めて参加したという人が多かった。また、座り込みをしていると沖縄県内からも続々と支援が到着する。中でもこの日は、嘉手納爆音訴訟団が二〇人以上もの参加で駆けつけたことが目を引いた。他にも北谷町職労や国公労国頭支部などが「部隊」で参加していた。思っていた以上に、沖縄の社会運動や労働運動が現場でも辺野古の現地の闘いを支えていることを知る。
新しい参加者や各団体などで一通りマイクを回したあと、山城さんの指揮で「恒例」となっているゲート前行進を行う。これは、座り込み参加者がゲート前をぐるぐる行進して基地に向かってシュプレヒコールを挙げるというものだ。もちろん、その間はゲートの出入りを実力で止める。沖縄労働運動や反戦地主会が基地への抗議行動で行ってきたスタイルであり、沖縄の反基地運動の伝統が辺野古の闘いにも生きている。
海上抗議行動
にも参加した
一五日も、ゲート前の日よけの設営を手伝い、座り込みに参加。途中で辺野古沖で抗議活動を展開する「平和丸」に乗れるという声が掛かり、図々しくも乗せてもらう。個人的には一五年ぶりとなる辺野古沖だ。
「平和丸」は以前と変わらず辺野古漁港を出入りしている。このことは、稲嶺名護市長の「市長権限」によって、基地建設のための船や海上保安庁などが港を使うことができず、逆に「反対派」が依然として使っているということだ。現地に行くと、このことの意味や意義がどんなに大きいか、思い知るだろう。この「市長権限」行使がなければ、締め出されていたのは「反対派」だったのだから。
台風の影響で、辺野古浜から見えるシュワブ基地の浜には海上保安庁が設置した「立ち入り制限区域」を示すフロート(浮き具)が若干陸に打ち上げられている。船で辺野古浜から見えないアングルからシュワブ基地を見ると、それは無残にほぼすべてのフロートが打ち上げられ、あるいはちぎれ、もしくは絡まって浮かんでいる。元々、法的根拠の薄弱な「立ち入り制限区域」をこのフロートを目印に抗議のカヌーや船を暴力的に規制していた海保はフロートが海上から消滅してしまったことで「規制」の根拠を失い、影も形もなかった。
代わりに、防衛局の船やボートが「平和丸」やカヌーに対して警告を発するが、さして威圧的でもなく、少しだけ追尾して海保のように手を出すこともなく戻っていく。聞けば、この防衛局の「臨時職員」は地元の漁師を雇っていることが多いとのこと。彼らは、目印が失われた海上をGPSを頼りに丸一日海上にいなければならない。私たちが手を振ると、小さく振り返す。札束では頬を叩き、「海の男」の誇りを奪う政府のやり口と基地の罪深さがそこにはあった。
政府への打撃
は小さくない
とにかく、八月、九月には抗議のカヌーに対して首を絞めたり、法的根拠を示さないまま拘束したりの乱暴狼藉の限りを尽くした海保がいない辺野古の海は、台風という自然の力を借りて人民の手に取り戻した格好となった。「平和丸」もカヌーも誰の妨害も受けることなく、縦横無尽に海の上を走っていく。この解放感は現地にとっても格別だったようで陸に上がると、山城さんは「海を取り戻したぞ!」と何度もシュプレヒコールを上げていた。
フロートは、補修には時間はかかるし、新たに設置するには金がかかるということで、権力にとっても対策をどうするのか悩ましい問題だろうとのこと。また、設置した桟橋も台風で海の藻屑と消えたので、沖縄知事選前に新たな台船を設置して既成事実を積み重ねたい政府には、やはり打撃が大きいだろう、とのことだった。(もっとも、一八日には海保の護衛のもと、フロートを海に引っ張る作業が開始されているが、カヌー隊に再設置を阻止されたという現地情報。また、フロートはちぎれてもいるので完全復旧は当分先になるのではないか)。
最後に、沖縄知事選と辺野古の現地の闘いについて。ゲート前の座り込みでは、「オール沖縄の反基地候補」である翁長雄志候補ののぼりが、日よけの骨組みやメインゲートの「殺人鉄板」の前に置かれたジャバラ(法的根拠を示さないままに歩道を塞ぐように設置されたので「違法ジャバラ」と呼ばれていた)に、他ののぼりとともに括り付けられていた。辺野古現地の闘いにとって、翁長候補は完全に「我らが候補」となっていた。
座り込みでのマイクリレーでは、「選挙だけでもダメだし、現地闘争だけでもダメだ。連動しながら闘っていこう。しかし、現地闘争がなければ絶対に阻止はできない」という発言をいくつも聞いた。少なくとも、このような意識で辺野古現地は、沖縄知事選を迎えているのだろう。また、「翁長楽勝」ムードを戒める発言も多く聞かれた。
辺野古現地は、台風が作り出したエアポケットのような状況で、たった三泊で具体的な攻防のない現地入りであったが、やはり現地の雰囲気は行かなければわからない。大きな集会などなくても行ける時には辺野古に駆けつけることは、やはり重要なことだとあらためて感じた次第だ。そして、「本土」=ヤマトで生活する私たちは、沖縄を踏みつけるヤマトの政治のあり方そのものを終わらせるために、自らの生活圏で努力していかなければならないのだろう。それこそが最大の「沖縄連帯」だ。 (F)
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