スリランカ
バラ・タンポ同志とセイロン・マーカンタイル・ユニオン(CMU)
リオネル・ボパゲ
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戦後のスリランカ(セイロン)で、階級闘争の最前線を一貫して担ってきたバラ・タンポ同志がさる九月一日に九二歳で亡くなった。バラ・タンポ同志はCMU(セイロン商業一般労働組合)の指導者であると共に、スリランカ、そしてアジアにおいて第四インターナショナルを支えてきた革命家でもあった。彼は一九七〇年代前半のJVP(人民解放戦線)の武装反乱と政府の残虐な弾圧の闘いの中で、JVPを防衛する闘いの先頭に立った。JVPの元書記長であったリオネル・ポパゲがバラ・タンポの生前、彼について書いた文章を紹介する。(「かけはし」編集部)
セイロン・マーカンタイル・ユニオン(CMU)の書記長であるバラ・タンポ同志は、九月一日、スリランカの首都コロンボで逝去したが、享年九二歳だった。以下の文章は、JVP(ジャナタ・ヴィムクチ・ペラヌマ)の元書記長であるリオネル・ボパゲによって二〇〇八年二月に執筆されたものである。JVPはスリランカのシンハリ人農村青年を主要な基盤とする“毛沢東主義”政治組織として一九六五年に結成され、一九七一年に全面的蜂起を企図して、国家権力によって暴虐・無慈悲に弾圧されたが、ボパゲは当時のJVP書記長だった。
JVPは、一九八四年、スリランカ北部を中心とするタミル人の自決権の要求を否定し、シンハラ排外主義に陥り、このときボパゲはJVPから離れた。以下の文書は、“Fraternal Message to Comrade Bala Tampoe and the Ceylon Mercantile Union”(http://transcurrents.com/tamiliana/archives/536)をかなり要約的に訳出したものである。 (酒井与七)
バラはCMU
と一体である
スリランカのすべての左翼的・進歩的人々は、わが国とその人民の歴史においてセイロン・マーカンタイル・ユニオン(CMU) ― そのフルネームはセイロン・マーカンタイル・インダストリアル・ジェネラル・ユニオン ― とその指導者であるバラ・タンポ同志がはたしてきた比類なく重要な役割を称賛し、無条件に認めるだろう。すでに八〇歳代半ばになるバラ同志は六〇年間にわたってCMUの書記長の位置にあり、彼とCMUは一体である。
一九六〇年代、私が共産党学生組織に属していた頃、すべてのトロツキスト運動はCIAに支援されており、バラ同志も同じであるとされていた。しかし、青年世代のわれわれはトロツキストのLSSP(ランカ・サマサマジャ党)や共産党による闘争、そして労働者階級の運動におけるCMUとバラ同志の役割を高く評価していた。とりわけ抑圧的なブルジョア政府体制のもとで展開されたCMU指導下のストライキ闘争はわれわれ左翼の青年を大いに奮い立たせるものだった。
しかし、一九六〇年代中頃、既成左翼勢力がブルジョア政党と癒着して連立政府を形成する状況がうまれ、バラ同志はこのような流れに抗して「ランカ・サマサマジャ党(革命派) LSSP(R)」(後に革命的マルクス主義党RMPと改名する) を結成し(1964年) 、これは第四インターナショナル統一書記局系の組織になり、他方、共産党の周辺では「チェ・ゲバラ運動」がはじまり、これは「ジャナタ・ヴィムクチ・ペラヌマ(JVP:人民解放戦線)」として結実した(1965年) 。
一九七〇年にJVP代表のロハナ・ウィジェウィーラが権力によって投獄されたとき、JVPははじめてLSSPの急進的部分と関係をもつことになった。われわれJVPは政治的にスターリニストで毛沢東主義者であり、LSSPの彼らはトロツキストだったが、両者はともに国家権力による抑圧と弾圧、そして政治的表現の自由という民主主義的権利の蹂躙という脅威に直面していたのである。
一九七一年にJVPが蜂起し、暴虐このうえない弾圧に見舞われたときも同じだった。このとき、ウィジェウィーラや私を含めて三二人のJVPメンバーがCJC (刑事裁判特別法廷) の裁判にかけられ、ブルジョア政党のSLFP(スリランカ自由党)とLSSPおよび共産党のブロックによって構成される権力の側と対抗してわれわれを防衛したのがバラ同志を中心とする弁護活動だった。国家権力の側はわれわれを凶悪なテロリスト集団として描きだそうとし、われわれJVPとバラ同志を中心とする弁護団は国家権力による欺瞞と民主主義的権利の抑圧を暴きだすために闘った。
革命的マルクス主義党(RMP)、CMU、そしてバラ同志はほぼ四〇〇〇人ものJVP活動家の逮捕・拘禁・拷問に抗議し、JVP活動家のための支援活動を展開し、また一九七一年三月の「非常事態」宣言 ― これによって公安関係弾圧組織は検死解剖なしの死体処理を認められた ― に反対した。さらにバラ同志とRMPおよびCMUはウィジェウィーラやその他のJVPメンバーとのインタビューを公表し、JVPの見解を国際的に紹介したのである。
一九七〇年代のJVPが青年をとりまく当時の社会経済的状況を打開しようとする純然たる青年運動だったことについて、RMPとCMU、バラ同志は何の疑いももっていなかった。われわれJVPメンバーに対するCJC裁判を前にして、バラ同志はこの裁判を基本的に政治的事柄としてとらえ、そのような立場からCMUの組織決定に基づいてわれわれの三二人の弁護活動に踏み込んだのである。
CJC法廷では検事および裁判官の権力側と弁護団ならびにわれわれの間で緊迫した政治的争論が展開され、バラ同志を中心とする弁護団は裁判上の素晴らしい法廷技術を示しただけでなく、政府の不当・非道性と民衆に対する裏切りを見事に曝露していった。 また、この裁判をつうじてJVPの路線の過誤も明らかになり、われわれが政治的に未熟であり、その闘争路線が非現実的で冒険主義的なものであったことが明らかにされた。
このCJC裁判を通じ、ウィジェウィーラ、ウヤンゴダ、セナナヤケ、そして私はバラ同志やその弁護団としばしば会い、討論することができた。バラ同志はしばしば“左翼の厄介者となった枯れ木は消え去るべきだが、それに取って代わるべき新しい若木はいまだ生育不足である”と語り、われわれのことをレーニンのことを少ししか知らない“小さなレーニン”とよんだりしていた。
JVPとCMUの政治的提携が一九七七年五月のCMUとJVPによる統一メーデーもって始まった。一九七七年一一月、われわれJVP指導部が獄舎から解放されたとき、われわれを迎えいれたのはCMUだった。われわれの出獄後最初の記者会見はコロンボ市内のCMU組合本部で行われ、こうして一九七七年以後の新しいJVP活動がはじまった。
われわれとCMU指導部との政治的提携関係は継続し、ストライキ支援や政治課題のための共同のキャンペーンが展開された。一九八〇年代初期には、労働者、学生および勤労人民大衆の利益にかかわる最低限の要求項目に基づくキャンペーンがJVP、CMU、LSSPおよび共産党の共同行動として始まった。しかし、かってJVPを弾圧する国家権力の側にいたLSSPと共産党との共同行動を忌諱する傾向がJVP内部にあり、またJVPの下部メンバーもこのような共同行動を積極的に受け入れることができなかったし、その結果、JVPとCMUとの提携関係は崩れていった。さらに一九八四年になると、JVPは地域的自治・独立の要求を否定するにいたった。
国家の弾圧に
全身で立ち向う
私は、バラ同志との討論をつうじて、バラ・タンポという傑出した人物とCMUが労働者階級のために達成した素晴らしい階級的業績を知ることができた。
バラ同志は、階級闘争の道に踏み込んだのは公明正大性と正義についてゆるがせにできない個人的性格によるものであると語っている。彼は大学にはいってマルクス主義者になり、イギリス軍兵士を対象にする反戦運動に参加した。彼の最初の政治とのかかわりは一九四七年のゼネラル・ストライキにおけるスト参加者集会での演説であり、ゼネストへの積極的関与のために彼は公務員の職を失わねばならなかった。この時点から、バラ・タンポは労働する人々の闘いのために全面的に献身することになるのである。
バラ同志は革命的政治指導者かつ戦闘的労働組合指導者であるだけでなく、わが国のカリスマ的政治指導者である。バラ同志は人民大衆の社会的権利や経済的権利、人権の問題に積極的に関与してきた。人権や民主主義的権利が脅威にさらされるとき、バラ同志は必ずそのような侵害との闘いの先頭にたって国家権力と対決し、そのような脅威と侵害について人々の意識を喚起してきた。そのような民主主義的権利のための闘いの一環として、バラ同志とCMUは一九七一〜七二年にJVP擁護のために奮闘したのである。
バラ同志とCMUはあらゆる人種・言語・宗教の被抑圧人民とその権利を擁護し、そのような立場からスリランカ北部を中心とするタミル人地域の自治・自決の権利を終始一貫して擁護してきた。また二〇〇四年のインド洋大津波による甚大な災害に際して、CMUはLTTE(「タミル・イーラム解放のトラ」 ― スリランカ北部のジャフナを中心とするタミル人地域の独立のために武装闘争を展開していた組織)に災害救援のためにスリランカ政府と話し合うように求め、同時にLTTEが支配する災害地域に対する救援のために政府がLTTEと提携するように求め、政府の災害救援活動があらゆる地域に対して差別を排して公平に実施されるよう要求した。
CMUは、労働組合と組織労働者の独立・自律のために闘い、労働者組織をブルジョアジーに従属させようとする企図を一貫して退けてきた。CMUは、労働者階級の運動を労働者自身が管理・掌握するために闘ってきた。CMUはまさに独立した労働者組織であり、人権と民主主義的権利の侵害について何ものにも恐れることなく自己の見解を表明し、必要とされる活動を展開してきた。
CMUの力量は、これからも、そのメンバーの結集力とその指導部の資質に依存している。資本主義は新自由主義的戦略・政策をもって資本の世界支配を打ち固めようとする新しいグローバリゼーションの段階に入っており、CMUのような労働者組織とバラ同志のような指導者は資本の新自由主義的グローバリゼーションに抗する格闘のなかに入りこんでいる。このような枠組みのもとで、CMUとバラ同志は新しい世代のカードルによるCMU労働組合組織と指導部の継承という課題に直面しているが、ここでもバラ同志の役割は重要である。
バラ同志は、一九八三年、次のように述べている ― 「歴史は潮の満ち引きのようなものである。これまで引き潮がつづいている。しかし、現在の陰鬱な圧制的状況のもとで、私は上げ潮に向かう要素を認めることができる」と。現在の社会・経済・政治的状況のもとでも、以上のような見方は依然として正しいと私は考えている。
長年の連帯に
心から感謝する
一九七七年一一月、われわれが獄舎から釈放されたとき、ロハナ・ウィジェウィーラと私はバラ・タンポ同志とその他のCMUの同志たちによるJVPにたいする支援の活動について謝意を明らかにしたが、私はわれわれに対するCMUとその同志たちの真に階級的な支援にあらためて謝意を表明します。私は、わが国の戦後史全体をつうじてバラ同志とCMUがはたした比類なく重要な役割を確認し、称賛します。また、バラ同志の親密な協働者かつ伴侶だった故メイ・ウィックレマスーリヤによるJVP青年に対する支援・擁護の活動について感謝しなければなりません。
リオネル・ボパゲ、元JVP書記長
二〇〇八年二月一日
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