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    かけはし2014.年10月13日号

住民投票と二つの政治選択


カタルーニャ

九月一一日と一一月九日――決着の時

独立は民主的反緊縮の闘いと一体

金融界とトロイカへの服従反対

ホセ・マリア・アンテンタス

 スコットランドでの独立をめぐる住民投票は独立を退ける結果となったが、欧州ではもう一つ、カタルーニャの独立をめぐる重大な対決が近づいている。カタルーニャの場合はスコットランドとは異なり、マドリードのスペイン中央政府が投票実施に強硬に反対しているため、対決はより深く複雑な様相を呈している。以下ではその対決とその結果がもつ重大な政治的意味、したがってそこで必要とされる闘いの戦略的観点、特に左翼の任務が論じられている。(「かけはし」編集部)

 決着の時が近づいていること、それに疑いはまったくない。しかしどのような決着となるのか? 来るべき数カ月は、何年もに匹敵するだろう。より良くであれより悪くであれ、その月々に込められた可能性は、一九七八年に生み出された制度的枠組みの破壊に向かう不可逆的運動の加速と一定点に導くか、それとも二〇一二年に始まった進展の叙事詩的崩壊を意味するかだ。そして後者の場合その背後には、たとえようもない挫折感とシニシズムという遺産が残されるだろう。
今後数週間の台本にある最初の方策ははっきりしている。11S(九月一一日)の決起(この日バルセロナの街頭は独立を求める一八〇万人のデモで埋め尽くされた:訳者)の後、マス政権〔カタルーニャ自治州政府の:IV注〕は、「諮問投票法」〔独立投票に関する:IV注〕を承認するだろう(自治州議会は一九日圧倒的多数で可決:訳者)。次いで、おそらく憲法裁判所が凍結することとなる諮問呼びかけの布告に署名するだろう。
そこからは二つの道筋があり得る。つまり、主権を求める進展を加速し国家を消耗させることになる、そうした民主的な不服従を最後まで維持するか、それともバックギアに入り込むかだ。そしてこの第二の選択肢の場合にも、決定権の民主的な行使を可能とする他の短期的諸ルートの追求から現在の進展を無期限に先延ばしするいくつかの試みまで、いくつかの可能性がある。
憲法裁判所決定の尊重は、そしてマスの大げさな言動にもかかわらず、すべてのことが彼がそうすることを示しているのだが、第一級の戦略的過ちとなるだろう。極めて悪い兆候が一つある。
したがってこのゲームにおいては、あらゆる犠牲を払っても諮問投票を防衛することが第一歩でなければならない。スペイン国家に関わる脈絡を除いては、しかしまたスペインの世論の相当部分に対しても、正当化できず説明もできない、そのような禁令に服従しないことは、カタルーニャの民主諸勢力が行うべき主要な挑戦だ。
カタルーニャ国民会議(ANC)と独立支持運動を導いている人びとは、この道筋に明確にしたがうべきであり、あいまいな中味のプランBの類を受け容れてはならない。そしてそれが現実にはならないだろうという証拠を前に左翼諸勢力は、諮問投票の主要な防衛者とならなければならない。決着の時においては、決定権を支持して限界まで進むことに賛意をもっている人々について疑いをもってはならない。

統一? どのよ
うな統一か?


このような情勢の中で今後の数カ月鍵となるものは、諮問投票を支持する人びとの間の統一を可能な限り幅広く維持することになるだろう。しかしその統一は、マス政権の背後に結び付けられた統一ではなく、マス政権に強力な圧力を維持することを義務とした、さらにその政権を超えて進むことの追求を義務とした統一だ。ある種の退却や不定の未来へのこの決定的な時の先延ばしに対しては、どのような余地も残してはならない。
諮問投票の防衛における統一は、社会的諸矛盾すべてを民族問題に切り縮め、緊縮諸政策に対する抵抗の不活発化に奉仕する、そのような愛国主義的統一の呪文と混同されてはならない。健康な意図の基にこの政策を今なお防衛している人々すべてに対して、プジョースキャンダル(プジョーはフランコ死後初めて民主的に選出された元カタルーニャ首相として尊敬を集めていた政治家だが、先頃彼の息子も絡んだ巨額の海外隠し講座が発覚、彼がマスの党であるCiUの名誉代表から辞任する、と発表された:訳者)は決定的な警告として役立たなければならない。諸々の問題はエブロ川(スペイン第二の河川:訳者)の対岸だけではなく自国にもあるのだ。
社会的諸問題から切り離された親独立戦略に対する正当化は、分裂しわれわれ自身を弱めることではなく独立に向け全員が一緒に進むことがまず必要であり、どのようなタイプのカタルーニャを望むかは後での論争、という主張を基礎にしている。こうした議論にはいくつかの弱点がある。
第一に、決定権行使を支持する統一は、どのような国であるべきかというそれぞれのモデルを防衛しているあらゆる人びとと矛盾なく両立可能だ。第二に、社会的内容をもたない独立は、民衆階級や労働者階級から生まれたカタルーニャ社会の重要な部分を、カタルーニャ民族主義と結び付けることができない。第三に今日、今ここには、すでに一つの国のモデルがあるのだ。指導する者たちはそれを、社会的切り下げ、解雇、住宅ローン破綻者の追い立てをもって日毎に明らかにしつつある。
一つのカタルーニャ、金融権力のそれ、マスのそれはすでに存在している。それならばなぜわれわれのカタルーニャの防衛を先延ばしするのか? それならば、社会的切り下げのない、解雇のない、追い立てのない一つのカタルーニャを求めるわれわれは、われわれの提案をなぜ先送りしなければならないのか? われわれが、社会的切り下げを行い、解雇し、追い立てにかかっている者たちと同じものを求めないかもしれないからか? まったく疑いのないこととして、社会的切り下げ、解雇、追い立てこそがカタルーニャ社会を分裂させている。しかしそれはある者たちには利益となっており、これこそが結論的には大切なことなのだ。
そして第四にまた最後に、決して忘れられてはならないことだが、移行過程ではそれを支配する者たちがその後に出てくることを決定する、そしてその出てきたものすべてを貫いて社会的主体間の力関係は決して平等ではない、ということだ。今日の譲歩と動員解除が後で取り戻されることなど決してないのだ。
政治的要求に対する社会的要求並びに社会的、経済的転換の従属には、あらゆるタイプの民衆運動の軌跡において破綻のいわば長い伝統がある。歴史は、民主的段階の後に社会的段階など決して登場しなかったという、そして砕け散った諸幻想の時空四次元の中で敗れ去ったという、段階を踏んだ革命に満ちている。
それにそれほど昔にさかのぼる必要もない。すなわち逆説的だが、「まず独立、その次に残りを」という主張は、「移行期(フランコ後の:訳注)」の「まず民主主義、その次に社会的諸権利」という主張と驚くほど似ている。そしてこの主張は、決して取り戻されることのなかったあきらめと譲歩を正当化することに役立ったのだった。政治においては未来に向けた保証は存在しない。それらは人を惑わすと共にはかないものだ。適切な時と適切な結びつきを利用することは、あらゆる運動にとって要求をつくる基礎だ。今日得ることのできないものは、先の未来に向け保証されることなどあり得ない。
付け加えるならば、さまざまな要素が絡み合う政策であることからかけ離れた民族の統一は、見える限り一切終わりのないある種の永久戦略となることで終わる。今「まず独立、その後に残りを」の主張が容認されるならば、すぐさまわれわれは、独立カタルーニャを前提にEUが強要する緊縮を受け容れるよう求められるだろう。「静穏を保て、トロイカがわれわれを認めるように犠牲を払うことが必要だ、しかしその後でわれわれは失った諸権利を取り戻すだろう」というものが、その時の議論となるだろう。再配分諸政策や諸権利の拡張を先延ばしするためには常に格好のいいわけがある。

政治危機が
抱える矛盾


現情勢の矛盾した事情は、二〇一二年の11S、二〇一三年、そして今年の大規模な決起の間ずっと、民族的要求が明らかに社会的要求から切り離されていたとはいえ、後者は隠れた形で表現されていた、ということだ。独立を支持している人びとは大勢において、独立がより大きな民主主義とより深い平等と同義となるだろうと考えるがゆえにそうしているのだ。
独立に向けた進展の中には相互交叉した二重の対立がある。第一に表面上、スペイン国家機構とカタルーニャ政府間の制度的な衝突。第二に、街頭の政治、参加、実体的な民主主義と上からの政治の間の、より深い対抗。ここで挙げた後者はラホイ(現スペイン首相:訳者)に対決を挑むカタルーニャ民衆運動に反対しているが、しかしまた最良の条件の中で上からの決定権を管理し、憲法制定と民主化の論理に反対し、統制された回路の枠内にこの過程を置きたいと思っている者たちにも反対している。
われわれはいわば二重の国家の理屈、現存スペイン国家のそれとまだ存在していないカタルーニャ国家のそれに反対しなければならない。両者とも潜在的可能性を麻痺させるものなのだ。闘うためには、第二のものに利用されることなく第一のものと公然と対決することが必要となる。
緊縮諸政策と独立運動の進展が組み合わされた衝撃の下に、カタルーニャの伝統的な政党体制は自己崩壊することになった。その二大支柱であるCiU(集中と統一、カタルーニャの現与党)とPSC(カタルーニャ社会党、PSOEと連携)は危機に入り込んだ(CiUは、今EU議会選で後述のERCに追い抜かれ第二党に転落)。第二のものは、社会的レベル及び民族的レベルのどちらでも信用を欠いたまま、PASOK(全ギリシャ社会主義運動)の運命を前にしている。第一のものはもっと良好な立場にあるとはいえ、緊縮政策がこの党に亀裂を作り出し、独立の進展に関するこの党の信用性が相対的なものであるがゆえに、止まることのない腐食を経験している。
PP(国民党、現スペイン与党)とPSOE(社会労働党)が退潮下にありつつも、それら両党がまだ何らかの新興勢力によって乗り越えられてはいないスペイン国家の政党体制とは異なり、CiUとPSCの危機はより深い。そしてそれらは政治的指導性と選挙上の指導性を失った。しかし、民族問題に論争が集中しているおかげで、先の政治的危機から利益を受けているのはERC(左翼共和党)という一勢力だ。そしてこの勢力は、民族レベルでの分裂、しかし経済的レベルでの連続性という構想を具体化しているが、ギリシャのSYRIZAやスペイン国家のポデモスのような反緊縮勢力ではない。これが、カタルーニャの政治危機が抱える大きな矛盾状況だ。
以上を背景とした時、緊縮に反対する幅広い一つの新主権の政治的オルタナティブをはっきり主張することが基本となる。二〇一二年四月からのアルカディ・オリバレスとテレサ・フォルカデスの憲法制定運動によって防衛されている提案は、まさに今、かつてないほどに必要となっている。
CiUとPSCの後退並びにERCの興隆を前に、カタルーニャ政治の支点となることができ、緊縮諸政策と二〇一一年の15Mで破裂した伝統的諸政策に対する批判を具体化する、新しい政治的主体が必要とされている。ICV―EUiA(カタルーニャ緑のイニシアチブ、緑の党とスペイン共産党の連合)もポデモスもCUP(人民連合候補者、左翼のオルタナティブとして独立的な急進的左翼の立場に立つ)もあるいは憲法制定運動ですら、それら自身では、カタルーニャ政治を左から不安定化できる一つのオルタナティブとなる強さをもっていない。そうであれば、合流と共同の努力の定式をじっくりと考えるべき時である。
しかしこの型の新しい主体は、頭文字を連ねた単なる総計ではあり得ないだろう。つまりそれには、組織に属さない人びとと現存する諸組織の同期した合流が必要となるのだ。そしてさらにもっと重要なこととして、それは、伝統的な政治並びに「移行期」から現在までまさに多くの打撃を与えてきた制度的文化に対する、はっきりした断絶を表現する場合にのみ意味をもつだろう。
そのような新しい政治的ツールのみが、伝統的なカタルーニャ政治体制の危機を徹底化し、新しい政党体制に道を開くだろう。金融界とトロイカへの服従を唱道しない民族的構想と一体化された、社会的かつ選挙上のまた制度的な重みをもつ一勢力からCiUとPSCが挑戦を受ける可能性がない場合、ERCの新たな支配的影響力が多くの選択肢に分断化された左翼によってさらに力を増し、誰も対抗できないという状況は、ある種の惨害となるだろう。
政治的変革だけではなく経済的かつ社会的モデルの変革を欲する人びとは、ここ何十年かで初めて、カタルーニャ政治で重要な役割を果たす可能性を得ている。それはしばしば起きる何ごとかではなく、三年前には想像もできなかった、未だ信じることの難しい何かだ。このタイプの好機を通り過ぎるに任せることには、長期的には明らかなもの以上にはるかに高い犠牲が、また短期的には合流を打ち固める点での諸困難がはらまれている。

内部と外部―対
外同盟者が必要

 二〇一四年9N(一一月九日)の住民投票は、単なるカタルーニャの問題ではない。カタルーニャ独立運動多数が常識的に信じていることとは逆に、カタルーニャの外部で起きることが決定的だ。決定権の行使は、対外的同盟者がいなければはるかにより複雑となり、彼らのカネがアンドラ公国(スペイン・フランス国境にあるタックスヘイブン)に投資されている愛国者たちとの統一に向けた圧力はもっと高まる。そしてスペイン左翼の相当な部分が信じていることとは逆に、カタルーニャの独立の進展は、極論派の強迫観念どころか、「移行期」という難破船に対する的確な一撃を打ち込む途方もない好機となるのだ。
以下のことは何度も何度も繰り返されなければならない。すなわち、カタルーニャ民衆の9Nに投票する権利を阻止したいと願っている者たちは、スペイン民衆に君主制か共和制かを選択することを任せなかった者たち、医療と教育を切り下げてきた者たち、諸々の家族よりも銀行を保護してきた者たち、さらに各自のために諸々の腐敗事件をもみ消してきた者たち、ということだ。嘆かわしいことだがそれは明白な形で整理され理解されてはこなかった。とはいえ、カタルーニャの独立を求めているかなりの部分とPP(国民党)―PSOE(社会労働党)の二党体制並びにそれらの諸政策に反対している人びとの間には、数多くの点にわたる共通利益がある。ラホイがもしカタルーニャの孤立化に失敗するならば、国家を貫いて彼らの権威は弱められるだろう。難破の感覚が全般化されるだろう。
自由な共存と善隣関係に向けた意志の、また国内的金融権力と国際的金融権力を前にした主権ある民衆間の連携に向けた意志の芽生えが生まれなければならないのは、まさにこの二重の戦略的理解からである。民族問題は帰属性の政治あるいはその感情から取り組まれてはならず、民主的かつ戦略的観点から取り組まれなければならない。そこにこそ、道を見失ったり友と敵を混同したりすることなく、誤った優先策を選ばないための、そうして何一つ変革を望まない者たち、あるいはあらゆるものを前と同じまま留めるためにすべてを変えたいと思う者たちのゲームで勝負しないための鍵がある。
スペイン国家の諸制度とカタルーニャ民衆間の正面衝突が起きた場合に何が起きることになるか、それは誰も分からない。正面からの激突の結果を明晰さをもって一瞥でもしている者は一人もいない。
しかしそのような衝突は、民主的かつ反緊縮の諸勢力が時を読むことを知っていて、壊れかけている政治的、制度的枠組みを維持するために闘う者たちに主導性を渡さないという条件の下にだが、使いつぶされた現体制に対しては好都合なことを何一つ生まない可能性があり、国中の民主的かつ反緊縮の諸勢力にとっては数多くの可能性が広がることもあり得るのだ。
▼筆者はビエント・スル誌の編集委員会メンバーであると共に、バルセロナ自治大学の社会学教授。(「I・V」二〇一四年九月号)


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