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    かけはし2014.年10月6日号

権力を富に変え 富で権力を操る


香港

事に必ず至るもの有り、理に固(もと)より然(しか)るもの有り

行政長官選挙改革案めぐり対立

中国共産党の本質をあらわす全人代常務委員会の決議

區 龍宇

 香港では二〇一七年の行政長官選挙をめぐり、制限された候補者しか立候補できないという中国政府の決定にたいして、市民的反発が拡大している。民主化運動のラディカルな部分は青年をはじめとして急進化している。大学や専門学校などの学生組織から構成される香港学生連盟などは九月二二日の新学期開始から一週間の授業ボイコットを実施して、中国政府に対して譲歩を迫る行動を展開する。一〇月一日の国慶節にあわせて行われる民主派団体の抗議集会では金融街占拠運動にむけた準備が進められている。以下は『台頭する中国』(つげ書房新社)の著者、區龍宇による論考である。區氏は同書において中国共産党の現体制を「官僚資本主義」と規定しているが、以下の論考では、その階級規定と香港におけるラディカル民主派の活動方針とが密接に結びつけられて語られていることに注目してほしい。香港のインディメディア「独立媒体」からの翻訳。(「かけはし」編集部)

 八月三一日の中国全人代の決議[香港行政長官選挙では民主派の法案を採用しない:訳注]は、人びとが持っていた一縷の幻想を打破するのに十分であった。しかし、現在のところ広範な民主派の団結は堅牢とはいえない。それは何よりも種々の幻想の根源がいまだ払拭されていないからである。

相手は敵だと思っている


数日前、ある中文大学の教授が次のような主張をしていた。為政者は意図的に仮想敵を作るべきではない、誰もが敵とならない社会こそを望む、と。その後、別な学者はインタビューで、「治安維持エコノミー」(維穏経済)下の治安要員が敵を必要としていることはわかるが、中央政府も同じような考えに染まっていることは「実際のところ、中央政府にとっても何ら得るところがない」と述べている。
「中央政府にとっても得るところがない」という主張は、まさに中国共産党政権の本質を全く理解していないところから出るものである。今日の中国共産党は官僚専制主義の政権であり、それはかつての封建時代の王朝とおなじようなものである。習近平は無冠の皇帝とはいえ、独断専行でもある。臣民による万歳三唱は愉快である。どうして「得るところがない」ことがあろうか。得るところだらけである。皇帝とその前に跪く臣民とは一組であり、どちらが欠けても成り立たない。跪かない者はすなわち皇帝の敵となる。そうであるがゆえに専制には敵をつくる必要があるのだ。
今日になってもまだ次のような問いを発しているものがいる。「中央政府はなぜ私を敵とみなすのか」と。まるで中央政府が、その配下の各級の治安維持部門の政府要員らはまったく無関係であるかのような問いは、あまりに稚拙である。皇帝と治安維持の官僚体制全体はそもそも一体なのである。中国二〇〇〇年の専制的政治体制において、皇帝は一貫して官僚支配集団のボスであり、また最高エリート集団あるいは各地の豪族の間の最高仲裁者であった。官僚は皇帝のために仕事をしたが、皇帝も官僚のために仕事をしたのである。北宋の神宗皇帝は王安石の新法を支持し、自分も庶民のことを想っているのだと気取って語ったが、家臣の文彦博がすぐに皇帝に進言した。「陛下は士大夫のために天下を治めていらっしゃるのであり、庶民のために天下を治めているのではありませぬ」。皇帝と官僚体制は一体なのである。

 これくらいの道理は、これらの学者も知っているはずだ。だが「腐敗官僚に反抗しているのであり、皇帝に反抗しているのではない」という中華文化の心理は極めて根強く、決定的なときに「なぜ中央政府は聞く耳を持とうとしないのか」という悲鳴を上げさせるのである。

なぜ「ゼロサム政権」なのか


政府は人民を敵とみなすべきではないという善良な願いは、普通の人々にとっては当然のことともいえる。しかし民主政治はわれわれに、善良な願望だけでは事は成らないことを教えている。「事に必ず至るもの有り、理に固(もと)より然(しか)るもの有り」(そうなるには理由があり、それは仕方のないことである)。中国共産党の今日のふるまいは、そのゼロサム政権ゆえのものである。ゼロサム(ゲーム)とは、一方が得るところあれば、他方が失う、というものであり、ゼロサム政権とは、一切の権力を掌握したがゆえに、人民との間でのウィン・ウィン(両得)を絶対に許容することができない政権を指す。
中国共産党は人民とのウィン・ウィン政権であるという考えが広範な民主派のなかにもあり、妥協主義路線を模索する動きは一貫して存在してきた。だが、そんなことはありえない! 共産党は自らが完膚なきまでに勝利することしか考えていない。あるいはもう少し正確にいえば、共産党は戦術的にはウィン・ウィンでもよいと思っているが、それはあくまでゼロサム戦略に奉仕するものに過ぎないからである。なぜ完膚なきまでの勝利なのか? それこそが専制体制の本質だからである。共産党がこのような結論を出したのは、ウィン・ウィンの意義を理解していないからでもないし、誤って新保守主義を選択したからでもない。それは無冠の皇帝の優悦を享受しているがゆえなのである。中国の支配集団は、各級の中小の皇帝から構成されるピラミッド体制にほかならない。
人々は確かに中央政府を敵視したいと思ってはいないが、中央政府が人々を敵視しないということにはならない。一九八九年の民主化運動では、学生は自らを苦しめる方法(ハンガーストライキ)で民主化を要求したに過ぎないが、結果は徹底した弾圧を受けることになった。あれから三〇年近く経過したが、中国共産党のいかなる面において進歩がみられるというのだろうか。進歩がみられないのに、どうして香港人にだけ格別の恩寵をあたえるだろうと考えることができるのか。
このような政府が人民の敵か味方かさえも判断できず、さらにはこのような政府が香港に自治を与えてくれると勘違いするような民主化運動であるなら、それはあまりにも悲惨である。もちろん、現在のところ広範な民主派は団結して全人代の決議に反対している。しかし再度指摘しなければならないが、その中の少なくない部分がその骨肉に依然として中央政府への幻想、あるいは陳腐な臣民思想を保持したままなのである。あるいは民主化運動の展望に対する根深い不信という別な理由があるのかもしれないが、その点についてはここでは触れないでおこう。
いずれにせよ、これまで述べたような事柄は、中国共産党の本質のごく一部に触れたものに過ぎない。民主派は、その本質をより深く理解することで、正確な対案を打ち出さなければならない。

「全体主義」か「専制主義」か

 そもそも専制主義は、専制のために専制を行うわけではなく、人々からより効果的に経済的資源を略奪するために実施されるのである。今日の中国共産党はそれを極端に実践しているに過ぎない。毛沢東時代の官僚も、一部の人々がいうように平等を尊重したとは言えないし、逆に権力による私利私欲の実現は当たり前であった。しかし、今日と比較すれば、その程度はとるに足らないものであった。
もちろん中国共産党の専制主義は、過去の専制君主のものとは完全に同じではない。中国共産党の専制体制を現代の「全体主義」を用いて表現する者も少なくない。それは一見ふさわしいようだが、実際にはそうとはいえない。専制主義や全体主義についていえば、毛沢東時代と習近平時代には継承性があるが(程度の差こそあれ、本質は同じである)、両者が専制を実施する社会は、異なるふたつの社会である。毛沢東時代の共産党専制は、まずなによりも彼らの考える「共産主義」の現代化を実現するためのものであり、ゆえに反資本主義的なものであった。それとは逆に、ケ小平時代の専制主義は資本主義復活に奉仕するものであり、しかも共産党の各級官僚自身の蓄財に奉仕した。それゆえ「全体主義」という形容は、この二つの時代の相反する社会経済的性質の決定的事実を覆い隠してしまうことになる。

官僚資本主義の政治的性格

 今日の中国共産党政権は、官僚資本主義というべきである。それが普通の資本主義と違うのは、官僚がその身を反転させた瞬間に、官僚にも資本家にもなることができるという点だろう。彼らは国家独占という強制力を自分たちの資本蓄積に利用した。これはマルクスのいうところの「経済外的搾取」――独占的政治権力を通じて経済的搾取を行うものである。「経済外的搾取」は本来は資本主義以前の時代のものであり、土地貴族あるいは朝貢社会における搾取方式である。富の蓄積は資本主義になってはじめて市場を通じて自律的に行われ、政治権力に直接依拠して行われる必要がなくなったのである。
しかし今日の中国共産党が進めている官僚資本主義は、前近代と現代という二種類の蓄財モデルを兼ね備えたものである。つまり権力を富に変え、富で権力を操るというものである。資本をどれだけ有することができるかどうかは権力の独占の度合いによって直接的に決定されており、それが官僚集団が永遠に権力を独占しようとすることを決定づけているのである。
権力はいかなる制約も受けていないので、官僚資本主義の経済的略奪性も当然ほとんどなんの制約も受けることがない。中国国内では出版社のコードや文書の発行許可さえも、官僚の手の内にあり、それがゆすりの手段になっている。ほかにも、各級の党政府機関が公然、非公然に企業経営をしている。それは、このような資本主義における独占性、略奪性がどれほど醜悪であるかを物語っている。それは中国共産党が専制を徹底しなければならない理由でもある。なぜならそれは、かれらの物質的利害と合致するからである。かれらが宣揚する保守主義的価値観の意味は、それが守ろうとする一%の支配集団の利害から説明されるべきである。
この種の略奪性は今日、ひとつの発展段階へと達している。つまり中国共産党の官僚資本主義は、中国国内最大の独占資本集団となっただけでなく、香港における最大の独占資本集団となることを宣言しているのである。それによって、有力党員や官僚の二世たちは思いのままに財を成し、いつでも外国に逃げることができるようになるだろう。しかしその実現には、香港の政治的清廉性、法治、自治そして社会運動のすべてを消滅させなければならないだろう。この点も毛沢東時代の中国共産党では想像すら及ばないことである。
毛沢東時代の中国共産党にとって、香港人の自治を消滅させる政治的な理由はあったにしろ、経済上の利害でそうしなければならない理由は存在しなかった。今日の中国共産党はといえば、政治的あるいは経済的な理由にかかわらず、その利害からそうしなければならないのである。それゆえ、単純に「専制主義」と「全体主義」で今日の中国共産党を表現するだけでは、毛沢東時代の中国共産党とケ小平時代以降の中国共産党の重要な違いを理解することはできないし、香港が直面する危機の文脈を理解することもできないだろう。

人民の敵―中国共産党にとって


主流民主派は三〇年前に妥協路線を選択したが、そのときの一つの展望は、中国共産党が資本主義を復活させたのだから、早晩にして香港人と同じ道を歩むことになる、というものであった。かれらは中産階級の典型的な公式を信じていた。つまり、資本主義→現代化→経済発展→中産化→民主化という公式である。資本主義の本質が必然的に略奪性を有するということについては、まったく警戒心がなかった。西欧諸国が比較的人道的だとすれば、それは長年にわたる社会運動や民主化運動の存在があったからであり、それが大資本の略奪性をいくらかでも制限してきたからであり、決して資本主義の論理的帰結によるものではないということを、彼らは理解していない。今日の中国共産党がこれほど腐敗しているのは、まさに市民的自由が抹殺されているからであり、権力が一切の民主的監督から自由だからである。
中国共産党の官僚資本主義のウルトラ略奪性は、当然にも香港や海外の巨大企業グループとのあいだに矛盾をもたらす。最近では香港行政長官の梁振英[親中派:訳注]が中国国内の電力会社を誘致しようとして、香港の二大電力会社の利害を侵犯した。また中国国内の資本はコストを顧みずに外資の市場を奪っており、外資の警戒心を引き起こしている。しかし、このような分け前の分捕り合戦という内部矛盾は、「万国の大資本家よ、団結して人民を搾取せよ!」という共同かつ根源的な利害を脅かすものではない。それゆえ香港や外国の資本は中国共産党に付和雷同して、オキュパイ・セントラル[香港金融街を占拠して民主選挙を迫るラジカル民主派の闘争方針:訳注]に反対しているのである。中国共産党の最大の敵は、結局のところは、労働者人民であり、労働者人民の民主的自治権であり、搾取からの自由を求める労働者人民の要求であり、労働者人民の一切なのである。
政治上の専制と経済上の官僚資本主義こそが中国共産党の本質である。このような政治体制は必然的に人民を敵とみなす。それは古い言葉で言えば、彼らの意思から独立した諸関係を取り結ぶのである[マルクス「経済学批判」序言:訳注]。これを明らかにすることで、今日の香港人には一歩の退くことを理解することができるし、「幻想を打破し、果敢にセントラルをオキュパイせよ」というスローガンの意味がここにおいて理解できるのである。
この厳しい真理を認識することは確かに苦しいことではある。それが事実であれば、状況が緩和する余地などなく、衝突が待つのみだが、強大な中国共産党に対してとても勝算などないという結論を引き出さざるを得ないことになる。だが、本当に、本当にそのような結論しかないのだろうか?


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