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    かけはし2014.年9月15日号

ハゲタカファンドの跳梁許すな


スペイン

金融権力の民衆の命を対象とした投機に国際的徹底抗戦を

ファティマ・ファファターレ、ジェローム・デュヴァル


 筆者であるファティマ・ファファターレとジェローム・デュヴァルは、アルゼンチンのデフォルトの約一ヵ月前に書かれたこの論文で、ラテンアメリカのかの国でこれほどの問題を引き起こした同じハゲタカファンドが、スペインでも似たような破壊的役割を演じている最中であることを、そしてそのやり方を検証している。(IV編集者)

銀行不良債権の買いたたき


他の者たちと共にアルゼンチンを債務返済停止の瀬戸際に追い込んでいるNMLキャピタルは、スペイン市場の腐肉をすでにむさぼり食っている最中だ。お定まりの米国の投機家であるポール・シンガーの機会主義的基金、エリオット・マネジメントはすでに、サンタンデール銀行の三億ユーロとバンキアの破綻債権一〇億ユーロを懐に収めた。Auraeee.comによれば、この基金はこれら両者の有価証券に対し五〇〇〇万ユーロを払ったにすぎない、と評価されている。
二〇一三年三月スペインの金融紙は、サンタンデール消費者金融の債務返済停止債権の三億ユーロにのぼるひとそろいを、エリオットがサンタンデールグループから九六%に達する減価で獲得した、と報じた。支払われた価格は笑う以外にないほどであり、シンコ・ディアスによれば、およそ一二〇〇万ユーロだった。
エリオットは、サンタンデールグループからサンタンデール消費者金融の返済停止中消費者債券の三億ユーロ一式を獲得した。同年八月、スペインの銀行救済から、そしてこれは国家債務を大幅に引き上げたのだがそこから最大の利益を受け国有化されたバンキアは、額面債権価格総額一三億五三九〇万ユーロの劣化債権三つがまとめて売却された、と発表した。CNMV(国家証券市場委員会)に対する関連報告の中で、この貸し出しが誰にどのような価格で売却されたかはふれられなかった。
透明性の明らかな欠如にもかかわらず金融紙は、この取引に名前と数値を当て、それは、「そこでの値引きは九五%になっているかもしれない」と評価されている、とするものだ。この三つの組の買い手はハゲタカファンドのセルベルスだったが、それは、元大統領の息子であるホセ・マリア・アスナールジュニア、エリオット、そしてノルウェイの再建事業家であるリンドルフから助言を受けている。金融関係ウェブサイト投稿によれば、「一三億五四〇〇万ユーロの価値を持つこのひとそろいに払われた額はたったの六八〇〇万ユーロ」だ。
われわれは別の側から確認を取るためにバンキアと連絡を取ってきた。しかしその対応は、「信頼性確保のために」数字も「特定を望んでいない買い手」も知らせることは決してできない、というものであり続けている。
二、三カ月後浮上したこととして、エリオットは、家計債務再建企業のゲシフを、彼のスペイン市場での取引基盤に転換するために買い入れた。その最高指揮者はメラニア・セバスチアンだったがこの人物は、カハ・マドリード商業銀行で広報責任者の任に着いており、ゲシフの金貸しを続けることになる。カハ・マドリードの元経営者が国有化されたバンキアとエリオットのハゲタカファンドの間の仲介者としていかに行動するか、それには注意を払う価値がある。

アルゼンチン危機とその真犯人


ハゲタカファンドは、二〇〇一年に危機にあったアルゼンチンのような困難を抱えた諸国を利用して、債権を安く買うことでカネを稼いでいる。彼らはその後、利子と司法費用を課すことを含め、裁判所命令でより高い価格でその債権の買い戻しを諸国に義務づける好機を待つのだ。
これは、住民大多数の利益になる社会的支出を危険にさらしつつ、彼らがどのようにして公的債務に投機しているかを示すものだ。これらのハゲタカは、政府との取引を受け入れた九三%の債権者の一部となることを拒否した後に、民事訴訟を選んだ。今ニューヨーク地域判事のトーマス・グリエサは、ハゲタカファンドへの返済の方を優先している。そしてそれは、七月三〇日にアルゼンチンの返済停止として結果を見る可能性のある(現実となった:訳者)雪崩のような諸要求に向けて扉を開いている。「債権者の要求が返済不能債務のどこまで達するかなど誰も分からない」とジュリコ・C・ガムビーナがそれをうまく表現したが、われわれに分かっていることは、アルゼンチン民衆にとってのコストは破局的となる可能性がある、ということだ。
これらのハゲタカファンドの背後にいる者は誰か? NMLキャピタルは、会計天国であるケイマン諸島に登記された転換基金であるエリオット・マネッジメント・コーポレーションの子会社だ。それは、米国共和党の百万長者チャンピオンであり、ウルトラ保守派のティーパーティーに近いポール・シンガーの帝国だ。
エリオットは中でも、諸国家とその民衆の主権を侵犯しつつ公的債務に投機している。しかし彼は同時に私的債務にも投機し、二〇一一年には、リーマンブラザースの二〇〇万ドルをも所有するにいたった。
シンガーは、二〇〇四年のジョージ・W・ブッシュの大統領選に対しては大資金提供者だった。また二〇一二年のミット・ロムニーの運動にも、ニューヨーク市長選のルドルフ・ギウリアニにも資金を提供した。さらに彼は、ニューヨーク警察に対しても主要な私的資金提供者だ。彼は共和党の中心的拠金者の一人として、米国政治の中で、それゆえ同時に国際政治の中で重要な役割を演じている。
彼の名前を冠している基金であるポール・E・シンガー基金は、彼の慈善事業、自由貿易拡大に果たした彼の指導性、米国の安全保障と「イスラエルの未来」のための彼の貢献に対し、彼を顕彰している。そして彼は、保守派シンクタンクであるマンハッタン政治調査研究所の代表だ。
アルゼンチンの事例に関してNMLは、アルゼンチンを不利にするために議会や米国司法に影響を与えるロビー団体、アメリカン・タスクフォース・アルゼンチナ(AFTA)に対する中心的資金提供者だ。これらのハゲタカファンドの力をわれわれに伝える一つの事例だが、NMLは、まだ返済されていない債権約三億七〇〇〇万ドルの返済をアルゼンチン国家に要求し、二〇一二年一〇月、ガーナに寄港していたアルゼンチンの軍艦リバティーの出港禁止を命ずることまでできた。
アルゼンチンで起きている最中のできごとは、ケイマン島に本社を置きラテンアメリカ諸国でも活動しているダート・マネッジメントのような、そうしたハゲタカが活動しているギリシャが今感じ始めつつあることに対しては象徴的だ。NMLは一九九九年、米国における支配を通じて、このファンドが一一〇〇万ドルで買い入れた債権に対してペルーに五八〇〇万ドルの返済を完遂させた。それはまたコンゴ共和国に対しても一仕事を行った。

主権のための国際連帯が必要だ

 アルゼンチンにおけるハゲタカファンドの振る舞いは、主権と負債を負わされた民衆大多数のいのちに対して演じられる投機に反対する、世界中の憤りの波を解き放つことになった。「市民債務監査プラットフォーム(PACD)」は、アルゼンチン民衆と連帯するコミュニケを発表した。それは「アルゼンチンは、国際的諸権利にしたがってこの国が、債務を返済する前にその民衆の必要を満たす義務を負っている(……)以上、グリエサ判事の判決に服従すべきではない」と述べている。このコミュニケが明確にしているように、今起きようとしていることはアルゼンチンだけの問題ではなく、むしろそれ以上に、金融権力の卓越性が民衆の主権を超えて演じることでつくり出されている対立でもあるのだ。(「インターナショナルビューポイント」二〇一四年八月号) 

スリランカ

同志バラ・タンポを追悼する

尊厳とプロレタリアー
トの力を貫いた生涯


ヴィクラマバフ・カルナラスネ

  スリランカの革命家であり、労組活動家だったバラ・タンポは、九月一日、九二歳で亡くなった。この短い弔辞はNSSP(ナバ・サマサマジャ党[新平等社会党]:第四インターナショナル・スリランカ支部)を代表して書かれたものである。われわれは、バラの生涯とその業績について、より長文の記事を後に掲載する予定である(「インターナショナル・ビューポイント」編集部)。

 バラ・タンポ、われわれの同志バラはもういない。彼は学生時代に運動に参加し、ボタニーとホーティカルチャーで農務省の講師をしながらLSSP(ランカサマサマジャ党:当時の第四インターナショナル・セイロン支部)の活動に従事していた。彼は、一九四七年の公務員のストライキに参加したという理由で公務員の職を解雇された後、ストライキ指導者として注目を浴びるようになった。しばらくして彼は活力に満ちた新指導者としてCMU(セイロン・マーカンタイル・ユニオン[セイロン商業一般労組])に参加した。彼は政治理論に関心を抱き、すぐにLSSP内での政治的教師にもなった。同時に彼は、熱心に都市労働者の中で活動し、多くの時間をCMUのための活動にささげた。
もともとCMUは、商業部門のホワイトカラー労働者の組合として一九二八年に結成された。一九四八年二月にタンポが書記長になった後、労組は当時第四インターナショナルに所属していたランカサマサマジャ党(LSSP)の影響下に入った。一九五〇年代、一九六〇年代において、タンポは当時の政府の政策的決定に対する戦闘的挑戦によって有名になった。一九六三年、彼はコロンボ港のストライキを指導し、それは全島的なゼネラル・ストライキに拡大して、非常緊急事態に訴えたシリマ・バンダラナイケの政権に挑戦した。
一九六四年、LSSPがバンダラナイケ政権に参加して第四インターナショナルを離脱した時、タンポはランカサマサマジャ党革命派(LSSP―R)の指導者となり、同組織を第四インターナショナル統一書記局は支部として承認した。しかしLSSP―Rは大衆的組織として生き延びることができず、NSSP(ナバ・サマサマジャ党)が大衆的政党として発展した時、バラはわれわれと共に活動することに熱心だった。彼は、それほど活動的ではなくなったが、それでも第四インターナショナルに忠実だった。
二〇一〇年、私がタミール人記念集会で発言してロンドンから帰った後、親政府派のギャングが私を殺そうとした時、彼は私を抱きしめて「君は、私たちと共に生きている本物のサマサマジストだ」と語った。
彼はCMU書記長の地位にとどまり、最近でも政府や経営者との主要な交渉の場に積極的に参加していた。彼は、尊厳とプロレタリアートの力を抱いて去って行ったのである。

二〇一四年九月二日
(「インターナショナルビューポイント」二〇一四年九月号サイト)


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