ベトナム、中国、ロシアから来たセウォル号惨事の犠牲者
哀しみ、真相究明を望むのは誰しも同じ
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セウォル号の惨事によって苦痛を味わっているものの、忘れられた人々がいる。檀園高の学生のほかに一般人の生存者や犠牲者の遺家族がそうだ。セウォル号惨事国民対策委傘下の尊厳と安全委員会の人権活動家たちは、真相調査の作業を進めている。幸薄かった人々の、その低く重い声を「ハンギョレ21」を通じて伝える。(「ハンギョレ21」編集部)。
セウォル号に乗っていて遺体となって帰ってきた故ハン・ユンジ氏はベトナム出身だ。韓国人クォン・ジェグン氏と結婚して、見知らぬ国に渡ってきた。ユンジ氏は夫と6歳の息子、5歳の娘と共にセウォル号に身を預けた。夫と息子は惨事から100日が過ぎた今日まで冷たい海の底から出てくることができずにいる。
セウォル号に乗って済州島に旅行しにいこうとしていた中国の同胞ハン・グミ、イ・ドナム氏もまた再び戻ることのできない道に旅立った。京畿道安山の檀園高2年4組、ロシア国籍の故セルコフ・ビラチェスラブ学生まで。惨事の犠牲者294人と行方不明者10人には移住民、在外同胞も含まれている。生まれ育った大地はそれぞれに異なるけれども、セウォル号の惨事が抱かせた苦しみは変わらない。韓国人も把握しがたい犠牲者遺家族の支援対策を、どこからどのように聞いてみるべきなのか心もとない人々の話を、何度かの出会いを通じて聞いてみた。
公証費、航空費…補償は微々
明け方まで雨が降った7月23日、水曜日の正午、ソウル大漢門前に全国各地からやってきた人々が三々五々、集まってきた。行方不明者の家族らが滞在している全羅南道の珍島体育館や彭木港を訪れるための「キダリム(待つこと)のバス」に乗ろうとする人々だった。惨事から100日を翌日に控えた日だった。末っ子の妹ハン・グミ氏をあの世に送った中国同胞ハン・ヨンセ、ヨンファ姉妹もこの日のバスに搭乗した。大切だった妹が海の底から引き揚げられた彭木港に再び訪れていく2人の思いは、想像するだに難しい深い悲しみであることだろう。姉妹は搭乗客を紹介するために司会者が手渡したマイクを握り、末っ子の話を語り始めるやいなや、とめどなく涙ばかりがあふれた。
バスは延々7時間以上も走って珍島体育館にたどりついた。行方不明者の10人を心を痛めて待っている家族らは、わずか10人余り。体育館は吐く息も大きく聞こえるほどに重く、静まりかえっていた。ハン・ヨンヒ、ヨンファ氏姉妹が行方不明者の家族に近寄り、再び涙を流しながら手を取り合った。遠く離れていて、どんな会話を交わしているのかは分からなかったけれども、再び体育館に戻ってきた遺家族ほどに、行方不明者の家族にとって大きな慰めや励ましになることのできる人はいないのではないだろうか。数日後、姉妹に再び会った。彼女らの現在の状況、そしてグミ氏についての話を聞くことができた。
グミ氏は5人姉妹のうちの末っ子だった。次女のヨンヒ氏と3女ヨンファ氏だけが韓国で暮らし、オモニ(母)と他の姉妹たちは中国にいる。オモニは、がんの手術を受けた後、高血圧の症状がひどくなり韓国まで来ることができない状況だ。ヨンヒ氏はオモニの代わりに、葬儀の手続きをはじめ、一切の処理を担っている。2人は今年2月、訪問就業(H―2)ビザを受けて韓国にやってきた直後、セウォル号の惨事で妹を失った。グミ氏をはじめ姉妹の国籍は「中国」だ。国籍が違うという理由で、ヨンヒ氏がセウォル号の犠牲者遺家族と認められるまでは二重三重の困難さがあった。家族関係証明書や父母証明書など、さまざまな書類を発給されることからして困難だった。韓国で家族関係証明書を取れば、本人を基準として3代までの家族関係が証明される。中国には「戸籍簿」があるが、女性が結婚する場合には夫の戸籍簿に移すことになっている。ヨンヒ、ヨンファ氏姉妹は、すでに結婚している。未婚のグミ氏の戸籍簿だけを発給されてもヨンヒ、ヨンファ氏との姉妹関係を証明できない、という話になる。
結局、中国にいるオモニが痛む体をひきずって何回も汽車に乗り、娘たちの戸籍簿を取って回らなければならなかった。苦労して発給された書類は再び韓国で、中国政府が発行した公式の文書であることの確認を受けなければならない。このような「公証」の費用として111万ウォンもかかった。困難さは、これだけではなかった。悲報を聞いた中国内の直系家族らが1日でも早く韓国に入国するためにかけた航空費は600万ウォンを上回る。このような部分については現在までのところ支援対策がないがゆえに、補償される道は何ともたよりない。
通訳の支援不足で健康を害す
京畿道始興で暮らしていたグミ氏の葬儀はソウル城北区で執り行われた。遺体が最後に安置されていた地域だ。城北区庁長をはじめ公務員たちは、あらん限りの力で葬儀の手助けをした。だが葬儀が終わった後、ヨンヒ氏は居住している自治体から遺家族への支援にかかわる連絡を受けられなかった。政府が発行した案内のパンフレットを受け取りはしたものの、どこを訪れ、誰に話をすべきなのかは、よく分からなかった。そうこうしているうちに始興支庁から連絡が来た。そうして緊急生計支援金を受け取ることができた。遅ればせながら、他の犠牲者の遺家族たちと会ってからやっと、海洋水産部(省)の生活安定資金や雇用労働部の特別休職支援金などを申請することができた。
国籍が違うという理由で疎外されているのではないか、依然として不安だ。苦労して妹を送った後、百日余り。2人は心身ともに疲れきっている。ヨンヒ氏はそれまで大衆交通手段を利用する自信がなくて1日に何時間もかけて歩き回った。全く眠れなくて、睡眠薬の処方も受けた。ヨンファ氏は葬儀が終わった後、20日ほど働きに行ったものの気力が失せて倒れたり手首をケガしたりもした。事故が絶えず、今は仕事を休んでいる状況だ。
5月、京畿道安山のファラン遊園地に設置してあるセウォル号犠牲者政府合同焼香所の入り口には韓国語で書いたプラカードを掲げたベトナム人たちがいた。初夏の気候にもかかわらず冬用のパッカーを着た60代の男性は、故ハン・ユンジ氏のアボジ(父)パン・バンチャイ氏だった。ユンジ氏の妹パン・ノッカン氏も一緒だった。実家のアボジはそのようにして、婿と外孫を探してくれと訴えていた。彭木港で孫と外孫が現れることだけをずっと待っていた後、健康を害し、また言葉が通じないという問題などによって現在は安山にある移住民の休憩所に滞在している。
7月4日、安山移住民センターでパン父娘に会った。韓国語が全く分からない彼らは、なかなか口を開かなかった。助けてくれるという気持ちはありがたいが、話はしたくない、と語った。多くのメディアと話を交わしたものの、望ましくない方向へと報道される、心の悩みがあったように思われる。ベトナムから韓国へ慌ただしくやってくるのに、借金をして飛行機代300万ウォンを支払った。幸いにも済州在住の各団体が600万ウォンの支援金を集めて父娘に渡した。休憩所で会った、また別のベトナムの方々の慰めが彼らにとって大きな力になっているという。パン・バンチャイ氏は近くの保健所を定期的に訪れて治療を受けていると語った。パン・ノッカン氏は体調不良で体重が減り、腕がずきずきして鎮痛薬をはっている状況だった。
2人は健康状態がよくなったら再び珍島に行きたい、と話した。だが意思の疎通を手助けしてくれる人がいなくて、彭木港に行くのは容易ではないようだった。前に珍島に行っていた時も充分な通訳の支援を受けられなかった。7月16日、彭木港の身元確認所に安置されてから85日ぶりにユンジ氏の葬儀が行われた。夫や息子もいなくて1人の旅立ちだった。アボジが何よりも望んでいるのは1日も早く婿と孫を見つけ出すことのはずだ。
責任を取る人間は誰もいない
セウォル号の話を、もうやめてもいいではないのかという言葉が頻繁に出てくる。だが数百人の人々が海の中に沈んだ惨事の原因は明らかにされてはいない。ただただ船長をはじめとする何人かの船員に対する裁判が進められているだけで、責任を取る人間は誰もいない。ヨンヒ、ヨンファ氏姉妹に聞いた。最も望んでいることは何か。彼らは、何より10人の行方不明者を1日でも早く見つけることだと語った。
国会前や彭木港に行ってみて他の遺家族たちに会いながら様々な思いを持ったと言う。数百人の気の毒な命を旅立たせ、100日を過ぎる時間が経ったのに、惨事が再び起きないように徹底した真相究明と確実な再発防止の対策を備えた特別法が制定されるべきではないのかという話と共に、国会前の籠城の場でまた会おうという約束をしつつ、彼らと別れた。はるか離れた異国の地で知り合いを失った遺家族たちの痛みを何によってなだめることができるだろうか。国籍が違うという理由で支援対策から疎外されないように、政府の各部署が細心の努力を傾けることをお願いしたい。(「ハンギョレ21」第1023号、14年8月11日付、パク・ジヌ/移住労組常任活動家)
コラム
三種の神器
先日、懇意にしている印刷会社の課長から突然電話があった。その一声がすこぶる明るかったので、夏枯れなので何か仕事はないか?≠ニいう営業かと思ったが、内容はまったく逆。「実はこの九月に退職することになりました」という話なのだ。
これにはボクもあっけにとられた。彼とは、彼が入社したてのころから小社の担当で、この十数年、よくボクの無理難題を聞いてくれ、何回か酒を酌み交わした仲だったからなおさらである。「どうして?他の会社に移るの?」との問いかけに、彼はこう言った。「子どもが二人になったので、この業界を考えると先が見えない。まったく他の仕事に就きます」。
彼が出版社希望だったことを酒の場で聞いたことがある。しかし、出版社の夢は叶わず、出版に一番近い印刷会社に就職したとも聞いた。四〇代初めの彼にとって今回の転職は、将来を考えての決断であることに間違いないが、一抹の淋しさを感じずにはいられなかった。そうか、この業界に将来性はないか…。まったくご説ごもっともである(このボクだって二七歳のときに印刷会社を辞めて、もっとヤクザな商売に入ったんだからね)。
このごろ長女が小銭欲しさからバイトに来ている。そんな中、先だって盆休みに入る前日、納品が終わった歌集の奥付に記した著者の郵便番号に誤植が発見された。さてどうしたものか。誰の責任かはさておき、早急に対処しなければならない。製本所に戻して「一丁切り替え」という荒技もあるが、それでは時間も費用もかかる。やはりこれはシールしかないという結論に達し、娘を文房具屋に走らせた。
印刷用紙はラフ琥珀なので、担当者に印刷データの誤植を修正した上、そのバックにイエロー二〇%を引くように指示。買ってきたシールをプリンターで出力し、訂正作業の準備を進める。ここまではまさにデジタルだ。
ここからボクのアナログ技術の本領発揮である。老眼鏡を外し(細かな所が見えないので目を細めての裸眼作業)、シール紙に定規をあてカッターで剥離紙部分だけに切り込みを入れる。台紙まで抜いてしまうと、あとピンセットで剥がすのがたいへんなのだ。そうこうしているうちに本が到着。
冊数は百冊余りなので、貼り込み作業に一時間はかかるまい。その作業を見ていた娘に一言。「俺は、おまえたちをこのカッターと定規と、ピンセットで食わしたんだ」。娘は丸い目をしていたが、そこに本を運んできたスタッフが笑える妄言を吐いた。「毎回こういうことがあったら大変じゃないですか」。アヘーとはこのこと。写植版下が主流だったアナログ時代を指しての発言が誤解されたらしい。
確かに今のデジタル時代、前述した三種の神器が、印刷業界では過去の遺物になっていることは先刻承知のすけ。しかし、今より編集や印刷の仕事が人間味あふれていて、仕事はきつかったが充実した毎日だったことを憶えている。
出版や印刷がデジタル化されているのは、時代そのものだが、手作りの温もりを大切にしていきたいものだ。他業種に転職する彼の話も聞いてみたい。 (雨)
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