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    かけはし2014.年8月25日号

サムスン電子に風穴を開けた


ホソクや、「俺たちの勝利」見ているかい

故ヨム・ホソク氏、遺体のない葬儀の同行ルポ



 瑞草洞、彼の死 そびえ立つ摩天楼は月給取りの夢だ。裸一貫から始めた賃金労働者たちは、その欲望のはしごを登ろうとして喜んで青春をさし出す。齢31で「サムスン電子サービス」梁山センターに入社したヨム・ホソク氏(35)にも、いつかはそのような欲望があったことだろう。青いロゴを胸にして「サムスン・マン」として成功することを望んだことだろう。ソウル江南駅の交差点にすっくとそびえ立ったサムスン電子本社が命を懸けた闘いの相手になろうとは、4年前には思いも及ばなかったことだろう。

巨大な相手に初勝利をあげた


その欲望のバベルの塔の下で、彼の葬儀を執り行った。この世を去ってから45日にして、やっと遺体のない葬儀を行った。6月30日、ソウル瑞草洞のサムスン電子本社前で1千人余の同僚たちは、警察が「奪取」していった彼の遺体の代わりに1足の靴、明るく笑っている写真、彼が夢見ていた「正東津」の砂を捧げ持って、ヨム氏を追悼した。(「かけはし」第2330号、14年7月21日付、参照)
サムスン電子サービス労組梁山センター分会長だったヨム氏は5月17日昼、江原道江陵の道路で息絶えたまま発見された。次のような遺書を残していた。「これ以上、誰の犠牲も痛みも見ることのないように、組合員たちのしんどい姿を見ることのないように、この身を捧げます。この身1つをもって支会の勝利を祈ります」。
摩天楼のガラスの壁がきらめけばきらめくほど、その後ろ側に残る影は長く濃いということは知る者ぞ知る、だ。その影を取り払おうとして全国40余カ所のサムスン電子サービス協力社の労働者たちが労組を結成したのは1年前のことだ。ヨム氏もその中の1人だった。彼は結局、生きてこの高いガラスの壁を越えられなかった。サムスンの無労組経営76年の歴史に、彼や同僚たちが取りつく島はなかった。その代わりにヨム氏は自らの死をもって、この頑固なガラスの壁に亀裂を作った。遺言は、彼が死んでから40余日にして実現された。6月28日、金属労組サムスン電子サービス支会が、ヨム氏の死に対する対策の準備とセンター別の団体協約の基準となる「基準団体協約」の締結などをめぐって、協力各社と交渉することに成功したのだ。
「私の亡きがらを見つけたら、わが支会(支部)が勝利する時まで安置して下さい。支会勝利のその日に火葬して、ここ(正東津)に撒いて下さい」。最後の願い通りに、同僚たちは勝利したその日、ヨム氏の葬儀を行うことに決定した。彼が闘っていたサムスン本社前、最後の安息所と決めた正東津、生活の場だった梁山を順に巡った。喪輿の行列はサムスン電子本社前の街路をびっしりと埋めた。ヨム氏が亡くなった直後から40日余りの間、ストと野宿籠城を続けてきた850人余の組合員たちと100人余の連帯する団体のメンバーたちだった。
都心で暑さと不便さ、心細さに耐えていた野宿籠城だけれども、離脱者はいなかった。集まった人々は、みんながシム氏に負い目をもっているだろうと語った。梁山分会で彼と実の兄弟のように過ごしていたヨム・テウォン組合員(39)は、ずっと頭をあげることができなかった。彼の闘いは「ホソク」のためのものでもあった。「ホソクが私に最後に送ってきたメールを思い出します。『ヒョン(兄貴)、ホソクです。ありがとうという言葉さえ言えないまま逝きます。わが支会は必ずや勝利するでしょう』」。葬儀委員長を担ったクォン・ヨングク民主社会のための弁護士会弁護士は「今こそ彼に会いに行くことができる」と語った。「必ず勝利してあなたに会いに行こうと気をもんでいた同志たちです。これ以上、誰の犠牲も、誰の痛みも、誰かが苦しめられる姿も見るのが辛かったあなたに、今こそ会いに行く面目が立ちました」。
協力社の労組員たちが本社の敷居を越えることだけは怖かったのだろうか。サムスン電子本社の入口ごとに警察が固めていた。ポリス・ライン(阻止柵)は組合員らを取りまいた。葬儀式場に進入して故人の遺体を奪い去っていった警察が、故人を追悼する行列に線を引き「このラインを越えるな」とした。弔詞を詠むために舞台に出てきたソン・ギョンドン詩人がポリス・ラインを足で激しく蹴り倒した。警察はそれを制圧しようとしたものの、すぐに引きさがった。ポリス・ラインをすべて転がしながら舞台に上がった詩人は鬱憤を吐き出した。「私はポリス・ラインの中では、この追悼詩を吟じることはできません。私がここに持ってくるものは追悼詩ではなく、この怒りだったのでしょう」。
その堅固な摩天楼に向かって1千人余の労働者が声を合わせて叫んだ。「サムスン電子よ聞け。これ以上、労働者を搾取するな。労働者を人間らしく扱え」。誰もがうち勝てなかったゴリアテを相手に、ささやかな初の勝利を挙げたダビデたちの声がビルディングを叩きつけた。

もはや無労組経営に戻れない

 梁山、彼の闘い 4時間あればたどりつける距離を、45日ぶりに戻ってきた。たやすくは眠りに入れない夜だ。サムスン電子サービス梁山センターの地上駐車場で夜明かしをしているサムスン電子サービス労組の組合員らの表情にも悲しみとうれしさとが交差した。ヨム氏の下棺式を翌日に控えた6月30日の深夜12時、組合員らは間食を取ることもなく三々五々円座になって、つまみなしの酒を飲んだ。勝利の乾杯であり、死んだ仲間を称える飲福(直会=なおらい)だ。早々に切りあげて敷いたゴザに横たわった人々も、ヨム氏が生前に働いていた梁山センター前で野宿をしているのだから、すぐに寝つけるわけがない。クワンアンセンター分会のパク・チエンエ氏(45)も、走馬燈のように巡る想念から眠ることはできなかった。
「ホソク」は格別な弟だった。今年の1月1日には何人かの組合員らと一緒に酒を飲みながら、日の出を見に行く約束もした。疲れていたため、早朝、「ヌナ(姉貴)、日の出を見よう」と言っていたヨン氏の甘えを受け入れてやれなかったことが、しきりに心にかかる。最後の別れとなる野辺の送りぐらいは、それなりに送ってやろうと思っていたのに、「髪の毛1本さえなしに」葬儀を行うことが何とも痛い。遠い道をバスに乗ってやって来ながら、パク氏は「弟」の最後の姿をしきりに想像してみるしかなかった。
「ソウルから出発しても(正東津までは)こんなに遠い道なのに、梁山から出発したのならどれほど遠いことだったろうか。生きたいという思いを何度もしたことだろうか。この時、せめて1人にでも電話をしていたならば死なずにすんだのではなかろうか。もどかしさに胸のつまる思いだ。生きて最後となる、2度とは戻ってくることのできないこの遠い道を、ホソクはやはり泣きながら行ったのではなかろうか…」。
ヨム氏と個人的な関係はなかったとしても、彼を送ることに胸がズキンズキン痛むのは組合員の誰もが一緒だった。富川センター分会の組合員オ・ギョンソン氏(42)は、この道を出発する前から不眠にさいなまれた。「遠足の前日、よく寝つけず寝そびれるように、です。1時間ぐらい過ぎたかなと思って時計を見ると、まだ10分も経ていない…」。交渉が妥結したのだから心が軽くなると思っていた。ヨム氏の露祭(出棺の日に門前で行う祭式)が始まる瑞草洞に向かう道すがら、オ氏は涙を何度も流した。梁山の夜にインタビューを続けている中でも、彼は何度も目頭を赤くした。「この世を去った人に対するすまなさ、そしてこの1年間のしんどかった思い出がどっと出てきたようです」。
集まってきて座り込んでいる人々を指して、彼は語った。「みんなそれぞれ自分のこと以外は知らなかった人々です。10年あるいは20年もの間、「お前さえうまくやればいい」と洗脳されて働いてきた人々なのです。そのような人々がチェ・ジョンボムやヨム・ホソク組合員の死によって、『ウリ(我々)』ということに目覚めさせられたのです。何にも知らなかった俺たちだけれども、今やみんなが目覚め、今後76年どころか760年がかかってもサムスンが無労組経営に戻ることはできないでしょう」。
「何にも知らなかった」労働者たちが350日にして、誰も到達できなかった所に至った秘訣とは何だろうか。大体にして「崖っぷち戦術」を選択する。選択肢はなかった。彼らが実際に享受してきた生活の条件は、逆説的に彼らが根気強く、かつ力に満ちた闘争を勝利に導くことができるようにした動力だった。「切迫さが最も大きかったのです。こうまでしてもダメならば、奴隷のような暮らしから脱け出すことはできないのですから。そんな過去から脱け出したかったのです」(チョ・ジェヨン、38、浦項センター分会)。「人間らしく生きたいという願いが最も大きかったようです。勤労規約もない環境だったのですから」(シン・ヨンギル、43、釜山クワンアンリセンター分会)。

新しい夜明けの正東津はどこに

 残念さがないわけではない。「サムスンが未だに我々を労組として公認しておらず、実にもどかしいです」(チョン・サンチョル、31、利村センター分会)。「残念です。課長であれ社員であれ基本給は120万ウォンなんだから。件数当たりの手数料廃止がなくならないのも残念です」(シン・ヨンギル、43、クワンアンセンター分会)。パク・チョンミ金属労組政策局長は、今回の交渉の意味を肯定的に評価するが、なまじっか「勝利」を語ることは警戒した。「まだまだです。各センター別の団体協約のための現場闘争が、もっと重要な闘いです」。
正東津、彼の夢 「ホソクや、ついに正東津にやってきたぞ」。露祭の司会を担ったパク・サンヨン経営センター分会長がひと言だけ吐き出した。海の前では多言を必要とはしなかった。絶えず押しよせる波がどこよりも素晴らしいという正東津の海は、この日ばかりは音もなく静かだった。海も彼を静かに待ってきたかのように。
「海がとても青く、静かでした。我らがホソクのために心を1つにして集まってくれるこのうえなく温かい人々のように、です」。ヨム氏のオモニ(お母さん)キム・ジョンスン氏(65)は穏やかな表情を浮かべながら話した。家族離散のために、6歳以降は思いっきり会うことのできない息子だった。突然、「逝ってしまった」息子がむごく、怨みがましい瞬間もあった。しかし今や息子を通じて得た数多くの息子・娘たちがオモニを慰労する。「ホランイ(虎)の夢を見て産んだ息子、それがホソクなのです。幼いときから非凡で賢いところがあったんです。こうして別れようとは、こうして多くの人々に夢と希望を与えようとは…」。
彼が「正東津」を語らなかったならば、みんなを「陽の昇る所」に呼び出さなかったならば、サムスン電子サービス労組は、あれほど勝算のない闘いを断固として続けることができただろうか。詩人ソン・ギョンドンは、ヨム・ホソク・サムスン電子サービス労組梁山センター分会長に捧げる詩を多くの人々の前で詠んだ。亡くなった人が愛していた正東津について、詩人は吟じた。
「(中略)本当に、その正東津はどこにあるのですか/労働者・民衆の新しい太陽が浮かび上がる所/デタラメの歴史を突き破り新しい歴史が浮かび上がる所/万人が万人の敵となることなく/万人が万人の幸せとなる所/誰もが誰かの上に君臨することなく/誰もが誰かを差別することのない所」(ソン・ギョンドン、「我らの正東津」)。(「ハンギョレ21」第1019号、14年7月14日付、江陵・梁山=オム・チウォン記者)

サムスン電子サービス労組・弾圧史

2014年7月14日 金属労組サムスン電子サービス労組支会設立
9月27日 大邱・漆谷センター所属イム・ヒョヌ組合員過労死
10月31日 忠南・天安センター所属チェ・ジョムボム組合員、「あまりも辛かった」の遺書を残して亡くなった。
2014年5月9日 労組、誠実交渉・労組弾圧の中断などを要求して無期限スト突入。
5月15日 慶南・梁山センター所属ヨム・ホソク分会長失踪。
5月17日 ヨム・ホソク分会長、「勝利を祈る」の遺書を残し、死亡したまま発見される。
5月18日 警察によるヨム・ホソク氏の遺体奪取と組合員連行。
5月19日 組合員1千余人が参加し、スト・露宿籠城突入。
6月28日 サムスン電子サービス労組と協力社間で交渉妥結。
6月30日 ヨム・ホソク分会長出棺・永訣式。


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