密陽送電塔反対籠城場への行政代執行
追い出しに多数の警察官、公務員、韓電職員
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密陽送電塔反対闘争日誌
2005年8月 韓国電力、送電線路建設事業の住民説明会進行(総人口の0・6%が出席)
2007年11月 政府、新古里原子力発電所〜北慶南変電所756V送電線路建設事業承認
2008年7月 慶南密陽住民ら、送電線路白紙化要求の初決起大会、韓電送電塔建設事業着工
2011年5〜7月 住民・韓電 大和委員会運営
2012年1月16日 密陽ポラ・マウル住民イ・チウさん抗議の焼身・死亡
9月 密陽送電塔区間、工事中止
2013年2〜5月 チョ・ギョンテ議員主管の住民―韓電1〜6次討論会
5月20日 韓電、送電塔工事再開
6月5日 密陽問題解決のための専門家協議体発足、工事中断
7月8日 専門家協議体、送電塔建設推進を盛り込んだ報告書作成
住民・野党推薦委員、報告書採択拒否
7月20日 ユン・サンジク産業通商資源部長官、住民と対話
9月11日 チョン・ホンウォン国務総理、密陽訪問し工事強行示唆
世帯当たり400万ウォン個別補償など確定
10月1日 チョ・ファニク韓電社長、工事再開発表、密陽市庁・行政代執行を予告
10月2日 暫定中断されていた送電塔工事再開
10月25日 反対対策委、ソウル三成洞・韓電本社で工事中断の籠城
11月25日 密陽84番送電塔、初完工
11月29日 密陽住民、韓電国民監査請求
12月6日 住民ユ・ハンスクさん、「送電塔反対」飲毒後、結局死亡
12月15日 密陽81、89番送電塔、2機追加完工
2014年2月18日 反対対策委・民弁環境委員会、工事中止仮処分申請
6月11日 密陽市、送電塔籠城場5カ所撤去
韓電、密陽送電塔69カ所全現場で工事着工
万一、我々が己れの生と死をどこかに追い込んで行くことに/それほどまでに熱中しさえしなければ/そしてしばしの間でも何ごとをもしないでいられるならば/ことによると大いなる沈黙が/この悲しみを消えさせるかも知れない/我々が己れ自身を決して理解することのできないこの悲しみ/死によって我々を脅しているこの悲しみを。(パブロ・ネルーダ(注)、「沈黙の中で」)
敗北が予定された闘いだった。いつも負けてばかりいる闘いだった。それでも闘わないわけにはいかない闘いだった。6月11日、慶尚南道密陽市上東面の掘っ立て小屋で首に鉄鎖をぐるぐる巻きにしながら、住民オム・ソンジャさん(61)は語った。「我々が子孫に残してやれるのは、この自然だけだ。ほかには何もない。今、合意することになれば子孫には何と言えるのか。少なくとも最後まで闘ったという自尊心だけでも残してやらなくてはならないじゃないか」。
住民らの目には怖さと緊張がありありだった。その日の午前、既に府北面ピョンパッ・マウル(村・集落、129番送電塔建設予定地)とウィヤン・マウル(127番)の籠城場所が強制撤去された。115番コダプ・マウルと101番ヨンフェ・マウルの2カ所だけが残された場所だった。「本当にそんなに簡単に撤去したのか。あのハルメ(おばあさん)らは実に恐ろしいハルメたちのはずだが…。ちょっとやそっとでは降参しないはずだが…」。傍らで別の住民が言葉を添えた。「そりゃそうだ、だが警察がどどっと押し寄せればハルメたちもみんな恐ろしくてブルブル震えないだろうか」。
かわされていた会話が記者の耳にも入ってくる。「俺たちゃ今、何をしたらいいんだ」。警察部隊の投入30分にして2つの籠城の場はいずれも完全に撤去されるのを見た。答えを探すどころか、どうもこうもなかった。正午を過ぎたばかりの12時20分、既に警察が集結しているところだった。平和を祈っていた司祭や修道女たちのミサがまだ終わってもいないうちに、密陽115番送電塔建設予定地の「不法施設物」撤去のための行政代執行が開始された。
9年間の闘い「故郷を守る」
数時間前、初夏の山中の夜明けは穏やかだった。遙かに遠い峰々ではないけれどもヒャンボン山、チョンファン山、加智山、雲門山が、屏風のように取り囲んだ密陽は、その名のごとくに密やかに秘められている。これといった用もなければ朝まだ早い夜明けごろ、その静かな大地の人々は田仕事に出かける前の最後のまどろみをしていたことだろう。
密陽送電塔建設予定地の住民らが、そのように脚を伸ばして眠っていられたのは、もう9年も前のことだ。6月11日の夜明けは、いささか早く始まった。「ハンギョレ21」が府北面チャンドン・マウル入り口の籠城の場で未明4時頃に会った住民らは、徹夜で一睡もせず歩哨に立った顔だった。
杖をついた老人たちは、いすに座って微動だにせず田の畔ばかりを見下ろしていた。前照灯をつけた小型のバスが青みを帯びた闇のおぼろを破って、次々とマウルに入ってきていた。警察の20個中隊2千余人と密陽市の公務員、韓電職員200人余を乗せたその行列に終わりが見えなかった。チャンドン・マウルの「塹壕」には、せいぜい20人余りの老人たちが待ち受けていた。
既に1日前の6月10日午後から警察は徹底して府北面一帯を統制した。密陽は、まるで小さな「グリーン・ゾーン」(イラク内の米軍の特別警戒区域)にでもなったようだった。山に登るマウルの入り口ごとに、警察が阻んでいない所はなかった。慶南道警察庁が渡した首にかける標識がなければ、一歩たりとも入れてくれなかった。全国各地から押しよせる市民たちを阻むためのものだった。農作物をするトラック・トラクター1台も通過することはできなかった。わが故郷、わが家の前で繰り広げられているこの光景は何事か、老人たちは激憤した。「俺が何の罪を犯したというのか。ちゃんと言ってみろ」。
この事態に立ち向かう住民らは、既に命をかける準備ができていた。
「俺らが死んでも問題ではないのですか。政府がやっていることは余りにもデタラメではないですか。10代続いてきた故郷を守ろうとしているだけで、それ以外のことはないんです」。住民キム・イスさん(73)が警察を見下ろしながら声を低めに語った。「死ぬことは怖くない。千人の警察がやってきて、犬をひきずるように引っぱっていってみろ。俺は遺書も書いておいた。死んだら、俺の死体で鉄塔を阻止しろ、と。俺は韓国に生まれたのが恥ずかしい。お前らはこんな目に遭って生きるな、と。そのために俺らが9年間、闘ってきたのだ」。ピョンパッ・マウルの籠城で先頭に立ってきた住民ハン・オクスンさん(67)も語った。
4年間「死守」した。文字通り命をかけて守ってきた「塹壕」だった。それを渡すということは一生守ってきたプライドを丸ごと渡してしまうことも同然だった。籠城の住民らは、警察と密陽市の進入を阻むために坂道ごとに自分らの車を停めおいたり、ロープや鉄鎖を張り巡らしたりした。後に、その鉄鎖やロープがいかにたやすく切られるかを、彼らは知っていたのだろうか。
つねるか団扇で叩くぐらい
未明の5時をちょっと超えると稜線の129番の小屋からサイレンが響きわたった。「警察がやってきた」という合図だ。戦雲さえたれこめた。6時に予告された執行時刻に合わせて坂道ごとに列をなしていた警察部隊が範囲を狭めてきていた。「お前らも人間ならば、ちょっとは考えてもみろ。ハルメらがここに来て守ってるんだ。セウォル号の若い子らをみな見殺しにして、今度はハルメらまで殺そうというのか」。チャンドン・マウルのハルモニ(おばあさん)が、並んで立っていた数百人の警察に向かって声を張りあげた。
6時、ついに密陽市公務員の警告状の朗読と共に鎮圧が始まった。LPGのガス缶、斧やら鎌やらは、いざ楯を押し立てた警察部隊の前では何の役にも立たなかった。当初から「死をものともしない闘い」であることを政府に見せつけるための展示物だったのか知れない。曲がった腰と引きずっている足で、逃げながら老人たちができることとしてはキムチの汁や糞尿のひしゃくを浴びせるのが、たかだかだった。ひしゃくを持ったハルモニを楯で制圧した後、女性警官10人余りが手足をつかんで連行した。
この日、「政府」はかつてないほど緻密だった。4月、全南・珍島沖で国民を守りぬくことにあれほどまでに無能だった国家が、国民を侵奪することには完璧と言えるほどに有能だった。最も堅固だった129番「塹壕」を撤去するのにも、わずか30分もかからなかった。老人たちは、しきりに問い返した。「お前らは俺らをまるで保護しに来たようだ」。
ある総合日刊紙取材記者の標識を首にかけた慶南道警察庁所属の私服警官は、当たり前のように記者たちの間にもぐり込んで記者たちを統制した。(この日、警察はこの日刊紙以外にも、さらに別の日刊紙の記者を私称して当該のメディアから抗議を受けたことが明らかになった)。「記者のみなさん、いったん作戦が始まったら、ちょっと後ろに退いて下さい」。暴力的な場面が演出される時、全力を尽くして取材陣を押し出すためのものだった。記者たちに連行の脅しまでかけて取材への妨害をしている間に、ハルモニたちの首にかけられた鉄鎖が切断機で切られていった。座り込んだまま祈祷しているカトリックの修道女たちを引っぱり出す過程で、修道女たちの宗教的象徴である頭巾がはがされた。
楯と腕・手首防護帯を着用した警察に対抗してハルモニたちができることといえば、つねったり団扇や孫の手でパタッと殴るのがせいぜいだった。女性警官は証拠を採取しながら、オウムのように同じ言葉ばかりを繰り返した。「警察をつねらないで下さい。警察をつねってはダメです。公務執行妨害です」。
穴の中で裸身に鉄鎖を巻いて抵抗していた80歳の老人たちは半ば失神状態で引きずり出された。警察に抱えられていく老人や修道女たちは、地面にひっくり返っていた什器類とそう違いはないように見えた。ユサユサと運ばれていく80歳の老人たちを見ながら警察の指揮部は、うれしい腹の中を隠さなかった。「実に早々とひねりつぶしてしまったじゃないか」。幹部と思われる私服警察らが互いに、くすくす笑いながら語った。御老体の「自決」をはじめとする事故を最も憂慮していた129番籠城場で何事も起きなかったことに対する安堵だったのだろう。
権限のない警察が執行の中心
老人らがどこか1カ所でも大負傷したり、あるいは事故が起きたりしたならば、事態は大きくなるだろう。死は怒りを増幅させるだろう。憤怒は密陽を超え、全国を覆うこととなるだろう。セウォル号の政局からやっと脱けだそうとしているこの時、その怒りが青瓦台に向かうようにすることはできないだろう。仮にそうなれば、「クビ」になるものも出るだろうし、左遷を被る者も出るだろう。それらすべての関数を阻むために、警察の作戦は最後の最後まで一点の隙もなく緻密だった。
国民を制圧するための法はたやすく強制されたけれども、国民を守るための法や装置は無視された。長い「塹壕」生活で体力が低下した老人たちを引きずり出しておきながら、密陽市は救急車を1台しか配置しなかった。127番「塹壕」で老人2人が失神したけれども救急車両がなく、20分余り放置されざるをえなかった。この日の行政代執行の過程で負傷して病院に護送された人は全部で21人だ。この過程で国家人権委員会が派遣した「人権見守り団」13人の役割は、単なる観察者にとどまった。
密陽送電塔反対対策委員会は、「行政代執行法によれば、警察は現場の安全のために、代執行の際に発生する事故に備えた補助的活動だけをすることができるにすぎず、代執行の権限はない。だが4つのすべての籠城の現場で警察は直接、籠城の現場をぶち壊し、小屋の骨組みを運び去るなど、撤去と何ら変わらない行為をした」と批判した。
裸で引っぱられてきたイ・クムジャさん(83)は、なかなか気力を回復できないまま涙顔だ。「おい、お前らは本当にバカだ。お前らに良かれと俺らがこうしてやっているのに、こうなるんではお前らはどこへでもとっとと失せろ」。孫の年頃の女性警官らがそうであっても、いたわるかのように老人はそれ以上、くだくだとは言わなかった。「俺あ口汚ないハルモニだが、お前らがかわいそうで、ろくろく悪口もたたけない。国が良ければ、お前らもこんなことせずに暮らせるものを」。
山の下まで痛哭と悲鳴が響きわたった。「オクスンや! 俺はここで死ぬんだ」。老人の泣き声だった。「どうか注意して下さい。穴の中に人がいます」。カトリックの修道女たちの訴えだった。連帯のためにやってきた1人の女性は座り込んだまま大声をあげた。「セウォル号は珍島にだけあると思ってるの。ここがセウォル号だ」。耳を傾けてくれる人のいない叫びだった。踏みにじられても面倒をみてくれる人のいない花畑だった。
撤去した日、樹木伐採と地ならし
地上の騒ぎはあずかり知らず、密陽の空では工事の資材を運ぶヘリコプターが慌ただしく行き交った。韓国電力公社は「塹壕」を撤去したこの日、直ちに樹木伐採工事と地ならしに突入した。送電塔建設予定地69カ所のすべての現場で工事に着手したのだ。
この9年間、いつも負けてばかりいる闘いだった。もう1回、負けたからといってへたり込むわけがない。反対対策委は「行政代執行は終わりではない。密陽送電塔のシーズン2を開いていくであろう」と発表した。彼らは6月14日夕方、密陽で「150回目のキャンドル集会」を開いた。(「ハンギョレ21」第1016号、14年6月13日付、密陽=オム・ジウォン記者)
注 チリのノーベル文学賞詩人(1904〜73)
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