派遣法改悪・「残業代ゼロ」をまとめてつぶせ!
不公正と闘い 人権擁護する全民衆的闘争へ
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労働時間規制に大穴
「残業代ゼロ」化を核とする労働時間規制解体施策の検討が七月七日、厚労省労働政策審議会労働条件分科会に諮問された。六月二四日閣議決定された「成長戦略」に盛り込まれたものだが、「労働時間の長さと賃金のリンクを切り離した『新たな労働時間制度』を創設する」との表看板を付した「残業代ゼロ・残業ただ働き」化の他に、裁量労働制の拡大、フレックスタイム制の拡大、そして先の提案を前提とすればほとんど実効性が期待できず、いわばまやかしにすぎない働き過ぎ防止の取り組み強化、が具体的な諮問項目とされた。
見る通り、労働時間規制に大穴を開けようとする内容であることは一目瞭然であり、当然この日の審議でも、労働者側委員と使用者側委員の意見は真っ向から衝突した。メディアは、労政審での鋭く深い意見対立を一方で伝えつつ、他方、年末までに審議終了、来年通常国会への新制度案上程、との政権の意向を報じている。
後であらためて確認するが、労働時間規制は労働者にとって、「尊厳の下に生きること」を保障する最も重大な基本的規制であり、人間としての尊厳の確保と直結している。その重大な規制を外すことなどそもそも決して認められない。労政審での全面的な意見衝突は当たり前のことであり、その溝の深さは簡単に、あるいは小手先の取引で埋まるようなものではあり得ない。しかし安倍首相とその取り巻きはその溝を年末までに埋めようというのだ。そこににじみ出ているものは、傲慢と言う以上に人権感覚の不在であり、それ自体決して容認できることではない。
日本の労働者には今秋、文字通り自己の尊厳をかけた闘いが提起された。労働者の総力をあげた団結を何としても作り上げ、その主体的な決意を軸に社会の幅広い力を集め、同じように労働者の尊厳を否定する労働者派遣法改悪もろともに、「残業代ゼロ」化を粉々に砕かなければならない。
この重大課題に対し連合の古賀伸明会長は、五月一五日の定例記者会見で、「あらゆる手法を使って反対する」と言明している(朝日新聞、五月一六日)。日本最大の労働団体として当然の姿勢ではあるが、その真摯さのほどが今度こそ本当に試されることになるだろう。労働者の尊厳を守り高めることのできる運動であるのか否か、それとも奴隷監督の組織に成り果てるのか否か、連合にとってもその存在意義が、この問題では根本的に、いわば運動の原点のところで問われるのだ。間違っても、広範な垣根を越えた共闘への努力に水を差すことなどあってはならない。
付言すれば、派遣法改悪案は前国会で審議未了・廃案となった。いくつかの理由はあるとしても、昨年夏から粘り強く積み上げられた労働者の抵抗が、審議の遅れなど政権の狙いに躓きを与えたことは確実であり、諦めず屈することなく闘うことの重要性は、今秋の「残業代ゼロ」化阻止に向けても十二分に生かされなければならない。
資本家に「良識」なし
この重大な闘いに臨むに当たって、この闘いを強力に展開するために、今回具体化された安倍政権の野望が、労働者のいのちとくらし、そして基本的人権をどれほど深く破壊するか、それゆえこの攻撃がどれほど不公正に満ちたものかをあらためて確認しておきたい。
まず前提的に、「残業代ゼロ」がなぜ労働時間規制解体なのかをあらためて確認しよう。日本の労働法制では労働時間が労働基準法で一日八時間、週四〇時間に規制され、その他週一日の休日を与えることが定められている。この規制は刑事罰をもってする強制であり、その限りで本当は緩いものではない。
しかしそれではなぜ長時間労働が蔓延しているのか。実はここに重大な抜け穴があり、労働者の過半数を代表する者と使用者が協定を結べば、無制限に(協定の範囲で)時間外労働が可能になるのだ。しかもこの協定には、最高裁判例で、労働者個人による残業拒否を認めない強い強制性が与えられた、という極めて不当なおまけまである。
ただその時間外の、また休日の労働に対しては、深夜割り増しなど細目にはふれないとして、二五%以上の割増賃金を支払うことが義務づけられている。ここまで見てくれば分かる通り、日本における労働時間規制として使用者を具体的に縛るものは、この割増賃金という「金銭負担」だけなのだ。しかも二五%という割増率は、実は国際的にかなり低い。
このようなからくりの中で結局日本の労働時間規制は極めて緩いものになっているのであり、その限りで長時間労働の蔓延にはまさしく根拠がある。にもかかわらず、この不当に低く労働時間規制としては不十分な割増賃金さえも払いたくない、これが今度の「残業代ゼロ」提案だ。
あきれるほどに図々しく、しかも「ただ働き強要」という意味でまさしく不公正であり、なおかつ唯一使用者に対して重荷として機能していた労働時間規制手段が取り去られるのであり、労働時間を規制する実効的な手段がなくなる、というとんでもない結果だけが残る。まさしく労働時間規制の解体にほかならない。
残る労働時間規制としては、使用者の「良識」に待つというのだろうか。しかしこれまで長時間労働をまったく抑止できてこなかった使用者、そして見てきたような不公正な提案を何の恥も感じることなく出してくる使用者に、どんな「良識」を期待できるのだろうか。そんな期待などできないことは、普通の労働者にはとうに分かっている。
そしてその結果は直接に、労働者のいのちの問題に跳ね返ってくる。端的に、過労死にいたるほどの長時間労働がいわば野放しに蔓延している現実を前に、提案されたような労働時間規制外しが労働者のいのちそのものをどれほど危険にさらすかは、誰もが分かることだ。それゆえこの施策には、二〇〇六年の第一次安倍政権の時の提案に際しても「過労死促進」制度との強い批判が浴びせられ、当時安倍に施策強行を断念させる大きな力となった。
八年経って、長時間労働の実体には何か根本的な変化はあったのだろうか。あるいはその抑制に向け何か対策は取られたのだろうか。そんなことはまったく、本当にまったくない。そればかりか、不況の長期化の中で事態はむしろ深刻化していると言うべきだ。
厚労省の発表した二〇一三年度労災請求・認定件数によれば、「心の病」での請求は一四〇九件で統計に残る限りでは史上最多、認定も四三六人となり史上二番目の多さだった。この数字は氷山の一角にすぎず、労災請求されてはいないとしても、職場での精神疾患が多くの職場に蔓延しているとの報告はすでに多くの労働相談関係者から出されている。そして「脳・心臓疾患」で労災認定された労働者も三〇六人となり、三年連続して三〇〇人越え。うち死亡者数は一三三人で、前年よりも一〇人多い。この多くが長時間労働が原因となっていることもまた、言わずもがなだ。
「残業代ゼロイコール過労死促進」という批判は、文字通り問題の重大な、そしてまさに深刻な側面を図星で貫いているのであり、今回もまったく同じく当てはまる。むしろこのような悲惨な実態を承知の上で「残業代ゼロ」化を提案する者たちの感覚にこそ恐るべきものがあり、労働者蔑視を宿したその荒涼とした感覚こそが厳しく批判されなければならない。
「過労死」するまで働け
その点で、特に長時間労働に焦点を当てた危惧の論調がマスメディアにも小さくないことは、いわば当然と言える。たとえば朝日新聞は「働き過ぎを防ぐ仕組みがないまま、働き手の健康を守る労働時間の規制を緩めれば、働き手が損をかぶることになりかねない」と書いた(七月八日)。その指摘自体は間違いではない。しかし労働者にとっての本当の問題は「損か得か」というレベルの問題ではない。前述したいのちの危険は言うまでもなく、問題ははるかに大きく深い。
たとえばこのとんでもない策をもちだした者たちは、二〇〇六年の際「残業代ゼロ」とキャンペーンされ、労働者の素朴な公正感覚が(まったく正当で健全な反応だが)著しく刺激され反対論が高まったなどと総括し、「提案の本質は賃金を成果で決めるということ」であり、「成果さえ上がれば定時前に帰宅することも可能だ」「むしろ労働時間の短縮に資する」などとまで、しきりに吹聴している。しかしこの論自体がとんでもない不公正なものなのであり、彼らはそのことにすら気づいていないらしい。
端的にこの論を裏返せば、「成果」が達成できなければ過労死をも覚悟して長時間の労働を続けなければならない、ということを意味する。かつて「過労死は労働者の自己責任」と放言した有名経営者がいた。あるいは富士通の最高経営責任者は、「会社の業績が上がらないのは従業員の責任」と言い放ち世間のひんしゅくを買った。要するに成果云々は、その同じ論理の下にあり、すべてを労働者の自己責任の問題にすり替え、使用者・経営者の責任を逃れさせる悪質な論理なのだ。
そもそも労働契約とは労働力の提供を契約するものであり、成果を提供するものではない。労働者はむしろ成果など提供しようもない。なぜならば「成果」は、労働の時々刻々の過程で、雇い主のものになっているのであり、最初から労働者のものではないからだ。例えば、設計にたずさわる労働者が、労働の成果物である設計図書を雇い主以外に売り渡そうとすれば、間違いなく、窃盗として監獄にぶち込まれる。そして自分のものでないものを契約の対象にすることはできない。「成果で賃金を決める」などということはそもそも原理的にあり得ないことなのだ。
今回の策をめぐっては、「成果」の評価が独断的、恣意的になる怖れを危惧する論調も強い。その危惧はその通りであり、労働者は誰もがそのことは肌身に染み込んで分かっている。しかしその理由は評価の仕方のまずさなどではなく、「成果」とは雇い主のもの、という本源的なところにある。恣意的、独断的であるのはその必然的結果であり、問題の本質は、本当の持ち主は雇い主でありながら、それをあたかも労働者のものであるかのように言いつのるペテンなのだ。
「成果」が上がるか否かは本質的に、提供された労働力をいかに有効に活用するかという、丸ごと使用者、経営者の才覚、能力の問題であり、労働者に責任のある問題ではない。そこに労働者の責任を滑り込ませる成果云々の論理は、一〇〇%ペテンの上に成り立っているのであり、その意味で、今回持ち出された策はまさに不公正の塊以外の何ものでもない。
歴史的に、また世界の現実も、労働時間と賃金は不可分にリンクしている。賃金の基準は時間給として計測される。これが労働の世界を規定している現実の否定しようのない普遍的事実だ。賃金とはそれ以外にありようがない。実際、時間から切り離された賃金とは一体何なのか、おそらく誰一人まともに説明できないだろう。このような不真面目で空虚な、いわば幽霊のような賃金論でわれわれ労働者の運命を左右させることなど、絶対に許すわけにはいかない。
労働者の大衆的共同闘争へ
労働時間に対する規制は、労働者を動物のような生活に投げ込んでいた長時間労働に対して全世界の労働者が連綿と闘い続け積み上げてきた、まさしく血と汗で書かれたもっとも基本的な権利だ。それは労働者のいのちと健康を守るだけではなく、人間としての尊厳を支える重大な人権のための規制でもある。さらに、労働力の供給をこの規制で制約することにより、労働力市場における雇用主(需要側)との対抗を助け、労働条件の劣化を防ぐ重要な武器ともなってきた。実際に失業との闘いにおいて、たとえばヨーロッパの労働者が週三五時間労働の要求を武器としたこと、また労働時間のスライディングスケール(ワークシェアリング)要求など、労働時間規制の重要性は、まさに現代の問題に他ならない。その上すでに確認してきたように、日本においては、文字通りいのちを守る要求になっている。
そのようにして労働時間の規制は、二〇〇年を超える労働者の闘いの全歴史を通じて今にいたるまで、全世界の労働者の旗に書き込まれた普遍的な、欠かせない要求であり続けているのであり、そのようなものとしてまさにメーデーは、八時間労働制を要求した全世界の労働者の国際共同闘争を起源としている。そして労働時間規制はこれほどに重大な権利であるがゆえに、八時間労働を世界基準として規定することが、ILOの最初の条約となった。
労働時間規制はあだやおろそかな規制ではない。その規制をいい加減な根拠で破壊することなど、まさに全民衆的な基本的人権の問題として、全世界の労働者の権利の問題として、決して許してはならないことなのだ。ちなみに日本の支配層は今にいたるまで、ILO一号条約を批准していない。ここに露呈している人権への敵対意識こそが、今回の安倍政権の「残業代ゼロ」提案の底に連綿と受け継がれていることをあらためて明確に確認しなければならない。
まさに今秋、不公正と人権破壊を許さない全民衆的闘いが求められている。それを作り出そう。その闘いでホワイトカラーエグゼンプションを葬り去った二〇〇六年末を再現しよう。そして、もっとも基本的な権利を守るいわば原点的なこの闘いを大衆的な労働者の闘争として押し上げることを通じて、今痛切に必要となっている労働者運動の再生につなげよう。
(神谷)
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