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    かけはし2014.年6月30日号

ロシアと西側の指令と対決し社会的民族的権利の防衛を


ウクライナ

マイダンの弱点と限界とは

民族問題は政治活動の中心的課題

第四インターナショナル書記局決議



 以下の決議は、二〇一四年六月七日に開かれた第四インターナショナル書記局会議で採択された。(「インターナシヨナルビューポイント」編集部)


二〇一三年一一月以来ウクライナが経験してきた極めて深い政治的危機は、終わりにはほど遠い。この国では、極めて長期にわたる民族的抑圧(基本的にはポーランドとロシアによる)に続くものとして、国民形成過程は不完全であり、国民国家は今なお脆弱だ。このことは、この国がロシア帝国主義の圧力並びに欧州―大西洋諸大国の圧力の間で人質に取られている事情、また新自由主義の社会的断片化の影響にさらされている事情においては、なおのこと当てはまる。

1.マイダンから暫定政権まで―強力な民衆的決起

 三カ月の間(二〇一三年一一月二一日から二〇一四年二月二二日まで)、キエフ中心部の独立広場(「マイダン」)には何万(そして何日かは数十万人)という民衆が集まった。二〇一三年末の時期この運動に巨大な規模を与えたものは、幸福な暮らしという希望――「欧州」との共同に理想化されて――、腐敗の拒絶、民主主義、そして民族主権と組になった、最初に決起した人びと(「親欧州」並びに民族的独立の防衛を掲げ)に対する弾圧だった。
われわれは二月(国際委員会決議)に、「革命的要素(民主的、反エリート主義的、自己組織化)と反革命的要素の組み合わせを表現してきた――その全体的結果は政治闘争と社会闘争の問題であり、それは当時だけでなく今もそうであり続けている――」として、この運動の諸特性を強調した。「これらの諸特徴はまた、現在のポストソビエトウクライナ社会がもつ今ある特徴(アトム化され、いかなる階級的独自性ももたず、教育の悪化と社会での反動的民族主義的理念の影響力が一体となった、スターリニズムの劇的な遺物と民族的独立への正統性のある献身が組になった)に深く根付いてもいる」(本紙3月17日号参照)。
われわれはマイダンの弱点と限界を以下のように示すことができる。
▼その存在の長さにもかかわらず、登場した自己組織の主な形態は、なお限界をもったままにとどまっていた。すなわちその役割は何よりも、真冬における、テントとバリケードからなるこの反乱のまちの建設、維持、防衛、補給と医療サービスの組織化であり、……諸々のチームは政府庁舎を占拠し、学生評議会は特に教育予算の透明性を強いた。自衛のための「ソトニア」(隊)が形成され、その少数部分は、マイダンに参加した政治諸組織によって統制された。
▼この運動には、どのような「代表者」もあるいは選出されたスポークスパーソンもいなかった。このことが、「親欧州派」の中に位置づけられる、極右政党のスヴォボダ党を含んだ野党諸政党による運動の利己的利用、特に海外に「ユーロマイダン」の名前で伝えることを促進した。
▼スヴォボダ党と張り合っている極右民族主義右翼の小グループ(右翼セクターその他)が、運動の自衛において一つの役割を演じた。彼らの目立つ「可視性」と左翼活動家に対する襲撃は、特にロシア政府とロシアメディアによって、あるいはその後、左翼を自認する反マイダン諸部分によって、マイダン全体の信用を落とすために利用されてきている。
▼最後に、この運動は、極めて多様で社会的諸課題に対し敏感(公共財の横領、腐敗、不平等に対する反対)だったとはいえ、社会的要求を提起することがなかった。それは、産業労働者階級を決起させるために、それゆえ東部と南東部を決起させるために、何かをやることはまったくほとんどなかった(二、三の例外以外)。ストライキの呼びかけ(独立労組連合が発した)が支持を受けることがなかったとすれば、同じことは、マイダンに反対する労働者の決起を意図した試みに関しても真実だ。
▼非常に弱体なウクライナ左翼は、右翼の有力な組織された諸勢力が掲げた当初のテーマ(「親欧州」)と右翼の襲撃を考慮しつつ、マイダンに対して、またマイダン内でまったく分裂していた。様々なアナーキストグループに加えて社会主義者の運動――「左翼反対派」――は、この運動にはらまれた社会的かつ大衆的な民主的熱望の結果として、そこに介入し、右翼と極右の観点に反対することを選択した。それとは対照的に「ボロトバ」(闘争)派は、運動の外にとどまり、この運動を反動的だとして世界的に強く非難した。
そのラベルと社会的主張から「左翼」に位置づけられているウクライナ共産党は、新興財閥の育成を進めた私有化にまったく深く関与してきたのだが、EUとの協定に関し国民投票を提起することで、地域党と自身を区別しようとしてきた。しかしこの党は、あらゆる決起参加者を犯罪者とする二月の諸立法に賛成票を投じたことにより、信用をなくした。この党はボロトバ同様、「ナチ暴動」論を宣伝してきている。
▼マイダンは全体として、二〇〇四年の「オレンジ革命」時の場合よりも諸政党からもっと距離をとりつつ、特に国の西部と中央部で決起を作り出し、EUに向きを取った。すなわちこの運動は、国全体を貫いて共有されていた社会的かつ民主的熱望を表現していたとしても、その「綱領」は、ヤヌコビッチの打倒一つだけだった。
2.ヤヌコビッチの失権――差し押さえられた民衆の勝利、そして「ファシストの暴動」とは異なる右翼政権

 ヤヌコビッチの失権は地域党をバラバラにした。この党は、ヤヌコビッチの大統領期の下で、新興財閥の権力の主な道具となってきた。そしてその基盤は東部ウクライナ――ウクライナ新興財閥はそこで登場し、一九九〇年代はじめの資本主義復古の時代に、不正に私有化された大工業企業の中で発展した――に位置していた。
この党は、支配的な社会的関係を根拠として選挙に関し強力な支持を確保していた。ヤヌコビッチが大統領職に進む中で彼の政権の構造的道具となった地域党の破裂は、弾圧の特別部隊である「ベルクト」の解体と並んで、この国家から支配の諸機構の重要な一部を奪い、ウクライナ国家を弱体化した。
新政権の閣僚すべてはマイダンの群集から受け入れられた。とはいえ運動への動員は、暫定政権確立後に大幅に縮小した。
ヤヌコビッチの失権は、「西側に支援されたファシスト的反ロシア暴動」による業績などではなく、準蜂起的な運動の勝利だった。ヤヌコビッチの二〇一〇年の権力到達は正統と認められた選挙を通すものだったとしても、彼の失墜には彼自身が負うべき責任があった。
つまり彼は、この国が貧困化している中で、新興財閥的な個人と家族の富裕化という年月によって、彼の出身地域であるドンバスを含んで、深刻に信用を失っているのだ。その上、EUとの協定への署名に対する一一月に起きた予想外の彼の拒否ですら、政権が彼自身の党や議会による統制からますます離れ、大統領独断的な成り行き任せになっていることの表現となっていた。弾圧とマイダン参加者の死は、彼の失権への触媒となった。この死に対する責任を巡る対立のゆえにキエフ政権は、四月二五日、国際刑事裁判所(ICC)に訴えを起こしている。ICCは、二〇一三年一一月二一日から二〇一四年二月二二日にいたるできごとを今調査中だ。
彼の逃亡後大統領の解任に圧倒的多数をもって賛成票を投じたのは、そして暫定政権を指名したのは議会自身だった。この指名には、西側外交官によって支持を受けた妥協が大きく反映されている。そしてそれは、彼の逃亡以前にヤヌコビッチとの間で交渉されていたのだ。欧州諸政権は、スヴォボダ党を含む「親欧州」諸政党すべてをはっきりと支持した後になって、極右によって恥ずかしい思いをさせられることになった。
後者は自身をより「尊敬に値するもの」にしようとしてきた(スヴォボダ党は、その反ユダヤ主義の母体やSSガリツィア分遣隊に対する称揚の調子を引き下げてきた)。同時に内務相(彼は欧州議会から、私兵的民兵の武装解除を求められてきた)は、右翼セクターとの緊張した関係の中にいる。
この政権が「ネオナチ」というわけではないとしても、極右の「スヴォボダ」という政党が政権内で権力をもつ多数の地位を確保しているということは真実だ――そしてそれは些細なことではない――。つまり、四閣僚(三月二五日、防衛相のアドミラル・イホル・テニュクがクリミアでのできごとを前にして「無活動」だと見られ「解任」された後には三閣僚)に加えて司法長官ポストがある。
また、国家安全保障評議会および防衛担当書記のアンドリイ・パルビイもまた、時折スヴォボダ党員として分類されている。彼が一九九一年の「ウクライナ社会民族主義党」創立メンバーの一人であり、この党が二〇〇四年にスヴォボダの名称を採用した、ということは事実だ。しかし彼はこの組織を一〇年前に離れ、二〇一二年以後は、ユリア・ティモシェンコ率いる「バトキフシュチナ」(故国)のメンバーとなっている。
まさにこの勢力が、諸地方の知事ポストに新興財閥を指名し、IMFが求める諸政策を実施に移してきた今の新自由主義政権を支配している。ここでふれた諸政策には、天然ガス料金の引き上げ(五〇%)、公共部門雇用と賃金の凍結、年金切り下げ、社会的支出の削減、付加価値税の引き上げその他が含まれている。
公用語に関する二〇一二年法の廃止という、新たな議会多数派が取りかかった最初の政策は、大統領代行によって承認されなかった。しかし、モスクワによるものを含んだ、「反ロシア」との新政権に対する強い非難を背景として、この政策の影響は、ロシア語を話す地域では破壊的なものとなった。クリミアに対するロシアの侵攻は、こうした政策に対する対応として押し出されている。
五月二五日の選挙は、共和国大統領にペトロ・ポロシェンコを就けた――六〇・三%の投票率(この数字は疑いなく過大に評価されている)(注一)の中での得票率五四・七%で――。社会的諸問題をそらす諸々の緊張を背景として行われたこの選挙は、そうであっても、ウクライナにある種の主権を備えた代表性を与えたいという、民衆的な切望を表現している。
同時にそれは、マイダンに表現された原理的な政治的諸要求――警察と国家諸機構要員の抜本的な一掃、腐敗に対する闘争、直接的な政治権力からの大資本の分離――を埋葬するものにいる。ウクライナ近代史においてはこれまで、国の管理にビッグビジネスがこれほどまでに直接関与したことなど一度もなかったのだ。最富裕ウクライナ人に関する「フォーブス」誌リストに現れるほとんどすべての者たちが今日、執行部署の高位ポストにいる。

 

3.クリミアの併合

 一九五四年、ウクライナへの贈り物としてフルシチョフが帰属を移したクリミア(その住民の一二%には、過去にスターリンによって追放され、一九九一年以後に帰還したタタール人が含まれている)は、一九九三年以後、独立したウクライナ内部で、自治共和国としての特別な地位を得てきた。その主な都市であるセヴァストポルにも、一九九七年の「平和友好」条約にしたがって、元ロシア黒海艦隊を停泊させる海軍基地として、特別な地位があった。
モスクワは、二〇一四年のエネルギー料金と債務を明示した協定の見返りに、その下でモスクワが基礎的なものをウクライナに賃貸していたリース契約の延長を、ヴィクトル・ヤヌコビッチから獲得していた。プーチンは、クリミアを併合することで、これらすべての諸協定に一方的に異義を突き付けるために、ヤヌコビッチの失権を利用した。しかし、ウクライナにおけるロシア人武装勢力の利用に力を貸す議会による投票を前に進めたものは、「ファシスト暴動」によって脅威を感じた「ロシア人少数派」の議論だった。それこそが、この論題が宣伝において本質的役割を果たしている理由だ。軍の展開下で、またウクライナメディアを利用する権利もなく行われた国民投票に向けられたポスターの中では、ウクライナ人が鍵十字で特徴づけられた。
モスクワは、八六%の投票率の下で有権者の九七%がイエスに投票した、と言明した。しかし上記の数字は、「市民社会と人権に関するロシア大統領評議会」が提供した数字からまったくかけ離れている。すなわち「様々な情報源によればクリミアにおいて、全体合わせて三〇〜五〇%の投票率の下で、ロシア加入支持は五〇〜六〇%」ということだ。
タタール人のクリミアからの脱出が再開している。彼らの運命はいかなる意味でも確かではない。しかし三月二〇日、クリミア共和国とセヴァストポル市をロシア共和国連邦に合体させる協定はロシア議会によって批准された。
プーチンは大国然と振る舞いつつ、「小ロシア」のすべてに向けて郷愁を誘う大ロシア排外主義を煽り立てることによって――ウクライナでの大火という危険を冒して――、国内の批判をもみ消した。ずっと昔にあったスターリン主義の宣伝行為のように、今やウクライナ人(あるいはタタール人)であることは、(親)ナチ、そして「反ロシア」であることを意味している。その対照物は、ロシア人であることが「反ウクライナ人」あるいは「ボルシェビキ」であることを意味するとの、ウルトラ民族主義宣伝の中に見出すことができる。真の政治的、社会的、また地政学的対立はこのようにして隠されている。

4.不人気な政権を前にする「反マイダン」

 いずれにしてもウクライナの東部と南東部はクリミアではない。ここの人びとはクリミアとは異なり、一九九一年、ウクライナの独立に向け圧倒的に支持票を投じた。そして世論調査は、キエフに対する彼らの政治的不信にもかかわらず、彼らが独立ウクライナに圧倒的に愛着を持っていることを示した(最近まで)。
言語的な多元主義、また脱中央集権化の一形態であっても、それらを望むこと、あるいはロシアとの結びつきの保持をあらためて願うこと(特により条件のよいエネルギー価格を求めること)、あるいはソ連邦への郷愁をもつことといったこれらには、分離主義の論理が含まれているというわけではない。実際プーチンの政治体制は魅力的ではない(たとえそれが保護者として押し出されているとしても)。またドンバスに隣接するロシアに適用された諸政策は、ウクライナの工業ではまだ大量に残っている国家補助の多くを取り去っているのだ。
しかしキエフによって指揮されている諸政策は、ロシアとの結合による職への脅威がたとえEUへの結合やIMFへの従属による脅威より小さいものではないとしても、懸念を引き起こしている。それゆえ民衆の選択は確かなものではなく、諸々の懸念が手っ取り早く利用されている。
ドネツクとルガンスクの自称「人民共和国」はキエフに対する不信を利用している。しかしそれらは大幅に準軍事機構に切り縮められている。あるいは、ウクライナ国家機構の元メンバー、あらゆる種類の犯罪者、チェチェンの軍事活動隊員、ロシアの治安部隊メンバー、あるいは普通のウクライナ人を結集している。評価を行うことが難しい諸々の衝突の後で一層混乱を深めつつある情勢の中で、実体のある民衆的動員を力づけるものは何一つない。
五月二日に起きたオデッサの悲劇は「反マイダン」宣伝の急進化を示した。これは、ボロトバの活動家を含むいわゆる「親ロシア」活動家がバリケードで内部に閉じ込められた労組会館での火事であり、これらの活動家四〇人の命が犠牲になった。しかしその悲劇は、「ウクライナの統一」を支持するデモに対する、死者四人を残した武装襲撃の結果として起きたことだった。
さて先の「反マイダン」宣伝にしたがえば、マイダン支持者は、キエフの「ナチ国家」から保護を受ける「新たな扇動家」となると思われる――そしてそこには、これらの解釈に人が異議を差し挟めば、「人の感情をなくした冷淡さ」という告発が付随している――。
反マイダンは、人口が多い地域でも、二、三〇〇〇人を超えるような大衆決起をまったく見せることがなかった。五月一一日の住民投票で「人民共和国」に支持投票した何千人かの人びとをそこに含めることは難しい。そこでの票は疑いなく、ある程度反キエフの抗議表示であると共に、同時に民兵――五月二五日に大統領選挙への参加を禁止した同じ者たち――が強要した票でもあった。
大衆的ストライキがいくつか、特にクラスノドンで起きた。しかしそれらのストライキは賃金問題に関するものであり、労働者たちは、「親」あるいは「反」マイダン候補者による政治的操作を拒絶してきた。鉱山労働者内部で起きている他のより最近のストライキは、キエフが採用している「反テロリスト」行動に反対している(鉱山に対する爆撃という危険を強く非難しつつ)。
本国ではほとんど実行することのない対話の呼びかけという、あるいは外国の介入すべての否定という、プーチンの偽善をわれわれが強く非難できるとしても、外国の介入は軍事侵攻の形をとっているわけではない。あらゆる対話を妨げている武装「反キエフ」民兵の暴力は、確かに十分な対応を必要としている。しかしその対応は、民衆の民主的かつ平和的な熱望に依拠することで可能となるだろう。そして国の統一の防衛は、軍事的回答以外の回答を意味する。間違った宣伝すべてを受け入れることは難しいとしても、キエフが始めた作戦は混沌に帰着する形で有効性がなく、民衆の信頼を勝ち取ることができない、ということは確かに本当だ。そしてそれをプーチンは利用するつもりになっている。

5.ロシアの帝国主義政策

 ロシアは一九八九年以後の周辺化を経て二〇〇八年以来、また帝国主義の諸矛盾に関しカードを切りながら、自身を大国としてあらためてはっきり突き出そうと力を入れてきた。
ソ連邦の解体とロシアでの資本主義復古は、国家を管理している新興財閥的半封建的領地という手段で支配された富の略奪によって、一九九〇年代のエリツィン時代に映し出された。この時代、独立国家共同体(CIS)にはほとんど実体がなかった。エリツィンのロシア国家は、チェチェンでの汚い戦争にもかかわらず、その国内的権力(税を国庫に確保する能力を含めて)と対外権力を失った。ロシアのG8への包含は、その現実の重みに関し、誰であれ欺くものではなかった。
プーチン時代は当初二〇〇〇年に、特に原油と天然ガス部門の新興財閥と輸出に対する支配を組み込みつつ――一九九八年危機への払い込みを経て――、国内的に強力な国家の回復に帰結した。ここに付随したものが、諸々の選挙と大メディアを枠にはめ、諸抗議活動を弾圧する「管理された民主主義」だった。同時に、古い社会的保護の諸方策は解体された。強力な成長の回復には、ロシア新興財閥の経済的かつ金融的存在の国際化が、さらにロシアを中心としたCISよりももっと統合された経済「空間」を作り出そうとするロシアによるいくつかの試みが伴っていた。
ロシア政権は特に二〇一一年以後、ベラルーシとカザフスタンとの間ですでに機能していた関税同盟(そこにはアルメニアも合流していた)を、二〇一五年を目標にアゼルバイジャン、ウクライナ、さらにグルジアやモルドバにも向ける形で、「ユーラシア」構想に変革しようと試みてきた。そしてそれは、特に天然ガス料金という武器を利用することで、EUとの「東方協力」に対するオルタナティブを提供することに関係している。この挑戦はロシアにとって、中国および西側資本と競争することだが、しかしまたユーロ・大西洋諸機構(EUとNATO)への「近しい隣人」の組み入れを狙ったもくろみに対抗することでもある。
ロシアはまた、「テロとの戦い」やシリア危機の管理という形を例とした、帝国主義大国がロシアとの間で作り出した依存性と「協力」を利用してもいる。ロシアはそれら大国の諸々の危機に乗じているが、ロシアもまたそれ自身の依存性を理由に苦しんでいる。そしてロシアは、その依存性を中国との諸関係の展開によってやわらげようと努力中だ。
クリミアでのクーデターは、国際交渉における新たな力関係を刻み込むために、ヤヌコビッチの機構と過激な「ユーラシア」右翼を頼りとしている。しかし、プーチンがウクライナの分離主義勢力を統制しているということは定かではなく、短期的利益の先で、弾みがもたらす諸々の危険という可能性がある。実際アゼルバイジャンは、クリミア併合に対する批判に合流している。この併合は、モスクワが協力を進めたいと思っている隣人にとっては、安心感を与えるものではないのだ。

6.西側帝国主義

 ベルリンの壁倒壊は、「ソビエト解消」という文脈の中でゴルバチョフによって受け入れられた。すなわち、軍拡競争というコストの引き下げ、そして西側からの借款の獲得が彼の優先策だった。彼はドイツで行われた交渉の中で、二つの軍事ブロックの解消を主唱した。次いで彼は、東側に外国軍部隊や外国軍の兵器が置かれることはない、またNATOがその先まで拡張されることはない、との米国による約束の見返りに、再統一されたドイツのNATO編入を受け入れざるを得なかった。
しかし米帝国主義は、NATOを一九九一年にハンガリー、ポーランド、チェコ共和国まで、二〇〇四年にはブルガリア、エストニア、リトアニア、ラトビア、ルーマニア、スロベニア、スロバキアまで、加えて二〇〇九年にはアルバニア、クロアチアにまで拡張する選択を行った。
そしてグルジア(二〇〇三年)とウクライナ(二〇〇四年)の、米国から重要な支援を受けた「色で呼ばれた革命」の「親西側」諸勢力は、それら諸国のNATOとEUへの統合を求めた。しかしながらEUは、ロシアとの関係に関し分裂していた。それはまさに、原油供給を求めてドイツがモスクワとの間に築く方を好んできた直接的なつながりによって、知ることができる。
二〇〇九年、ポーランドの指導者はスウェーデンの支持の下に、EUの「東方協力」を主張した。これはEUの新たな拡大を行わない形で、EUと国境を接する元ソ連邦諸国――ウクライナを含んで――との「徹底的かつ包括的」自由貿易協定に帰着するものだった。ロシアは、大陸にまたがる諸関係の再定義という目標に基づいて同じ諸国にユーラシア構想を申し出ることで対抗した。そしてこの構想で、ロシアは有力な極であり、しかしまたEUの諸要求に対しては平衡力にもなる、とされている。
ヤヌコビッチはデフォルトの危険を前に、ロシアとIMFからの圧力の下に、二〇一三年までEUとの協定を交渉した。彼は三者会合(ウクライナ、ロシア、EU)を求め、次いでEUから拒否された。今日西側帝国主義諸国家はロシアとの合意を求めている――あらゆる大演説にもかかわらず――。彼らの誰一人、キエフの政府はなおのこと、本物の内戦へと悪化しかねない現場での諸衝突を統制はできない。

7.ウクライナの主権

 ウクライナの統一は、軍事的中立性、ロシア軍部隊の撤退、また社会諸政策敵視の拒否を必要としている。民衆の中に根を張った、あらゆる種類の反動勢力に反対する反戦、反ファシストの戦線(ウクライナ人の、また国際的な)のみが、ロシアと西側の帝国主義的指令と対決して社会的かつ民族的諸権利を防衛する中で、それを強制できる。
これらが、ロシアとEUの進歩的諸勢力がIMFと「自由貿易」協定と対決して――その国際的結びつきを決定するウクライナ人の権利を認めることによって――守る目標だ。
民族問題はウクライナでの政治的活動の中心に位置している。「左翼反対派」はまさに次のように提起している。すなわち「ウクライナ民族およびわれわれの国を構成する他の諸民族の民族的かつ文化的ルネッサンスは、社会的諸問題が解決されることがなければあり得ない」と。ウクライナでは、民族の領域を民族主義者に任せる左翼は、それだけであらかじめ破綻を運命付けられるだろう。民族主義の陣営の中にはすでに、社会主義左翼の周辺化に乗じて、労働者から資本主義へのオルタナティブとして見られるものとして登場しようと願う諸潮流が現れている。

注一)タデウツ・A、オルツァンスキー、アガタ・ウィエルツボウスカ・ミアツガは以下のように言及している。すなわち、親ロシア「民兵」が投票を妨害するためにあらゆることを行ったドネツクとルガンスクの地域では、公表数値は、閉鎖されなかった投票所で登録された有権者のみを勘定に入れている。換言すれば、各々、三三〇万人の内六六万八〇〇〇人、一八〇万人の内二一万六〇〇〇人であり、登録有権者すべてが計算に入れられていれば、この東部二地域での投票率は疑いなく三%と一〇%を超えていなかったのだが、投票率はドネツク地域で一五・四%、ルガンスク地域で三八・九%となっている。
(「インターナショナルビューポイント」二〇一四年六月号)


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