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    かけはし2014.年6月23日号

人の命をどれだけ重く考えることができるか


書評

水戸巌著作・講演集/緑風出版/2800円+税

『原発は滅びゆく恐竜である』

事故の現実性を厳しく見通していた


つねに弱者の
側に身を置く


 学生自治会室に水戸さんからクレームの電話が入った。「『学者』はやめてくれ」と言うのである。「どうすればいいのか」と問うと、「物理学でいいのではないか」と返答があった。さっそく白紙にのりを付けて、立看板に書かれてある「者」の文字の上に貼り付けた。
 一九七九年六月、芝浦工大の大宮校舎で行われた講演会を前にしたエピソードである(講演内容は本書第一章「原発はいらない」に収録されている)。確かこの時の講演の題は「未来の技術者として原発問題を問う」といったものだったと記憶している。そして「講演 水戸巌 電気工学科教授・物理学者」と宣伝したのであった。夜間部の学生を対象とした田町校舎での講演会の講師は、『エネルギー問題の混乱を正す』の著者である星野芳郎だった。
 水戸は「学者」という呼ばれ方を拒否した。それは水戸の生理的な反応だったのだろう。水戸は「学者」という肩書きで社会的権威を振りかざして、政府や資本の提灯持ちとなって、反人民的な悪行を働いてきた連中を嫌というほど見てきたはずであった。
 武谷三男は「水戸巌さん追悼集会」で以下のように発言している。「水戸君について私の見るところを簡単にいうと。@最も謙虚で、最も勇敢な人であった。A社会運動をやる人には、しばしば特権に興味をもつ人が出るが、水戸君はそれには全く関心のない、まれな人であった」(本書・水戸巌に捧ぐ)。本書の「まえがき」を執筆した小出裕章も、学生時代に闘った女川原発反対運動で出会った水戸のことを書いている。「国を相手の裁判に協力してくれる学者・専門家はほとんどいなかったが、水戸さんは快くその裁判の証人になってくれた。小さな田舎の集落で開かれる小さな小さな集会にも来てくれて、住民たちに原子力発電の危険性を話してくれた。東北大学で開いた学生相手の講演会にも来てくれた。それも、貧乏学生だった私たちが差し出すほんのわずかの謝礼も受け取らない人だった」。巻末の「特別寄稿」の中で水戸喜世子は「科学者の中で、反原発派がなぜ多数派になれないのか、と夫に聞いたことがある。彼は『ひとの命をどれだけ重く考えられるのかどうかが分かれ道だね』と言った」と記している。
 水戸さんとはそういう人であった。つねに弱者(人民)の側に身を置いて、人権のために闘った。そして、自身の専門分野であった原子物理学の知識を人民のためにフル動員して、反原発運動を闘った。彼にとっては、人権と反原発はひとつながりであった。

生産力主義的
社会主義批判


原発問題に対する、国際組織としての第四インター派の伝統的な立場は「原発の労働者管理」というものであった。現在はエコ社会主義という立場に転換しているが、少なくともそれ以前は、原発のもつ危険性をある程度は認識しつつも「将来のエネルギー生産手段の一候補」として、否定してはいなかった。そんななか、一九七九年三月に起きた米スリーマイル島原発事故(商業用原子炉での初の炉心溶融事故)直後に、理論機関誌『第四インターナショナル』30号(七九年七月)に執筆された高島義一(右島一朗)の「社会主義をめざす反原発闘争を―米スリーマイル島事故とわれわれの任務」は、わが同盟の歴史的な転換を促そうとするものだった。
しかし、一片の論文で「伝統的立場」からの転換がなされたわけではなかった。その年七月の学生理論合宿では、「原発の労働者管理」派が講演を行った。しかもそれに食ってかかったのは、反原発戦線から共青同に結集した中大の学生らと私だけだった。転換できないわが同盟の現状は、八六年四月のチェルノブイリ原発事故直前に高島義一が執筆した「原子力と社会主義―エネルギー政策の出発点を確認するために」(『右島一朗著作集』)の中で読みとることができる。
本書第三章の「原子力におけるエネルギーの諸問題」(『技術と人間 臨時増刊』一九七六年一一月号に掲載された誌上シンポジウムの記録)は、本書に収められている論文や講演のなかでも異質なものである。このなかで水戸は「社会主義と生産力・エネルギー問題」に関して、いくつかの興味ある発言を行っている。
「どういう生産力を採用するのかということは、結局どういうエネルギーをつくろうとするのか、全国的に集中した大量のエネルギーをつくろうとするのか、それとも、もっと分散的な、地方的なエネルギーをつくろうとするのか、ということできまってくる。……環境問題については放任というのでは、本当の意味で問題にするマルキシズムには当たらないだろう……資本主義的な技術のあり方というものをそのまま肯定した形での、ただそれを社会主義的な所有関係でやればいいんだということはもう成り立たないと私は思うわけです」。

民衆が科学を
制御する展望

 本書は水戸の反原発戦線の歩みそのものである。
七三年の提訴からとり組み続けた東海第2原発訴訟に関連して、地元住民らを対象にして行われた三本の講演が収められている(第四章)。このなかで水戸は、原発の危険性とその不道理性についてわかりやすく語っている。七四年から水戸が勤めた芝浦工大での、学生や教職員らを対象にして行われた二本の講演が収められている。大学の屋上に大気中の塵を採取する装置を設置して、それらをゲルマニウム半導体検出器を用いて、核種を的確に分析するという興味深い作業状況が報告されている(第二章「チェルノブイリで一体何が起こったのか」)。
また本書には、反原発運動の理論的交流誌として「拠点」的な位置にあった『技術と人間』のなかに収められてきた、水戸の論文と講演報告が多数再録された。
福島第一原発の過酷事故を眼のあたりにして、今さらながら「原発の危険性」について、あれこれ言う必要もないのかもしれないが、水戸は本書の中で原発の技術的な弱点を的確に指摘している。
原発は停電に弱いこと。「大事故をひき起こす原因のうち最も有力な候補者はいうまでもなく大地震である。……日本という国は、世界中で原発を設置するのに最も不適切な国なのである」(第三章「原子力発電は永久の負債だ」)。沸騰水型原発では「ドロドロに熔けた燃料棒が原子炉圧力容器の底の水に落ち込んで、水蒸気爆発を起こし原子炉が圧力容器の蓋を吹き飛ばすことです。格納容器といって更に圧力容器の周りにもう一つ覆いがあるんですけども、その格納容器の天井をも吹き飛ばすということも考えられています。……水素爆発というようなことも控えています」(第一章「原発はいらない」)。
こうした水戸の指摘は、まるで福島原発事故の可能性を見通していたかのようでもある。また水戸はチェルノブイリ原発事故の後に、この規模の過酷事故が起きる確率は「二〇年に一回」だと指摘している。一方で原子力委員会では「大事故は理論上ではあり得るが、実際上は起こり得ない。起こったとしても天災の類であって、企業や許認可した行政機関の責任は免責されるべきである」(第三章「原子力発電は永久の負債だ」)と堂々と記録されていることを暴露する。原発推進派がいかに、人間の命と生活というものを軽んじてきたのかがよくわかる。この論理は、現在の福島の住人たちに対する「棄民化政策」を裏打ちさせるものである。
最後に本書の表題となった部分を紹介しておきたい。
「原発は、原水爆時代と工業文明礼讃時代の終末を飾る恐竜(亡びゆくもの)である。原発は、古い時代の科学技術―自然と人間の敵対、民衆の手に届かぬものとして民衆を支配する手段としての科学技術のシンボルである。いま、原発とそれに象徴される工業文明総体への批判の中から新しい真の科学技術の時代が始まろうとしている。それは、自然と人間の調和、そして民衆一人ひとりが制御できる科学技術の時代である」。(鶴)

コラム

母のこと

 私には二人の母がいる。ひとりは私を生んでくれた田舎にいる「お袋」であり、もうひとりは、お袋のすぐ下の妹にあたる叔母で、お袋は冷やかしも込めて、その叔母のことを「東京の母」と呼んでいた。
 東京の母は、成田の裁判では私の情状証人にもなってくれた人で、学生時代からずっと私のやってきたことを応援してくれてきた人だ。「母の日」には毎年彼女の所にカーネーションを持って訪問している。それを聞いて、「私にはそんなことしてくれなかったのに」とお袋が悔しがる。
 GWの春山登山から帰宅すると、田舎の兄から「母危篤」のFAXが入っていた。「山に居て、お袋の死に目に会えなかったのか」とあせった。気持ちを持ち直してから兄に電話を入れると、肺炎で入院していたとのことで「昨夜、意識がなくなってあぶなかったが、どうにか意識は戻った」という言葉に安堵した。それでも「もう長くはないので、会っておいた方がいい」と言う兄の忠告を受けて、さっそく娘に連絡を入れて「お見舞い」に行くことになった。
 お袋の病室は、八年前に肺ガンで入院していた時と同室だった。酸素吸入マスクは付けているものの意識はある。かわいがってもらった娘は「おばあちゃん死なないでね」と、お袋の手を握りしめて号泣する。
 それから一週間後の夜にお袋が死んだ。八二歳だった。最後を看取ったのは兄夫婦と弟だった。弟はお袋の死を知らせる電話口で号泣していた。
 お袋は歯に衣着せぬ人で、誰に対しても言いたいことをズバズバと言い、他人の子も大声で叱りつけるような人だった。女学校時代は軟式テニスのダブルスで国体に出場している。そのテニス部のスナップ写真を見ると、お袋は最前列のまん中で真白なウエアで座っており、皆が髪を後ろで束ねているのに、お袋だけが映画『嵐が丘』主演のビビアン・リーの髪型なのだ。目立ちたがり屋だったのだろう。
 私が学生運動にのめり込んでいたころ、お袋が言った。「お前のやっているようなことを誰かがやらなければならないとは思うんだけど、何故それがお前なんだい」と。そして私の意志が固いことを知ったお袋は「とにかく、命だけは落とすんじゃないよ」とだけ言った。それは三年前に亡くなった軍国主義者の父とも共通していた。その父も私に対して「やめろ」とはひと言も言わなかった。
先日、葬儀に来られなかった東京の母の所に、写真などを見せに訪問した。彼女も今年で八〇歳になる。「もうあの人から電話が掛かってこないと思うと寂しいわ」と言っていた。
 お袋のお見舞いに行ったときに、お袋は私の顔を見ながら声を絞り出すように言った。「飲み歩いてんじゃないぞ!」と・・・。それが私への最後の言葉になってしまった。(星)



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