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    かけはし2014.年6月16日号

エコ社会主義は旧い進路よりはるかに急進的


ブラジル 

気候危機と左翼

IPCC評価のはるか先まで進むことがわれわれの任務だ

アレクサンドレ・コスタ


 以下は、気候変動問題に対し左翼が追求すべき闘いを論じたブラジルの活動家による問題提起だ。この中では、気候変動問題の重大さを無視する左翼の多さを意識し、そのような傾向への反論も内容的に重要な部分を占めている。南米の左派政権が開発主義に傾いていることも意識されているかもしれない。われわれにとっても重要な論点が含まれ、4面の小林論文と合わせて参考としていただきい。(「かけはし」編集部)


 昨年、「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」はその第五次評価報告(AR5)の発表を開始し、最初に「作業グループT」の成果を示した。その成果は気候変動の物理的基礎を扱っている。今AR5プロセスは、「影響、適応、脆弱性」に関する、「作業グループU」による「政策決定機関向けまとめ」の発表として継続されている。
 社会主義的左翼が気候変動問題を無視することが共通のことになっている。しかしこれは極めて深刻な間違いだ。われわれは、全体としての環境的危機の(特に気候の危機の)中心問題に対し回答を追求することは、二一世紀の労働者階級および貧しい人々の闘争にとって決定的である、と強調する。何といっても、資本主義が発生させているこの危機に対し、破局的な結果を避けるための闘争は、尊厳の下に人類が生き残るための物質的条件を保護する、という闘争だ。
 孤立した一国だけでの社会主義はまったくあり得ない。性差別主義、レイシズム、同性愛叩き、トランスジェンダー叩き、外国人叩きを残したままの社会主義もまったくあり得ない。そして、干からびた地球の上の社会主義などあり得ない。

政府間パネルは信頼できるか?

 そのほとんどはそうだ。IPCCの役割は、気候分野とその影響に関する現在のまたもっとも進んだ知見を集める目的にしたがった、科学文献の精査だ。その報告は、大きな価値をもち質の高い科学的要約であり、それは学術的目的に役立つだけではない。IPCC報告はそれ以上に、科学界の信用を傷付けようと試みつつ気候変動否定論者たちが広めようと挑んでいる神話とは異なり、「心配性騒動屋」あるいは「破局必至論者」とは異なる何かだ。それよりも、扱っている問題の大きさを膨らませつつも、表現は極めて控えめであり、保守的かつおずおずしている。
これらの報告は、今地球の気候システムに起きている変化の程度と深さについて、またその原因についても、いかなる疑いも残さない。地球は温暖化の途上にあり、両極の氷冠と氷河はすでに縮小し、海面は上昇しつつあり、海水は酸化を進め、極端な気象現象(熱波、洪水、干ばつ、ハリケーン)は頻度と強度を高めるようになった。これらは事実なのだ。まさに同じく以下のことも事実だ。つまり、この温暖化に対する確かだと思われる原因は、地球大気中での温室効果ガス、すなわち化石燃料(石油、石炭、天然ガス)燃焼が生み出したCO2、それだけではなくメタン、窒素酸化物(前二者とも農業に関係)、ハロゲン炭素化合物といったものの過剰以外にはまったくない、ということだ。
特にCO2の蓄積は、前工業期(およそ二八〇PPM)以後で四〇%以上高まり、一、二年以内に年平均四〇〇PPMを超えるだろう(すでに二〇一四年中に、数カ月以内にそれは先の数字を超えるだろう)。
数度の平均気温上昇は、地球の気象が本当に敵対的となり得るほどに、現在の外観全体を悪化させるだろうということに対しては、気象科学界内部に広範な一致がある。地球温暖化が二度Cを超えれば、これはほとんど確実に逆転不可能な道となるだろう。そしてこれは、CO2の蓄積が四五〇PPMを超えた後に起こると予測されている。
IPCCが提出した予測はすでに確証されてきた、あるいは変化のペースを過小評価してきた、ということにはふれる価値がある。すなわち、海面上昇並びに特に北極海の海氷減少の現実は、依然考えられていたよりもはるかに深刻なのだ。

問題の核心は「不平等」にある


「食料安全保障のあらゆる側面は、食料の入手、利用、価格の安定性を含んで、気候変動によって潜在的に悪影響を受けている」「二一世紀を通じた気候変動は人々の立ち退きを増大させると予想される」「気候変動は、記録が十分残る貧困や経済的激動のような駆動力伝達の回路を増強することで、内戦や集団間暴力の形態における暴力的衝突のリスクを間接的に高める可能性がある」「二一世紀を通じて、気候変動の影響は、経済成長を低め、貧困削減をより困難にし、食料安全保障をさらに腐食させ、今ある貧困を長引かせ、新たな貧困のワナを特に都会で飢餓のホットスポットを現出させつつ作り出す、と予想されている」。
影響、適応、脆弱性に関するIPCC報告はこれらの言葉の形で、以前の他の報告ではまったくないほど鮮明に、社会的影響のあり得る幅と深さを見極め、飢餓、淡水供給、激しい気象現象を原因とする死、移住、衝突などを認識している。
その報告は、社会に対する諸々の影響は、気候の諸要素と、人がそれらの要素にどれほど「さらされ」、「傷つきやすい」かの組み合わせである、と理解している。この最後の二側面が豊かな者と貧しい者の間の、中心的資本主義諸国と周辺諸国の間の、深い不平等と関係していることはまったく明白だ。
しかし同時に明らかなことは、報告がそれらの結論を最後まで進めていない、ということだ(事実としてそれは、ほとんどどこにも向かっていない)。それが語ることは、「経済的、社会的、技術的、そして政治的決定と諸行動における転換は、気候復元の道筋に余地を与える可能性がある」ということだけだ。いいだろう、しかしこれらの転換とは何だろうか? それらの道筋とは何だろうか? われわれはそれらにどうやれば到達できるのだろうか?
気候変動は、諸影響における不公正さに加えて、不平等の、その根源にある階級闘争の問題だ。化石燃料の採掘、販売、利用は一握りの企業(世界の最大企業一一社の内七社は、石油化学企業であり、それらの年間売上高総計はフランスのGDPを上回っている)によって支配され、資本主義経済の成長、そして資本の蓄積と集中を想像できないほどの水準にまで押し進めている。
さらにまた化石資源に由来するエネルギーを基礎に生み出された富は、ほとんどが少数の諸国(主に欧州と米国)に、そしてもちろんその中の少数に便益を与えている。これらの諸国は、気候システムの温暖化から不可避的に現れる深刻な諸問題に適応する点で、はるかに大きな能力をもっている。その上、それら諸国内部の富裕層は、貧困層よりもはるかに良好な適応能力をもっている。さらにその格差は、淡水利用可能性と農業生産性の低下、洪水や干ばつや山火事の増加、海岸浸食と沿岸浸水の増大というシナリオの下で、資本主義の周辺で貧困化された諸国、先住民衆、アフリカ諸国や島嶼諸国などの広範な大衆と世界的なエリートたちの間で、一方的に広がる運命にあるだけなのだ。
これは、「グリーン資本主義」(共存不可能な二つの言葉)が売り込んだ幻想とは鋭い対照をなす現実だ。そして先の売り込み文句は、われわれ全員は「同じ船」に住んでいると語る。この類推はもちろん、タイタニックを根拠にしないとすれば無意味だ。そしてタイタニックは、三等船室の旅客が救命ボートを利用するのを妨げるために仕切り扉を閉じたのであり、その傍らで一等船室の圧倒的な人々は逃れることができたのだった。
最後に、大気中のCO2の蓄積は(地球のエコシステムに対する化学物質と放射性物質の汚染と共に)はっきりと、物財の工業的生産とこの生産に由来する廃棄物を処理する自然のエコシステム能力の間の、「代謝不均衡」を大声で告げている。
IPCCは、気候変動の物理的基礎に関するデータを確認した上で、極度に危険で不可逆的な進行、つまりいかなる適応もあり得ない螺旋に結局はなってしまう進行、を妨げるために、化石燃料使用に厳格な制限を課す必要を認めた。しかし報告は以下のような状況の中で、それらの制限をわれわれがどうすれば強いることができるかを語っていない。実際われわれが置かれた状況は、諸企業が埋蔵化石燃料を所有している状況であり、その埋蔵分は、いったん燃やされるならば、二度Cという地球温暖化の限界を大幅に超えるに十分な量だと考えられ、その上企業は今も見境なく、それがブラジルの沖合深海油田であろうが、北極海であろうが、カナダアルバータ州のタールサンド、はたまた中国の石炭、世界中のシェールガス採掘ブームであろうが、新資源開発を始めているのだ。

劇的な気候変動に何が必要か

 気候の危機は「市場的回答」といった枠組みの中では解決の可能性はない。それは問題外だ。その中では「排出する/汚染する権利」が商品として扱われるいわゆる「炭素市場」は、まったくのペテンであることが明らかにされた。大規模かつ加速化された排出制限が必要であることを前提とした時、誰一人もってもいない権利を売ることに意味はない。それは、中心諸国内の大資本が周辺諸国との比較での特別待遇から利益を得ることを可能とする、ある種の策略以上のものではない。何ほどか最低限の公正さをもつ協定におけると同様、中心諸国のCO2排出に対する制限は、はるかに高いものとならなければならないのだ。
エネルギー政策に関しては、大規模ダムの建設(これは、湛水地域の有機物分解に起因するCO2とメタンの排出に加えて、一定数の有害な他の社会・生態系上の影響をつくり出す)あるいは原子力発電(これは再生可能性をもたず、放射性と危険性を長期にとどめる廃棄物を生み出し、フクシマのような事故の危険があり、核兵器の拡散を進める可能性もある)のようなまがいものの回答に頼ることもまたあり得ない。
また、多元的エネルギー構成の中に再生可能資源(風力やソーラー)を導入することも十分ではない。今日ほとんどの事例でそれらは、化石(また核)エネルギープラントの置き換えというよりも、資本の「永続的成長」の一部として先の構成に単純に付け加えられてきた。その上に、再生可能エネルギーは資本家のまがいものの合理性にしたがって採用されようとし、伝統的な住民との衝突に火を点け、ブラジル北東部の海岸地帯のような沿岸部のエコシステムを傷付けている。これも共通していることだ。
気候危機に対し成功が期待できる出口戦略にとっては、人は、大、中規模の単位(すでに設置されている水力、波力、潮力、地熱、風力そしてソーラー)で生み出される再生可能資源を混ぜ合わせることの先へと進む必要がある。それらは、その影響を最小化する厳格な手法を採用したとしても、多くの場合消費者のいる場所からは遠く離れ、それが送電経路での損失や他の諸問題を導いている。こうして人は、消費するエネルギーの重要な部分をその場でつくり出す脱集中システムに投資しなければならない。それは、家庭の/小さな規模でのソーラー光電効果発電から大きな寄与を受けるものだ(生産者/消費者連携、あるいはいわば「ソーラー共産主義」)。
運輸に関する場合、アグリ燃料が駆動する自動車による、あるいは電気自動車であっても、それによるディーゼル駆動やガソリン駆動の自動車の置き換えは、まともな回答に対し、最低限のはかない夢すら提供しない。その種類が大きな拡がりをもつバイオディーゼル資源はもちろん、トウモロコシと砂糖を原料とするエタノールは、多くの場合単一栽培農業とアグリビジネスの産物であり、食料安全保障に対する強力な圧力、小規模農地保有者、先住民、さらに伝統的共同体の権利侵害、また農薬と化学肥料類の大量使用を伴っている。電気自動車の便益は、電力がもっぱら石炭火力発電所(その生態系に対する影響には、CO2排出だけではなく採炭からの廃棄物と他の汚染物質も含まれる)で生み出され続けるならば、そして交通過密問題が取り組まれないのであれば、明確に限界をもつこととなる。
展望は、多数の利益に役立つ、同時に関連した排出を抜本的に削減する他の方式(例えば自転車)と組になった、公共の、無料かつ良質の、汚染のない集団的な輸送を推進しつつ、都会生活の質と移動性の防衛並びに無料の移動に向けた闘争と組み合わせて、個人的移動という枠組みを一体的に解体することにある。
化石燃料産業、自動車産業(軍需産業はいうまでもなく)のような部門による生産は、「GDP成長」という神話に力を貸しつつ、全体としての富の増大、そして悪いことには生活の質の向上と一体視されてきたのだが、はっきりしていることとしてそれらは、エネルギーと運輸の基盤の再構築という必要に見合うように変わるべく、完全に再組織されなければならない。われわれは、労働者の職の保障に対する真の保護は、生産されるものとその方法に関する徹底的かつ深い移行の中にある、ということを示す必要がある。その移行は、私有の垂直的かつ権威主義的な資本主義的経営から、集団的で共同の、抜本的に民主的で社会主義的な決定作成への、原理的な変革と一体のものだ。
化石資源の大部分はそのまま無傷で残されるべきということを前提に、とられるべき一つの方策は、社会の民主的管理を伴った共有財産としての化石燃料企業の即時収用だ。同時的に必要なことは、アグリビジネスからの農業移行、つまり家族農業に、また都市の農業協同組合や家庭菜園のような他の小規模食料生産に向けた移行であり、そこでは化学肥料(CO2とメタンに続く第三の重要性をもつ温室効果ガスである窒素酸化物の大きな発生源)を使わない農業に向けた強力な刺激が伴わなければならない。多くの熱帯諸国における温室効果ガス排出で今も大きな原因となっている森林破壊はゼロにまで引き下げられる必要があるだけではなく、森林は、破壊された地域の回復を通して保存される必要がある。

現生産そのままの続行は不可能


エコ社会主義はプチブル思想か? エコロジーは民衆のアヘンか? この類の主張すべてにもちろんわれわれは同意しない。しかしわれわれは、「左翼の」政治的立場(あるいは悪いことに、「急進的左翼」の立場)を主張するある者たちがこの種のナンセンスを振りまいていることを残念に思う。不幸なことだがそれは、無知と頑迷さが結び付いた、また二一世紀における資本主義の現実から自ら離れたこうした諸見解が、社会主義者の内部に極めて多く存在していることを示している。
エコロジカルな危機(その中で気候の危機は、もっとも地球的な表現だ)は、資本主義発展の一段階に対する一つの明白な表現だ。資本主義はその中で、産業過程でそれがむさぼり食う資源の探索という形で、地球内部にあり得る最後の新開地拡張以上に進んでいる。そうすることで資本主義は自然の限界を超え、あたかも限界などないかのように、人間社会を維持している環境を略奪する。同時に資本主義は、「発展への障害」(鉱業やアグリビジネスの拡張を「妨害する」先住民衆、都市における建設や土地投機が追い求める場所に住む貧しい人々)に対してあいまいさなく痛烈に非難しつつ、より暴力的になっている。
急進的社会主義左翼は、社会内部の実質的変革を促進する目的の下に、ブルジョア国家(経済的力によって支配された選挙に基づき官僚化され民衆参加には壁を隔てた、腐敗し、支配階級に奉仕するために構造的に構成された)内部に地位を占める方策は、解決に近づくことすらない、ということをまったく十分に自覚している。
しかし、先の政治的立場を主張している大きな部分の場合、国家機構は中立ではなく、「労働者に奉仕する」仕事をそこにまさにゆだねることなど不可能だ、という観念は、社会の生産基盤にまで延長されてはいない。社会主義への移行は主に(あるいはもっぱら)、技術、労働の組織化の方法、エネルギー資源の選択その他があたかも中立であるかのように、「労働者の利益に沿って生産する」ためにそれらにゆだねつつ、生産手段の所有権に関する単純な交代を介して起きると思われている。
これは間違っている。より明白な諸矛盾(たとえば軍需産業)に加えて、資本主義の中で今君臨している生産すべては、質的に(何を生産すべきか)、あるいは量的に(どれだけ生産すべきか)、そのまま維持されてはならない。社会主義は長期的に見た場合、資本主義の下で今われわれの前にあるような、そしてそれがわれわれ自身の種の永続性を疑問に付すような、そうした環境的不均衡と気候的不均衡にいたる財を生産してはならない。化石燃料と核エネルギーは社会主義社会の中にいかなる場もない、ということははっきりさせなければならない。
贅沢品の過剰生産と意図的な陳腐化という論理もまた克服されるべきであり、物質的財それ自身の生産量は、地球のシステム内の物質とエネルギーの流れによって課されている諸々の限界を尊重しなければならない。これには、生産過程から出てくる廃棄物のリサイクル、持続可能な方法でのそうした生産に利用可能な物質とエネルギー資源の置き換えが含まれる。
このような問題群(そして労働と生産の領域を超えた人間関係においてもまた。そこには、社会主義と両立できない利益の侵害や抑圧がしつこくへばりつくのだ)を前進させることのない財産関係の単なる代用は、必要とされる革命的変革の深さを前提とした時、真の社会革命というよりもむしろ、見せかけの改良のように見える!
人は資本主義と持続可能性を両立させることはできない。しかし、社会的多数の即時的、また長期的利益のためには、エコロジーの課題を中心的課題として取り組むことのない社会主義を掲げることも許容されるものではない。資本主義が今促進している地球規模の生態系虐殺に対してだけではなく、革命的指導者たちを殺害し、民族的集団を虐殺し、不当な官僚的特権をつくり出した先のものと何も変わることのない「現存社会主義」によってしでかされた環境上の惨害(チェルノブイリ、アラル海、シベリアの諸湖沼)に対してもまた、これこそが必要な結論だ。
この意味においてエコ社会主義は、二一世紀の必要に歩調を合わせている革命的左翼に対しては、一つの戦略的目標として現れる。それは、伝統的で教条的な「左翼」がそうであると考えている想定よりも、はるかに急進的なのだ。

▼筆者は、ブラジルの「反抗者」の戦闘的活動家であり、またセアラ国立大学の教授で、「気候変動に関するブラジル審査委員会第一次評価報告」の著者の一人。(「インターナショナルビューポイント」二〇一四年五月号)

 


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