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    かけはし2014.年4月28日号

韓国が支援、日本が公営住宅


現地ルポ:ウトロを忘れないでください

韓日関係の梗塞と右翼の反発で心細い希望


 

 女たちは井戸端に集まって洗濯をし、チマチョゴリを着た少女らはおしゃべりに余念がない。京都・近鉄線に乗り伊勢田駅で降りて10分ほど歩くと、70余年前にこの場所でつらい暮らしをしていた在日朝鮮人たちを追憶する絵が目に入ってくる。京都府宇治市伊勢田町ウトロ51番地。日本の中での最後の朝鮮人徴用村、ウトロ・マウル(村)だ。

マウルの工事完了まで5年

 ウトロは在日朝鮮人のふるさと
ウトロは反戦の記念碑
ウトロをなくすことは在日朝鮮人の歴史をなくすこと
ウトロをなくすことは日本の戦後をなくすこと
ウトロをなくすことは日本人の良心をなくすこと

 9年前、ウトロに初めて足を踏み入れた「ハンギョレ21」の取材陣を迎えた「スローガン」は、依然としてマウルの入り口に息づいている(「ハンギョレ21」第560号参照)。韓日両国から見捨てられたまま、自ら培ってきた暮らしの基盤から追い立てられる危機に遭っていた在日朝鮮人たちが自ら作ったというスローガンだ。マウルの前に立ち並んでいた「強制退去反対」の看板の場所には、詩句が書き込まれた壁画が並んでいる。強制撤去の危機から脱け出した後、作られた壁画だ。
あまりに様々な紆余曲折を背景として、ウトロ・マウルは新たなスタート台に立っている。今年1月末、日本の国土交通省、京都府、宇治市が参加する「ウトロ地区住居環境改善検討協議会」はウトロに公営住宅60軒および道路建設、上・下水道施設の整備などの内容を骨子とする「町づくり」(民官合致マウルづくり)基本構想を発表した。協議会の発足から7年ぶりだ。基本構想にふさしい計画を立て、設計作業を経て本格的な工事が完了するまでには少なくとも5年以上はかかるものと予想される。
去る2月12日、マウルは静かだった。1999年には320人だった住民数は、韓国の市民らの関心が持ち続けられていた2005年当時には200人余に減少し、現在は151人だ。1940年代からウトロを見守ってきた第1世代は5人だけが生存している。2012年末の「町づくり」のための基礎調査の結果を見ると、住民158人のうち65歳以上の高齢者は57人(36・1%)だった。ウトロに40年以上、居住している世帯は80%に達している。

3分の2の世帯が今も井戸水

 マウル会館の壁の一角には2007年に住民らが集まって撮った記念写真がカラーで印刷されて張ってあった。追い出されないという吉報に、お年寄りらの顔が久しぶりに明るくなった日だった、と言う。「ソウルから来たんだって」。毎日、マウル会館に立ちよるというカン・ギョンナム・ハルモニ(おばあさん、90)が、この日もマウル会館にやってきた。慶尚南道・泗川で生まれ9歳の時に大阪に渡ってきたというハルモニは、空から降ってくる爆弾を避けて、(1945年の)解放直前にウトロにやってきて生涯を生きてきた。曲折の多い人生史が慶尚道訛りと日本語がない交じったまま、あふれ出してくる。「ここに来てみると、どこでどうやって食っていったらいいものか。男たちはどっかに仕事を探しに行き。おれら(女たち)は、むずかる幼な子をほったらかしで鉄クズを拾って背負ってくる。……草むしりにも行き、山菜を掘っては売りに行き、そうやって生きてきた」。
マウル住民会ハ・スブ副会長(67)は1989年を、どうにも忘れることのできない。ウトロから出て行け、と。長い間ここで6人の子どもらと16人の孫の面倒をみてきたという彼に「ウトロから出て行け」という退去命令書が舞い込んだ。住民らのつらくて長い長い闘いが始まる瞬間だった。
1941年、第2次世界大戦中に軍用飛行場建設のために日本政府は朝鮮人労働者を半強制的に動員する。彼らの合宿所(飯場)がウトロ・マウルの歴史の始まりだった。日本が敗戦した後、ウトロの地に入ってきた米軍は、住民らを追い出そうとした。住民らは米軍が手にした銃の前でも引きさがらなかった。1960年代、マウルの土地所有権は飛行場建設会社を引き継いだ日産車体の手に渡る。日産車体は住民らの土地占有を黙認したけれども、道路、上・下水道など人間らしく生きるための施設の設置を許さなかった。
日本政府は住民らがどのように暮らしているのか、調べてみようとさえしなかった。住民らを無視したという点では、韓国政府も同じことだった。1987年、日産はウトロの土地を第3者に売却し、所有権は西日本殖産に渡る。1989年、西日本殖産は住民らに退去を要求し、土地明け渡し訴訟を提起した。2000年、日本の最高裁は退去命令確定の判決を下す。
ウトロの時間は25年間、止まっている。カン・ギョンナム・ハルモニの家の前には飯場だった2軒の家が今にも崩れんばかりに建っている。1980年代まで人が住んでいた所だ。近くの日本人の住居地とは違って、ウトロ・マウル地域の道路の舗装状態は滑らかとはいえない。マウルの地帯は排水路の深さよりも低く、浸水の被害がしばしばだ。宇治市を相手に「闘争」を繰り広げた末に、上水道がマウルに設置されたのは1987年のことだ。経済的余裕のある世帯は水道管を引き入れて使うことができるようになったものの、残る3分の2の世帯は今も井戸水を汲んで使っている。「将来、ここで暮らせるのか、そうでないのかが分からない状況が続いてきたがゆえに、マウルの様子は1980年代末以降、ほとんど変わっていない」。住民らの世話をしている南山城同胞生活センターのキム・スファン代表の説明だ。
韓国社会にウトロ住民らの状況が本格的に知られるようになったのは今から10年前のことだ。2004年9月、日本の市民団体である「ウトロを守る会」のメンバーおよび住民らは江原道・春川で開かれた韓中日・居住問題国際会議参加した。「ウトロを守ってくれ」という心からの訴えは地球村同胞連帯(KIN)など各団体を動かした。翌年、韓国では「ウトロ国際対策会議」が結成された。間違った韓日協定が問題の本質だった。しかし、さし迫って住民らの居住権確保が急がれた。
「ハンギョレ21」はウトロ国際対策会議、アルムダウン財団などと共に「いっそ買ってしまおう」としてウトロの土地買い入れのための募金運動に乗り出した。当時、ソウルに暮らしている51歳の主婦読者は10年間こつこつ貯めた500万ウォンを夫に内緒で喜捨した。世論の高まりは政界をも動かした。2007年末、国会でウトロの土地買い入れのための予算30億ウォンの支援を議決した。韓日の市民社会と在日同胞らがウトロを守るために集めたカネは17億ウォンだった。

「京都府に右翼からの抗議電話」

 ウトロの土地買い入れが完全に集約されたのは、それから4年後のことだった。韓国政府の支援金は住民らに直ちに伝達されはしなかった。他の在外同胞とのバランスを理由として予算の執行が延期された。時間が経過するとともに円貨の価値がかけ上がり、確保できる敷地は減った。2011年、韓国政府の支援金を管理している「ウトロ財団法人」はウトロの土地3808・4u(約1152坪)を買い入れた。1年先立って、住民会は韓日市民社会が土地買い入れのために募金したカネを基盤にして「ウトロ民間基金財団」を設立し、ウトロの土地2750・52u(約832坪)の売買契約を締結した。両財団が所有した土地はウトロ・マウル全体の約3分の1の規模だ。土地問題がまとまった後になってやっと、日本政府は「町づくり」事業の帆を上げた。
2月13日夕刻、マウル会館に懐かしい顔ぶれが続々と集まった。「ウトロを守る会」田川明子代表、地球村同胞連帯ペ・ドッコ代表とペ・ジウォン運営委員、在日本大韓民国民団(民団)と在日本朝鮮人総連合会(総連)関係者など、ウトロ住民の強制退去を阻むことに力を合わせてきた人々だ。これらの人々は住民らと共にウトロ民間基金財団の運営に参加している。この日、財団の初評議会議が開かれた。ペ・ドッコ代表に代わって、大阪コリア援助センターのクヮク・ジヌン代表が新評議員になった。コリア援助センターは民団でも総連でもない第3の団体として、民族教育文化センター、在日韓国民主人権協議会などさまざまな団体が集まって2004年に設立された。こうして日本の市民団体と在日朝鮮人の3団体がウトロ住民らと共に、民間の援助によって確保した土地の活用ならびに歴史記念館建設の方案などを論議していく予定だ。
ウトロ・マウルが、住民らが望んでいる方向に変化するためには越えなければならない課題が山積みしている。韓国政府側が保有した財団の土地の上で日本の行政が環境整備事業を行うという「類例のない」事業であるからだ。日本政府は韓国政府側の財団保有の土地を無償で借り、60世帯が居住する公営住宅を建てるという立場だ。このような条件をわが国政府が受け入れるかは未知数だ。外交部(省)関係者は「(基本構想に関連して)日本との協議がまだ始まっていない」と伝えた。
急激に梗塞している韓日関係にあって、ウトロが再び疎外される可能性もある。その上、日本の右翼はウトロを注視している。キム・スファン代表は「住民環境改善基本構想が発表された後、宇治市や京都府に(右翼側が)抗議の電話をしばしばかけてきている」と説明した。住民らが建物の撤去に伴う補償金を全く受けられないのは、日本右翼に付け入る口実を与えず、日本行政を動かすためのものだと見られる。クヮク・ジヌン代表は「韓日関係が悪い状況だけれども、ウトロ問題の解決ぐらいは韓国政府が必ずやり遂げるべき責任があるのであり、歴史の清算という次元からも極めて重要な問題であるがゆえに、今後もしっかり見守らなければならない。

ウトロに対する持続した関心を


「マウルの整備を一刻も早く実現し、新しい家で第1世代のハルモニたちをお守りしたい。残っている古い建物を保存して新しいマウルに移転すればいいようだ。5年後にまたおいでなさい」。ハ・スブ副会長の素朴な願いだ。マウルを訪れた韓国の学生たちと共に時間を過ごした後、別れ際に、ここのお年寄りたちはいつも涙ぐんでいると言った。国家の力ではなく、あなた方を記憶してくれている平凡な人々のおかげで、この土地でずっと生きていくことができたとかんがえているからだ。
ウトロは、植民支配と戦争、民族差別、戦後補償問題など暗い過去を告発している、生きている歴史だ。このような歴史はどこにどのように流れ着くのだろうか。ひとしきり人生史を語ってくれていたカン・ギュンナム・ハルモニが慶尚道・密陽アリランの一節を口ずさみ始めた。「ちょっと見てよ、ちょっと見てよ、ちょっと私を見てよ、真冬に花を見たように、私をちょっと見てよ」。まだまだ、ウトロへの関心を収めてしまわないでくれという、訴えのようだった。(「ハンギョレ21」第1000号、14年3月3日付、パク・ヒョンジュン記者)

コラム

花冷えと消費税

 消費税が五%から八%へ増税される前日の三月三一日、私は行きつけの大手スーパー二店舗を覗いてみることにした。夕暮どきである。実は、日本酒やビール、米、調味料、日用品等は、既にバーゲンなどの特売日に買ってあり、その日はとりわけ買物の予定はなかったのだが。
 店内は予想していたとおり混雑しており、買物客はいずれも気忙しく歩き回っていた。生活防衛のために、ギリギリまで頑張っているのだろう。私ももう少し頑張りたいと思うのだが、他ならぬ低額の年金生活者の身では、そのための原資が足りない。それでなくとも、その年金が減額されつづけているのである。
 私のように買物カゴも持たずのんびりと歩いている人間は皆無であり、何となく気詰まりがしたので、財布と相談をしていつもの「箱の酒」を一本、つい買ってしまった。
 四月最初の土曜日、予定どおり仲問たちと花見に出かけた。その日は寒の戻りで寒く、雨模様という天気予報であった。「花冷え」である。同時に花の終わりでもあった。私の仲間たちは、いずれも「晴れ男」自慢なので、何の躊躇もなく出かけることになった。防寒対策だけは十分過ぎるほどだ。はからずも、天気は薄曇りで、時々薄日も射すほどであった。仲問たちの声がひときわ大きくなったのは言うまでもない。
 雨模様で寒いという天気予報にもかかわらず、花の終わりということもあって、花見客は予想外に多く、良い場所は手に入りそうになかった。早速近<のスーパーに酒と肴の買い出しに出かけた。
 スーパーも花見客でけっこう賑わっていた。お目当ての品物に手を伸ばしたその時、やはりここも同じかとうなずいてしまった。大きな文字で本体価格と表示されている。税込価格は驚くほど小さい。値上がり感を減殺するために、錯覚を利用した商法である。レシートには当然税込価格しか表示されていない。いざ金を払う時になって増税感がズシリと実感させられるのだ。花見だというのにかなり気分を害されてしまった。川を渡る風は意外に冷たく、花冷えが身にしみ、宴は盛り上がりに欠けた。早々に切り上げていつもの居酒屋に流れることにした。
 消費増税は、年金生活者、非正規の労働者、中小企業の労働者などエンゲル係数の高い生活者を直撃することは誰の目にも明らかだ。生活防衛にも限度がある。「全額社会保障に使う」と安倍政府は主張するが、その実体は、生活困窮者に手厚く、社会保障制度の底上げのために使うものでは決してない。消費増税の結果、食費や医療費を切り詰める以外に何の手立てもなく、憲法で保障されている「健康で文化的な最低限度の生活」を営むことができない人間を、さらに大量に生み出していくことになる。それは経済的、社会的、文化的格差を拡大し、社会の分裂と解体に結びついていかざるを得ないだろう。
 庶民のわずかな楽しみである花見でさえもヽ消費税に追いまくられ、花冷えに心まで冷やされ、行く末を考えると、怒りがこみあげてくる。(灘)


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