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    かけはし2014.年4月7日号

最も重大なことは「民衆の春」の欧州到達だ


EU加入含むウクライナ人の民主的自己決定権を尊重せよ

ズビグニエフ・マルチン・コヴァレフスキ

 

 以下は、ポーランドの元「連帯」活動家によるウクライナの民衆蜂起に対する論評。以下ではこの蜂起、そしてヤヌコビッチ政権の打倒が、アラブから欧州へと到達した民衆の春として位置づけられ、民衆にとっての画期的な突破がつくり出された、と評価されている。そしてその観点から、ロシア政権の介入正当化の口実として、また様々な形で取り上げられている、マイダン運動内の極右武装集団の問題に、ウクライナの歴史的矛盾から光を当て、それを理由としたマイダン運動に対する否定的見方に釘を刺している。ウクライナ民衆との連帯、さらに世界の矛盾蓄積とその展開を考える上で示唆に富む論評として紹介する。(「かけはし」編集部)

歴史的例外が多様な矛盾を生成


 二〇一〇年冬、アラブの春は欧州の近くにやって来た。地中海の対岸に位置する諸国にだ。われわれはそれから四年遅れて、民衆の春がアラブ単独の現象ではない、ということを見ている。さしあたってはEUの外周においてであるとはいえ、それは欧州でもまた爆発することとなった。
 おそらくわれわれは、欧州での資本主義的統合過程が、その近くで、しかしEU外周で、緊張の爆発的蓄積にどの程度まで寄与したのかを認識していなかった。この寄与は今なお、ウクライナのようなもっと近い欧州周辺でより真実だ。
 今回この結びつきは直接的であり、はっきりと見えるものだ。すなわち、始まりにおいて衝突は、EUへの接合という問題を巡ってはじけた。これこそが群衆を集め始めた最初のスローガンだった。そしてそれが大衆的社会運動を誕生させ、戦争の脅威を含んだ巨大な高潮に導いた。ただしここでふれた戦争は、リビアやシリアにおけるような内戦ではなく――とはいえそれは、ロシア並びに世界中でロシアと結びついている宣伝ネットワークすべてで期待され、かき立てられた――、国家間戦争だ。
 民衆の春は常に驚きに満ちている。時としてそれは、晴天の霹靂のように、ある国でまったく予期しないやり方で起きる。しかしながらことが起きてみれば、他ではなくそこでそれが起きることになった理由には驚くことが何もない、ということが明らかになる。今回も真実は同じだ。
 ウクライナは世界の政治地図上では、一定の非常に意味深い、少なくとも世界的レベルでの「代表的な価値」との関係で、巨人的な歴史的例外、あるいは逸脱だ。面積という点で欧州ではロシアに次ぐ最大の国、そして人口という点で最大の国の一つであるこの国は、辛うじて二三年間独立国家として存在してきた。この事実が、「代表的な価値」が長期にわたってすべての大国民にとって、あるいはウクライナ国民よりも小さな国民にとってさえ、国民国家に対応している大陸にあるのだ。この歴史的例外こそがもっとも多様な諸矛盾を生み出してきた。そしてそれは今、他のところよりもはるかに簡単に、諸々の火薬樽に姿を変えられている。

長期の抑圧が蜂起に二つの不均衡

 ウクライナは、民族抑圧という、主にはロシアとポーランドの何世紀もの非常な重荷を背負っている。ソビエト・ウクライナの中では、ウクライナ化として知られる何年かの猛烈な前向きな差別の後、その背後にロシア帝国主義が隠されていたスターリニスト体制の到来と共に、ロシア化政策への回帰が来た。インテリゲンチャーは虐殺され、数百万人の農民、すなわち民族的アイデンティティーの基礎である民衆は、飢饉によって根絶やしにされた。
第二次世界大戦後、ロシア化は今再統一されているウクライナ全土に及んだ。とはいえそれ以前はポーランドの植民地的くびきの下にあった西ウクライナでは、激しい反ソビエト抵抗活動が、一九五〇年代半ばまで維持された。ロシア化は、ペトロ・チェレスト政権の時期(一九六三〜一九七二年)を除いて、事実上ソ連邦崩壊まで遂行された。
私はウクライナによる独立宣言前夜、EU議会が編纂した「新欧州」という論評に以下のように書いた。すなわち、「ウクライナの進展を脆弱にしているものは、一つの国家をもたない民族として長期の抑圧の下に置かれ、ウクライナ人がまだその民族形成を完結していないという事実である」と。そしてこのことは依然として事実なのだ。国家としての存在のわずか二〇年という期間は、この抑圧がその背後でウクライナ社会内部に残した遺産を克服するには、時間としてあまりに短すぎる。
それゆえ大衆蜂起――「オレンジ革命」に続く今第二の――の中には、国の様々な地域にしたがった大きな不釣り合いがある。蜂起は、その主な後衛が国の東部にある政権に対決する形をとって、第一次世界大戦後の親独立運動揺籃地である、西部と中央部の地域で広がった。
それゆえまた、歴史的に非常な遅れをとった、しかし一つの独立国家を打ち固めたいと熱望するこの民族運動と、EUに合流しようという切望との間にも、逆説的な矛盾がある。何しろEU――資本主義的グローバリゼーションの道具として――は、国民国家を弱体化し、その主権を制限するのだ。
この矛盾への特段の言及は、ウクライナにその外にとどまるよう助言しながら、この富裕で選ばれた者たちの要塞であるEUのメンバー国であることと結びついた特権を享受している者たちへの、同意を示すものではまったくない。それは、特権ある者たちが示す排外主義の目印なのだ。EU労働力市場への参入は、何百万人というポーランド人を貧困と飢餓から救い出してきた。そしてウクライナ人はこのことをよく知っている。
EU諸国の中で左翼には、東と南の排除された民衆との連帯という義務がある。EUの中では社会的に破局的な新自由主義改革が彼らを待ち受けている、という議論は誤っている。彼らは、外にとどまることではそれらの改革を回避することにならないだけでなく、統合された欧州に属することと結びついた便益を享受できないことによって、むしろもっと厳しい打撃を受けることにもなるだろう。
逆に彼らはEU内部では、他の民衆と共に、新自由主義的な資本主義改革に抵抗する機会を得ることになるだろう。こうした主張は、人々の懸念すべてを無視する、ということではない。ウクライナにも数多くいるその人々は正しくも、EUとの自由貿易圏メンバーとなることが彼らの職と生活基準に劇的な諸結果をもたらす、ということを恐れている。しかしながら、自己決定という民族の権利は、EU加入というウクライナ人の民主的権利をもまた守ることを意味するのだ。

際立つ自立性と衰えない闘志


ウクライナの今回の大衆蜂起には、逆説度がより小さいとはとても言えないもう一つの矛盾がある。この蜂起は、そのまさに本質において、選挙の不正で知られた、東部ウクライナの強力な新興財閥の利益を代表する一つの政権、国民的冨に対する特権と腐敗を特徴とする一つの権威主義的政権と対決した、民主的な運動だ。
この運動はその二回目の息吹を見出し、一月一六日、民主的自由に対する根底的な制限に従順な議会が賛成投票を行った際には、大きな勇気と闘争における非常な決意を示した。それは蜂起の間、運動が信用に値しないと見なした主要な野党との関係で、まったく際立った自立性を維持してきた。
キエフのマイダンに結集した大衆は、記憶に残るうぬぼれやトリオを、彼らの指導部とは決して認めなかった。自分自身を自分で指導者と押し立てた者たちはそのトリオであり、そうした能力において彼らは、EUエリートと国際メディアによって、力を込めた歓呼で迎えられた。
しかし彼らは運動をどこにも導かなかった。すなわち彼らは運動を、ただ敗北に向けてのみ導いていたと言えるだろう。彼らは、たとえば大統領権限を制限する議会投票のような、あいまいな「今回は決定的な効力をもつ諸方策」を約束した。このすべては、運動を惰性状態にとどめる、少なくともそれを沈黙させる、それでヤヌコビッチを権力にとどめるためのものだった。成功を見ることはなかったが。
マイダンの大衆は彼らに従おうとはせず、彼らは何度も笑いものにされ野次り倒された。マイダンを支配していたものは、自己組織、そして勝利と政権打倒まで闘うという衰えない意志だった。
それほど遠くない過去、欧州でのグローバルジャスティス運動と数知れない抵抗の中に含まれていた不快なものは、運動の同意もなく、いかなる民主的統制からも離れて、しかし運動のためだとして行動した戦闘グループだった。彼らの行動の旗印が何であれ、彼らは知らず知らずの内に、彼らの実践の中で暴力を力づける極右のイデオロギーを再生産した。それらの実践が、大衆運動に対する警察の弾圧に導く挑発にまったく道を開いていたことは、あるいは運動を抑圧する格好の口実を国家に提供したことは、驚くに当たらない。
極度に残酷な警察の攻撃を前にして、マイダンは自衛の力を窮余の策として必要とした。しかしながらマイダンの組織構造と結束は、あらゆる戦闘組織にその主権的な社会的権力への従属を強要し、それにより統制の効かない民兵の出現を回避するには、あまりに緩すぎた。この弱さの結果は、マイダン近くのルシェブスキイ通りにあった戦略的なバリケード周辺での、特殊訓練を受けた極右戦闘部隊の連合である「右翼セクター」が支配した武装勢力の出現だった。
浸透を許すその特質が挑発に導いたこの連合には、一定数の不可解なものごとが張り付いている。たとえば完全にびっくりするような事実がある。それはヤヌコビッチ逃亡後にジャーナリストたちが掘り起こしたものごとだが、二月二〇日、マイダンで血が流されたその時、右翼セクタートップにいる司令官のドミトロ・イアロッチがこっそりとヤヌコビッチと会っていたのだ。彼らは何を話し合ったのか?
イアロッチが語るところによれば、「それは、後で署名されたような協定に関係していた。私は署名を拒否した。私は彼に、われわれは操り人形ではない、と告げた。そして、ヴィクトル・フェドロヴィッチ、軍を下げろ、そうでなければウクライナ中でのゲリラ戦となると。その会談は、われわれは屈服しない、われわれは武器を置かない、われわれは最後までもちこたえる、と告げるものだった」というものだ。この驚くべき会談について、われわれはそれ以上何も知らない。しかしそれは爆弾――おそらくは時限爆弾――だ。

極右の存在は避けがたい危険

 警察との戦闘でこのウルトラ民族主義陣営が果たした極めて重大な役割は、マイダンに褐色の陰を投げかけた。上述した三人のうぬぼれや内部における急進的な右翼民族主義政党であるスヴォボダの指導者の存在とまさに同じく、ロシアの宣伝は、ファシストあるいはネオナチ運動としてマイダンの信用を落とすために、先の陰を利用しようと試みた。
その試みのひどさは、ウクライナ民族主義を専門とする四〇人のウクライナの、また外国の歴史家が、対応が必要だと考えるほどのものだった。マイダンは「解放運動家と過激ではない民衆の市民的不服従の行動だ」と彼らは語った。彼らは、マイダンにとって極右の参加は否応なく伴う危険だということを意識した上で、世界のメディアに、マイダンは「超過激派を含んだ急進的自民族中心主義グループの浸透を受け、そこから動かされ、さらに乗っ取られつつある」などと暗示しないよう訴えた。そして、そのような暗示はロシア帝国主義への贈り物になるという事実を、しかもロシア帝国主義は「同時に取り上げられているウクライナのあらゆる自民族中心主義よりも、社会的公正や少数派の権利や政治的平等にとってもっと深刻な脅威である」ということを、考慮に入れるよう求めた。
事実としてマイダンは、極右民兵と大衆的な民主的運動の驚くべき連携の劇場だった。それこそが二番目の大きな矛盾だ。この運動にとってそれはある種致命的な危険だ。
しかし大規模な大衆運動というものは、この種の危険に対して、歴史を反面教師として予防接種されている、などということは決してない。前もって階級的観点から形作られている運動であってさえ、ウクライナのそれのようにそんなことはこれまでなかった運動は言うまでもなく、基本的に骨身を惜しんで蓄積されたそれ自身の諸経験から学ぶのだ。
自身の民族問題をまだ解決できていない民衆、そして帝国主義的な抑圧や圧力や侵攻にさらされてきた民衆の内部で、上述した連携のような逆説的組み合わせは基本的に避けがたい。
このことに対する理由はミコラ・クヴィロヴィ――共産主義者、作家、そしてプロレタリア文学自由アカデミーの責任者――が説明した。彼は、スターリンが犯した彼の属する人々に対する虐殺に抗議して一九三三年に自殺した。同様なことはほぼ同時期、ウクライナ共産党の歴史的指導者であるミコラ・スクリプニクも行った。
クヴィロヴィはその何年か前、次のような意味深い言葉を書き残していた。すなわち、「一つの民衆が(すでに何度も書かれてきたように)一つの国家的実体としての器官を作り上げようとの意志を何世紀も示している時、この自然な歩みをいずれかの方法で止めようとする試みすべては、階級的勢力の形成を抑え込み、他方で、世界的な歴史の進行に混沌の一要素を持ち込む。不毛な偽物のマルクス主義を助けとして独立への熱望を否定することは、西欧が民族国家が形成された時代に通過したこの自然な段階をウクライナが通り抜けない限りは、ウクライナが反革命行動の戦場となる、ということへの無理解を意味する」と。
近隣の大国が戦争と併合でウクライナを脅迫しながら、その元の領地に対する掌握力を緩めたくないと思っている時、先の段階を通り抜けることは極めて困難だ。しかも、以前にあったものよりも反民衆度が少ないとはとても言えない、そうした新自由主義者と急進的右翼民族主義者の新政権が、自身の新たな新興財閥基盤を生み出しつつあり、この国を強欲な資本主義的グローバリゼーションに従属させる準備ができている時は、なおさらそうだ。
しかし確かなことは一つある。それは今あるものが、長い闘争と重い犠牲を通して、民衆がもう一つの体制を一掃し切った新たな同時代の春だ、ということだ。はじめて、欧州で民衆がそれをやり抜いた。それこそが大きなできごとなのだ。

▼筆者は一九八〇〜八一年に、ウッジにおけるソリダルノスチの地方指導部一員だった。彼は、ソリダルノスチ第一回大会代議員として、採択された綱領の仕上げに参加した。一九八一年一二月に戒厳令が布告された時彼は、フランスの労働組合の招待でパリにいた。彼は、一九八一年から一九九〇年までポーランドで非公然に配布された第四インターナショナル発行の雑誌、「インプレコール」ポーランド語版編集に力を貸し、さらに「われわれの工場を返せ!」を刊行した。彼は、共著としてウクライナの民族問題に関する研究をウクライナ国家科学アカデミーから刊行している。彼は現在「ルモンド・ディプロマティク」ポーランド語版の編集者である。
(「インターナショナルビューポイント」二〇一四年三月号)


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