大仲尊さん(沖縄・一坪反戦地主会
関東ブロック共同代表)に聞く (中)
沖縄研究会から一坪反戦地主会へ
現地の攻防といかにつながるか
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本紙昨年一二月九日号に前半を掲載した沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック共同代表の大仲尊さんへのインタビューの続きを掲載します。掲載が遅れたのは、発言の正確さを期すための作業に時間がかかったことと、年末から年始にかけて仲井真沖縄県知事の「辺野古埋め立て容認」をめぐる闘い、そして一月の名護市長選などで大仲さん自身、発言の整理作業に時間を取る余裕がなかったためです。掲載が遅れたことを読者の皆さんにお詫びいたします。(編集部)
那覇での中学
高校生時代
――中学卒業後に島を出たのですか。
一九六二年、中学二年の二学期に那覇に転校した。与那国にいたら勉強もしないし、親が行けと言ったんです。ほとんど自炊だった。僕は一人暮らしだったがそういう人もけっこういた。那覇に親戚がいたんだけれど、お互いに余裕がなかったから、一週間に一回くらい行って、腹が減っているから飯をたらふく食った。そんな感じだった。
那覇中は一学年二五クラスあった。あまりに人数が多いので新しく中学を作って分けるほどだった。今は五八号線(昔は一号線)といって、那覇軍港から嘉手納までかなり広い道路がある。まわりに電柱を立てさせない、戦闘機がいつでも緊急発進できる道路だ。そこを渡って新設された中学校に行く生徒がいた。その生徒が夕方学校から帰る時、青信号で渡っていたが、米軍の軍用トラックにひき殺された。運転手は逮捕された。
幾つかの中学校の生徒会で抗議集会をやったが軍法会議で無罪になった。「信号は青だったかもしれないが太陽の光線がまぶしくて認識できなかった」という理由だ。
なんでこんなことが起きるのか。かなり衝撃が大きかった。その前には糸満でれき殺事件があったがそれも無罪になった。コザ暴動(一九七〇年)にいたる過程のなかでけっこうそういう事件があった。逮捕権もないし、向こうは向こうで軍法会議と称して一方的に決めて逃がしてしまう。
――一九六五年にベトナムで米軍が北爆を開始しベトナム戦争が本格化しました。沖縄もその出撃基地となっていった。一九六八年一一月にはB52爆撃機が墜落炎上する事故も起きた。反戦闘争も盛り上がりましたね。
高校に入ったのが一九六四年。あの頃は午前中授業に出ないで抗議集会に行ったりして、学校では生徒集会が頻繁に行われていた。ハンストなんかする学校もあった。
われわれの場合は問題意識はあったが、自分が嘉手納基地に行って、B52を見るとかそういうレベル。実際そこに行って反戦闘争に参加することはなかった。そこに入れなかったというか、学校終わって顔を出したりすると友達が「お前、与那国の人間か、何しに来たのか」という感じで、見下した。「なんだこいつら」ということが時々あった。なかなかオレ自身からその世界に入れなかった。
郵政職場での
活動と三里塚
――ヤマトに来たのはいつですか。復帰闘争に参加したのですか。
ヤマトに来たのは一九六九年二月。個人的には復帰運動に参加していない。きっかけは一九七一年、沖縄出身の富村順一さんが東京タワーを占拠して「日本人は沖縄のことを口にするな」と沖縄差別を訴えたことだった。その頃、証券会社でバイトをしていて、そこに同じバイトでTさんという活動家がいた。彼が富村の話や沖縄問題を展開した。俺はなんでヤマトンチュに沖縄の話を聞かなければならないかと変な感じになった。ウチナンチュのことを忘れていたわけではないが、それがきっかけになった。
三里塚の援農に行こうと言われて行った。三里塚の農民を見て、沖縄の農民との関係もあるし、三里塚の土地の肥沃さにビックリした。赤土でヒビ割れているのが与那国だった。三里塚ではゴボウが手でひきぬけた。俺はたまげた。豊かさのレベルが違った。三里塚闘争、農民たちの姿にもビックリした。
――郵政に入って、郵政ユニオンの活動家で亡くなった森田さんと同じ職場だったとか。そこには意識して入ったのですか。
いや偶然だった。郵便局に入ったのが一九七三年。俺が多摩郵便局に入った時は、第一組合の全逓が三人しかいなかった。圧倒的に御用第二組合の全郵政だった。多摩郵便局の寮に入った。あまりにもひどいから、毎日ビラを出そうという話になり、謄写版を買ってきた。最初は二人だけだった。職場の人にどういうことがあったか聞き出し、ニュースとして毎日出した。
そうすると相手側から、組合が当局にそんなことやっていいのかという話から始まって、毎日ケンカをした。局内ではできないが、配達先に行って着けるので「組合の腕章を貸してくれ」という人が二、三人出てきた。はずすのを忘れてくると大騒ぎになった。「いつから全逓に入ったのか」と。最初は消耗したけれど居直った。少しずつ信頼をかちとっていった。
――郵政はいつまで勤めましたか。
一九八六年まで。
米軍基地に立ち
向かう反戦地主
――沖縄闘争の話に戻します。一九七二年の復帰後、革新県政が続きますが一九七八年の選挙で自民党の西銘が当選し、三期続くことになりました。そのなかで反戦地主会や一坪反戦地主会の運動が重要となった。
僕が反戦地主になったのは復帰後だから、だいぶ後になってからです。三里塚の共有化運動の時、嘉手納基地を買わないかという話があった。与那嶺均という反戦自衛官がいて、彼なんか地主になろうという話になっていたが、途中で連絡が取れなくなって手続きの直前でダメになった。郵政をやめて、沖縄研究会に参加した。一坪反戦地主会と違うことをやっていたが、一九八七年頃普天間の反戦地主になって一坪反戦地主会関東ブロックに入った。
「本土復帰」にあたって沖縄では復帰の内実が分かってくるから、「復帰反対」という意見も出されるようになった。一九七二年の返還にあたって米軍が使っていた用地を、公用地法を制定し継続使用という形式で使っていた(公用地法=「沖縄における公用地等の暫定使用に関する法律」。復帰前に米軍が使っていた土地は、地主の同意がなくても五年間は暫定使用できるというもの)。
地主が三万人ぐらいいて、契約でほとんど応じていた。本土復帰を境にして地代を二倍、三倍に上げた。地主の人たちが買収された。そこで三〇〇人が反戦地主として残った。
戦争で土地の形態も分からない。地籍を明確にしろと反戦地主から要求する。地籍明確化法をつくるけど、同法が成立・発効する前の一九七七年五月一四日までに、公用地法による土地の継続使用は期限切れになる。空白の時期が出た。向こうは間に合わない。空白の四日間ができた。反戦地主は土地を取り戻すと言って、基地のゲートまで行ったが入れてくれない。地籍明確化法の中に、一〇年間強制使用できるという条項がある。向こうが一方的に土地を取り上げ使用した。公用地法が生き返ったのだ。そして一九八五年には那覇防衛施設局長が二〇年の強制使用申請を出した。
――三里塚でも共有地運動は土地を一坪に分けて多くの人に闘いに参加してもらうということだったが沖縄の一坪も同じですか。
同じですね。一坪地主は全体として三〇〇〇人ぐらい。
――有名なのは「象の檻」(米軍楚辺通信所の使用期限が切れ、反戦地主が契約拒否したため一九九六年から一年間不法使用となった)の闘いでしたが。
一九九六年、知花昌一さんが土地を返せと基地に入り、サンシンをひいて闘った。ある意味で復帰闘争からの連続性は反戦地主の闘いにあった。
辺野古新基地
をめぐる闘い
――大仲さんが本土の中で、沖縄にこだわりながら、闘いに参加している思いは?
圧倒的多数派のヤマトンチュ。ウチナンチュは少ないから話していると認識の問題含めて落差というか、話はするが分かっているのかと感じる。沖縄現地とヤマトにいるこの落差をずっと背負っていかなければならない。なんでこんなに違うのだろうと。郵便局やめて、沖縄研究会に入ることによって気分的にはスッキリした。
――沖縄研究会とは、どういう組織でしたか?
一九七一年秋、沖縄国会で爆竹を鳴らして沖縄出身者が抗議した。そこで逮捕された人たちの支援運動が続いた。海邦グループが残り、沖縄研究会になった。一時期は沖縄研究会が沖縄闘争の窓口のような働きをした。
――沖縄闘争の流れで言うと、一九九五年の少女レイプ事件が起き、抗議集会に八万五〇〇〇人が参加した。一九七二年復帰以後の最大の集会でした。再度、基地撤去闘争が大きな課題として浮上した。一九九六年にSACOで、普天間基地の閉鎖という方針が決められたが、実は名護・辺野古への移設・新基地建設であることが明らかになった。それから、闘いが現在まで続いている。このあたりは本土で闘っていてどうでしたか。
それとの関わりでヤマトでの闘いがあった。名護市では一九九七年一二月に市民投票をやり、五八%が基地移設に反対した。しかし当時の比嘉市長がそれを受けて辞任する代わりに基地受け入れを表明した。選挙では受け入れ派の岸本が勝った。市民投票が闘いの原点だ。
――名護市長になった岸本氏は反戦地主でもあったわけですよね。
彼は、那覇や南部・中部から取り残されたヤンバルを、北部振興によって名護を中心にして「第二の那覇」にしようという構想を抱いていた。それに足を引っ張られた。
――一九九九年、県議会で早期移設決議を二五対一九であげています。
二〇〇四年から名護沖の海上で埋め立てのための環境調査のくい打ちの攻防が始まる。そのあたりからいろんなマスコミを通じて闘争のことが流され、ヤマトの支援もつくられた。
――沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落したのも二〇〇四年八月だった。もし違う角度で墜落していたらたいへんな死者が出た可能性があった事故でした。
沖縄国際大学は普天間飛行場の近くにあり、街の中にある大学に米軍ヘリが墜落した衝撃そのものもさることながら、事故機の残骸を目の前にしながら、事故調査も出来ず、あたり一帯を米軍に占領された。写真撮影も米軍兵が妨害をした。地位協定・治外法権の実態が曝け出された。沖国大へのヘリ墜落抗議宜野湾市民大会には三万人が結集しました。
辺野古では海上闘争が始まっていた。海上闘争にはヤマトからも相当の人がボートに乗ったりして参加している。ある意味ではそこから具体的攻防が始まった。その頃、ヤマトの人たちも入れて辺野古実行委員会をつくった。その攻防の中で、海上自衛隊の艦船が現れたことがある。軍隊が排除するわけだからある意味で衝撃だった。(つづく)
読書案内
NHKスペシャル取材班/主婦と生活社刊/1300円
『老人漂流社会』
他人事ではない“老後の現実”
歳をとるのは罪なのですか?
私自身の経験
と重ね合わせ
昨年一一月に特別養護老人ホームで肺炎を起こした父(八七歳)が市内の総合病院に入院した。肺炎が治っても、自分で食事ができない(喉の筋力が弱り、自力で食べ物を飲みこむことができない)、痰の吸引をしなければならないので、治療行為ができない特養には戻ることができない、したがって別の病院を探して転院の準備をしてほしいと総合病院から言われた。
父は七年前に、体調を崩して病院に行った時は危篤状態だった。なんとか持ち直したが痴呆になった。膀胱がんの手術で膀胱を摘出してしまっているので、特養ホームを探すのに大苦労した。最初、痴呆なので精神病院に相談を勧められた。そこの精神病院で、症状を言うと、「精神病院に入るような状態ではない、もしここに入れば症状がもっと進むかもしれない」と、別の特養を探すようにアドバイスを受けた。いくつもの特養を尋ねたが終の棲家なので二〇〇人待ちはざらで、いますぐに入所できるところはなかった。住まいと数市も離れたリハビリをかねた病院の療養施設に入った。この時、父は家族が面会に行っても、それが誰だか分からず、手ぬぐいをたたんだり、のばしたりするようなことを一日やっているようになってしまっていた。
そして、数カ月後に、運よく隣の市の特養ホームに入ることができた。すると、何と自分の姓名や生年月日、家族を認識することができ、日常会話も出来るようになった。過去の記憶は正確に覚えていた。ただし、朝何を食べたとか、なぜ自分がこのホームに入っているかは理解できなかった。
三人の子どもがいるが、結局全員が田舎を出てしまい、残されたのは父母であった。父が特養に入ってからは目の不自由な母が一人田舎に残った。そんな、父母を支えるために私は七年にわたり、毎月一回泊り込みで帰省した。父への面会、母への買出し、食事作り、畑を耕したり、屋敷の樹木の管理などを行ってきた。
老人切り捨て
社会への批判
こんな中での突然の父の入院と、ついに最後の時が近づいたという感じでどうしようかと迷っていた時、本屋で『老人漂流社会』を見つけた。
この本は二〇一三年一月に放送したNHKスペシャル「終の住処(ついのすみか)」はどこに 老人漂流社会」を書籍化したものだ。
「高齢者が体調を崩して自宅にいられなくなっても、病院や介護施設は満床で入れない。短期間だけ入れる施設を転々とし、そのうち貯金は底をつき、行きつく先は生活保護。それでも安住の地は簡単には見つからない……。住まいを追われ、“死に場所”を求めて漂流する高齢者が、いまあふれ出している」(本書より)。
この実態をNHK取材班が取材した事例が紹介されている。普通の生活をしていた老夫婦の片方が突然なくなり、子どもたちも親の面倒をみられない。介護が必要な病気になると、蓄えはあっというまに底をつく。「高齢者の受け皿不足がますます深刻になるなか、本来は高齢者を受け入れる施設ではない場所に、続々と高齢者が集まってくる異常事態が起きているのだ。それが無料低額宿泊所」。本来は自治体に保護されたホームレスなど生活困窮者が一時避難的に入所するための施設に支えを必要とする高齢者が流入してきているというのだ。部屋は三畳一間。三食付。すべての財産を失い、写真一枚を抱えて死んでいった事例も紹介されている。
第五章「どうすれば老後の安心は得られるのか」では、「無料低額診療事業」を紹介している。民医連では国や自治体の支援を受けながら対策を進めている。事業は生活に困り医療費が払えない人に対し、医療費が無料もしくは低額になるというものだ。高知県高知市の潮江(うしえ)診療所を取材している。
最後の章「“老人漂流”を食い止めるために」、「支えて、支えられる社会づくりを目指して」で、民間で行っている高齢者共同住宅を紹介している。もちろん、有料なのだが金儲けではなく、経営者がいっしょに泊り込んだりして、親身になって運営している姿が浮かびあがっている。
NHKの放送後の視聴者の声が紹介されている。「ずっと涙が止まらなかった。この国はいつから、老人を突き放してしまうようになってしまったのだろうか」(四〇代女性)。いずれ自分たちも遭遇することになると、他人事ではないという一〇代から二〇代の声も多かったという。
本書では「歳をとるのは罪ですか?」と衝撃的な問題提起をしている。歴代自民党政権や現在の自公政権の福祉政策を明らかにしているものではないが、その結果がどんなに悲惨な状況を作り出しているのかを明らかにし、われわれが何をすべきか、その入り口をさししめしている。 (滝)
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