イタリア
危機にあるシステムの最後の防御線
サルバトーレ・カンナボ
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政治が極度に機能不全化していたイタリアで、民主党出身の首相が同じ党の若手指導者、マッテオ・レンツィから強引に引きづり下ろされるという、外部からは不可解に見える事態が起きている。一般紙は、予想される選挙に向け、選挙の顔として期待が高いレンツィに向け民主党内に勢力移動が起きた、といった事情を伝えている。しかし事の本質はそのようなありきたりの表面的なものではないと思われる。イタリアの同志の分析を以下に紹介する。(「かけはし」編集部)
システム拒否の
怒り噴出を前に
ちょっと前マッテオ・レンツィによって船外に放り出されたエンリコ・レッタにわれわれが贈るあだ名はは、「コペンハーゲンのキリン」(訳注)となるのかもしれない。他方レンツィは、最後の防御線と特徴づけられるのかもしれない。
つまり、めちゃめちゃに切り刻まれ、バラバラにされ、EUに対する債務の中に置かれた、しかしそれでも依然として機能し続けている、そしてその指導者たちが実体のある大変動以外では打ち負かされたくないと思っている、そのような政治―社会システムに対する最後の防御線だ。そしてその大変動は今、反EU、民族主義あるいはポピュリズムの欧州という姿で、あるいはイタリアの五つ星運動のようなより矛盾に満ちた諸特性を伴って、高まる途上にある。この意味でレンツィは、それらの親緊縮派、親統治諸勢力すべてにとって、最後のカードだ。
昨年の総選挙と五つ星運動の爆発的な議会への参入の確認を経て、イタリアのエリート層は、大統領ナポリターノのモデルを軸に結集することでこの運動に対処することは可能だろう、と考えた。そこでのモデルとは、幅広い党を横断する合意、専門家政府、EUの諸標準に対する絶対的遵守、社会的闘争すべてに対する完全な拒絶、というものだ。この実験は破綻に終わった。
不穏な空気に立
ち向える者求め
ナポリターノは敗北し、それ以上に今、レッタが敗れ去った。実験が機能しなかったという事実は何よりも、民主党(PD)予備選挙におけるレンツィのはっきりした勝利によって、つまり政治システムの大刷新を人々が欲しているという何度目か分からないほどの表現――PD支持者のような責任感があり従順な有権者ですら示したような――によって、明確に示された。第二にレッタは、左や右の立場を取る民衆に対して、ほんのわずかのかけらを配ることしかできなかった。それらの人々は、特権を認められていたりそこから締め出されていたりしているが、しかし現在の諸々の危機から本当にひどく今なお痛めつけられているのだ。
この政治の役立たなさの縮図は、予算法となってきた。この点でわれわれはここまで、コフィンダストリア(主要な経営者組織)、その他の部門、銀行、さらに労働組合から示される、増大一方の不満を見てきた。しかしこの不穏な空気は、今なお明晰な意識を保ち、政治からの民衆疎外のほどを理解している数少ない政治家にもすでに及んでいるのだ。
この枠組みの中でわれわれは、次のことを理解できる。つまりレンツィの術策とは、彼の過去(フィレンツェ市長にまで上り詰めた:訳者)を前提に、また彼の弁舌の才と技巧を使うことで、彼自身を他の誰よりも、イタリア中に行きわたった反カースト(エリート)の波に対抗できる人物として押し出すことにある、ということだ。フィレンツェ市長は彼なりのやり方でそれを進めるだろうしすでに始めている。しかし、彼の動きによって引き裂かれてしまった中道諸勢力の右を代表するものだとしても、全体としてシステムの名においてだ。
事実としては、レンツィに敗北させられた本当の人物はレッタではなくベルルスコーニだ。彼は選挙改革という餌に引き寄せられた。しかしそれによって彼はPDの指導者に、選挙で彼が真に標的としている聴衆である中道有権者の右内部で信用を得ることに向け、扉を開いてしまったのだ。
巧妙だが絶望的
な政治的移行へ
レンツィは連続的なショック戦術をもって刷新に挑みシステムを導くだろう。彼はEUからの息継ぎスペースを得ようと試み、対外圧力のいくつかに対応するシステムの刷新、ある種の自由主義的近代化をもたらそうとするだろう。この意味においてその試みは、当今の衣装をまとった変革構想であり、新しい局面が幕を開けたということを意味している。
レンツィは、PD党首の衣装を脱ぎ捨て、首相という荘厳な衣装を身にまとい、国全体を相手に自由に話し、「新たな未開人」の猛攻と対決して彼が導くことになる「要塞」と彼が定義する、そうした左右両派の新しい穏健な政治ブロックを縛られることなく建設するだろう。
彼はこうしたやり方で今、新旧両方の、巧妙であると同時に絶望的でもある政治的移行を遂行しつつある。議会の諸部分の全体がこの突進に吸い寄せられるならば、この術策は政治枠組みの再組織に成功できるかもしれない。しかしそれがもしうまくいかないならばレンツィは、危機によって粉砕される本当に最後の指導者となるだろう。
われわれが理解しなければならないことは、この作戦全体の正しい分析の仕方だ。レンツィが行うと思われるさまざまな術策、彼が打ち上げることになる花火、さらにそれらと共に進む宣伝、そうしたものにもかかわらず、彼の政権がもつ意味はすでに、ベルルスコーニと合意した仮説的選挙改革案に明確にされている。つまり、あらゆる対価を払っても統治能力を確保すること、政治の空間を切り縮めること、個人化され権威主義化された民主主義を構築することがそれだ。
それは、シルヴィオ・ベルルスコーニにとっては最終的に成功とはならなかったが、しかし彼の二〇年にわたる政権のために彼が利用したモデルだ。レンツィは今日、政治の舞台を真実に満たす最初のポスト・ベルルスコーニの人物だ。しかし彼は同時に、その時代の思想の断片を再解釈し利用する最初の者でもあるのだ。
▼筆者は、「ソリダリエタ・インテルナチオナリスタ」の指導的メンバーであり、FIイタリア支部メンバー。FI執行ビューローメンバーでもある。彼はPRC(イタリア共産主義再建党)リストの下で下院議員に選出されたが、アフガニスタンでの戦争支援に対し反対の投票を行った。彼はこうして、シニストラ・クリティカ創立に際し中心的役割を果たした。
訳注)この二月に世界に波紋を巻き起こしたコペンハーゲン動物園の行為を念頭に置いていると思われる。コペンハーゲン動物園は、近親交配を防ぐという理由で、余ったキリン一頭を子どもを含む来園者の面前で殺処分し、死骸を餌としてライオンに与えた。(「インターナショナルビューポイント」二〇一四年二月号)
コラム
「万里の長城」
先日、幼馴染みから一通の手紙をもらった。そこには「……被災はしたが長く住み慣れた釜石を終の棲家にしようと思っていましたが、……三月からかみさんの実家で高齢の義母と暮らすことに決めました。場所は、佐羽根という所で田老の隣町です」。
「田老」とは岩手県宮古市田老町。二〇年程前釜石に行った際、最近NHKの『あまちゃん』で有名になった三陸鉄道を青森県の八戸まで北上した。その時初めて「万里の長城」と呼ばれていた田老の防潮堤を見た。とにかくでかい。高さ一〇m、総延長二・五q。
かつて釣りに出掛けた横浜港には三本の堤防が走る。陸側の明治のもの、真ん中の戦前のもの、それぞれ高さ二m、三m。一番沖にある高度成長時に建設された堤防は海面から五〜六m、幅というか厚さも四〜五mもあり結構迫力がある。東海沖地震にも耐えうるとして建設された御前崎港の原発埠頭もやはり五〜六m。それまで横浜や御前崎の堤防がかなり大きいと思っていたので、「万里の長城」という呼称には素直に納得した。以来私は勝手に田老の堤防は津波に対して「絶対」だと思い込んできた。だが3・11の津波はあっという間にその「万里の長城」を決壊させ、町の人たちの自信も私の「絶対」も一瞬に木っ端微塵に打ち砕いてしまった。
震災後、作家吉村昭が二〇年も通い続けて小説として発表した『三陸海岸 大津波』(文春文庫)を読んだ。「田老と津波」の項には「明治二十九年……田老、乙部は全滅している。全戸数三三六戸あったが、二三mの高さの津波」「昭和八年……田老、乙部はわずか数戸の民家と高地にある役場、学校、寺院を残すだけで、村落はすべて流失した」と書かれている。そして後半部では新堤防「万里の長城」の完成により「昭和三十五年の南米チリの大地震、……昭和四十三年、十勝沖地震による大津波……被害を最小限にくい止めることができた」と記述している。
私の「絶対」は前半部で強調されている「二三mの高さ」を忘れ、戦後二回の「津波を跳ね返した」ことを過大評価したためであり、津波の本当の恐さを知らなかったのだ。町の人たちの「自信」もまたそうであったのかもしれない。
幼馴染みは高校卒業とともに当時の富士鉄釜石に入社し、六〇歳の退職まで「鉄の町」で二人の子どもを育てた。だが3・11の津波は家屋の一部を残し損壊させ、残りの人生に新たな選択を強制した。この三年間、高台に新しく家を建てるかどうか悩み続けたうえでの結論だという。
田老という地名は「津波太郎」に由来することを初めて知った。近いうちにもう一度彼と田老を訪ねてみたい。 (武)
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