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    かけはし2013.年12月9日号

最西端の離島から見た沖縄戦・米軍直接統治の影響


大仲尊さん(沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック共同代表)に聞く

与那国島で生まれ育って

島の歴史・自然と共にあった

 日本最西端の与那国島出身であり、沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック共同代表の大仲尊さんに、与那国島の歴史、自衛隊誘致の攻防そして沖縄基地撤去闘争、関東ブロックの闘いをお聞きした。(「編集部」)

与那国島とは
どんなところ


――与那国島はどんな島ですか。歴史は?

 与那国島は台湾からわずか一一一キロ、与那国が行政上属する沖縄八重山郡の玄関口の石垣島から一一七キロ、那覇から五二〇キロ、東京から約一九〇〇キロという位置にある。島の周囲は二八キロ、島の中央部を宇良部岳、久部良岳の両山系が走り、変化に富んだ地形によって多様な自然環境が形成されている。祖納、久部良、比川の三集落がある。人口は約一五五〇人。
 与那国島の名前が歴史に最初に登場するのは、李朝朝鮮時代の史書「成宗実録」で、一四七七年に、済州島の漁民三人が与那国島に漂着した時の体験が書かれている。琉球王府とのかかわりを言えば、一五世紀に宮古・八重山での琉球の支配に対する反乱の後、一五二二年与那国島も琉球の支配下に。
 ヤマトや沖縄島から先島諸島(宮古、八重山諸島)を見ると、そこも沖縄(県)である。当たり前のように沖縄だと思っている。だが、そうだろうか。与那国島では那覇など沖縄島へ出かけるとき「沖縄へ行く」という。とすれば、自分たちは沖縄ではないという思いが意識のどこかにあるのではないかなぁと思う。ちなみに、与那国語は六つの琉球諸語のなかの一つの言語として最近認定された。
 そのような歴史や自然環境のなか、一九四九年、私は祖納集落で生をうけた。
 近代の話からすれば、一八七九年に、沖縄が日本に併合された後、当時の清国との交渉で、宮古島以西と沖縄を分離する「分島・改約」案が日本政府から提起されたがそうした以前の経過もあって、宮古島以西と沖縄とを分離して、別々にアメリカが支配することにつながった。同じ沖縄であるはずなのに、那覇に行くのに「沖縄に行く」と言い、与那国では石垣に行くのを「八重山に行く」と言う。今でも島に住んでいる人はそう言う。

琉球と八重山
そして台湾


――与那国は那覇よりも一一〇キロしか離れていない台湾の方が近いわけです。琉球に併合されても台湾との関係は強かったのでしょうか。

 人頭税について聞いたことがあると思うが、薩摩の侵攻(1609年)以降、財政的に薩摩に横から税金を吸い取られていく。琉球王国の財政がきつくなる。宮古、八重山、与那国は物が取れなくても、人数に従って税金が課せられたのが人頭税だ。現代に直すと、仕入れの八〇%が取られた。人頭税にまつわる逸話はいっぱいある。人頭税は過酷であった。沖縄島は周りの人々にはそうしたことはしなかった。宮古、八重山、与那国だけに人頭税が課せられた。これは琉球の支配の一つの形態の現れである。
 台湾との関係で言えば、日本がアジア・太平洋戦争に敗れる以前、台湾は長らく日本の植民地支配下にあった。日本が日清戦争を経て下関条約で台湾を占領したのは一八九五年である。日帝の植民地下の台湾に、多くの八重山諸島の人びとが求職や進学の目的で移住した。他方、台湾の人びとが八重山諸島に渡り、水牛による農地耕作技術やパイン産業をもたらしたと言われている。一九四五年以前には、島々の地理的な近さもあり、八重山諸島と台湾のあいだで人びとの往来が推進されて、島々のネットワークは強固になっていった。よく言われていることだが、当時、八重山諸島と台湾のあいだに国境はなかった。その状況は日本の敗戦に伴い一変する。
 日本のある人が与那国についておもしろいことを言っている。
 第二次大戦があって、沖縄本島の人間はあの戦争の体験があって、今は宮古、八重山に柔らかくなっているけれど、あれがなければ露骨な差別構造がハッキリできているのではないか。彼は直感的にそう感じている。
 台湾との関係について。宮古の漁民が一八七一年に台湾で遭難して、何人かが虐殺された。それを口実に、明治政府は一八七四年台湾に出兵し植民地化した。台湾との関係は植民地化されてから、関係が密になった。与那国からも人が行き、台湾北部に沖縄人街ができた。
 敗戦直後、石垣、与那国まで、アメリカの支配が及ばない空白時期があった。台湾と密貿易を盛んに行った。そういう形を通じて、台湾との関係はあった。

与那国島の
戦争体験は


――沖縄戦では与那国は戦場になっていないのですか。

 イギリス軍が空から攻撃をしかけてきた。ケガをした人が何人かいる。死んだ人はいない。与那国の場合、兵隊として連れて行かれた。その意味での被害者はけっこういた。糸満の平和の礎(いしじ)には二四三人の与那国出身者の名前が刻まれている。こういう話はじいさんから聞いた。
 与那国島の東側の宇良部岳に日本軍の監視部隊が駐留していた。そのために英空軍の攻撃をうけた。また、カツオ工場の煙突が空襲されたと言われている。

――大仲さんのお父さんは戦争に行きましたか。

 いや、行っていない。一九三二年生まれで、朝鮮と中国との国境地帯に連れて行かれた。戦争が終わって与那国に戻った。現在の北朝鮮と中国の国境付近に派遣されたようです。軍隊経験の話しはほとんどしなかったが、直属の上司から琉球人と侮辱され、とても悔しい思いをしたと、聞いたことがある。

――沖縄本島ではたくさんの人が殺されましたが、戦争被害者意識の落差はありましたか。

 落差というよりは与那国では直接の戦火は少なかったが、沖縄本島などに行って戦争体験したので島に帰ってきてその時の話をした。それが共通認識になった。ガマ(洞窟)に入って子どもを殺したというような深刻な話はないけれど、戦争体験という共通感覚はある。
 被害意識の落差とは聞いたこともないし、離島は離島なりにそれぞれの戦争体験があった。地上戦のなかった八重山諸島では、米英軍による空襲と艦砲射撃があった。しかし、八重山守備軍は無病地の島民を軍命でマラリヤ有病地に疎開させた。日本軍の食糧を確保するために。いわゆる「戦争マラリヤ」の犠牲者は、人口三万一六七一人のうち、一万六八八四人の二人に一人が発病し、三六四七人が病死した。平和の礎には地上戦があった沖縄島をはじめ、離島の各島々の犠牲者の名が刻まれている。

高校の不在が
過疎化の要因

――一九四七年の時、島の人口は一万二〇〇〇人。一九九〇年、二〇〇〇人、それ以降も人口が減り、今は一五五〇人。原因はなんですか。島の産業は?

 半農半漁。与那国は稲作が出来る。小さい割には起伏に富んでいて山から水が湧く。昔から稲作が盛んで後は漁業。砂糖きびが換金作物として作られている。牧場があって、牛を放牧し肉牛として飼っている。
 過疎化の要因は、島に高校がないこと、中学を卒業し、高校に進学するためには石垣島や那覇・沖縄島にわたり与那国をあとにしなければならない。場合によっては、子どもの学費を捻出するために家族ごと島を離れざるを得ない。自衛隊の沿岸監視部隊一〇〇人が駐屯すると、過疎化に歯止めがかかると誘致派はうそぶいているが、構造的な問題にメスを入れないと、問題の解決にはならない。
 人口が減るのは高校がないからだ。中学校までしかないから、高校に行くために、石垣や那覇に行ったりする。そうすると仕送りしなければならない。現金収入がある家はいいが、ない人は子どもごといっしょに引っ越して、新たな仕事を見つける。それで人口がどんどん減った。

――大仲さんの実家は何をされていましたか。

 おやじは歯医者をやっていたので仕送りぐらいはできた。歯医者といっても、与那国では金持ちにはなれない。保険制度ができて安定的に診療報酬が入るようになったが、それまでは治療しても、治療費が払えない人がたくさんいた。金持ちからは取ったが、ない袖はふれないから、俺なんかよく請求書を持っていかされたが「今、ちょっと待って」と言われて、「カツオを持っていけ」ともらってうちに帰るとオヤジが請求書を破っていた。

――子どもの頃のこと。島の良さ、不便さ。どうでしたか。

 牛とか山羊、豚を飼っていて、小学校に入る前でも草刈りをやらされた。特に山羊は草を食べる。小三〜四年になると自分で世話を全部やった。朝仕事をして学校に行き、学校から帰ってきたら、じい様が馬に乗って畑に行き、草を取りそれを馬に乗せて、その後をついて帰った。そういう感じだった。一番いやなのは相手は生きものだから、正月でも休めなく手抜きができない。子どもだからたまに手抜きする。そうすると親にこっぴどくしかられた。
 子どもの頃、一九五五年頃から六〇年代初め、メンコやビー玉が流行っていた。正月(新と旧の正月があった)に揚げる凧は竹を切り取るところから始まって、すべて手作り、ケンカ独楽も自分たちで作った。

子ども時代
の日常生活

――小学校の生徒数は?

 一クラス五五〜五六人で三クラスあった。一学年で一六〇〜一七〇人。小学校は三校あった。中学校は二校。一九四九年生は団塊世代の後期で人口グラフの出っ張り部分ですね。

――島の中の移動手段は?

 あの頃は歩きとか馬に乗った。燃料はタキギだった。家から三キロぐらい離れた山に朝早く行った。だいたい夕方三〜四時頃に帰ってくる。山で枯れ枝をとって馬に積んで運んだ。それが夏休みの一番大切な仕事。それをやっておかないと燃やすものがないから。馬を持っていない人は天秤棒で担いで運んだ。それはたいへんだった。
 一九六〇年代初期頃は農耕馬を飼っており、畑や田との往復は馬が主な移動手段であった。

――バスはありましたか?

 あったけどほとんど乗らなかった。一番西から定期バスはあったがほとんど乗った覚えがない。遠出の場合は馬だった。
 島の東の祖納と西の久部良間はバスで移動していた。

――絶壁のような所があるようですが砂浜はあるのですか。

 黒潮がぶつかる所に島がある。南東の方がぶつかる所、そこが断崖絶壁。その陰に隠れた北西の方はビーチがある。砂浜は七カ所ぐらいある。夏休みなんか夕方帰ってきて汗かいているから、海辺で水浴びしながら適当に遊んだ。
 与那国島は南からの黒潮がまともにぶつかる位置にある。そのため島の東から南東にかけては断崖絶壁の荒々しい景観がつながっている。砂浜は八カ所。

――魚は船でいかないと取れないのですか。

 そうではなく、磯釣りだね。けっこう大きなのが釣れる。俳優の松方弘樹が磯釣りで入りびたった時期があった。
 大公望で俳優の梅宮辰夫や松方弘樹などが磯釣りによく来ていた。毎年七月にはカジキ釣り大会が町主催で開催されている。

日本の教科書
への違和感


――話を戻しますが、大仲さんが小・中学校の時は米軍政下でした。本土と違う授業はありましたか。教科書はどういうものを使っていましたか。

 ヤマトと同じ教科書を使っていた。特別授業はなかったですね。
 元々旧正月だから、二月頃が正月だった。農協とか(商工会はない)が新生活運動をやっていて、新正月に正月を一本化しようとした。農家が多いから、日本の正月に合わせると砂糖きびだの一番の繁忙期でとても正月休めない。旧正月の頃はちょうど農繁期が切れた。どうしても旧正月に休むとなっていた。
 比較しようがないので、授業が同じかどうかは分らないが、教科書は日本のものを使用していたと思う。国語の教科書は春の入学の桜からはじまり、夏、秋の柿や栗、そして、冬の白い雪景色。 
 夏はともかく、そのほかは本に載っている絵や写真を見たとしても想像の世界の出来事に過ぎず、実感が湧いてこない。亜熱帯の沖縄や与那国では、四季折々とか、桜、雪など等は架空の世界でしかない。教科書に書かれていることと目の前の光景に乖離がある訳で、違和感があった。
 正月、学校で印刷した黒い布に、そこに赤いのをつけて「日の丸」を作る。旗竿を持ってきてごはんつぶで張りつけて、それを持って学校に行った。「日の丸」はあの頃、米軍に対する抵抗だった。小学校の運動場のはじの方にポールがあって、そこで正月「日の丸」を揚げる。教員は「日本人になろう」と言っていた。
 正月休みに、凧揚げ大会があった。凧は自分で山に行って、竹を切ってきて二〜三カ月前から準備する。八角凧とか四角凧、飛行機凧とかそれぞれ作った。凧が垂直に上がるのが一番良い。分度器で図って競った。それが終わるとけんか凧にする。尾っぽにカミソリをつけて、相手の凧を落とす。そういうのが楽しみだった。あとはコマを自分で作る。学校の廊下しかセメントはなかった。平の場所なのでコマがよく回った。けっこう大きなコマを作り、そこでけんかゴマをした。

記憶に薄い
米軍政支配


――歴史教育で米軍政に抵抗するようなことを教えられましたか。

 ぼくは記憶にない。記憶に残っているのは宮森小学校に米軍のジェット機が墜落して大勢の死者が出た事件(1959年6月30日)。教師か誰かが話してくれたのだろうが、ものすごく印象に残っている。あの頃は情報伝達が早いわけではないからどうやって伝わったのか分からない。沖縄に行って宮森小学校事件の話を聞けばどっかで聞いた覚えがあるなあと思い出す。
 とくに、教えられたという思いはない。その頃は、日本への復帰運動そのものが米軍政への抵抗としてあったのでは。教室では標準語を励行しょうとか。新正月を祝いましょうとか。元旦に登校して、校庭のポールに日の丸国旗を掲揚し、教室に戻り日の丸小旗を一人ひとり作った。中学では、方言札が待っていた。私は方言を使いましたと書いてある札を首から吊るした。

――米軍政の頃、与那国に米軍政の末端の組織が置かれていましたか。

 いや、まだ支配がゆるかった。米軍のヘリがいきなり小学校のグランドに飛来して、野球道具一式を空から落としていった。それは感動だった。われわれのグローブは布の手作りのものだから、本物の皮のグローブを使ったことがなかった。
 米軍政の末端組織は置かれていなかった。米軍は沖縄占領と同時に「ニミッツ布告」によって日本の行政権を停止した。そして、奄美、沖縄、宮古、八重山の四群島を分割統治することにした。米軍政府の統治が与那国に及ぶ間、与那国―台湾間で密貿易が行われた。それは、一九四九年末まで続いた。   
 (つづく)

※このインタビューは九月中旬に行ったものです。次号以後、「本土」に来て以後の活動、沖縄の意識化などについて語っていただきます。(編集部)

 沖縄年表(1945年〜2014年)

1945年 沖縄を米軍が占領・支配。
1952年 サンフランシスコ平和条約で日本の独立回復。沖縄は切り離し、米軍占領が継続される。1950年から始まる朝鮮戦争時、基地拡張、朝鮮戦争の最前線基地として使用される。
1960年代 ベトナム戦争激化とともに、出撃拠点に。B52の墜落事故。
1960代末。ベトナム反戦、本土復帰闘争が発展。全軍労がストライキ
1970年 コザ暴動。
1972年 「本土復帰」。革新県政が1978年まで続く。その後、保守派の西銘に。
1990年 3期12年にわたる西銘順治(1978年初当選)をやぶり、大田昌秀革新知事誕生。
1995年 少女レイプ事件。8万5千人の県民抗議集会。これは復帰後初めての大規模の行動となった。
1996年 SACO合意。5年から7年以内に普天間基地の全面返還。
1997年 代替として辺野古へ移設・新基地建設を明らかに。名護市住民投票で、基地受け入れ反対が多数。市長が辞任し、選挙で再度受け入れ派が市長に。
1997年 大田知事は使用期限切れとなる米軍用地の契約更新をしない地主の土地強制代執行を拒否。すでに飛行場となっている土地が、契約なしで使えなくなる。2015年をめどに全基地を返還させる「基地返還アクションプログラム」、返還後の中部一帯を国際都市とする「国際都市構想」を立案した。初めて基地からの脱却による県づくりの青写真を描いた。
1998年 知事選で稲嶺恵一に敗れる。稲嶺は軍民共用・15年使用期限案を打ち出し、政府と悪化した関係の修復による経済振興策をうちだした。
1999年 県議会早期県内移設要請決議を25対19で可決。
2004年 新たな基地建設に必要な環境アセスメントのため、辺野古沖ボーリング調査阻止攻防が始まる。ジュゴン裁判始まる。
2004年8月13日 沖縄国際大学に米軍ヘリ墜落。
2008年 県議会名護市への基地移設反対決議可決。民主党県外移設を初めて明言。
2009年 総選挙で民主党圧勝。政権交代。
2010年1月 名護市長選で基地反対派の稲嶺進が初当選。鳩山首相、県外移設を模索するが結局、辺野古案に逆戻り、退陣。
2012年 すべての市町村長議会でオスプレイ配備反対決議。10月1日、MVオスプレイ普天間強行配備。
2013年1月 すべての市町村長がオスプレイ配備反対・基地県外移設の建白書。3月 政府・辺野古沖埋め立て申請。4・28「主権回復の日」として独立式典、沖縄は「屈辱の日」として抗議。8月 米軍ヘリ墜落事故。オスプレイ追加配備に抗議行動。オスプレイ米国内で墜落事故。与那国町町長選で自衛隊誘致派の外間が47票差で当選。10月 オスプレイ、滋賀県あいばの自衛隊基地を使い、日米共同訓練。本土の防災訓練にも参加。12月 自民党沖縄県連、 県外移設を撤回、辺野古基地建設容認。
2014年1月19日 名護市長選。

 


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