イタリア
10・18、10・19 新しいタイプの大デモ成功 異なる未来を欲し、中道左翼の
幻想もたない民衆はっきり登場
アンドレア・マルチニ |
イタリア政治の深刻な不安定性、事実上の機能不全は、つい先頃のベルルスコーニをめぐる大騒ぎでもあらわとなった。しかしその裏側には、労働者民衆がこうむっている深刻な生活破壊、権利破壊の進行がありながらも、先の状況への労働者民衆からの行動対置を何ら組織しようとしない労働組合運動の問題がある。この状況を打ち破ろうとする、運動現場を主体とした新しい動きが一〇月一八・一九日、重大な節目となる大デモを成功させた。以下に、そのデモと背景、また政治的意味を伝える現地からの報告を紹介する。(「かけはし」編集部)
下部の独自ゼネストが成功した
一〇月一八、一九日の決起に彩られた特別な二日、数万人の労働者、若者、移民、さらに環境運動活動家たちが、平和的にローマの街頭を埋め尽くした。
二〇一三年の秋は、危機の秋、工場閉鎖、諸々の切り下げと私有化、貧困の広がりをはらんだもう一つの秋となった。しかしこの秋は、多くの年月の中では始めて、労組ナショナルセンターによる行動が何一つ――二、三時間の行進というCGIL(イタリア労働総同盟、イタリア最大の労組ナショナルセンター、主要ナショナルセンターとしては他に、CISL〈労働組合連盟〉、UIL〈労働総連合〉がある:訳者)の儀式的行動の一つですら、あるいはベルルスコーニへの反対派であった年月ではそれが普通となってしまったようなものですら――見られないものとなった。
ここでわれわれは、いわば「友好的政権」について語っているわけではない。なぜならばレッタ――アルファーノの幅広い合意に基づく現政権が、そのスタイルと社会経済諸政策の実質双方において、一年前の政権(モンティの)と自身を区別しようとの挑戦をまったく行っていないからだ。
それこそが、下部現場労働者の主要組織(USB、CUB〈下部統一同盟〉、COBAS〈下部委員会同盟〉)によって一〇月一八日に向けてとられたゼネストの組織化が、その性格を転換させた理由だ。その呼びかけはこれまで、伝統的に前記ナショナルセンターが組織する秋のストライキと関連づけられてきたのだった。今回のストライキへの参加人数は「公式」データにおいてすら、抗議活動によって完全に活動を止められた相当数の諸都市という形で、多数の公共部門における、また保健サービスや特に公共運輸の多くの支部における、重要な支持度を確証しているように見える。
そして大きなデモがあった。そこには、公共部門と私有企業部門の多数の労働者、同様にUSBが組織した多数の移民労働者が参加、またCOBASメンバーの予想以上の参加もあった。
その日は特にローマでは、長い一日だった。なぜならば伝統的な午前のデモが、サンジョバンニ広場の演壇における力強い諸発言、また同様に多くの「発言コーナー」と一体となって午後にまで延びたからだった。それらの発言の中では、今日の欧州政治と労働組合に関する発言が特によかった、と私は考えている。 この日の終わりには、バンダ・バソッティや99ポッセ、またアスカニオ・セレスティニ、アサルティ・フロンタレその他のような多くのアーチストの支持の下、コンサートが行われた。そして何百人もの活動家は、闘いの二日目を待機しつつテントで、夜通し広場にとどまった。
エリートの敵対はねのけ大デモ
一九日の土曜日、広場には、「ノーTaV」、また「ノーMuos」のような、さらに焼却炉反対や廃棄物処理場をめぐる諸々の委員会のような、居住権防衛や環境保護の運動が組織した何千人というデモ隊の間断ない到着があった。
この土曜日のデモは非常な成功だった。それは前日よりも大きかった。何万人というデモ参加者――もっとも現実的な諸々の評価はその数として、五万人から一〇万人の数字をあげている――が、公共の治安に責任を負う当局がつくり出した包囲状態、並びに緊張した空気の中で何時間もデモ行進した。
この空気は、二年前の一〇月一五日に起きた諸々の事件の再現を捜し求めたあらゆるメディアによって貯め込まれていた。そのすべて、また何百人という警察官や武装機動部隊の放任の中でファシストのカサパウンドが仕掛けた恥ずべき挑発にもかかわらず、このデモは、いかなる大事件も無秩序もなく終了した。それは、このデモの組織者やデモ参加者の政治的団結と真の決意をはっきり示した。
ただ一つの混乱は、実際財務省入り口の前で起きた。それは、税務警察の一部隊が、何者かがいくつかの卵とビンをその機関に向け投げつけたという理由で、デモ隊を不意に急襲した時だった。しかしその機関は、何百万人という市民の未来を破壊しつつある社会的虐殺に責任のある主要機関の一つなのだ。われわれは、これらの事件に関し、そして逮捕が行われたことに反対して、マルケス地区の同志たちを通して公式声明を発表しようとしている。
デモ隊は長い道のりを経て、建設省前の広場に着いた。この機関は、住宅政策と環境を破壊している大規模公共事業双方に責任を負っている。ここでデモ隊は再度、自身を野営に転じた。それは、上記の社会問題と環境問題の解決を求める、建設相、ルピと運動の代表団との約束済みの会談を見越したものだった。この一文を書いている時点でキャンプは今も続いている。 自立的決起と統一が与えた衝撃 この二日に起きた諸々のできごと――その重要さについてわれわれは、九月二〇〜二二日の創立会議の結論的文書の中ですでに予示していた――を超えて、またそれ以上に、起きたことは何か新しいもの――残忍な経営者と政権の攻撃にもかかわらず、懸念を呼ぶような受動的な反応が続いてきたイタリアのような国における、社会的凪に開いた最初の重要な裂け目――を示している。
何万人という労働者、若者、移民たちが、労組機構や政治機構の支持を受けることなく、国家機関としていつでも全員の役に立たなければならないと想定されている鉄道システムのボイコットを受けてさえ、街頭に出、デモを行った。その行動は、制度的政治世界のあからさまな無関心という状況の中で起き、敵対的なマスメディアによって反対された。
このできごとは、公然と見捨てられた都市の中で、運動への犯罪視と包囲状態の空気の中で起きたという事実と並んで、近年では前例のない政治的重要性をもっている。二〇一一年一〇月一五日のデモにはもっと多くの人々がいたということは、おそらく本当だ。しかし当時そこには少なくとも、FIOM(イタリア金属機械労組)とARCI(イタリア余暇・文化協会)の小さな機構があった。そしてそれらが、デモの数を膨らます上で助けとなった。
それ以上に言うべきこととして、この二日の主導性の間にある種の中継あるいは結びつきをもたらすために、金曜日と土曜日双方の組織主体が行った慎重な選択は、緊縮と親経営の諸政策に反対してさまざまな戦線で闘っているすべての社会運動の間の統一した収斂という道、そうした前進に向けた健全な道を指し示している。一八日のストライキが助けとなって、この統一戦線の枠内において、組織された勤労民衆が負う特別の役割が生まれている。
安定法反対の地域抗議ストライキを呼びかけるという、デモ翌日にカムッソ(CGIL書記長)、ボナンニ(CISL事務局長)、アンジレッティ(UIL総裁)が行った決定は事実上、ナショナルセンター機構の気遣いの結果であるように見える。それは、他の部門の労働者がこの週末に起きたもっと急進的な部門の諸闘争に合流することを避けようと試みる気遣いだ。先のデモには参加しなかったこれらの他の部門は、危機によって厳しい打撃を受けつつあり、CGIL、CISL、UILの全面的な受動性によって、行動に移るどのような機会も奪われているのだ。
二つのデモの違いが示す課題
われわれはまた、一〇月一八、一九日というこれら二つの「赤い」日々に先立つ一週間前に行われた全国デモにも触れる必要がある。ここでわれわれが言及しているものは、「ラ・ヴィア・マエストラ」(前進への最良の道)デモのことだ。それは、中でもマウリツィオ・ランディニとステファノ・ロドタが最初の署名者となったアピールから生まれたものだった。この呼びかけの明示的なまた暗黙のあいまいさに関してわれわれはすでに書いてきている。
言われなければならないこととして、一九日のデモは、一二日のそのデモが及ぼす影響力を完全に影の薄いものにした。それは、一九日のデモが規模で後者の二倍となったからだけではなく、そこにはいわば異なった社会的政治的基礎があったからでもある。一二日にわれわれが見たものは、労働者運動と左翼運動の深刻な弱体化の結果として打ち負かされ、反ベルルスコーニ主義の孤児となっている左翼の民衆、歴史のフイルムの巻き戻しが可能であると、つまりこの歴史的な時期にはまさにありそうになくなっている社会的妥協と政治的共同統治の世界への回帰が可能であると、今も信じている人びとの、不機嫌な行進だった。
一方一八日と一九日にわれわれが見たものは、怒りに満ち、異なる未来を欲してデモに立ち上がった、しかし中道左翼との結びつきには可能性がまったく存在していないことについていかなる幻想ももっていない、そして直接行動と大衆的自己組織の必要性をますます多く理解するようになっている、そのような民衆だった。
一八・一九日と一二日の間にある違いは、一九日のデモ推進者に対する犯罪視に関する一二日の推進者何人かの共謀が二つの決起間でのあり得る対話を助けていないとしても、穏健派と急進派という単純な対置に切り下げられてはならない。上に見た違いは、一二日にデモに立ち上がった何万人という人々が無力な穏健派に不可避的に運命付けられている、ということを意味しているわけではないのだ。実際われわれは、FIOMやSEL指導部がばらまいている幻想の打破に向け、また誰がわれわれの真の同盟者であり真の敵であるか、また同様に誰がわれわれの偽の友であるか、その理解への到達に向けて、一八日と一九日から生まれたものが何らかの急速な再考に刺激を与え、一つの枠組みを提供できるように、全力で努力する必要がある。
これが意味することは、わが国の政治的現実が転換したということでも、一九日にデモを行った「諸運動の運動」が先の転換をもたらす上でそれ自身で十分であるということでもない。このタイプの運動と共に建設的に活動できる政治的主唱者の不在は、脱政治化並びに極端論や運動自決主義への漂流を育て得るのだ。
労働者運動との関係における明瞭さの欠落、何らかの程度で階級闘争派労働組合にまで及びつつある危険性をはらんだ諸々の労働組合に向けられるある種正当な懐疑は、自ら望んで落ち込む孤立主義への危険、また労働世界で一定の最低条件を確保し何らかの権利をもつ者たちとそれをもたない者たちの間での閉じられた対置を再確認する危険を宿している。
しかしすべての問題は、机上での学問的な議論でよりも、具体的な大衆的決起の心臓部でもっとも良く処理される。 ▼筆者は、「シニストラ・アンチキャピタリスタ(反資本主義左翼)」ウェブサイト記者。(「インターナショナルビューポイント」二〇一三年一〇月号
ボー・グエン・ザップ将軍(一九一一〜二〇一三)死す
ベトナムの解放を先頭でけん引
ピエール・ルッセ
〔ボー・グエン・ザップ将軍が満一〇二歳で、二〇一三年一〇月四日にハノイで死去した。一九三〇年代以来の反植民地主義の戦士であり、共産党員であった彼は、最も著名なベトナムの政治・軍事責任者であり、特にフランス帝国の弔鐘を打ち鳴らしたディエン・ビエンフーの戦闘で果たした彼の役割によって知られている〕。
革命戦争を勝
利に導く役割
彼が側近だった「ホーおじさん」で知られるホー・チー・ミンの死後、彼は、国際的に知られたベトナム共産党の唯一の指導者となった。彼以外のベトナム共産党の多くの幹部が彼よりも知られるに値する人物であっても、彼のこの権威が奪われることはなかった。
集団指導部の中にあって、ザップは、日本、フランス、アメリカの占領に対して三〇年代に「武装宣伝旅団」結成の任についた。この旅団が、一九四五年の八月革命、ベトナム独立宣言とその後の一九四六年のフランスの新たな侵略を受けて、ベトナム人民軍となり、彼はその総司令官になった。
一九五四年、彼は、フランス植民地帝国への弔鐘を打ち鳴らすことになったディエン・ビエンフーの戦闘でベトナムの勝利に貢献する大きな役割を果たした。一九六〇年代に指導的地位から一時身を引いた後、ベトナム戦争の最後の局面、一九七三〜一九七五年の攻勢において中心的責任者の地位に再びついた。この攻勢が、サイゴン政権の崩壊とアメリカ軍の最後の部隊の混乱のうちの敗走をもたらしたのだった。
現実に即した軍
事と政治の思想
当初、ベトナム軍事思想と解放軍の組織化はそれ以前の毛沢東主義と中国人顧問の支援に大きく負っていた。「人民戦争」の原則も同じであったのであり、この軍事思想はさまざまなベトナムの状況に適応させる必要があった。中国のように広大な大地と膨大な人口を利用したり、帝国主義相互間の対立に乗じたり(一九四五年を除いて)することは、ベトナムでは不可能であった。ベトナム共産党はとりわけ、これまでにかつてないような国際的な政治的、外交的な活動舞台を拡大し、実に多彩な連帯運動の発展を支援し、それによって中ソ対立によってベトナムが受ける損害を減らし、和平交渉において自身の権威を徐々に認めさせていった。
組織的な軍事的動員と民族解放戦線と社会革命との間の結合が、いわゆる「人民戦争」の基本原則のひとつとなった。この分野において、ベトナムのすべての基本テキストは、対極的な二つの偏向の危険を強調している。
一方は、急進的すぎる社会的政策によって民族解放的側面を過小評価する「左翼主義」であり、もう一方は、農地改革への農民の期待に応えることなく農民大衆の士気をくじく「日和見主義」である。ボー・グエン・ザップの著作の独創性は、一般性だけに甘んじることなく、ベトナム共産党が誤りを犯したときにも、簡潔にその点を指摘していることである。
戦争を知らな
い世代も追悼
ザップは、一九六九年に死亡したホー・チ・ミン亡き後の政治局内でその地位を後退させたが、まれな発言の自由を確保し、一方における党指導部内の〈強硬派〉と中国モデルと「左翼的」誤り(北ベトナムにおける農地改革の誤り)を、他方における(世界市場への全面的な開放という誤り)「右翼的」誤りに反対する闘いを展開した。彼はさらに、南ベトナムの高原地帯での中国による露天掘りのボーキサイト鉱山開発の巨大な破壊的プロジェクトに反対する彼の最後の闘いのひとつを展開し、これは一定の成功を収めた。
一九九六年に中央委員会を退いたボー・グエン・ザップは、ベトナム共産党指導部の中の「聖人」の列におさまってしまうことなく、全世界においてもベトナムでも非常に大きな権威を保持し続けた。とりわけハノイ、生まれ故郷のクアン・ビン省、ホーチミン市(サイゴン)、などの町での一〇月一三日の彼への公式の追悼式典に多くの人々が参加したことはそのことを証明している。北でも南でも、とりわけ戦争を知らない若者の参加が目立つなど、多くの人々が自然発生的に追悼式典に参列した。
『ランティ・カピタリスト』(二〇一三年一〇月一七日号、『反資本主義者』、フランス反資本主義新党=NPAの機関紙、『トゥ・テ・タ・ヌー』から機関紙名を改称)
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