もどる

    かけはし2013.年10月28日号

5年前の日本の事態と酷似


映画〈靖国〉とそっくりの〈天安艦〉?

上映中止と保守右翼の暴力的圧力

  「試写会の段階から脅威が感じられ、映画の封切後、プログラマーたちに対するののしりや観客を脅すという正体不明の電話がひっきりなしにかかってきて、観客の安全を考慮しなければならなかった。映画配給社と協議・合意を経たものであり、突然の上映中止は我々も残念に思っているところです」。

軍部の暴走許した痛恨の過去


 大規模劇場チェーンのメガボックス側が映画〈天安艦プロジェクト〉の突然の上映中止決定を下した背景に関して、9月1日付〈ハンギョレ(新聞)〉に載せた内容だ。劇場側は外圧の正体について具体的な言及を避けたけれども、これらの正体を判断するのは難しくはない。
 映画界では「北韓(北朝鮮)軍の魚雷攻撃による沈没」という政府の公式発表をそのまま受けいれず、座礁説など天安艦事件をめぐるさまざまな疑惑を暴いたこの映画の大衆的公開が気にくわないと思っている保守勢力や右翼団体を指摘している。
 上映2日間にしての中止というのは映画史上、例をみない。今回の事件は、「表現の自由」という民主主義の基本原理が外部の暴力によって甚だしく侵されたという点で、憂慮すべき事態だというのが衆論だ。特に保守メディアの映画批判、正体不明団体の上映中止の脅迫、劇場側の中止の措置へと連なった一連の過程は、5年前に日本で1本の映画をめぐって繰り広げられた事態とそっくりだという点で深刻な様相を帯びる。保守右翼の暴力的圧力が奇襲を招く日本社会の雰囲気を韓国社会が踏襲しているのではないかという憂慮からだ。
 2008年4月、日本では表現の自由をめぐって大きな波紋が起きた。中国人リー・イン監督のドキュメンタリー映画〈靖国〉の上映を前にして、20歳の右翼青年が東京・銀座の映画館に上映中止を要求する街頭宣伝活動を繰り広げたことが発端となって、東京、大阪など5カ所の映画館が上映中止の決定をしたことが背景だ。この映画は日本に居住している中国人監督リー・インが1997年から10年をかけて、靖国神社で「靖国刀」最後の工匠が刀を作る過程を中心にして、8月15日の靖国神社周辺の表情を盛り込んだドキュメンタリー映画だ。自民党の稲田朋美議員(現・行政改革相)ら保守派の議員たちは、この作品が文化庁の傘下団体から支援金750万円を得た点を根拠に挙げて、「政治的背景のある映画に助成金を支給したのは問題がないのか」として2007年末に事前の試写会を要求し、これを貫徹した。
 これに乗じて日本の保守メディアが批判の刃を振りかざした。〈産経新聞〉は「中国側が反日の宣伝に使用している(日本軍が中国人を斬首した)写真などが使用され、政治的中立性が疑われる映画に助成金が支給されたのではないのか」として論争に火を付けた。封切を前にして日本の保守雑誌〈週刊新潮〉が、「中国人監督が作った『反日映画』」だと、はなから烙印づけた。
 結局、右翼団体の圧力に屈服した映画館側が、上映を中止したり延期するという事態に発展すると、当時の渡海紀三朗文部科学相は「あってはならないことだ。誠に遺憾であり、再発しないように(文部省としても)何とかしなくてはならない」と憂慮した。その時まで比較的、淡々と報道していた大多数の主流メディアも、表現の自由が脅かされているという点を指摘し、批判の報道を集中し始めた。旧日本軍が太平洋戦争へと駆け上がる過程で〈朝日新聞〉などが右翼のテロの脅威に屈服し、戦争支持の論調へと方向を旋回し、軍部の暴走を許容した痛恨の過去が繰り返されてはならないという日本の主流メディアの自己反省が提起したものだ。

監督他殺の疑惑まで起きる

 この渦中で、意外な反転の事態が展開された。右翼らのありように対する非難が高まると、民族右派と言われている「一水会」の木村三浩代表が、「映画を見て判断しよう」と右翼団体に連判状を送った。これにより2008年4月18日、東京のライブ・ハウス「ロフト・プラスワン」で、右翼活動家110人と報道陣80人が集まった中で試写会が行われた。試写会が終わった後の品評会の評価は、予想とは違って一方的ではなかった。翌日の〈日本経済新聞〉の報道を見ると「根底に流れているのは反靖国、反日の歴史観だ」「文化庁が反日映画に助成金を出したのは問題にしなければならない」という予測可能な評価もあったけれども、「反日だと考えることはできない」「靖国反対派よりも民族派側が確実な信念をもって参拝していると考えられる面もある」とするなど肯定的な評価も少なくなかった。特にこの映画が文化庁の公的資金を受けたことについて訴訟を行わなければならないとする一部の主張に対して、「我々も助成金をもらって親靖国の映画を作り反論をすればよい」という、それなりの合理的な声も提起された。「さして大げさでもない作品なのにメディアが煽りたてた」として右翼メディアに批判の矢を放つ声もあった。
 〈靖国〉をめぐって映画館側が示した態度は、〈天安艦プロジェクト〉の場合とそっくりな面もある。当時、映画上映中止も決定した映画館5カ所の中で直接的な圧力を受けたと語ったのは1カ所にすぎないことが明らかになった。右翼の報復が恐くて「勝手にへいこら」したのだ。韓国ではメガボックス側が怪団体の脅迫をあげたてたけれども、保守団体の中で劇場側に圧力をかける、あるいは脅迫したという所は現れなかったとの報道も出ている。従ってメガボックス側が外圧を口実にした側面も排除できない、という指摘がある。
 日本では〈靖国〉事件以前にも、映画に不満を抱いた勢力の暴力によって、表現の自由が侵されるというレベルを超えて、映画監督が疑惑を残したまま命まで失った事件もあった。日本の有名な映画監督伊丹十三(1933から97)の疑問死が、その代表的なケースだ。名俳優出身の伊丹十三は1984年に51歳というまだ若い歳で〈お葬式〉で監督デビューして、評壇や観客から多くの支持を得た。日本アカデミー賞をはじめ、その年のさまざまな映画賞をかっさらった。
 以降、俳優である妻を映画の主人公にかつぎだした〈マルサの女〉、〈スーパーの女〉など「女」シリーズや〈大病院〉〈タンポポ〉など「興行」と「好評」という2兎を追い、いずれをもつかまえる問題作を次々に繰り出した。問題は彼がヤクザ(組織暴力団)や右翼団体など、日本社会のタブーに挑戦し、洒落、ユーモアをないまぜてこれらのありようをからかった、という点だ。
 「ヤクザの脅迫は市民が勇気をもって賢明に行動すれば追い払うことができる」という内容を盛り込んだ〈ミンボーの女〉上映の1週間後の1992年5月22日の夜、彼は自宅近くで刀を持った日本最大のヤクザ組織山口組の構成員5人から襲撃され、顔面と両腕などに全治3カ月の重傷を負った。その翌年の1993年6月、自称右翼の男が〈大病院〉が上映中の映画館に乱入し、スクリーンを刃物で切り裂く事件を起こしたりもした。
 日本の暴力団の80〜90%が、その傘下に右翼団体を従えている点を考えれば、暴力団体の狼藉には右翼団体が関係しているという解釈が有力だ。

敏感な素材の映画化は減少

 右翼たちのテロや脅しにも屈しなかった伊丹は1997年12月20日、東京の自宅の下で変死体で発見された。それに先立ち、日本の写真専門週刊誌〈フラッシュ〉に伊丹の不倫疑惑を提起する記事が載った。警察は「身を投じて潔白を証明します。何事もなかったというのは、これ以外の方法では立証できません」という内容の遺書を根拠に、自殺と結論づけた。だが遺書が自筆で書かれていない点や平素、伊丹が自殺する性格ではないという点などを理由に、殺されたという主張が提起され、他殺という内容のノンフィクションの作品も作られた。
 経緯がどうであれ、伊丹の死によって、日本社会が敏感な素材を映画に仕立てようとする動きが減ったことだけは明らかだ。〈天安艦プロジェクト〉の上映中止の過程で現れた一連の過程が、日本のそれに似ているという点で、今回の事態の結末が日本の前轍を踏んではいけないのではなかろうか。(「ハンギョレ21」第979号、13年9月30日付、キム・ドヒョン〈ハンギョレ〉経済国際エディター/元東京特派員)

「パク・クネ」の将軍たちと武人の乱

停戦60年、政治の最前線に浮上

 そうだ。「武人の乱」だ。
 韓国政治の最前線に武人たちが立った。停戦協定60周年(7月27日)に軍靴が乱舞する。「北方限界線(NLL)作戦」は成功的だった。国家情報院の大選(大統領選挙)介入と現政権の連係疑惑を1発で反転させた。民主党の支離滅裂まで加えつつ、政府・与党が守勢から攻勢に転換する決定的な橋を架けた。陸軍士官学校出身の先輩・後輩4つ星将軍たちの合作品だ。ノ・ムヒョン元大統領のNLL放棄発言という「実体のない論難」を創造し、休戦ラインの緊張を対国民、対野党政治のど真ん中に引き込んだ。「情報機関の民主主義蹂りんとパク・クネ大統領の責任糾明」という鮮明な争点に濁ったゴミを注いだ。パク大統領が安保ラインの核心に3人の人物を配置しようとした時から、それは予見されたことだった。アボジ(父)が基礎を築いた「武人の国」は辺境に引き下がっていると思っていたのに「娘の時代」を迎え、捲土重来の形だ。武人たちが主導する「冷戦」の旧態が、還暦を迎えた「停戦」をからめ取っている。
 そうだ。「武人の乱」だ。

ナム・ジェジュン、キム・ジャンス、キム・グワンジンが引きおこした波風

 ナム・ジェジュン国家情報院長、キム・ジャンス青瓦台国家安保室長、キム・グワンジン国防部長官。国民を相手に乱を引きおこした将軍たちだ。順に陸士25期、27期、28期だ。ナム・ジェジュンは12年ぶり(キム・デジュン政府後半のイム・ドンウォン院長以降)の軍人出身の国情院長だ。参与政府とイ・ミョンバク政府を経てきた「文民国情院長」の伝統を、パク・クネ政府は簡単にひっくり返した。キム・ジャンスはナム・ジェジュン(36代)の後を受けて37代陸軍参謀総長を務めた。キム・グワンジン(2004〜05年)はキム・ジャンス(2003〜04年)の後を受けて合同参謀本部(合参)作戦本部長を歴任した。ナム・ジェジュンも2000年、同じ職を担い、キム・グワンジンは合参議長(2006〜08年)に上った。ナム・ジェジュンとキム・ジャンスは韓米連合司令部副司令官としても働いた。先輩が歩んだ道を後輩が歩き、先・後輩は「パク・クネの将軍」として出会う日を準備した。パク・フンニョル青瓦台警護室長(陸士28期)まで合わせれば現政府の要職に陸軍参謀総長の出身だけで3人だ。「陸士全盛時代」も、パク大統領が「アボジの時代」から復元した伝統だ。
 そうだ。「武人の乱」だ。
 似通った背景や経験を共有した人々が「NLL作戦」において一体となって動いたのは当然のことだった。ナム・ジェジュンが先鋒を担った。大統領記録物法に違反しつつ、南北首脳会談の対話録を公開(6月24日)したが、与野の対話録閲覧直前(7月10日)には勝手な有権解釈(ノ元大統領がNLLを放棄)によって「歪曲の楔」を打ち込んだ。論難を触発した国情院が、論難を収拾するための国会の努力まできれいに無視してしまった形だ。
 「対話録読者法」まで提示しつつ政局に影響を及ぼそうとする露骨な政治行為だった。国情院に降り注がれている改革の要求も「自ら判断してやっていく」として線を引いた。翌日(7月11日)にはキム・グワンジンの国防部が加勢した。「2007年の南北首脳会談で言及された共同漁労区域の設定は、NLLの放棄だと解釈できる」として国情院を援護した。2007年に参与政府の国防長官としてノ元大統領のNLL守護の意志を確認していたキム・ジャンスは一貫して沈黙することによってパク・クネ政府の「武人たちの政治」に加担している。
 そうだ。「武人の乱」だ。
 実際、ナム・ジェジュンが「チョン・ジュンブの乱」(注)に言及したのかを巡って論難が起きたことがある。2004年、陸参総長時代にノ元大統領の軍司法体制改革に反発して出てきた話だ。「(武人の乱は)武人を無視し文人を優待した結果」だとして軍の文民化の試図に強い不満を表した、との報道があった。ナム・ジェジュンについて「保守軍人精神のアイコン」という評価が出てくる理由の1つだ。
 ナム・ジェジュンと国防部は発言の事実を否定した。ナム・ジェジュンは機会があるごとに自らを「戦士」だと規定した。歴代の中で最も短かったと言われる国情院長就任のあいさつで、彼は「戦士になる覚悟ができている」「皆さんも戦士としての覚悟を持ってくれ」と注文した。彼は2005年4月、陸参総長を退くに際し「本人の価値観と所属組織の名誉のために命を捧げることのできる姿勢」を戦士の条件として提示した。「死ななければならない時に死ぬことのできる軍人」だとも言った。ナム・ジェジュンはNLL対話録公開の理由も「国情院の名誉のため」(6月25日、国会・情報委員会)だと説明した。国情院という組織のためならば、彼は命を捧げてでも、どんなことであれやることができる、と語っている。

冷戦をエネルギー源として動いている諸勢力

 そうだ。「武人の乱」だ。
 韓国の国情院や軍隊にあっては冷戦は「生存のエネルギー源」だ。政権批判勢力を「従北」として追い立て、絶えず「一掃の対象化」として組織の保存を計ってきた。高麗末期であれ、パク・クネ政府初期であれ、武人の乱の核心は「武人たちの生存権闘争」だ。韓国現代史はチョン・ジュンブの乱が起きた時とは正反対の時代をかき分けてきた。文人による武人差別が高麗末期の乱の原因だったとするならば、韓国現代史は無所不為(できないことは何もない)の権力を持った武人たちとの闘いの歴史だった。数多くの犠牲を通じて武人の影響力を縮小させてきた歴史に逆らって武人たちを政治の前面に再び呼び出した人物が、まさに「武人の娘」パク大統領だ。彼らの骨肉は、そのようにしてつながっている。
 停戦60周年を迎え〈ハンギョレ21〉はレッテル張りと特定の政治権力への追従を強要し、組織保全の動力を確保してきた軍の教育システムを探ってみる。「戻ってきた軍靴の歩み」が冷戦の足跡として政治の最前線を満たしている現実こそが、「停戦体制の平和体制への転換」の必要性を切実に傍証している。(「ハンギョレ21」第971号、13年7月29日付、イ・ムニョン記者)

注 チョン・ジュンブ(鄭仲夫)、高麗期の武臣で武人政権の創立者。1170年、毅宗の護衛にあたっていた際、随行の文臣を斬り、さらに毅宗を廃して明宗を立て政権を手に入れた。


もどる

Back