「緑化事業」をご存じですか?
死亡した人たちに一言の謝罪もない国家
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ひと月ほど前に大学同期の友人から電話があった。低い声で、再審を請求したいので弁護士を紹介してくれという話だった。彼が事件を説明し始めてやっと大学1年の時に強制徴集され、軍隊で保安司(保安司令部)に引っぱられて行ったことをうっすらと思い出した。
運命の1981年11月デモ
1981年11月25日、学校の石造りの建物の屋根まで燃えあがるように紅葉していたツタの葉も散ったその秋の日は、授業を受ける前に昼酒でも飲むのにピッタリな実にのどかな午後だった。けれどもその日は大学1年生だった私にとっても、電話をかけてきた友人にとっても運命の日だった。
私は1日中、学校の校庭のそちこちで行われていた学内デモを見守る見物人だったけれども、その日のデモを契機に運動圏の人間となった。友人は激烈だったそのデモに参加した後、強制徴集された。軍に引っぱられて行ってから7カ月ほど過ぎた1982年6月、彼は保安司に連れていかれ、むごい拷問の末に国家保安法違反の犯罪者となった。そしてその日、彼とともに強制徴集されていた友人チョン・ソンヒは結局、生きて戻ってくることはなかった。
晩秋のその日の午後、授業を受けている講義室にまで催涙弾の臭いが流れ込み、もはや授業を続けることの出来ない状況だった。その日のデモは激しい投石戦だった。学生会館の4階から2年の女学友がデモを主導している最中だったが、捕らえに上がってきた警察を避けようとして、そのまま地面に墜落した。学生会館前に集まっていた学生らが女学友を病院に運ぶために押しよせた。そこに警察は催涙弾を撃ち込み学生らを続々と連行した。
4階から落ちた人が死んだのか生きているのかも分からない危急な状況にあって、連行する時から腹立ちまぎれにやり返している警察のありようはデモ隊を一層、怒らせた。血走った目で極度の興奮状態になっていた学生らは校庭の至る所で石を割っては飛ばし、投石戦を展開した。けれども私は夕方ごろまで続けられたデモに、心で葛藤するばかりで合流できなかった。
その日の学内デモで連行された学生たちはごっそり強制徴集され、その中に電話をかけてきた友人もいた。バリケードの警戒勤務を終えてペバ部隊(戦闘地域専担)に配属され野戦訓練に跳び回っていた折に、休暇で出かける古参部隊長に、運動の仲間や先輩にあてた手紙を1通の投函を頼んだ。その部隊長は彼によくしてくれていた人だったので信じて、検閲にかからない私信を送ることができた。それからいくらも経ずに、父母が面会に来ることになっていたある土曜日の午前中に中隊長が彼を呼んだ。中隊長は、所持品をまとめろと指示した。
そのままジープに乗せられ目隠しをされたままソウルの保安司・厚岩洞分室(南洞洞分室だとも言われる)へ引っぱられて行った。到着するやいなや彼は一方的な殴打を受けなければならなかった。彼らは、どうもこうもなく、部隊で短波ラジオを使って北韓(北朝鮮)放送を聴いていたと自白することを強要したという。体格のよい彼は拷問にもかかわらず、その要求だけは拒否した。むごいプロセスを経た後に国家保安法違反容疑で、軍法会議で執行猶予で釈放され、軍生活を終えた。
もう30年も過ぎた話を彼は解き明かした。弁護士の前で、陸軍本部から受けた判決文1つを前にして当時の状況を説明したけれども、判決文には彼が被ったむごい拷問の話はなかった。幸いにして捜査記録が残っているのならいざ知らず、再審の垣根を超えるのは簡単ではなかった。
「緑化事業」を強制される恐怖
強制徴集はその友人の話だけではなく、私の話でもあった。1983年4月28日、学内デモで警察の取り調べを受けた後、強制徴集された日だった。江原道楊口の21師団訓練所を経て金剛山の最南端の峰と言われるカチル峰近くの一般前哨(Gop)バリケード勤務に配置された。私の一挙手一投足はすべて報告されていた。
小隊長は冒頭から保安司に報告を上げなければならないことを語りつつ動向を把握したけれども、内務班の誰が保安司の手先なのかは分からなかった。手紙はいつもハサミで開封され、手紙の主要な部分にはこれ見よがしに赤いサインペンでアンダーラインが引かれていた。同じ小隊に強制徴集された特殊学籍変動者が実に4人もいたが、そのうち1人は学生運動とは縁のないケースだった。その彼を除いた我々は、いつ緑化事業に引っぱられて行ってフラクチ(注)を強要されるか分からないという恐怖をもって過ごさなければならなかった。
師団・連隊の保安隊に呼ばれて行き「私の20年」という自叙伝を数限りなく書いた。強制徴集者たちは、若くして早々と自叙伝を書いていたという訳だ。生まれてから今日まで私の成長過程を、A4の用紙にびっしりと書き出さなければならなかった。彼らの目的は結局、どのぐらい「意識化」されているのか、学生運動をどのぐらい熱心にしていたのかを把握することにあったので、たいがいは本1冊程度しか読んでいないと書き、知っていることは概ねシラを通して知らないと書くのが常だった。
そうすると、その中で疑われる点をたずねては再び書かせた。もちろんそのたびに、そうひどくはなかったけれども暴力が加えられた。再び書き、また再び書き…。そして休暇の時になると保安隊に呼ばれていった。休暇になったら、どこそこの工事に行け、と言った。そこに行って学生運動圏の動向を報告せよ、というものだった。当然にもそんなことはしなかったけれども、私はC級にしかならなかったので、そのようにして大方を乗り越えることができた。
実際のところ、当時の我々にとって軍隊は入隊前から恐怖の対象だった。まず強制徴集された同期生チョン・ソンヒが軍隊で死んだという話を聞いたのは1982年7月だった。彼が強制徴集された後、初の休暇で出てきたのが6月だった。さして特異事項はなかったのに帰隊後半月ほどして彼が亡くなったという知らせを聞いた。私は彼と何の面識もなく、彼と一緒に学生運動をしたこともなかったけれども、彼と一緒だった仲間の連中を通じて彼の消息を聞いた。そして、ある時あたりから強制徴集された後、休暇で出てきた仲間たちがフラクチを強要されているという話を聞いた。たとえどうあろうと、どうして運動している仲間や組織を売り渡すことができるだろうか。
我々は監獄には行ったとしても軍隊には行くまいと誓った。犬死ににされるかも知れないという恐怖感が学生運動をしている我々にあったのだが、私もまたその恐怖の道に入った形となってしまった。軍生活をしている間中、ぴんと張った緊張感を維持しながら過ごさなければならなかった。不幸中の幸いで緑化事業に引っぱりこまれはしなかった。1984年に強制徴集で亡くなった6人の大学生のための追悼祭もあったし、国会で強制徴集と共に緑化事業の不当性を暴露することがあってからは緑化事業が止まったからだった。
銃で撃たれた学生の遺体
1970年代の緑化事業は丸裸のハゲ山に木を植えて緑を作るという事業だった。それでは、我々がおののかなければならなかった緑化事業とは軍が山に木を植える事業だったのだろうか。公式的には1982年から1984年まで軍が進めた緑化事業とは何だったのだろうか。「赤いイデオロギーに染まった意識を青くする」という意味で緑化事業と名付けられた。チョン・ドゥファンの指示によって保安司が、強制徴集された学生運動圏出身者たちを対象として進めた強制的意識転換事業で、これらの人々を「活用」して学生運動圏の動向を通じて地下の運動圏組織を探し出し、運動圏の人脈を把握し、学生らのデモ計画まで把握しようとした。
もちろん、このことが順調にできるわけではなかった。だから密室の拷問があった。代表的に緑化事業が進められたのは京畿道果川やソウル退渓路ジニャン商店街の分室だった。そこに引っぱられて行った先輩は吐露した。「行って、遺書まで書いた。拷問された後に死ねば、自殺に偽装しようとしていたのさ。そして組織を白状しろというんだ。知っていれば白状もしようが。水拷問を何度も受けたさ」。
それ以外にも保安司の分室がさらに何カ所かあったし、師団の保安隊でも緑化事業が進められた。その過程で、強制徴集された大学生6人が疑問の死を被った。チョン・ヨンヒ(延世大)、キム・ドゥファン(高麗大)、ハン・ヒチョル(ソウル大)、チェ・オンスン(東国大)、イ・ユンソン(漢陽大)、ハン・ヨンヒョン(成均館大)、私と同じくらいの20代前半の青年らが胸に銃を撃たれた遺体で帰ってきた。
忘れていた強制徴集や緑化事業に対面したのは遺家族となった後だった。1988年10月、ソウル鍾路5街のキリスト教会館で始められた疑問死遺家族たちの集団籠城に6人の遺家族が合流した。1982年から84年までの間、世間が緑化事業を知らないでいたその時節に、良心を売りとばすように強要されて苦しくてしんどかった彼らの死。彼らが自殺に至るまでに味わわなければならなかった苦痛は到底、語ることができなかった。彼らが「審査と活用の対象」だったのであれば、私もまた同様であったことだろう。
2002年、私は大統領所属の疑問死真相糾明委員会の調査過程で、緑化事業を調査した。疑問死を被った6人をはじめ、軍においてあれこれの理由で死んでいった人々の真実を明らかにする仕事を8カ月ほど担った。その後2005年に国防部に設置された過去史委員会が再び緑化事業全般を調査した。
その結果を要約すれば、当時の独裁者チョン・ドゥファン(全斗煥)の指示によって保安司令部のチェ・ギョンジョ大領(大佐に当たる)が立案し、具体的な実行はソ・ウィナム中領が担当した。そのとき保安司令官は新軍部のパク・チュビョンだった。
学生運動をした後で軍に強制徴集されれば特殊学籍変動者に分類された。彼らは無条件にバリケード勤務に配置された。軍に行くことのできない身体的条件や病歴を持った人々、1人として例外はなかった。当時、強制徴集者は1152人だった。この人々のうち921人が緑化事業を強要された。緑化事業は、ただ強制徴集者だけが対象ではなかった。正常に入隊した人々も対象でったし、民間人も含まれていた。それで全体で1192人が緑化事業で苦しめられなければならなかった。そのうちの一部は協助者(フラクチ)活動を強要されたし、女学生も活用した。余りにもつらかった人々の中の何人かは、自殺によってそれ以上の「活用」を拒否した。
正義ある社会に進む一歩
強制徴集され緑化事業をさせられた人々に、この国家はいかなる謝罪も補償もしなかった。真実和解委員会も6人の死に対して、それ以上は調査しなかった。これでもよいというのか。友人は再審を通じて無罪を確認し、国家の謝罪を受けることも望んでいる。そのようにして過去の国家の犯罪も1つ1つ確認していくことは明らかに正義ある社会へと進む第一歩になるだろうと信じる。元気を出せ、友人よ。(「ハンギョレ21」第978号、13年9月16日付、パク・レグンの人権物語/人権サーラム所長)
注 フラクチ ロシア語fraktsiyaからの転で、特殊な任務を帯びて、ある団体や分野に入り、こっそり活動する人の意。
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