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    かけはし2013.年7月22日号

すべては「元の木阿弥」に


経営効率の名で振り回される郵政事業現場 B

官僚主義的無責任の突破へ

増えつづける
職場の精神疾患


 「自殺スイッチを押されたみたいです」、労働相談メールに書かれてあったその言葉にひどくうろたえた覚えがある。郵政事業の各現場からは明らかに精神疾患に関わる相談が増加している。確かに以前から各局に一人や二人は必ず精神疾患をわずらう職員は存在したし、それはこの会社の体質に由来するものであることは現場ではみな身に染みてはいるのだが、最近の増加傾向は異常ではないかと常々感じてもいた。
 六月二一日、厚労省は二〇一二年度の労災認定の内、精神疾患に関わる件数が前年度比一五〇人増の四七五人と過去最高を記録したことをその集計で示した。
 郵政グループ内でのそのような増加傾向にある精神疾患の数字を裏付ける統計データは実は持ち合わせてはいない。会社はそのような統計をこれまで出したことがない。精神疾患といっても適応障害からうつ病まで多岐にわたり、個々人のプライバシーの問題等もあり統計には馴染まない、といった理由だ。統計にプライバシーが絡むとも思えないが。
 パワハラ・セクハラ・イジメ、全国から連日のように寄せられる労働相談の内、最近ではそれらが八割以上を占めるようになっている。相談を受けるこちらの方がうつになりそうになるが、現場で起こっているある構造的なゆがみを検証すれば、その理由も明らかになるだろう。

人減らし合理
化とその破綻


 それは年中行事である。特に郵便事業は総予算の内人件費に関わる比率が高く、そのため人減らし合理化施策は長年にわたって手を変え品を変え毎年のように新しい施策が導入されてきた。ところが、これが単純な数字としては全く功を奏していないのである。
 二〇一二年三月に開催された郵政民営化委員会に出された「郵便事業会社の社員数」という統計表を見ても、二〇〇八年からの四年間、郵便事業の社員数はほぼ二五万人内外で推移している。この数字には日本郵便輸送他関連下請け社員や請負社員の数が含まれておらず、それらを入れるとだいたい三〇万人。実はこの数字、ここ三〇年来ほとんど変わりはないのだ。郵政グループ全体では四五万人とあるが、この数字も同様ほとんど変わりがない。
 これまでに機械化合理化やIT関連の設備投資に年間数千億という予算をつぎ込みながら、記憶に新しいところでは公社時代に導入されたトヨタ方式による労務管理から、局舎の統廃合による集配達局の集中化、コールセンターや給与計算事務など後方事務の集中処理化、金融二社についてもその事務センターの統合などが行われてきた。
 郵便局の現場では1ネット2ネットといった配達方式を細かくいじる方式なども行われ、大なり小なり一貫して人減らし合理化をやり続けてきたのである。にもかかわらず実際の数字はほとんど変わっていない。であるならばこれまでの合理化施策はことごとく意味がなかったのか。私はことごとく失敗してきたのだと言いきれる。そのもっとも分かりやすい例がトヨタシステム。これは見事に破綻した。うまくいくはずだと踏んでいたに違いないそのシステムは、結局は官僚主義というあまりに単純な昔からの旧い体質の壁に拒まれたのである。
 当時トヨタから出向してきた社員はビデオカメラまで持ち込んで社員の一挙手一投足を撮影した。ストップウォッチを持って職員を追いかけた。床には導線と呼ばれるテープを張り巡らせ、その上を職員が歩くように指導した。一日中業務中は座ることを禁じられ、簡単な事務作業まで中腰でやらされた。そしてそれによって削減されたムリ・ムダ・ムラの時間は秒単位でデータが蓄積されるはずだったのだが、そのデータは見事に改ざんされていた。何故か。正確なデータを出してしまうと膨大なロスが発覚しそうになったから。すでにサービス残業は常態化していた。導線の上を歩く社員は連日渋滞して怒号が飛び交う日も少なくなかった。年賀繁忙時、アルバイトにまで立ち作業を命じたために倒れる高校生が出てきた。にも関わらず会社は「生産性が一八%向上」と総括したが、いま、トヨタ方式はすでに現場からは忘れ去られようとしている。ただし、モデル局と指定された一部の局では未だ立ち作業だけが残り続けているのだが。
 官僚は自らの過ちを決して認めようとはしない。その過ちを覆い隠す官僚主義の常套手段が、精神主義である。お立ち台というのがある。ミスを犯した職員を全職員の前に立たせて大声で謝罪させるのである。また、もっとも忙しい午前中の時間帯、交通事故を起こすなと長々とミーティングを行い最後は全員で指さし確認をしつつ唱和する。指さしのその角度まで指導される。貴重な午前中の時間を奪われた職員は焦って仕事に向かい、また事故を起こす。その後は事故事例研究会という名の糾弾会が待ち受ける。毎日各自バイク点検をやらされる。油切れがないか丁寧に点検しすぎて返って油が切れてしまい、エンジンをかけた途端に発火したなどという笑えない事例も。
 ペーパーレスのためにとタブレットが配備される。そのタブレットを持ち出すときも返すときもいちいち書類にハンコを押さなければならない。一日に何十回ハンコを押すだろう。携帯端末を持ち出すとき、バイクのキーを持ち出すとき、バイクの検査を終えたとき、職場では日ごとに膨大な書類が氾濫していく。官僚主義は書類主義でもある。書類はその枚数分が現場の小官僚が責任回避できる数なのだ。そしてその膨大な書類の氾濫を整理する人手もまた増えていく。
 会社が計画した人減らしのための数々の施策は、この官僚主義の前にことごとく頓挫し、結局社員の数は変わらなかった。しかしなんとしても結果は出さなければならない。ようするに社員の総数は変わらないが、その半数を低賃金の有期雇用に置き換えることによって結果を出してきたに過ぎないということになる。

現場で必要な
新しい試み

 これまでに報告したDOSSシステムは、トヨタシステムに次ぐ大規模な施策として導入された。しかもそれはトヨタシステムとは違い今年六月からは一斉に全国実施された。それはその他のITシステムとも連動するものだから一斉に全国実施する以外にないのだ。会社としては二度と失敗は許されない。
 携帯端末にはこのDOSS用としてソフトウェアのバージョンアップが施された。いろいろ詰め込みすぎたのか、これが、重い。端末を操作しようとするとフリーズしてしまう。焦っていろいろボタンを押しまくろうものなら端末ごとシャットダウンしてしまう。これまで入力したデータはすべて飛んでしまう。端末にはもちろん休憩時間も入力しなければならないのだが、そうするといったいいつ昼飯を食ったのだということになる。現場管理者の指導でそれはきちんと改ざん入力されることになる。サービス残業といったデータももちろん改ざんされた上でプリントアウトされるだろう。そのデータを元に、というわけだから、結局元の木阿弥である。
 そしてその破綻の責任はまた、精神主義的指導の下にすべて現場にしわ寄せされるだろう。自殺スイッチを押される社員がまたぞろ増えることになるだろう。
 すでにトヨタシステムの時代から自死という形で幾人もの犠牲者を出し続けている。その犠牲の原因がどこにあるのか、現場はよく知り尽くしているのだが、困難の壁の包囲網は幾重にも張り巡らされており、新人事・給与制度によってさらに新たに導入される職員間の細かな身分制度と成果主義は、より拍車をかけてその困難の壁の高さをいや増すことになるだろう。それは伝統的な労働組合運動にとってもさらに困難な課題を突きつけられることを意味する。
 伝統的労働組合運動は必要である。それが未だいかに小さな勢力とはいえ、これまでに成し遂げてきた成果は決して小さなものではない。しかし、苦闘は続く。
 誤解を恐れずにいえば、私はその運動とは他にもう一つの試みが必要なのではないかと思っている。意識的にその困難の壁を見上げるな。困難の壁に真っ向から立ち向かうな。精神主義の包囲からうまく身体と意識をずらしていくような様々な試みを現場から作り出せないか。そのための一つのツールとして、現場の一人ひとりがダイレクトにフラットに繋がっていけるいくつもの複数のネットワークを作っていけないか。
 詳細は機会があればまた論じてみたいが、いずれにせよ官僚主義が職場から一掃されない限り、会社がいかに合理的な計画を策定しようともそれはことごとく破綻することがあらかじめ予定されているだろう。そしてそのことは現場の職員が何よりもよく熟知しているということ。身体で身に染みているのだ。この官僚主義をいかにしてみんなで大いにわらうことができるか。そのエネルギーをこそいかにして取り出せるか。それは一郵政の職場に限ったことではなく、おそらくはこの国に蔓延する社会的な病理と立ち向かう共通の課題なのではないだろうか。 (丸池忠努)

コラム

「図上訓練」のすすめ

 おそらく、古希に手が届きそうな歳になったせいだろう。半世紀以上も昔のことを思い起こすことが多くなった。ぼくはなぜ、マルクス、エンゲルス、レーニン、トロツキー、ローザ、グラムシなどの著作をむさぼるように読むようになったのだろう?
 たしかに、ぼくは、中学二年のころから図書館に通って小説を読むのが習慣のようになっていた。その延長上で、高校三年のころには「世界思想全集」を片っ端から読んでいた。そこに収められていたマルクス、エンゲルス、レーニンの基礎文献も読んだが、「これぐらいは知っておかねば」といった程度のものでしかなかった。そんな時代だったのだろう。
 この全集にはトロツキーの『文学と革命』も収められていた。深い共感をおぼえながら「ヘンな人がいる」と思ったことを今でもはっきり記憶している。スターリニズムなどまったく知らなかったにもかかわらず、マルクス主義=スターリニズムという図式がいつの間にか空気のように忍び込んでいて、それとは異質なトロツキーを「ヘン」と感じたとしか思えない。
 大学に入って、クラス活動を通じてベトナム反戦闘争をはじめとする大衆運動に参加するようになった。そのころは、さまざまに考え方の異なる人たちが、何千人も何万人も、共通の課題に向けて結集する大衆運動だった。そうした経験の中から、「人びとはいつか必ず革命を求めて決起する。その時、自分がどんな状態にあったとしても、間違った選択だけはしたくない」と思うようになった。それが、その後の人生全般を支配するまでになるとは、当時、考えてもみなかった。
 いずれにせよ、マルクス主義関連の本を読む姿勢は、おのずと切羽詰ったものに変わった。まわりには「マルクスなんてドーデモいい。要するに勝ちゃいいんだ」「トロツキーって、結局、負けただろうが」と言う人が多かった。勝ち負けは、何を基準にするかによって変わる。スターリニズムとは最初から感性が合わなかったぼくは、トロツキーは敗北したとする日本新左翼の道ではなく、トロツキーの闘いを引き継ぐ道を選んだ。
 そして今、ぼくは、ふと「自分自身や共に活動する人たちが、もし二十代前半の年齢だったなら、世界は違って見えているのではないか。少なくとも、そのようにウブな発想をしてみることは無駄ではないのではないか」と思うようになっている。実際、世界の各地で(たとえばトルコのように考えてもみなかったところでも)、突如として青年たちの「大衆決起」が現実に起きている。『かけはし』はちっぽけな新聞だが、それらの動きやそこで討論されていることを、どんな「大新聞」も足元に及ばないほどしっかり伝えている。
 だから、本紙が伝える貴重な情報を、半世紀前のぼくのような、「間違った選択だけはしたくない」といった消極的なものではなく、階級闘争を前進させるための「図上訓練」の素材として、もっともっと活用してもいいのではないだろうか。これらの情報を、自分たち自身の闘いととらえ、持てる知力と想像力を総動員して、文字(言葉)の背後にある現実まで読み解こうとする努力を集団的に続けるならば、やがて大輪の華となって開くにちがいない。       (岩)


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