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    かけはし2013.年7月8日号

冷笑と恨歎が聞こえるのか


妄言のおかげで維持される歴史教育

今回も安倍首相の発言が契機

 

 歴史教育論争が熱を帯びている。安倍晋三日本総理が「侵略の定義はさまざまだ」として火を付けて以降、旭日旗で装飾した大学生のホームページが袋叩きにあったが、靖国「シンサ(神社)」を「ジェントルマン」(神社と神士はシンサで同音)だと理解している学生たちについての報道が相次いだ。続いて、あるアイドル歌手が「民主化」発言によって現代史論争を大きくし、5・18民主化運動を卑下した総合編成チャンネルと「日間ベスト貯蔵所」(イルベ)サイトの歴史歪曲が報道されるとともに、「歴史教育を、そもそもどうやったからこうなっているのか」という衝撃を与えた。

第1歩を踏み出したはずが

 ところでこのような光景は、なぜか見覚えがある。デジャビュ(既視感)のようだ。覚えているかどうか分からないけれども、2005年にも歴史教育強化の世論が熱かった。日本で「竹島の日」を定め、歴史歪曲の「扶桑社教科書」が検定を通過したうえ、中国では「東北工程」(扶余、高句麗など朝鮮半島の古代史の一部は中国史だとする歴史研究)が進行中だという消息が伝えられていたからだ。より最近では2011年にも歴史教育を強化すべきだという世論が広範に広がり、イ・ジュホ教育部長官が国立中央博物館で厳かに「歴史教育強化方案」を発表したことがある。
 なぜこのようなことが繰り返されるのだろうか。騒々しい世論もいつもその時だけで、今に至るまで歴史教育の正常化が実現できなかったからだ。周期的に繰り返される周辺国の妄言が、わが国の歴史教育を何とか維持させてくれるという自嘲的冷笑さえあるのが実情だ。今回は少しは違うのだろうか。率直に言って懐疑的だ。毎回、世論に押されて形式的対案なりとも出していた政府が、今回は黙して語らずで一貫しているからだ。
 歴史教育は、1980年代から絶えず弱化してきた。(パク・チョンヒ軍事独裁の)維新の時節、政権維持のために国史を「国策課目」として強調したことに対する反作用とでも言えようか。第6次教育課程で歴史は社会教科の1部分となり、第7次教育課程では中学校の歴史授業の時間数が1時間、減った。
 このような状況の中で、2005年の熱い世論は歴史教育の正常化が必要だという幅広い共感を確認させるものだった。これを基盤として2007年に改正教育課程が用意され、歴史教育正常化の第1歩を踏み出すかのようだった。
 だがイ・ミョンバク政府は2007年の教育課程を全面否定し、2009年に改正教育課程を提出して歴史教育の枠を完全にバラバラにしてしまった。2009年の教育課程の「集中履習制」や「2014年の大学修学能力試験(修能)改編案」は問題をさらに悪化させた。5千年の歴史を1学期だけで速成で学ぶケースが出現し、修能において社会探究10課目のうち2課目だけを選択するように変えるとともに、「内容が多くて難しい」歴史関連の課目は選択されない確率が一層、高くなった。今日の歴史教育不実論争は、このような背景から始まったものだ。
 周期的に繰り返される歴史教育不実論争に終止符を打とうとするならば、直ちに実現可能な短期の方案と、時間をかけて準備し推進しなければならない中・長期の課題とを分けて、併せて熟慮しなければならない。
 まず、歴史教育についての政治的干渉はなくさなければならない。政府は歴史教育が正常化され得るように枠組みを作り支援することに留めるべきあり、その内容にまで介入してはならない。ニューライト勢力をはじめとして、間違った政治的見方によって歴史教育を裁断しようとする試みも遮断しなければならない。2008年の金星出版社の韓国近現代史教科書の事態や2009年の教育課程改正時にあらわになった「自由民主主義」論争のようなことは歴史教育を深刻に退歩させるだけだ。

教科の独立を最優先すべき


 教師たちの教育課程の再解釈や教材の再構成の自律権も広く認められなければならない。教師の授業に偏狭なイデオロギーの物差しをあてまくって自己検閲を強要することは、歴史教育を絞め殺す近道だ。「教科書通りにだけ」教える教育が、どうして学生たちを感動させることができるだろうか。
 もちろん教師たちの反省と刷新も必要だ。国民の関心や要求がこれほどに熱いにもかかわらず、歴史を「うんざりする暗記課目」と感じるように仕立てた点は痛切に反省しなければならない部分だ。
 歴史課目の修能必須化もよく言及されるが、いささか慎重に迫る必要がある。ともすれば修能が高校の歴史授業をさらに歪曲させかねないからだ。それでなくとも覚えるべきことが多すぎ、かつ面白くない暗記課目として敬遠されている歴史課目が、修能に備えるために一層わずらわしい課目として烙印づけられるかも知れない。むしろ難易度を下げ資格試験化するなり、すべての大学で歴史課目の内申を反映するようにすることが現実的だと考える。
 すぐにも施行できる対案として、各学校に歴史教課室を設けるだとか、歴史教課関連の予算を一定比率以上に確保するだとか、歴史サークルを積極的に支援する方案を考えてみることができる。近現代史や民主化運動関連のポスターや展示資料を作り、各学校に配布する方案も効果があるだろう。抗日運動の事蹟地や民主化運動事蹟の訪問教育を強化することも考慮して見るべきところだ。(「従軍慰安婦」問題での)水曜集会に参加したり、ナヌム(分かち合い)の家、4・19墓地などを訪問してみれば、学生たちの歴史を見る目がもっと明るくなりはしないだろうか。

「わっと沸き上がっては冷め」

 根本的には歴史教課の独立を最優先的に推進しなければならない。さまざまな社会課目の中の1つではなく、歴史教課が別個に立てられるべきであり、その中には韓国史、世界史、東アジア史、分類史、時代史など多様な歴史課目が配置されなければならない。そうしようとするならば教育課程の改正が必要だが、施行もできずに廃棄された2007年の改正教育課程を土台として少なくとも10年は粘り強く適用し維持され得る教育課程を作らなければならない。当然にも韓国史と世界史の統合方案、近現代史の教育強化方案、内実の伴う歴史授業が可能な最小の授業時数などについての研究が必要だ。
 長い間、指摘されてきたけれども今なお解決できていない難題、教科書問題も中・長期的計画をもって改善の方案を準備しなければならない。国定から検定へと変わり、外形や編集は大きく発展したものの、内容が依然として余りにも多く、かつ難しいという批判からは脱けだせているのか、根本的な批判を投じなければならない。学生たちにとって意味のある歴史知識とは何か、これを効果的に伝えることのできるネラティブ(話、話術の)形式は何なのか、深みのある研究と教科書モデルの啓発がなされなければならない。
 周期的に、わっと沸き上がってあふれた後、その瞬間が過ぎれば再び元の木阿弥に戻ってしまう歴史教育の論争は恥ずかしいことだ。それが何度も繰り返されるならば、それはもはやコメディだ。過去から学ばない民族には未来がないと言うではないか。今度ばかりは恥ずかしい繰り返しの連環を断ちきることのできることを切に期待する。(「ハンギョレ21」第964号、13年6月10日付、イ・ソンホ/ソウル・ペミョン中・教師/全国歴史教師の会・会長)

 

韓国社会が生み出した病弊

イルベ、傷ついた人々の
認められたいという欲望

 インターネット・コミュニティ「日間ベスト貯蔵所」(イルベ)が論難になるとともに、イルベ現象についての分析も、どっと出てきている。イルベ現象の核心は「イルベをしている人々とは誰か」ということだが、これまでに出てきた分析を総合してみると、おおむねこうだ。多数の「ルンペン・プロレタリアート」に少数のルンペン・ブルジョアと逸脱的テクノクラートが加勢しているという分析(ピョ・チャンウォン)、中間階級や没落した中産層あるいはその子女だという仮説(パク・クォニル)、10代後半〜20代初めの男性が多数だという推論(〈京郷新聞〉)などだ。もちろん、このような仮説に対して一部のイルベ利用者たちは、いわゆる「学力認証大乱」を引きおこしつつ反発したりもしている。

ファシズムに
極めて類似
 いずれにせよ、これまで出てきた分析を整理すれば、イルベ利用者が主として10代後半〜20代初めのルンペンだということだが、これは相当な含蓄を帯びる。ここで、ルンペンという階級性にとどまらず、青年という世代性の問題が重要だ。これが重要だという理由は、韓国社会が作り出した教育制度の変化と不可分の関係があるからだ。単に未成熟な青年期の逸脱という個人的レベルの問題を通り越しているという意味だ。ここに不安定性の深化という社会的経済的状況が加わることはもちろんだ。
 現在、青年の相当数は高等学校の時から外国留学、特目高、自社高、一般高、特成科高などに垂直序列化された教育体系で、早くに「落伍」を経験した世代だ。現在、韓国社会はおびただしい数の若者たちの心に回復しがたい傷跡を与える体制が稼働している。イルベのための肥沃な土壌があるとするならば、これらの人々に傷を与え、治療剤さえ与えない韓国社会それ自体であるだろう。
 そうであるならば、なぜ彼らはイルベをしているのか。結局、受けた傷のせいだろう。強者と権威主義に対して一も二もなく服従することと弱者に対する暴力性という側面において、イルベ現象はファシズムと極めて類似する。エーリッヒ・フロムはファシズムについて、孤独と無力感に耐えられなかった諸個人が強者に逃避するものだし、またウィルヘルム・ライヒは弱者には君臨しようとし強者には屈従しようとする大衆の権威主義的性格の構造だと説明したことがある。
 20世紀初めの資本主義の独占化の過程においてドイツの中間階級大衆は没落していき、彼らは傷つけられた自尊心を、強者に対する無限の服従と弱者に対する荒っぽい暴力とによって補償されようとした。弱者に対する暴力は傷つけられた自尊心を治癒し、自身の存在を認められようとする行動だったのだ。犯罪心理学者ピョ・チャンウォン博士も「認められたい欲求」「所属感および親密感についての強い渇求」がイルベの主要動機だと説明したことがある。
 韓国よりもネット右翼の事情が深刻な日本の状況は、イルベ現象を理解するうえで、極めて示唆するところが大きい。日本のルポ作家、安田浩一が書いた〈街頭に出てきたネット右翼〉によれば、『在特会(在日特権を許さない市民の会)』など日本のネット右翼グループの存在理由もまた、認められたいという欲望にある。「率直に言って我々は父母にも、世の中からも良い評価を受けられずにいるじゃいないですか。ところで、活動する時に同志たちは必ず私を認めてくれました」という在特会メンバーの言葉が、これをよく示している。やはり認められたいという欲望が重要なのだ。人間は、ただ生物学的、経済的存在であるだけではない。本当にカネだけがあって生きていけるというものではない。誰かから認められているという自尊感は生存にとって欠かすことのできない要素だ。

石を投げても
解決はしない
 だからイルベは働く場も、未来への希望も、またそれなりの生きることの意味も与えられない社会、むしろ自身の存在を否定される社会において傷ついた若者たちが、自らの存在証明と相互認定のために結集した現象であるのかも知れない。
 ここでは、それでも努力しさえすれば日間ベストに上がり認められ得る。ただひたすら憎悪とののしりを吐いていると言えども腹の中がいささか収まるのは当然で、見ているだけでも良いのだ。それが互いに認め合う空間の力というものだ。このように土壌とシステムが問題なのに改めることをせず、どうしてイルベ利用者個人にのみ石を投げることができるのであろうか。(「ハンギョレ21」第964号、13年6月10日付、「ノー・サンキュー」欄、ハン・クィヨン/ハンギョレ社会政策研究所・研究委員)



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