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    かけはし2013.年7月1日号

世界の根底的変革のために


読書案内

文――ダニエル・ベンサイド、絵――シャルブ、訳――湯川順夫、中村富美子、星野秀明、つげ書房新社、三二〇〇円+税

『マルクス・取扱説明書』(上)

共産主義革命家であるということ

マルクスを知る人も、あまり知らない人も

 これは、二〇〇九年にフランスで発行された本の日本語版。現在の諸問題に多くの示唆を与えてくれるマルクスの概説書ないし入門書と言える。とはいえ、すらすらと読める「やさしい」本というわけではない。本書を読むための手助けになることを願い、ささやかな「案内」を試みたい。
 なお、本書からの引用は該当ページを示しているが、いちいち「ページ」と入れてはいない。また、要約あるいは補足している個所もある。

革命の現実的可能性と
世界を解釈する意識性

 プロレタリア革命は労働者階級自身の事業であり、社会主義への可能な移行手段は、現実のプロレタリアートの現実の闘争の中だけにある。「革命の現実的可能性」はこのように提示されている。それは、(「労働者革命」の枠を超えて)プロレタリアートのヘゲモニーのもとでの「国民革命」にまで高まったときにこそ、大きな成功をおさめることができる。このことは、ロシア十月革命を引き合いに出すまでもなく、現在進行中のチュニジア、エジプト、ギリシャなどの出来事として実際に目撃されている。
 だが階級闘争は、決められた階段を一歩一歩進んでいくわけでも、一本の道をまっすぐ進んでいくわけでもない。連続とともに断絶があり、巨万の大衆的決起が突如として現われたかと思えば表面から消えてしまったりしながら、さまざまなコースがたがいに衝突したり融合したりしながら進んでいく。というのも、「ブルジョワの政治革命は、すでに経済的・文化的権力の重要な部分を掌握していたひとつの階級の権力を仕上げるものであった。それとは反対に、プロレタリア革命は、政治と社会と文化の三重の支配におかれていて何ももたないところから、すべてではないとしても何かにならなければならないひとつの階級の革命であり、プロレタリアートにとって政治権力の獲得は解放過程の始まりにすぎない」(六七)からである。
 しかも、「革命は無から生まれる奇跡ではなく、日常の闘争の中で、勝利と敗北の経験の蓄積の中で成熟していき、所有関係、労働の組織化と分業、日常生活の諸条件の根本的変革を通じて、政治権力の獲得の枠を超えたところへと深まっていく」(六七―六八)。上げ潮のときも下げ潮のときも、情勢展開の局面に応じて大衆運動に階級的目的意識と集中力を付与しようと働きかけ、権力獲得に結びつけようとするプロレタリア革命の党もまた、それ自体が独自的な営為であるとしても、このような過程から離れて恣意的に形成できるわけではない(あらかじめ「前衛」であると保証されている集団は存在しない。革命的情勢では、昨日の「前衛」が今日の「後衛」になる可能性は十分ある)。
 そのため、「哲学者は世界をさまざまに解釈することで満足してきたが、今後大切なことは世界を変革することである」(『フォイエルバッハに関するテーゼ』)が、世界を「変革するためには、批判的・実践的な仕方で世界を読み取り、解釈する必要がある」(四二)。
 本書の「入口」あるいは「大前提」をざっとまとめれば以上のようになろう。扉を開けてもう少し中に入ってみよう。

全体を貫く
二つの大きな特徴


 本書のタイトルに関連して、ベンサイドは次のように語っている。
 「本書は、マルクスの思想がいかに生きているかを示すことによって、彼の思想の可能な使い方のひとつを提案しようとする」(九)。「重要なのは、粗悪な模倣や多数の偽造を超えて本来の真正なマルクスを求めて考古学的発掘を企てることではなく、その解釈の余裕を取り戻し、無視されたりもみ消されたりしてきた手掛かりを発見しながら思想を生かすことである」(一九二)。新自由主義のグローバリゼーションがつくりだしている「世界を解説したり告発したりするだけで満足するのではなく、それを理解し、変えるために、マルクスの思想、そして『資本論』は、到達点ではもちろんなく、避けることのできない出発点であり通過点なのだ」(一九八)。
 このように、あくまでも現在の地点に立ってマルクスを「扱う」試みであるという点が、本書を貫くひとつの特徴だと言うことができる。さらに、ベンサイドは言う。「うさんくさいマルクス熱」が示そうとしているのは、「共産主義も革命もないアカデミズム世界での正しいマルクスなのだ」。それとは違い、「マルクスの今日的意義とは、資本それ自身の今日的意味なのであり、マルクスの「経済学批判」の今日的意義」なのである(八―九)。
 ここで言う「経済学批判」は、なにかの著作ではなく、ブルジョワ経済学に対する根底的な批判全般をさしている。ベンサイドは、マルクス主義経済学、マルクス主義哲学、マルクス主義社会学……を否定する。
 また、「マルクスは法の思想家ではなく、闘争の思想家であり、ゆえに歴史哲学者ではない。彼は政治行為の戦略的思想家なのだ」(八〇)。そう、マルクスは、あくまでも共産主義革命家なのである。
 だから、「『資本論』は経済学の概論や教科書ではない。自らをひとつの学問領域だと主張する「経済学」そのものに対する批判である。経済学の対象である経済というカテゴリー自体が、そもそも複雑な社会関係の全体から分離し、物神化されているのだ」(一三三)。
 こうした視座が、本書を貫くもうひとつの大きな特徴と言えよう。

本書を構成する
三つの大きな内容群


 本書は、三つの大きな内容群で構成されている。それらは、説明するのに必要なため「マルクス思想の形成過程」のスタイルをとったりもしているが、あくまでも現在の課題と結びつけて提起されている。
 (1)「ユートピア社会主義」「真正社会主義」「原始的共産主義」などを止揚する「現実の運動を通じて私有財産を廃棄する共産主義」の提起。そして天上の神=宗教批判の、地上で神に取って代わっている貨幣と国家への物神崇拝と偶像崇拝に対する闘いへの貫徹。
(2)『共産党宣言』『フランスにおける階級闘争』『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』『フランスの内乱』などに描かれている階級および階級闘争の再把握。
(3)すでに述べた意味での「経済学批判」。すなわち、ソーシャルキラー(社会的殺人犯)のモンタージュ写真の作成とその追跡。
 これら三つの大きな内容群については、次号で紹介することにしよう。

マルクスのエコロジー


 以上に加えて、本書では、国家、プロレタリア独裁、パリコミューン、ボナパルティズム、党などについて縦横無尽に展開されている。
 さらに、ベンサイドはマルクスの生態学(エコロジー)に言及している。だがこの点では、極めてひかえめな書き方になっている。
 「マルクスは、緑の天使、生態学の無自覚な先駆者というわけではない」(一五九)。「生産力主義をめぐる訴訟が起これば、一部の者は証拠不十分によりマルクスを無罪にすることに同意するだろう」(一六三)。
 そのうえで、マルクスは「進歩という幻想」とは無縁だったとして、次のように語る。「マルクスは、資本主義を超えたところでしか真の進歩を想像しなかった」。「資本は労働者と対立するため、これらの進歩は、結局のところ隷属の形態を変えることでしかない」(一六〇)のだ。「現在の生産様式においては、自然と社会を前にして、主に最も近くて最も確実な結果しか考慮せず、未来のことや遠くのことなどお構いなしなのだ」(一六五)。

マルクスとフェミニズム

 他方、本書にはフェミニズムについての言及はまったくない。ベンサイドは、マルクスとフェミニズムを結びつけるのは無理があると考えたのではないだろうか。それを傍証するのが、次の一文であろう。
 「勝ち誇った官僚主義の政治的に正しい世界では、開祖の聖なる像は、安心させると同時に威嚇的かつ無垢なものでなければならなかった。そこから、認知されない私生児の息子がいた可能性についていっさい触れない伝記や、マルクスの突出した男性優位論を上品ぶって避けたり、エンゲルスの常軌を逸した同性愛者嫌いについて沈黙したりする伝記が生まれたのだ。たとえ理論的、政治的には革新的かつ大胆であったとしても、彼らもその時代の子であり、時代の偏見に囚われていたため、その考え方は法律や技術と同じテンポでは変わらなかったのである」(一八八)。

マルクスの科学


 原子力発電施設の真下を活断層が走っているとする規制委員会の判断に対して、電力資本は「科学的に立証されていない」と反論する。「科学」は「絶対神」に祭り上げられたうえで、資本は自らの利益のためにそれを利用しようと躍起になる。資本は、「科学」を自己のイデオロギーと同義であるかのように扱う。その一方で、神のように絶対的と考えられていた「科学」に対して、今、広範な人びとから疑いの目がそそがれている(すでに、一九四〇年代の原子爆弾製造から始まっていたことではあるが)。「科学的社会主義」と言われているものも含めて、「科学」に疑いの目をむけ、根底的な批判がなされなければならない。
 ベンサイドは、その糸口を示す。「科学」と言うと、多くの人はサイエンス、すなわち「実証科学」「実験室科学」をイメージする。これに対してマルクスが継承した「科学」は、(日本語的に表現すれば)「学」「知」「理」「科学」を包含したヴィッセンシャフト(ドイツ科学)だった。
 その前提のうえで、ベンサイドは語る。「誤った認識を最終的に一掃する科学、自分自身と自然の支配者にして所有者でもある理性的主体の明確な主権を保証する科学だけで、もはや満足するわけにはいかないのだ。幻想が生まれるのは頭の中だけではないからだ。それは現実の社会関係からも生じる。そのような関係が存続するかぎり、疎外は実際に抑制され得るが、なくすことはできない。一般化した市場の物神崇拝の虜となっている世界では、「科学」というアーチを通って支配的イデオロギーが意気揚々と退場することはない」(一七九)。

 肝心の「三大内容群」を後回しにして、大急ぎで本書の全体的な特徴を見てきた。ぜひ自ら手に取って読んでいただきたい。マルクスを知る人は「なるほど、そういうことだったのか」「そうも考えられるのか」と、新しい発見を山ほど体験することになるだろう。また、マルクスをあまり読んだことがない人も、「ベンサイド先生に教えを請う」という姿勢ではなく、自分自身の日ごろの問題意識をぶつけながら「ベンサイドと対話する」という姿勢で臨むなら、世界はよりくっきりとした像を結ぶようになるだろう。少なくとも、マルクスの思想のスケールの大きさと「現在性」を実感できよう。また、シャルブの挿絵は、マルクスを考えるとき、必ずしも「しかめっ面」が似合うわけではないことも感じさせてくれるだろう。「マルクスは、資本には後ろめたさがつきものだと感じているわれわれと同時代の人」(五六)なのだ。    (つづく)
(二〇一三・五・二九)
(岩田敏行)

闘いを考えること

週刊『ヌーベル・オプセルバタール』2337号(2009年8月20日〜26日)

 ダニエル・ベンサイド


 以下に紹介する短い一文は、ちょうどフランスでベンサイドが『マルクス・取扱説明書』を著して出版した直後に掲載されたものである。これは、ベンサイドがマルクスをどのようにみなしているのかを簡潔に伝えるものであると同時に、本書のエッセンスともなっている。(「かけはし」編集部)
 二五年前、マルクスは自由世界のうちでも考えられる最良の世界の中で朽ち果ててしまった犬のように扱われていた。今日では、微笑む彼の亡霊が戻って来ている。彼の今日的意味とはまさにグローバル化された資本の現代性にほかならない。
 (イギリスの)ヴィクトリア朝の時代における「膨大な商品の蓄積」がやはりその始まりであった。マルクスは、この資本という大ピラミッドを探検するだけでは満足しなかった。彼の政治経済学批判は、その秘密を突き止め、その象形文字を解読し、その論理を解体することを目指していた。資本は、自らの自身の限界を乗り越えるために、たえず自らの蓄積の範囲を拡大し、その回転サイクルを加速せざるを得ない。資本は、ありとあらゆるものを商品にすることによって、空間を貪り食い、時間をくるわせて支離滅裂なテンポにしてしまう。
 資本主義のグローバリゼーションの危機は、自然と社会と人間とを三重に破壊する資本の傾向を明らかにしている。価値法則は、すべての富を結晶化された労働時間に還元させてしまうことによって、まるで環境生態系の長い時間が株式市場の変動の瞬時性に還元できるかのように、数量化不可能なものを数量化し、貨幣的価値をすべてのものに付与したがる。俗流経済学者が恐慌の光景を口をぽかんと開けて見物しているだけになっていた時に、マルクスは、「まるで大鹿が新鮮な水を欲しがって鳴く」ように、「金は自らの渇望を強く求める」分裂病に罹った社会の致命的な諸矛盾をそれが生み出されるその局面において捉えたのだった。マルクス主義の研究書は、フランスでは翻訳が不足していることもあって知られていないことが多い。しかしながら、デリダは、一九九三年の時点で早くも、分類された著作の平穏な注解作業の中で政治的な要請を無力化したりその要請をかき消したりするために、「マルクス主義に反対して、マルクスを演じようとする」試みに警告を発した。そうした試みのうちで最悪のものは、実際、マルクスをアカデミーの分野における正しい著作者や左翼俗流知識人にしてしまうことであろう。マルクスは、対立と闘争を考える人である。このような恐るべき「ジャック・アタリ化」というべきものがマルクスを脅かしている。この「アタリ化」から体制転覆のマルクスの精神を救い出すためには、資本に対する批判から当然にも共産主義が導き出されるという点を再び思い起こすことが必要になっているのだろうか? マルクスの遺産は、したがって、「共産主義」という言葉が公然と口に出して言えなくなってしまうまでそれが国家的、官僚的に使われることによって傷つけられてしまったのかどうかを知るという問題なのである。そして、とりわけどの点で…批判的ユートピア、解放の運動、戦略的仮説で…、共産主義が今日においてその名に値するものになり得るのかを明確にすることである。


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