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    かけはし2013.年6月24日号

形式ではない民主主義を


トルコ

選挙がつくった独裁者との衝突

人々は、求め初めて経験した!

ユヌス・セーゼン

 先月下旬から続いていたトルコの反エルドアン決起に対し、政権は六月一六日強硬な弾圧を加えた。以下に紹介する当地からの報告は、民衆内部に蓄積された不満と敵意が、政権がもたらした現実に根をもつ深いものであること、したがってこの反乱が一過性では終わらないことを伝えている。「かけはし」編集部

選挙は時として
少数独裁の道具


 大衆的決起と残酷な政権の弾圧は、トルコではことさら新しいものではない。しかしながら、イスタンブールとトルコ中の現在のデモでは、社会主義者によって始められたとはいえ、今回われわれがはっきり異なった何かを経験しつつある、ということは疑いない。それは、相当な数のデモ参加者に明らかに見えている政治経験の欠如ばかりではなく、警察による大量かつ負傷を気にかけない催涙ガスの攻撃を前にした、デモ参加者の数そのもの、また信じがたいほどの活力回復によって示されていた。経済危機の兆候など何一つない国での、また政権が二〇一一年に有権者の五〇%を基礎に選出された国での、今回のような大規模な社会的爆発の原因とは何だろうか?
 起きていることをより良く理解するために、選挙と民主主義の関係に関する議論から始めよう。アテネ人(文脈から考えて古代の:訳者)の民主主義者は、選挙は指導者を選ぶ少数独裁政治的方策であると信じ、政治階級の形成を妨げる仕組み(くじ引きや輪番制のような)が統治者を選ぶただ一つの民主的な方法であると信じたがゆえに、選挙のない民主主義システムを考案した。なぜならばアテネ人の民主主義者が信じたことは、選挙には固有の階級的傾向があるだけでなく、また支配者に支配される者たちからの自律性を与えもする、ということだったからだ。すなわち選挙は支配者に、彼らが望むことを何でもやることを可能にするのだ。実際のところは、選挙を中心に置かれている近代の自由主義的代表性の政府が単なる少数独裁制のシステムではない唯一の理由は、それがまた選挙以外の参加方法、反対の自由、支配者に対するチェックを含んで、支配される者たちのためのツールをも提供するからだ。それらのツールは依然としてまったく不十分だとしても、一定程度市民に対応するよう支配者を強制するために、支配される者たちが願うことすべてを行うことを、彼らにとってよりやりがいのあるものにする。しかし選挙が近代の代表性政府の単なる制度になり始めるならば、その時選挙は、民衆的承認に基づいて執行権力を支えることによって、権威主義的支配のための道具となる。

選挙による強権
支配体制の実例


 イスタンブールのゲジ公園における抵抗を中心とした歴史的デモはまさに、選挙を通した承認によって強化されている、そのような執行権力の独裁が引き起こした不満に関わっている。特にゲジ公園の抵抗は、国家の階級的性格並びに選挙による権威付けがはらむ少数独裁的本性の双方が、はなはだしくあからさまになっている一つの実例だ。
 第一にそれは、もっとも粗雑なマルクス主義的分析であっても見逃しようもない形で、国家の階級的性格を表している。ゲジは市街、タクシム広場の政治的かつ社会的震央にある公共の公園だ。そして政府はこの公園をショッピングモールに変えることを決めた。活動家たちが公園から撤退しないことによって抵抗し始めた時政府は、一つの公共の公園を商業施設に転換するための戦闘に向けて警察を送り込んだ。よりあからさまに言えば国家は、資本の利益に奉仕するために、集団的財を私的な財産に変えるために、その暴力装置を使ったのだ。

無力感が逆転
し激怒に移行


 しかしながらゲジはまた政治体制の、ただ選挙の権威付けにのみ基礎を置いている少数独裁的性格をもはっきり示した。なぜならば二〇一一年の選挙で政府は、それが望むように支配する法的権利を得たからだ。しかしその選挙では誰一人、タクシム広場の公共の公園を商業施設に転換するために政府に対する支持投票を行ったわけではない。また特定の委任やいかに統治するかの明確な指令もなしに行われる、そのような政府による社会的分野への他の攻撃を支持する投票を行ったわけではない。
 しかしながら、それらの選挙による委任があったとしても、支配される者たちに選挙以外の参加や反対の仕組みを与えるもっとよく機能する代表性システムにおいては、今回のような型の一方的行動は起きなかったかもしれない。なぜならば、その民主的内容に限界があるとしても、市民たちは自由主義代表性政府の中に政策作成に通じる何らかの回路を確保するかもしれない。透明性や自由な論争の一定の水準が存在するかもしれない。さらに問題に関する法的な精査の道があるかもしれない。一方トルコでは、公正発展党(AKP)の二〇〇七年以来進められた前例のない権力蓄積を前提とした時、そのような権力への制限は何一つ存在しない。
 AKPは今や、軍からの衆知の歴史的挑戦を排除しただけではなく、高級司法部に対しても支配を及ぼすにいたり、徐々にしかし着実に、その人気を利用しながらあらゆる反対派の自由を根こそぎにしてきた。具体的に言えばエルドアンの政策は、反対派のメディアが一つもないために挑戦を受ける可能性はなく、今や執行機関、すなわち支配政党の統制下にある司法部がそれに挑むこともあり得ないだろう。それゆえ、市民が自由で平等な交流を行うことができる一つの公共空間を、消費者が商品の取得に関心を絞る右翼の保守的な場へとエルドアンが変えたいと思った時、多数の民衆の力を手段とする以外彼を止めるほかの方法はなかった。
 しかしながら街頭に出て抗議している何十万人という人々は、ゲジ公園の単なる不正を理由に、あるいはエルドアンが権威主義的な指導者であるという事実だけから警察に抵抗し、催涙ガスの大量使用や残忍な実力行使に身をさらしているわけではない。これらの抗議が起きたのは、反対派を権力の地位から排除したことや、それらの者たちをさまざまな理由を付けてひとまとめに刑事被告人とし投獄したことを含んだ、反対派グループ(世俗派、アラウィ派、クルドの人々、社会主義者など)に対するエルドアンの現在進行形の攻撃に加えて、彼が、新自由主義的かつ極度に保守的な社会政策締め出しを前例のない程度にまで深めたからだ。
 最近のそれらの例を二、三挙げれば、昨年、大した議論もなく全教育システムが再編された。資本の必要にもっとよく奉仕するためだけではなく、エルドアンの言葉によれば、「宗教的世代をもっと増大させる」ためでもあった。
 先月には、OECD諸国の中では一人当たりアルコール消費量が圧倒的差をつけ最低である国で、厳格なアルコール消費制限法が可決された。エルドアンはそれを次のように防衛した。すなわち、「二人の大酒飲み〔多くの人によれば、アタチュルクとともう一人を意味する〕が通した法律をあなたが容認することをなぜ防衛できるのか。それでも宗教的要請であるこの法律はあなたが拒否する必要を感じている何ものかになっている。……よろしい、呑みたいのであれば酒を買えばよい、それで呑むために自分の家に行けばいい」と。
 先週AKPは、事後使用用の経口避妊薬を処方箋の必要な薬剤にすることで、女性の権利に対する攻撃を拡大した。そしてエルドアンは二日前、衆人の前での口づけをやめるようにとのアンカラ地下鉄が行った警告アナウンスを、事後に是認した。
 以前にはあった抑制が今もあるのであれば、これらの規制の多くは実行が困難だっただろう。たとえば憲法裁判所は、法の改定のいくつかを取り消したかもしれない。あるいは国家評議会は、他のもののいくつかに制限を設けるか、取り消したかもしれない。
 反対の声に向けられた回路の欠如、そしてエルドアンの権力に対置された障害物の欠如を十分に考えつつ、これらのそして他の多くの似たような政策が、エルドアンの象徴的に人をはじき出すような、また息がつまるような演説と組になって、支持者ではない圧倒的多数の人々の感情を、完全に無力感と焦慮感にしただけではなく、同時に激しい怒りにも変えた。

人々が得た力の
感覚が直接成果


 この怒りは今や大規模なデモと一体化することになった。そこでは何十万人という民衆が、自律性を取り戻しつつある。これまでそれは政府のものだった。すなわち、反乱の理由が無力感、彼ら自身の生活に対する支配の喪失という感覚であるとすれば、直接の成果はおそらく、住民の巨大な層がはじめて味わっている力の感覚だ。今のところ彼らは彼らの町と彼らの生活に対して支配を及ぼしている。
 結果としてわれわれは今、真に民主的な時期の一部にいる。これは、自由主義的代表性の民主主義、最良のものであっても資本主義と近代国家の必要に合わせて飼い慣らされた民主主義の先にあるものへと進む一つの経験だ。それゆえわれわれはおそらくこの民主的な爆発を、制度対抗的なやり方でだが、選挙を権威とした執行権力に対する民主的なチェックの欠如のおかげで経験している。
 他方でわれわれのまさに眼前にいるエルドアンに対してわれわれは、彼のイメージの転換を目撃しつつある。それは、強力で人気があり、少しばかり直情的だとしても、それでも「トルコ民族」の諸価値を反映している一人の指導者というイメージから、支持票を確保しているとしてもこれ以上この国を有効に管理できないほどに権力に貪欲でそれに溺れた専制者といったイメージへの転換だ。彼は実際独裁者のジレンマにとらわれている。つまり、現在の要求にもし屈服すれば、彼はまったく強力な人物であるという人々の認識を失うだろう。一方もしまったく妥協しないとすれば彼は、冷酷な専制者へと変わることになるほどまで、強圧的な権力に頼らざるを得なくなるだろう。
 ここまでのところ彼は、デモに決起した人々を依然として見くびり、犯罪者とみなしながら、また一年以内にある次の選挙が民主的な幸福感をちりぢりにする形の結果となることを期待しつつ、後者の道を辿ってきている。しかし、これが「政治に制限などない」との言明が実際現実であるような実例の一つだとしても、民主的目標と社会主義的な目標の両者を満たす手助けとなる行動の唯一の道筋は、決起を持続させることにあると思われる。

▼筆者はトルコの反資本主義者Eylem(反資本主義行動)のメンバー。(「インターナショナルビューポイント」二〇一三年六月号)

 


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