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    かけはし2013.年6月10日号

解雇規制緩和阻止へ共同の闘い


5.15裁判所包囲 霞が関大行動

「首切り自由」は許さない

各争議団が怒りのアピール

  五月一五日、霞が関一帯に、「首切り自由」は許さない、の声が力強く響き渡った。けんり総行動実行委員会と東京争議団共闘会議が呼びかけた実行委員会主催による、「『首切り自由』は許さない! 5・15裁判所包囲の霞が関大行動」だ。
 ブラック企業なる言葉が若者世界で流布し、不当で侮蔑的な解雇が続発している。しかし現実には、JAL不当解雇に対する東京地裁判決を典型的な例として、裁判所自体がそれらを追認する動きがむしろ強まっている。今回の大行動は、このような動きを許さない労働者の総反撃の第一歩として呼びかけられた。
 そして各争議団の行動を前段、後段に組み込みながら、昼を前後して、東京地裁・高裁に対する一斉個人請願、同裁判所包囲集会、厚労省抗議行動が中心の行動に設定され、これらには七〇〇人以上の労働者が結集した。組織参加も、ナショナルセンターの枠を超えて一〇〇団体以上に達し、二〇〇〇年の国鉄闘争時以来一二年ぶりの幅広い共同が実現した。また、公正な判決・決定を求める一斉個人請願では、裁判所裏門に設けられた受付窓口に請願書を携えた労働者の長蛇の列ができ、林立する組合旗、団体旗も相俟って周辺を行き交う人々の注目を集めた。請願も一〇〇〇件を超えたと報告された。

安倍政権の攻勢
をはねかえそう
 一二時過ぎに始められた裁判所前集会では、裁判所前を埋め尽くした参加者を前に古関守東京争議団議長が主催者としてあいさつ、この間の地裁、高裁の不当判決を厳しく批判し、この異常事態を断ち切る闘いを作り上げようと呼びかけた。さらに安倍政権の「首切り自由」を狙った労働規制に対する攻撃をはね返すこと、そのために大きな共同を絶対に作り上げることを強く訴えた。
 連帯あいさつには大黒作治全労連議長、金澤壽全労協議長が立ち、各々から、労働規制への攻撃に対する労働者の総決起をめざそうと呼びかけられた。現場からは、郵政産業労働者ユニオン、私教連、全印総連、JMIUIBM支部、JMIUいすゞ自動車支部、JAL争議団の各代表、そして東芝の雇い止め攻撃と闘っている稲葉さんからそれぞれの闘いが報告され、マツダの派遣切りを不当解雇と認めた山口地裁判決をも力としながら、より大きく社会的に声を広げ何としても「首切り自由」への策動を覆す、との決意が表明された。参加した労働者はこれらの発言に大きな拍手とシュプレヒコールで応え、動き始めた共同の広がりを確かめつつ、安倍政権の狙う「労働分野の規制緩和」への総決起に向け共に立ち上がることを確認した。
 安倍政権は「成長戦略」と称し、労働規制の全面的な弱体化施策を六月にも決定しようとしている。このようなことを現実化させるわけにはいかない。第一次安倍政権で打ち上げられた「労働のビッグバン」を頓挫させた二〇〇六年の闘いの再現が何としても必要だ。この日実現した共同はそれが不可能ではないことを示している。この成果を足掛かりとして、さらに大きな共同と文字通りの総決起に向け共に力を尽くそう。        (谷)
 

5.15労働弁護団集会

労働組合運動全体を貫く
規制緩和反対の闘いを!


 五月一五日午後六時三〇分から、日本労働弁護団主催による「解雇規制の緩和に反対する集会」が、連合会館大集会室を会場に、労働者が座りきれないほどにつめかける中開催された。
 この日の注目点の第一は参加した労働組合の幅広さ。集会での労働組合からの発言には、連合本部、新聞労連(中立)、全港湾(中立)、JMIU(全労連)、東京東部労組(全労協)、全国ユニオン(連合)、連合非正規センターが立ち、中立、連合、全労連、全労協と、安倍政権が策する労働・解雇規制の緩和との対決に向けた、日本の労働組合運動の全体をほぼ貫く結集がひとまず出発点に着いた。
 注目点の第二は、連合本部が、連合としての発言と明確にしつつ、政権が策定をめざしている労働の規制緩和施策総体に対し、いずれにおいても許されないと、反対の姿勢を明確にしたこと。発言者は安永貴夫副事務局長。個別論点にも具体的に踏み込んだ。解雇規制の緩和に対しては、推進側の競争力論や「六重苦」論に批判を加えた上で断固反対。限定社員新設に対しても、解雇ルール緩和が狙いであると性格付け、看過できないとした。それらの上で五月二四日に緊急集会を開くと明らかにし、社会運動を積極的に展開する、すべての労働者の力を結集し断固阻止に向け闘う、と述べた。
 この連合の姿勢については、企業論理に丸ごと従属している主力労組とそのような労組出身者が指導部を構成する組織実態、また派遣法抜本改正の闘いに対するあからさまな裏切り、脱原発を求める人々の声に対する裏切りなど、この間の実際の行動を見る限り、額面通り受け取るわけにはいかないだろう。しかし重大な攻撃を前にし、文字通りの労働者総決起が必要となっているこの段階で、ひとまず連合本部が闘いの戦列に着いたという事実が重要だ。
 雇用と権利の大破壊攻撃をたたきつぶす幅広く共同した闘いを何としても作り出すために、この事実を徹底的に活かすことこそが求められる。下からの自立的共同の積み上げが決定的に重要であり、おそらくその鍵を握る連合傘下の個別組合に対する働きかけに際して、今回の連合本部の言明がもつ効果を生かし切ることが求められる。いずれにしろこの日の集会は、必要な共同に向けて一つの道が浮かび上がったという点で重要なものとなった。

資本の宣伝の
ウソ暴き出す
 集会は、日本労働弁護団の鵜良昭会長による主催者あいさつで幕を開けた。鵜さんは、その四〇%が解雇事案という労働審判が、日本では年数千件に止まるのに対し、イギリスでは二〇万件、ドイツにいたっては六〇万件と数字を挙げて日本の少なさを指摘し、日本では解雇規制が厳しいなどというデタラメがなぜまかり通るのかと、緩和推進勢力を厳しく批判した。
 次いで、水口洋介労働弁護団幹事長、また根元至大阪市立大学教授が、策されている緩和構想について詳細な批判を加えた。政権が大義名分としている成長産業への労働力移動という主張に関しては水口幹事長から、移動の少なさは規制ではなくブラック企業しかないという現実こそが原因だ、との厳しく端的な批判が加えられた。また根本さんからは、日本の解雇規制は厳しすぎるという宣伝の嘘を赤裸々に暴き出すOECD三〇カ国国際比較結果(二〇〇八年)が紹介された。
 その後前記した労働組合の代表から、幅広い共同による闘いへの呼びかけが表明された。
 これらの発言を集約するものとして集会は最後に、「幅広く連帯し、解雇規制緩和を始めとする労働規制緩和を許さず、労働者とその家族が人間らしい生活と労働条件を実現できるよう求めて強く行動していくことをここに決意する」との集会アピールを採択、今後に向けた共同を確認して終了した。前述したように、必要とされる共同のためには、各労働組合、労働者組織の自立した決起が何よりも重要となる。力を尽くして総決起をめざそう。
(神谷)

服部好彦同志を追悼する

「あなたは死を前にしてなぜ
あんなに明るかったのですか」

尾形 淳

京都府委員会
時代の活動

 五月二日早朝、服部好彦同志が肝臓がんで亡くなった。享年六九歳、まだまだ早すぎる死であった。
 私が関西に移籍してきた一九七六年当時、服部さんはまだT社にエンジニアとして勤めており、社内の左派グループの中心的活動家であった。また彼は京都の大山崎に住んでおり、その地域で西山反戦を組織していた。そうした忙しい対外的な活動の一方で、組織的にはJRCL(日本革命的共産主義者同盟)の京都府委員会の責任者でもあった。
 その当時の関西の共青同は春闘等の労働運動の高揚期には宣伝班を組織して、拠点職場へのビラ撒きを行っていた。その職場の一つがT社であった。ビラを撒く私たちを笑顔で見て工場の門を入っていく服部さんを何度か見かけたものである。
 また、当時の関西地方委員会の組織的課題は、南北大阪での地区委員会の結成と京都府委員会の強化であった。その方針に従って服部さんはまもなくT社をやめ、京都府委員会の専従となった。そして、七七年に入ると同盟は成田空港開港阻止闘争に全力を集中していくことになる。その任務は組織の強化という枠をはるかに超えるものとなった。京都の三里塚闘争に連帯する会の中心メンバーとしての活動と同時に、京都の共青同・青年共闘の下支えもしなければならなくなったからである。

機関紙支局長
としての責任


 成田空港開港阻止闘争の後、服部さんは「世界革命」の関西支局長に転出する。それ以降、山形に移住する二〇〇〇年までの「世界革命」、「かけはし」紙上の関西の報告記事の多くは彼の手によって書かれることとなる。様々な闘争の現場にカメラを片手に登場する彼の姿は、関西の多くの大衆運動の活動家の記憶に残っていることだろう。
 しかし、支局長としての服部さんを悩ませていたのは記事を書くことではなく、おそらく機関紙の部数の維持であり、その代金の納入だっただろう。全国大衆運動も、労働運動も私たちの予測に反して後退を続け、総評の解体へと帰結していく。また組織的には、中核派による襲撃、女性差別事件、分裂問題が同盟を直撃し、そのことは直ちに機関紙の部数に反映することとなった。
 「最近、宝くじを買うことがあるんだよ。当たるなんて思ってはいないが、当たったら支局の借金なんか全部チャラにできると思うと心が落ち着くんだ」と笑いながら言っていたものである。そして、私たちは彼が山形に移住した後、支局財政での彼の苦労と貢献を否応なしに知ることとなるのである。
 この時期の服部さんを語る上で欠かせないのは、昭和天皇のXデーに反対する闘争で果たした役割だろう。その事実はともかく、私が印象深く思い出すのは、その闘争の中で垣間見せた彼の大衆運動に接するときの態度であった。同盟員に対して服部さんは結構厳しくて、私などは叱責されることも稀ではなかった。ところが、反Xデーの闘争組織の参加者が言うのである、「服部さんは優しい人ですね」と。「服部さんが優しいだって」と、私たちは苦笑いしたものである。

地域の人びと
に溶け込んで


 服部さんが末期の肝臓がんであると聞いたのは昨年の四月であった。前年の一二月には彼の元気な声を電話で聞いていたので、信じられない気持ちでいっぱいだった。
 二〇〇〇年の春、彼は山形県の河北町に移住した。連れ合いのNさんの母親の介護のためであった。私の実家は福島市、山形でも九年間過ごしたので山形を訪れる機会は少なくなかったのだが、この間山形で服部さんを訪ねることはなかった。彼は同盟の大会や、夏の合宿には必ず参加していたので、その折りに会っていたからである。
 だから、山形で会うのは病気見舞いのために訪ねた一二年の八月が初めてであった。最寄り駅である寒河江駅で待ち合わせたのだが、三〇数年ぶりに降り立った寒河江駅は当時の面影は何一つなく変貌していた。しかし、服部さんの家のある河北町の谷地に向かう道路の両脇には、以前と同じように穂を出したばかりの稲の緑が広がり、西は月山と葉山が、東は主峰熊野岳から派生する北蔵王の稜線が夏空をのびやかに区切っていた。
 服部さん、あなたは死を前にしてなぜあんなに明るかったのですか。 
 「六月にそれ以上の治療を断って病院の玄関を出た時、もう治療をしなくてもいいと思ったらうれしくて万歳したよ」。
 「実は河北町の芸術文化協議会の副会長をやっていて、町制施行六〇周年の文化事業で山形市のオーケストラを招く計画があるんだが、俺がその交渉役なんだ。だけどそれまで生きているのかなあー」。
 庭に向かって開け放してはいるが、少し薄暗い居間で、屈託なく笑いながら服部さんは近況を語っていた。今年の三月の末に訪ねた時もそうだった。二、三日前から食欲がなく、腹も痛むからといって、それはおそらく死に至る痛みだったのだろうが、居間の食器棚の前に寝そべって、数日前にあった山形県民会館開設五〇周年記念の合唱祭の模様を私に話してくれた。彼もNさんも河北町の合唱団に参加していて、服部さんは会長を務めていた。
 「合唱祭が終わったんで、もう思い残すことはないよ。山形讃歌の組曲だから何曲も歌うんだ。数十分立ちっぱなしで歌うから、普通の人でも疲れるのに、俺なんか終わったら座り込んでしまったよ」。
 写真を示し、身振りを交えて本当に楽しそうだった。そして、また夏か秋には訪ねますという私の別れのあいさつにも、「俺はもうそういう約束はしないんだよ」と、ニヤッと笑ってうなずきかえして、わたしに返答をつまらせた。
 五月五日の葬儀には服部さんの活動の広さと深さを物語るように多くの人が参列し、何人もの人が弔辞を読み、合唱団の仲間たちは彼が好きだったという「見上げてごらん夜の星を」を合唱した。私は弔辞を聞きながら、服部さんがもう一〇年か一五年早く河北町に移住していたら、どんな地域活動をしていたろうかと取り留めもなく考えていた。
 

服部好彦同志の略歴

1943年12月、岡山県牛窓町に生まれる。
1962年4月、京都大学工学部に入学し、学生運動に参加。日本革命的共産主義者同盟に加盟し、60年代半ばには東京で学生運動担当として活動。
1970年代には同盟京都府委員会の責任者となる。京都で「西山反戦」を組織するとともに共青同の強化に奔走する。
1979年、機関紙「世界革命」の関西支局長に転出。
2000年4月、義母の介護のために山形県河北町に移住。2012年4月、肝臓がんを発病。1年間の闘病生活の末、5月2日家族に見守られながら永眠。享年69歳。

 


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