アジア連帯講座 4・20公開講座
原発立地・大熊町民の今
木幡ますみさんのお話を聞く(上) |
四月二〇日、アジア連帯講座は、原発立地・福島県大熊町の住民で、会津若松市に避難している木幡ますみさんを招いて、大震災・原発事故直後から現在にいたるまで被災住民が強制されている苛酷な生活と、その中での住民たちの思いについて語っていただいた。今号から三回に分けて木幡さんのお話を掲載する。(編集部)
1 3・11当日とその後の様子から 叫びながら
逃げて来る人
二〇一一年三月一一日に地震がありまして、ほんとにすごい揺れが、ドスン、ドスンと下から突き抜けてくるようだった。これは大きな地震だなと感じた。私は、当時、友達のところにいて、ドスンと揺れが始まって、屋根が崩れてきて、窓が壊れ、私たちもここにいては大変だと思った。九八歳のおばあちゃんもいたので、みんなで助け合いながらいたが、揺れが止まったかなと思ったら、近くの石垣が崩れ、ごろごろと突進してきた。危ないと思って外に出た。道路は寸断され、地割れがして、これでは家に帰れるかなと思いながらも家に帰ろうとしました。途中一軒の家が崩れ落ちる寸前に出会い、数秒遅れていたら、瓦礫の下になっていたかもしれない。
ところが私の住んでいる野上という部落では、家が壊れてなかったんです。大熊町中心街は滅茶苦茶に壊れていた。ここは原発で潤ったところだった。原発で働いている方々が、よく建物の雑誌に出てくるような素晴らしい家に住んでいました。ところが土地は非常に水はけが悪くて、いつもじめじめした土地に、家を建てていた。だからこの周辺の家は、大変な状況になってました。また、原発周辺は、後で聞きましたが、津波でやられたみたいでした。
野上の土地は、岩盤なんです。家が壊れてない、倒れていない。石垣も壊れていなかった。家の前に道路があるんですが、国道二八八号線の田村市に向かって右側は全く壊れていなかった。ところが左側は、お墓なんかもあるが、崩れていた。地質によってかなり被害が違っていた。地震国日本において、原発がこのようなところに作ってはいけないということを、ほんとにまざまざと見せつけられた思いでした。
地震の後、私は夫と二人で、夫は町会議員をやっていたので、ちょっと町内を見てこようということになった。しかし黒い大群が原発から、「もうだめだ。もうだめだ」と叫びながらも走ってきた。私が「どうしたんですか?」と聞くと、「原発は地震で、配管が上になったり、下になったり、滅茶苦茶壊れている。これから津波も来るけど、あれだけ配管が壊れているから、こんなところにいたら死んじゃうよ」と、 かなり話してくれたが苦しんでいる人がいた。
でも助けられない。必死に起き上がろうとする人がいたんですが、起き上がれない。私も原発の放射線が怖いから、助けることができなかった。さらにガソリンもなくなって、助けられなかった。ほとんど危ない感じの人が横たわっていた。みんな大きな声で叫びながら逃げて行った。
取るものも
取りあえず
私は、これはいけないと思って、とにかく水とか、食料を確保しようと思ってファミリーストアーに行った。だがそこは暴動化していた。人間って浅ましいなと思った。普通はお金を払って物を買うのだけれど、みんな根こそぎ商品を持っていくんです。店の人は、対応しきれずに諦めたという感じだった。人間は、最後はこういうものだなと思いました。この日の夜、仙台に用事があったので長男と次男と私たち三人は、仙台に向いました。
翌日の夜、私たちは家に帰ってきたが、当然、辺り一面真っ暗闇。皆どこに逃げて行ったかわからず、一四日に夫が田村市の体育館に皆が避難しているから、ここはもうだめだから出ようということになった。
犬と猫は車に入れられませんでした。普通、二匹とも追いかけてくるんだが、追いかけもしないでじーっと私たちを見送るようにたたずんでいた。えさは、全部袋をやぶって置いてきた。ただ水があまりないので、気が気じゃなかった。後ろ髪を引かれる思いで猫と犬は置いてきました。
糖尿病の方、血圧が高い方、ほんとに薬が必要な方が薬を持たずに逃げた。看護士さんも、夜勤で病院に入っていたんですけど、白衣のまま逃げていました。子どものオシメを持たずにお母さんたちは逃げてきたとか、とにかく悲惨な状態だった。野上部落の人々もこれはただならぬことだから必要な持ち物を車に詰めて逃げようということになったとのこと。連絡が野上の方まで入ってこなかったので。
結局、薬を飲めなかった人は、糖尿病で血圧が高かった人などは大変だった。会津若松にいる間、バタバタと亡くなっていく状態でした。
2 大熊町の人びと
自分のことで
精一杯だった
避難した田村市の体育館には、非常に大勢の人々が避難していました。ところが体育館に入ろうとしたら役場職員が、「あなたたち入っちゃだめだ。もう一杯だから出ていきなさい」と言われた。私たちは、「じゃどこに出ていくんだ」と言えば、「それはわかんない」。「わかんないって、それじゃ困る。私たちだって、外にいるわけにはいかないから入れてください」と言った。役場の職員は、自分のことで一杯で、同じ町民でも関係ないという感じだった。
しかし私は、どんどん入っていったんです。隙間があり、私が知っている人たちが何人かいたので譲ってくれた。一般的にこういう非常時の時は、助け合わなければいけないと言っていますが、そんなふうには絶対ならないということが証明された。自分のことだけで精一杯で終わってしまう。人のことなんてどうでもいい感じだった(特に公の人たちはね)。
さらに、体育館にいるあいだは、子どもが一人泣くと、「泣かせるな、静かにさせろ」と怒号が飛んでくるんです。あるお婆さんが「まるでどっかの防空壕にいるようなもんだ」と戦争中の防空壕のことを思い出して言っていました。障がいのある子どもたちは、もうじっとしていれないのでうろうろとして泣いたり、わめいたりしてしまう。それで怒ってしまう大人がたくさんいました。
こういうことをするのは、だいたいが男性だった。男性は、自分が思ったことをなんでも言っちゃう。お婆さんなど女性は黙っていて、なにも言わない。女性もうるさいな、いやだなと思っていてもなにも言わなかった。逆に、こういう現場に来てからは、女性たちはお互い助け合ってました。
役場職員の男性は、普段、防災訓練をしていますからと言ってましたが、まったく訓練が生かされていなかった。体育館の中で食べ物が来た時などは、我先に集まって来て、たびたび私たちが整列させる必要があった。しかし役場職員は整列させようとしない。
だから私たちは、子どもの頃のように先生に「整列しなさい」と言われたよう整列させていたほどだ。整列させてから、こっちに持ってきなさい、このようにしなさいと、そうしてはいけないと何度も大声で言ってました。
なんで大の大人が私たちに言われなくちゃならないのか。なんでこんなことになってしまうのだろうかと、友達と話し合った。多分これは原発の後遺症だろうと判断した。原発でお金が入り潤い、嬉しい、嬉しい、お金さえあれば良いと考えるようになり、おかしくなってしまった。その結果として、後遺症として出てきてしまったのではないかなと思いました。
体育館に避難してから二、三日して役場職員に「ヨウ素剤はどうしましたか。ヨウ素剤を配りましたか」と聞いたら、役場の人たちは「なにそれ。そんなの知らないよ」と言っていた。やはり後で聞いたのですが、私の他にもヨウ素剤を配ってくださいと言った方がいましたが、誰も、役場職員の方は聞いてくれなかったとのことです。
ところが三月の終りになって、木幡さんヨウ素剤がありますよと言ってきた。私は、「今頃では遅いんだ。なんのために訓練をしてきたのか。そのためにどれだけのお金が使われてきたのか。お金はどぶに捨てているようなものだ」と痛感しました。
避難の説明を
市長に求める
体育館から会津若松に避難することを知らされた。体育館の皆さんは町長に、なんで会津に行くのか話をしてもらいたかったが、話をしてくれない。私は、トイレの前で町長を待ち伏せして、「あなたは町長なんだから、みんなになんで会津若松に行くのかをきちんとお話をしてくださいよ。そうしないとみんな納得しないし、暴動が起きますよ」と言ったんです。初めは、困ったなという顔をしていた。役場の人は、「そんな話をする必要はない」と聞く耳持たずでしたが、私は、「皆さん聞きたいんですよ。これからどうなるかを。ちゃんときちんと話して下さい」と詰め寄って、結局、話をするようにさせた。
町民は、町長がきちんと一言、二言でも、「会津若松に行きますよ、今大熊町には帰れないから会津若松に避難して待ちましょう」と言ってくれれば、ある意味で安心するというか、しばらく我慢しようかなとなると思ったからでした。
すでに東電幹部たちは、三月一一日に大熊町から逃げているんです。実は、大熊町役場に東電の副所長が、一一日の夜の九時四五分頃に「危ないから逃げてください」と来ていた。ところが町長は、放射線の認識が甘く、危機意識がないから、近辺三キロ以内の人だけを体育館に逃げさせた。ほとんど逃がしたことにならない状態だったのです。
情報共有のため
新聞発行を開始
三月の終りに夫が体調を崩して仙台の病院に入院していた。会津若松に避難してから役場に行って、私は一人なので、今何が起きているのかを聞き、メモをとって、それを人に伝えるために新聞を作った。飯豊山のふもとのほうに追いやられた方々、会津の奥地に避難された方々、そういう人たちがどうしているかなと思って、役場から聞いた話を遠くにいる方たちに教えようと新聞を作りました。
そしたらその方たちが、「私たちは騙された。役場の人は毎週一回、二回来ると言っていた。病院に連れていくとか、薬を持ってきてくれるとか、色々と約束してくれたから、納得して若松市内からも、役場からも遠いけど来たんだ。ところが一回も来てくれない。どうなっているのか状況がわからない」と言ってました。
避難者は、不安でしようがないのです。私はその話を聞いて、役場の人に伝えた。「大変だから誰か行ってあげて、病院にも連れてあげて」と言ったんです。言っているだけではおさまらないなと思いまして、書いたものを直接見せるしかないと思い、それで新聞を作ることになった。体育館で友達になった人や、元々の友達、三人で新聞をあちこちに配達した。
その時にみなさんの話を聞いた。みんな帰れると思うから、今少し我慢すればいいという感じだった。話を聞いていくと、私のお父さんが昨日死んだだよとか、うちの息子おかしくなっちゃったんだよという話も耳に入ってきた。それを役場に行って言ったが、俺たちだって大変なんだから、そんな人の話を聞いていられるかという対応だった。
これも原発立地である大熊町は、飼いならされてきた動物みたいなもんで、自分で何もできない人だなと思った。自分で考えて行動しようということが、なかなか難しいのだなと感じた。 (つづく)
5.23いわき住民団体が共同で申し入れ
放射性廃棄物焼却実証
実験施設建設に抗議
【いわき】五月二三日、いわきアクション!ママの会、いわきの水と風の会、いわきを変えるゾ市民の会、いわき母笑みネットワークの四団体一八人がいわき市に対して要請行動を行った。福島県鮫川村において二二日再開された「放射性廃棄物焼却実証実験施設」の建設に反対する四団体が、いわき市に対して行った申し入れは以下の七項目である。
@環境省に対して工事再開に反対の申し入れをすること。A環境省に対して試運転実行反対の申し入れをすること。B安全性確保について納得の行く説明をすること。C環境影響評価を実施し、大気の流れのシミュレーションを示すこと。D近隣自治体と安全確保に対する協定を締結するよう環境省に求めること。E週に一度「四時川=しどきがわ」源流の水質検査及び周辺、敷地内、敷地境界線の大気ダストモニタリングを行うことを環境省に要求すること。F前項の調査活動を市独自に実施すること。
必要な情報と
安全の確保を
二〇一一年八月政府は「放射性物質汚染対策措置法」を公布し福島原発事故により発生した放射性物質汚染ゴミのうち八〇〇〇ベクレル/キロを超える物を国の責任において処理することを決定した。しかし環境省は大量に発生する放射性物質汚染ゴミの減容化を目的に実証実験の実行を図っている。八〇〇〇ベクレルを超える廃棄物のうち、稲藁・牧草・除染により発生したゴミを低レベル汚染廃棄物と混合・焼却し焼却灰の汚染レベルの低下を図ろう、というのだ。
鮫川村「放射性廃棄物焼却実証実験施設」の建設計画については各方面からの反対運動が行われ、建設は一時中断に追い込まれた―昨年一二月にはいわき市の市民と鮫川村住民が上京し環境省に建設中止の申し入れを行い、建設予定地の住民の半数以上が反対の意思表示をした―。焼却炉の建設計画には当初から焼却容量二〇〇立方メートルを超える焼却施設の建設は県による環境アセスメントの実施が必要な条件として規定されているが、同施設の焼却容量は一九九立方とされる等安全性についての不信が存在していた。
また昨年一二月二六日には鮫川村がいわき市と環境省に対して申し入れを行った。同施設の建設予定地がいわき市南部の水源地となっているにもかかわらず、施設の建設について何の説明もなかったからだった。申し入れは、いわき市に対して必要な情報の提供、住民生活の安全安心を保障するため万全の対策を講じること等を骨子としたものだった。そして今年五月一四日環境省はいわき市の申し入れについて三点(安全性確保。監視体制。情報提供)の回答を寄せた―安全性の確保については焼却後の排ガス対策としてバグフィルターにヘパフィルターを追加する。
監視体制については鮫川村住民二五人で構成する仮設焼却炉監視員会を設置し、またいわき市が監視可能になった。本格的運転前に一般公開の確認運転を実施し、煤塵、セシウム等放射性物質濃度のデータを公開し、いわき市と調整する―(五・一九共産党いわき市議会議員たより)。
住民分断政策
強行を止めよ
五月二一日、隣接する北茨城市の豊田稔市長が環境省を訪れ「建設予定地近くの住民は全員が反対している」として配慮することを申し入れたが担当者は「事業は止められない」と回答し(五・二二東京新聞)、五月二二日ストップしていた環境省は焼却炉の建設工事の再開を強行した。工事再開について鮫川村村長は「建設予定地の地権者の賛成は概ね得られた」としているが、詳細は不明であることなど、建設に関する諸問題は解決していない。環境省は建設工事を止めよ。復興推進を名目とした住民分断政策の強行を許してはならない。 (浜西)
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