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    かけはし2013.年5月20日号

密室で進められた核廃棄物政策


非公開、ウソ、そしてせこい手

1968年、45トンも海洋投棄

 1968年のある日、欝陵島から西南側11海里(約20q)離れた海のどまん中に海軍艦艇が停まっていた。やがて船からどどっと落されたドラム缶20個が水深2200m下に沈んだ。核発電所(原発)がなかった時期、原子力研究所(現・韓国原子力研究院)が研究用の原子炉などを運営して生じた核廃棄物だった。この事実は23年が過ぎた1991年になって国際原子力機構(IAEA)の核廃棄物関連の報告書を通じて知られるところとなった。
 大衆は憤った。当時、核廃棄物の管理部署だった韓国原子力安全技術院は、遅ればせに「1968年から1972年まで200?容量の鉄製ドラム缶115個(総45t)を捨てた」「1974年にIAEAが水深4千m以上の深い海にのみ海洋投棄を許容することにしたので、東海(日本海)を対象とした廃棄物の処分を放棄した」と解明した。わが国に核廃棄物をめぐる論難の序幕を告げる初の事件だった。

「地域開発事業」のエサに推進


 政府が核廃棄物の処理の論議を始めたのは、国内最初の核発電所である古里1号機(1978年)が稼働されてからだ。古里1号、2号機だけだった1983年、科学技術処は「放射性廃棄物管理総合対策」を立て「中・低レベルの放射性廃棄物は陸地処分をするとともに核発電所敷地の外に中央集中式の永久処分場(以下、核処分場)として建てる」との基準を設けた。核廃棄物の管理は国家主導の非営利運営管理機構が行い、技術開発が必要な使用後の核燃料(高レベル放射性廃棄物)の管理対策は後で別途につくるというものだった。
 政府は直ちに核処分場が作られる候補地を選んだ。1986年、慶北の蔚珍郡、盈徳(ヨンドク)郡、迎日郡(現・浦項市)が最終候補地に上った。すべての過程は徹底して非公開だった。住民たちも知らなかった候補地選定は、激烈な反対に結びついた。メディアを通じて候補地のトップだと知らされた盈徳では3千人余が集まった事実上、最初の核処分場反対デモが展開された。政府は引き下がった。20年余り続けられる葛藤の種が芽生える瞬間だった。
 「盈徳カード」を捨てた政府は第2の原子力研究所の敷地を含む核処分場敷地の建設に乗り出した。もちろん今度も徹底して非公開だった。政府は1990年に発表した安眠島総合開発計画に「西海(黄海)科学研究団地」計画を追加した。忠南・泰安郡(安眠島)に作られる研究施設には核処分場もあった。
 だが、せこい手は長続きできなかった。メディアを通じて、核処分場が作られるという事実が知られるようになると、安眠島では激しいデモが繰り広げられた。大規模集会が開かれ、警察署の建物は黒煙に包まれた。結局、チョン・グンモ科学技術処長官が直接、乗り出して解明をした。「核廃棄物の永久処分場設置計画は最初からなかった。住民たちの誤解が解かれない限り、安眠島にいかなる新規の施設も設置しない」。
 安眠島の核処分場の陣痛は続いた。政府は1991年末、3番目の核処分場候補地として江原道の高城郡、襄陽郡、慶北の蔚珍郡、迎日郡、全南の長興郡、忠南の泰安郡など6カ所を選んだ。当時、安眠島の一部住民は直接誘致申請をしたが、ほどなくこれらの人々が原子力研究所のカネをもらって誘致活動をした、と明らかにした。3番目の核処分場の候補地の計画は大きな論難に包まれながら霧散霧消した。
 文民政府が発足するとともに核処分場計画は「地域開発事業」というエサとともに推進され始められた。いわゆる放促法(放射性廃棄物関連事業の促進ならびに施設周辺地域支援に関する法律)を通じて核処分場のある地域に毎年、最大50億ウォンまで支援することにしたためだ。1994年、政府は9カ所の候補地のうち6世帯だけが暮らしている仁川市・甕津郡屈業島を最終候補地として選定した。地域の反発を最小化できるだろうという計算だった。相変わらず住民の合意なしに進めた候補地選定は、仁川と周辺の島々の住民たちの強い反対にぶちあたった。だが屈業島候補地は住民の反対ではなく、核処分場の敷地としては不適切な事実が後になって明らかになるとともに、事業は挫折した。政府は信頼性について大打撃を受けた。その結果、核処分場の事業主体は韓国原子力研究所から韓国電力公社(現・韓国水力原子力)へ、担当部署も科学技術処から通商産業部へと移管された。

慶州・竣工日の相次ぐ延期

 核処分場は、10年以上も密室推進→住民の反対→白紙化というサイクルを繰り返した。韓電は候補地を公開・公募したけれども、その後遺症によって2001年まで、どの都市も乗り出さなかった。結局、政府は事業者が候補地を決めれば地方自治体と協議して敷地を決定することにした。論難の起きることが明らかな決定方式を押しつけたのだ。2003年、全南の霊光郡、慶北の蔚珍郡、盈徳郡、全北の高敝郡など4カ所が候補地となった。政府からは10部署の長官が乗り出して泣訴した。「特別支援金3千億ウォンと韓国水力原子力の本社移転、そして陽性子加速器事業の申請にはさらに特別加算金を付与する。政府が責任をもって地域の宿願事業を支援する」。
 候補地の4カ所で論難が激しくなった中で、キム・ジョンギュ全北・扶安郡守が核処分所の誘致申請書を出した。いわゆる「扶安の事態」の、ボタンのかけ違いの瞬間だった。地域の同意なしに進められた誘致申請は1万人を超える市民らの集会へと連なった。コ・ゴン国務総理が乗り出したものの、仲裁に失敗した。半年余り続けられた扶安の事態は、2004年に行われた住民投票において投票者の91・83%の誘致反対をとどめとして幕を下ろした。
 「韓(朝鮮)半島の非核化などさまざまな与件を考慮する時、高レベル放射性廃棄物処分場を論議するのは現実的に難しい。高レベルについては公論化以降、中・低レベル廃棄物の建設地域ではない別途の地域を選定するというのが政府の確固たる方針だ」(2005年2月21日、イ・ヘチャン元・国務総理の幹部会議での発言)。
 核処分場の論難が20年以上も社会的問題として漂い続けると、参与政府(ノ・ムヒョン政府)は高レベル核廃棄物(使用後核燃料)よりも相対的に放射能が低い中・低レベル核廃棄物処分場から建設していくと発表した。突破口を求める過程で、「使用後核燃料をどうするのか」という論議はしばらくの間、引き延ばされることになったのだ。
 2005年、全北の群山市、慶北の盈徳郡浦項市、慶州市などが候補地申請を行い結局、慶州が投票者の89・5%の賛成を得て慶北・慶州市陽北面奉吉里に中・低レベル放射性廃棄物処分場の建設を始めた。
 全国に燎原の火のように社会的葛藤を呼び起こした核処分場の論難は候補地選定後も収まらなかった。核処分場が建設される慶州で、施設の安全性をめぐる論難が絶え間ないからだ。2010年6月の完工を目標にして始まった工事は「進入洞窟の岩質等級が予想よりも低く、掘り進んでいく速度が遅く、補強作業をしなければならない」として竣工目標時期が2012年12月に延期された。今年1月には補強作業などを理由に竣工日を2014年6月へとさらに延期された。核処分場が作れるほどに安全な地域なのかという疑問が頭をもたげているのも、このためだ。

使用後核燃料の処理

 30年さまよった核処分場事業は、今やこれまで引き延ばしてきた高レベル核廃棄物(使用後核燃料)に対する論議と向き合うこととなった。だが使用後核燃料を永久処分するのか再処理するのか、そのために核発電所をさらに建てるのか、そうでないのかなど複雑な論争が次々に積み重なっている。使用後核燃料の公論化を繰り広げるに先立って、政府はこの30年間に全国にばらまかれた3つの単語を何度もかみしめなければならないようだ。非公開、ウソ、そしてせこい手、この3つの言葉を、だ。(「ハンギョレ21」第955号、13年4月8日付、キム・ソンファン記者)

「自殺誘発型」成長

経済成長上の「必要悪」なのか?

労働者が次々と
自ら命を断つ
 4月16日、起亜自動車の社内下請け労働者が自分の体に火を付けるという、やるせない事件が起きた。起亜車光州工場が新規採用に踏みきるとともに、内部的に年齢制限を設けるやり方で10年以上、働いてきた社内下請け労働者の機会をはなから奪ってしまったことに対する鬱憤を爆発させたものと伝えられる。まさに当該工場では正規職労働者の子女たちを優先採用しようとしていて論難をかもしてもいた。これより2日前の4月14日には現代自動車蔚山工場の嘱託契約職の労働者が自ら命を断った。社内下請けで働いた後、嘱託職に転換されたが、今年1月の契約満了とともに解雇されたのだと言う。
 仕事の現場から聞こえてくる憂鬱な知らせは、これだけではない。今年1月、慶南・巨済のあるコンビニ店主が生活苦の中で命を断ったのに続き、この3月には京畿道・龍仁とスヨン区でも相次いでコンビニ店主の自殺事件が起きた。今年に入ってフランチャイズ本社の横暴に耐えきれず、コンビニ店主が自殺した事件だけで既に3度目だ。
 わが国の自殺率が経済開発協力機構(OECD)加盟国の中で最も高いという事実は、よく知られている。それどころかそのことを何のためらいもなしに受け入れさえする。2010年の基準で人口10万人当たりの自殺者を見てみると、わが国は33・5人で断然1位の座を守っている。労災の面でも、わが国の地位は充分に独歩的だ。2012年の1年間の労災被害者数は9万人で、人口比においてOECD加盟国の中で最も高い。

OECD加盟国
内自殺率第1位
 よくよく見ておくべきは、しばしば「望ましい」目標として受け取められている経済成長と、「どうしようもない」必要悪として考えられている自殺、労災、貧困などの相関関係においてわが国の状況は極めて異例だ、という点だ。時間が経過すればするほど、わが国の「特殊性」は一層明瞭になるすう勢だ。一種の「韓国版例外主義」(Korean Exceptionalism)とでも言おうか。世界銀行とOECDの資料を見よう。2000〜2010年のわが国の年平均経済成長率は4・17%で加盟国の中で最も高い。まずは通過、だ。けれども同じ期間の自殺率と貧困率の増加幅もまた2番目に大きな国だ。これまで我々が掲げてきた成長の道というのは、ただ1つ「犠牲」の多い成長、「よくない」成長だったわけだ。
 最近、政府は17兆3千億ウォン規模の追加経済成長予算(追経)を公開した。金融危機直後の2009年(28兆4千億ウォン)に続き史上2番目に多い規模のせいで、「スーパー追経」という言葉も出てきた。政府は、これほどのカネであれば今年の成長率を展望値(2・3%)よりも0・3%以上、引きあげる効果をあげることができるものと見通した。ひとことで言えば、カネをぶちこんで「成長」させる、という話だ。
 経済用語の中に「雇用誘致係数」がある。単純に言えば、売上額が10億ウォン増えるごとに雇用者数がどのくらい増えるのかを表す数値だ。よく知られているように、わが国の雇用誘発係数は時の経過とともに低くなっている。どんなに経済が成長したとしても、それだけ働き口がそれにつれて増加してはいない、ということだ。就業誘発係数、生産誘発係数などの用語もある。成長率の数値1つにそれほどにしがみついたわが国で、万一「自殺誘発係数」というものを求めてみれば、どうなるだろうか。例えばカネを1兆ウォンぶちこめば成長率が1%高くなるとき、その反対側で自ら命を断つ人は、またどのぐらい増えるのだろうか。実によくない成長、自殺誘発型成長の迷夢から集団脱出する第一歩となりはしないだろうか。今や「付き合い、分かち合い、享受する」成長への軌道修正のための準備作業をする時ではないのか。(「ハンギョレ21」第958号、13年4月29日付、チェ・ウソン/編集長)



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