ベネズエラ
われらがチャベス
想像外の変革は起こり得る
今こそ底辺からの集団的指導部建設を
クラウディオ・カッツ |
ベネズエラのチャベス大統領の死去は、特にラテンアメリカの人々に深い悲しみ(逆に支配階級には期待)を残し、当地の民衆運動の今後にも大きな影響を与える可能性がある。以下に紹介する、アルゼンチンのエコノミスト、クラウディオ・カッツによるチャベス追悼文は、チャベスがラテンアメリカ世界に何を残したのかを生々しく伝えている。(「かけはし」編集部)
死は予想されていたとはいえ、希望は常に残り続けていた。私たちには彼が必要なのだから彼はい続けるだろう、こう訴える声が多くあった。それが起きることはなかった。そして、この必然の運命を前にした何百万人を悲しみが圧倒した。かけがえのない者が消え去った。そしてどのような讃辞もこの喪失を埋め合わせることはないだろう。追悼の言葉各々は一つの横顔を選んでいる。指導者、コミュニケーター、護民官、火山のようなエネルギー、大胆不敵な者。しかし、いくつかの讃辞は、社会主義とALBA(米州ボリバール同盟、FTAAに対抗してチャベス主導の下に創出された地域統合機構、ベネズエラ、キューバ、ボリビア、エクアドル、ニカラグアなど八カ国で構成:訳者)という彼の有益な遺産を台無しにしている。
大陸規模で人々を揺り動かした
チャベスは資本主義を疑問視し、葬られたと見られていた解放の構想を取り戻した。彼はとがめを受けた諸概念を取り上げ、忘れられていたマルクス主義を思い出させ、ブルジョアジーを糾弾し、キューバに対する敬愛を公然と明らかにした。彼は社会的平等と真の民主主義という理念を送り届け、抑圧された者たちの中に地震を引き起こした。彼は、下層の人々の尊厳と諸権利を防衛した。彼はわれわれに、搾取や競争や利益のない社会を想像するよう訴えた。
こうした側面は、「まじめな資本主義」の方が好みの人々にとっては心地いいものではない。またそれはセクト主義者を困らせる。彼らは、彼らの処方箋の常道から離れて方向を変える者には誰であれいらいらさせられるのだ。彼らは、あたかも彼らが裂け目を縮める何らかの能力をこれまでに示してきたかのように、構想とその具体化の間の距離を嫌う。チャベスは社会主義を歴史の諸著作の中から救い出し、未来の可能性の中にそれを再び位置づけた。
彼は、この見通しがラテンアメリカの中で革命的愛国主義と一致していることを示した。彼は、急進化した反帝国主義の兵士という軌道にしたがい、社会的諸闘争と合体した。そして彼は、彼の人民と一体となった交響曲を、そして大陸規模の波及力を作り上げた。それらはトリホス(一九六八年の軍事クーデターで実権を握ったパナマの軍人、パナマ運河地帯の米国からの返還交渉を強力に推進した:訳者)やベラスコ・アルバラド(一九六八年のペルー「革命」時期の軍人、大統領、農地改革、国有化など、封建的、新植民地主義的旧体制の改革に取り組んだ:訳者)が決して得ることのできなかったものだ。
ペロニズム(第二次大戦を挟む時期にアルゼンチンでペロンが主導した労働者保護的経済改革路線、ただしペロンが大統領となり最高権力者となったのは一九四六年:訳者)と対比することには注意を払うことが必要だ。チャベスがもの言わぬ多数派の同じような動員、並びに社会的成果の同じような達成に導いたことは確かだ。しかしチャベスは、保守的な秩序には全面的に反対する道にしたがった。その理由により彼は、「フスティシアリスモ(社会的正義、ペロンが提唱した政策:訳者)」のような反動的手法を利用することは決してなかった。彼は、決起した若者たちと衝突する代わりに、「社会主義の祖国」を想起させた。
もう一つのラテンアメリカ建設
チャベスは地域的統合を推し進めたが、ビジネスと企業の利潤を理想化することはなかった。彼はそれらの統合を現にある光景の事実として受け止め、主権回復の道具と考えた。彼の構想はALBA、すなわち協力という諸手段による統一だった。彼はキューバとの間の教員と原油の交換から始め、その最後には、ハイチの見捨てられた人々や中米の貧しい人々やボリビアの貧困層との数え切れない連帯キャンペーンの支援が置かれた。これらの主導性は、諸行動を強欲によって導かれるもの、としてしか考えられない人々によって、「石油外交策動」と解釈された。
ALBAは、より少ない官僚とより多くの社会運動をテコとして、もう一つのラテンアメリカ建設に挑んでいる。チャベスはそれをボリバールの経験から引きだしたものと考えた。独立戦争が奴隷の解放と隷属の廃絶へと拡張したのであれば、帝国と対決する現在の戦闘は、主体としての民衆のより大きな介入を求める。その衝突に対する準備の中で彼は、米国というスーパーパワーに対する公然たる非難を控えたりはしなかった。
ラテンアメリカは、反帝国主義戦略を敷設するためにあらゆるフォーラムで上げられた急進的な声を失った。大きな地域的空白が生まれた。それを穴埋めする者はいない(当面)。クリスチナ(アルゼンチン大統領)やディルマ(ブラジル大統領)が彼の代わりとなる十分なカリスマ性をもっているかどうか、このような議論をする人たちは、空位となった指導部に関する内容を忘れている。かの司令官は分かりやすい真理を語った。なぜならば彼は、強力な者たちに反抗することを恐れなかったからだ。この理由から彼は、彼を黙らせようと試みたヤンキー外交官や卑小な欧州の小公子をからかった。
急進変革の道は閉じていない
チャベスは、知性の一貫性を勢力関係の評価の中にいかに結び付けるかを知っていた。その能力は、チームを固め、マドゥロを配置し、カプリレスを弱体化させながら、彼が政府を指名した最後の時期に非常に明らかとなった。こうして彼は、右翼がまさに大いに思い焦がれた権力の空白に対処した。しかし彼は、選挙運動に費やされたエネルギーによって、彼自身の死期も早めた。
これらの選挙結果は、力あるものに奉仕する共和国秩序の後見人たちにとっては、消化しにくいものとなっている。彼らは恐るべき権威主義者を問題にしているのだが、しかし彼は、一三回もの公明正大な選挙と執拗な監査官に勝ち抜いたのであり、マスメディアによっていつも侮辱を受けてきていたのだ。
ベネズエラ人の歩みを深めるべきか凍結すべきかをめぐる論争は、より不確かなものとなった。自身を富ませるためにボリバリアンの見せかけを利用している官僚たちとの日常的な緊張がある。彼らは、輸出業者―金利生活者的かつ非生産的消費を再創出し、効率的で食料を自給できる産業経済の建設を妨害している。原油基金の流通貨幣を通して富を蓄え、財政赤字を増大させ、通貨切り下げサイクルを変えようとしない。
一方で多くの敵は今、原油歳入の配分における大きな変化を認識している。彼らも、これらの財源が有益に食料、教育、保健、住宅に向けられたことを受け入れている。しかし、前任者の大統領が誰一人そのような変革を物質化しなかったのはなぜか、を説明することは決してない。
達成された成果は明白であり極めて重要だ。しかしそれらは十分ではなく、経済過程の急進化が先延ばしされるならば、失われる可能性がある。指揮官はもはやいない。そして今や、基層の人々が選出するより集団的な指導部を形成すべき時だ。これは、歴史過程がもつ予想できない性質によってあり得るものにされる。たとえば一〇年前、今のような転換がボリバリアン運動によって起こされるなどと、誰が想像しただろうか。
チャベスは、チェと並んで席を占めるために正面玄関を通って歴史に入っている。ゲバラは、社会主義の直接的拡張という高い期待を高めた革命上昇の象徴だった。チャベスはもう一つの背景の中で現れた。彼は、二一世紀の始めにラテンアメリカを揺るがした反乱を表現し、新自由主義に対するいくつもの勝利を体現した。彼らは、平等、公正、そして解放に向かう同じ旅の二つの時期に適合した二人の傑出した人物だった。
▼筆者は、エコノミストであり、ブエノスアイレス大学で教鞭をとる、科学技術全国評議会(CNCT)の研究者。彼は現代帝国主義に関する革新的分析を示した著作を出版している。また左翼エコノミスト(EDI)のメンバーであり、IIRE特別会員でもある。(「インターナショナルビューポイント」二〇一三年三月号)
福島の惨事から二年
事故の衝撃の拡大
は国際的にも続く
ピエール・ルッセ ピエール・ルッセ同志が東電福島原発事故から二年目にあたって、脱原発をめざす日本の民衆と日本支配階級の対抗関係を不安定化が高まる東アジアの中に置きつつ、世界の読者に向け解説を加えている。「外」から見える日本としても興味深いものがある。今後に向けた討論の一助として以下に紹介する。(かけはし」編集部)
二〇一一年三月一一日の三重の惨禍は現代日本にとって大きな歴史的転換をなすものだった。三月一一日の惨事は、この国の政府諸機関や種々の制度に対する人々の考え方に重大な変化をもたらした。それはまた、きわめて進歩的な市民の反抗をつくりだした。
だが、三月一一日とその後の事態は、東アジアの地域的情勢がますます不安定になるという状況のもとで発生したのである。三月一一日の惨禍がもたらした広範な不安の感覚の醸成は東アジアにおける諸国の力関係展開のきわめて不確実な見通しと重なっていて、その結果、反動的な民族主義と軍備拡張主義的傾向の危険な復活が見られるようになった。
三・一一後を支
配した原発問題
二〇一一年三月一一日の地震と津波は、その直接の被災地である東北地方において大きな社会的・経済的災害をもたらした。人々は深甚な惨禍を余儀なくされ、絶望的状態になげこまれた。家族の結合や地域社会のネットワークがずたずたに破断された。村落・近隣組織などを介する地域社会生活の消失、信頼できる情報の欠如、相互の孤立、将来の生活見通しの困難などのために、人々は深い心理的ショックにうちひしがれた。このような非常事態下において国家行政機構の無能がすさまじいまでに暴露され、さまざまな自主的地域活動グループが被災避難民への救援とこれらの人々の集団的活動の支援の面で重要な役割をはたした。
このような救援活動は国内・国際支援ネットワークによって支持されたが、その規模は被災の規模からするとき非常に限られていた。日本の労働運動は、その官僚化された極度に弱体な状況のために、三月一一日の惨禍によって突き出された社会的課題に適切に応えることができなかった。
このような状況のもとで、福島原発事故の極度の重大性のために、三・一一以後の政治状況を支配したのは原子力問題だった。日本において圧倒的に優勢だった「原発推進のコンセンサス」が崩壊した。「原発推進のコンセンサス」が放射能のリスクと深刻な原発事故の可能性を否定する欺瞞・腐敗と公私の不正な結託・黙許に基づくものであったことが、原発関連の種々の部門の関係者の証言と多数の関係文書類によって明らかになっている。
この欺瞞と不正な結託・黙許の政策は三月一一日の惨禍の前後をつうじて継続され、放射能汚染地域の母親たちは子供たちを守るための予防措置についてさえ知らされていなかったのである。三・一一以前の原発反対運動は各地の原子力発電所に反対する地域的運動であったが、三・一一以後、原発反対運動は全国的運動になり、幾千・幾万の人々が反原発の集会やデモに参加するようになった。各地の原子力発電所は次々と操業停止になり、二〇一二年五月にはすべての原子力発電所が操業停止するまでになった。同年六月には、三・一一当時の首相であった菅直人は「脱原発日本」支持の立場を明らかにするにいたった。
二〇一二年に実施された各種の世論調査では、大多数の人々が原子力発電の放棄を支持していた。しかし、二〇一三年二月初めの世論調査では、五三%の回答者が安倍自民党政府の原子力発電所再稼働政策を支持している。なぜ、このような逆転が見られたのだろうか。
東アジアの不
安定化と逆流
福島惨事の後、原発推進グループは低姿勢になった。しかし、東アジアの新たな情勢展開がこの原発グループに反撃のチャンスをあたえた。朝鮮民主主義人民共和国のミサイル実験が軍事的脅威の感覚をつくりだした。また日本が実効支配する尖閣諸島=釣魚列島の領有権をめぐって中国との対立が発展した。中国はこれら諸島の日本による併合を認めていなかったが、これまで日中両国政府はこの問題を直接の係争問題にすることを避けてきた。
領土上の係争問題は南シナ海にもあり、中国は西沙諸島と南沙諸島の領有権主張で軍事力を動員し、ベトナム、マレーシア、ブルネイおよびフィリピンと対立しているが、日本との「尖閣=釣魚」領土問題については非常に慎重な態度をとっていたのである。
二〇一二年九月、日本政府は尖閣諸島を買い上げ国有化することによって、領土問題の「パンドラの箱」を開いたのである。中国政府はこれに対抗して監視の船舶や飛行機を尖閣=釣魚諸島一帯に派遣し、これら諸島を実地測量しようとする意向を明らかにした。また中国の艦船が日本の駆逐艦にレーダー射撃の狙いをつけたという日本側の発表によって、緊張がさらに高まった。これらの事態はただちに戦争の前兆を意味するものではないが、領土問題をめぐるホットな緊張が持続することを示しているようである。
これまで外交的に抑制されていたものが今や緊迫した事態に移行したが、その背後にあるのは東シナ海に海底資源を確保しようとする両国の意図である。また両国には、反動的な民族主義や大国主義を煽りたてようとする動機が存在する。社会的危機から注意をそらしたいという内部的理由が認められるだけでなく、この地域における国際的力関係はきわめて流動的になっている。中国はその軍事的存在を強めており、尖閣=釣魚諸島から西沙・南沙諸島にいたる「第一島礁線」の外側を射程にいれつつある。アメリカは東アジアにおける軍事的存在を再編・強化しつつあるが、日本はアメリカによる軍事的庇護をいつまでも絶対確実なものと見なせなくなっている。
今では、日本は自ら核武装しなければならないという主張が政府機関のあいだで見られるようになっている。一九四五年に広島と長崎への原爆投下という人類への犯罪を経験した日本において、核武装についての戦後長年にわたるタブーが崩れつつある。戦争放棄の憲法条項である第九条の改変の動向がますます強まっている。自衛隊三軍の戦力高度化、軍事支出の増大、高精度偵察衛星の展開などが推し進められている。
原発推進グループは、エネルギー安全保障の確保が困難になるとして、海路によるエネルギー源に頼らない原子力発電の必要を主張している。原発推進グループは爆弾も欲している
― 「民間」の原子力発電が軍事のために必要な核分裂物質を供給するのである。このようなキャンペーンが人々に影響を与えている。
このような新しい情勢のもとで、日本の市民運動左翼は、東アジア各国の人々がそれぞれ自国における排外主義的民族主義と軍備拡張主義の動向に抗して闘うことを呼びかけている。この呼びかけは、人の住んだことない島礁を取り込むために不可解かつ曖昧な歴史を援用することを非難している。関係する地域全体の人民の共同利益とエコロジー尊重の立場からする海域の協同的管理を呼びかけている。
対立的ブロック
の形成と新状況
二つの対立するブロックが形成されつつあり、新しい状況が生みだされつつある。一方の側には、原発推進グループ、軍備拡張主義の流れ、そして大部分の民族主義右翼の傾向が認められる。これに反対するブロックは、反原発運動、広島・長崎被爆者の最後の世代とこれらの人々を代表する反核自治体首長など、現行憲法の改悪に反対する護憲運動、在沖米軍基地に反対する沖縄の人々、反原発運動を積極的に担うノーベル賞受賞者大江健三郎のような知識人等々によってつくられる。このような状況のもとで、日本の反原発運動は新しい困難な政治情勢に直面している。
左翼的政治展望を体現する大衆的全国潮流が不在であるという状況のもとで、三・一一福島原発惨事の後、反原発の機運を全国政治レベルで反映したのは既成の中道右派の政党・グループだったが、これらの政党・グループはその政治的無能のために信用を失い、見捨てられてしまった。新右翼のポピュリスト的政治グループが大阪と東京を中心に生まれている。また、現在、戦後長期にわたる支配的政権党であった自民党が安倍晋三のもとで政権に復帰している。そして、これを可能にした重要な要因は幻滅した選挙民の広範な棄権だった。
福島原発が「正常化」する見通しはなく、原発危機は今後も長期に継続することになる。原発に反対する運動は、東電前の抗議集会や原発事故被災者による東電訴訟、原子力発電所の再稼動に反対して展開される各地の運動等々として全国にわたって展開される。昨年一一月、核のない世界のための第二回国際会議が日本で開かれた。韓国やインドなどのアジア諸国、そして世界各国の反原発運動の相互連携がつくりだされている。アジア・ヨーロッパ民衆フォーラム(AEPF)は原発廃棄を呼びかけるアピールを発表した。二〇一三年三月には福島原発惨事二周年行動が国際的に展開されるだろう。
三・一一福島原発惨事の衝撃は拡大しつづけるのである。
(二〇一三年二月一一日)
(「インターナショナル・ビューポイント」二〇一三年三月号)
|