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    かけはし2013.年4月8日号

大統領の「見切り発車人事」


復活した朴正熙独裁時代の人脈

すでに辞職・辞退者が6人

 以下に紹介する記事は大統領就任式の2月25日以前に執筆されたものと思われるが、新政府が発足してから1カ月が過ぎた3月25日にも、公正取引委員長に内定していたハン・マンス氏が辞退を表明した、と「朝日」3月26日付は伝えている。膨大な資産、脱税容疑、法律事務所勤務時代の大企業との深い関係などが指摘されており、新政府発足後の辞職・辞退者は既に6人に達している。さらに多くの疑惑の中でその数はさらに増えるものとみられる。(「かけはし」編集部)
 「パク・クネ政府」の出帆を率いる政府の長官(大臣)候補や青瓦台(大統領府)秘書陣の陣営が整えられた。何よりも目につくのは30年以上の歳月を飛び越えて、それも娘である当選人を通じて復活した「パク・チョンヒ(朴正熙)の人脈」だ。
 ソ・スンファン国土交通部長官候補者の場合、父親の履歴が論難のタネだ。彼の父であるソ・ジョンチョル元国防部長官は陸士1期出身で、パク元大統領の1期先輩だ。ソ元長官が日本軍の少尉出身だという事実をめぐってソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)を中心に親日の論難も激しく起きているけれども、民族問題研究所が編纂した〈親日人名辞典〉ではソ・ジョンチョルという名前は除外された。研究所のチョ・セヨル事務総長は「ソ・ジョンチョル元長官の場合、日本軍少尉として任官した直後に解放を迎え、学徒兵出身として記録され自発的入隊かどうか、また具体的な親日の業績を確認することができず、人名辞典に掲載されなかった」と説明した。

「偉大なる」長官の息子


 5・16(軍部クーデター)当時、6管区司令官の身分でクーデターに参加したソ元長官に対するパク元大統領の信認は並はずれたものがあった。ノ・ジエヒョン、チン・ジョンチェと共にパク・チョンヒ時節に「嶺南軍閥3人組」に挙げられたソ・ジョンチョルは、外国の首脳らが訪韓するたびにパク元大統領に随行した。
 このような逸話が伝えられている。短身のパク・チョンヒと違ってソ・ジョンチョルは長身の巨躯で有名だった。〈東亜日報〉1966年11月2日付の報道によれば、パク元大統領はリンドン・ジョンソン米国大統領(当時)が訪韓して前方部隊を訪れた場で、当時1軍司令官だったソ・ジョンチョルをわざわざジョンソン元大統領と並んで立たせた。ソ・ジョンチョルの隣に立つことになったジョンソンは背伸びをしながら「私がソ長官よりも大きいさ」と冗談を放ち、座中に爆笑が起きたという。
 クーデターで権力を握ったパク・チョンヒにとって米国の存在は単純な友邦以上のものだった。既に韓国政府はベトナムに軍隊を派兵した状態だった。両国の大統領と随行員、取材記者たちを乗せた汽車が通る鉄道わきには30メートルに1人ずつの制服警官が配置された。ボロボロの装いの人々が星条旗と太極旗を振った。同記事は「(列車に)搭乗していたホワイト・ハウス担当記者は、『酒もタダ、食べ物もタダ』のうえに、かわいい女子大生を伴った鉄道庁および米軍側の様々な特別サービスに極めて満足したようだ」と伝えた。
 1972年、陸軍参謀総長から、そのまま青瓦台安保特補(特別補佐官)に起用されたソ元長官は以降、1973年から実に4年間、国防部長官を務めた後、1978年から再び青瓦台安保特補として復帰する。1軍司令官と陸軍参謀総長を担っている間にハナ会の人々を支援しつつ深い関係を結んだ。チョン・ドゥファン、ノ・テウが共に大領(大佐にあたる)時節に、彼の首席副官を担いもした。自分の副官出身の人々の中から2人の大統領を輩出したわけだ。
 彼は特に国防長官として在任していた1975年、人民革命党(人革党)再建委員会事件関連者8人が死刑判決を受けると、直ちに死刑執行命令書に署名してこれを執行した人物でもある。謝罪の信ぴょう性をめぐって甲論乙駁が繰り広げられもしたけれども、パク当選人は先般の大選(大統領選挙)の過程で自身が直接謝罪した人革党事件と根深く関連している人物の息子を長官候補者として内定したのだ。

ソウル大寄宿舎OB会

 またパク元大統領時節に「開発独裁モデル」の主軸だった経済企画院や韓国開発研究院(KDI)を経たヒョン・オソク経済副総理兼企画財政部長官候補者は1975年、第4次経済開発5カ年計画を企画した「75企画フォーラム」のメンバーとして活躍した。リュ・キルジェ統一部長官候補者の父であるリュ・ヒョンジン博士も5・16クーデター以降、パク元大統領が議長を務めていた国会再建最高会議で顧問として活躍した。青瓦台の人選も同様だ。ホ・テヨル青瓦台秘書室長内定者は1974年、大統領秘書室政務1室の行政官として働き、最も尊敬する人物としてパク元大統領を挙げている彼は父娘大統領を青瓦台で補佐することになった。
 チョン・ホンウォン国務総理候補者はパク当選人の弟パク・チマン氏がヒロポン投薬の嫌疑で4回も摘発された1998年、「お情け求刑」をしたとの論難に包まれた。チョン候補者が強力部(殺人、強盗、暴力犯など担当)の捜査を指揮するソウル中央地検3次長として勤務していた時点だった。執行猶予期間に再びヒロポンを投薬したチマン氏に、当時の検察は異例なことに罰金1千万ウォン、追徴金100万ウォン、治療監護を求刑した。国会の人事聴聞会でチョン候補者は「記憶がない、求刑まで次長検事が関与することはできない」と否認した。
 雇用福祉首席に内定したチェ・ソンジェ・ソウル大・名誉教授はパク・チョンヒ、ユク・ヨンス(パク・チョンヒ夫人)の名を取ったソウル大寄宿舎「チョンヨン舎」の1期生だ。1968年に設立されたチョンヨン舎はソウル大に入学した秀才たちの中でも成績が優秀な学生によってのみ満たされた。パク元大統領は彼らを定期的に青瓦台に招き、食事や茶菓を供した。チョンヨン舎出身者たちの集まりであるチョンヨン会は依然として定期的な集まりをもっている。
 モ・チョルミン青瓦台教育文化首席内定者、「不正・疑惑のデパート」の論難の中で最近になって自ら辞退したイ・ドンウプ憲法裁判所長候補者、リュウイク統一部長官、ムン・ヨンニン・ソウル市教育監もチョンヨン会のメンバーだ。チョンヨン会は2月18日、ソウル・駅三洞のあるホテルで新年会を開いた。言論報道によれば、キム・ピョンジェ・チョンヨン会会長(法務法人「クワンジャン」代表)は、「パク・クネ当選人に申し上げて、今年は当選人と会員らが共にするガーデンパーティーを行う」と語ったという。
 「退行の徴候」は単純に象徴の領域にのみとどまりはしない。これまで公職と民間を行き来して蓄財してきたのは、いわば必然なのかも知れない。チョン・ホンウォン国務総理候補者やヒョン・オソク経済副総理兼企画財政部長官候補者を筆頭にファン・ギョアン法務、キム・ビョングワン国防、ユン・ビョンセ外交部長官候補者らが続々と前官礼遇(長官級以上の官職を担った人に退官後も同じ礼遇をすること)の論難に包まれた。職務の関連性が高い民間企業が公職から退いた高位職の人々を好むのは、公的機関を相手にしたロビー活動が容易だからだ。こうなれば、充分に「ロビースト政府」と言うに近い。

華麗なる「ロビースト政府」


 野党は、その中でも悪質だとしてキム・ビョングワン、ファン・ギョアン候補者を挙げる。キム・ビョングワン候補者は2008年に韓米連合司・副指令官から退任した後、武器輸入の仲介企業「UBMテック」で非常勤顧問として働き、2010年7月から2年間で2億1500万ウォンを得た。ドイツの軍需企業MTUの製品を取り扱うUBMテックは、キム候補者が顧問として働いていた2012年4月、国産電車K2にこの会社の部品を装着することに決定した。またキム候補者は東洋セメントの社外理事としても働いていたが、東洋グループは昨年、駐韓米軍と270億ウォン台の工事契約を結んだ。韓米連合司の出身であるキム候補者がある種の役割を担ったのではないのかというのが論難の要諦だ。このほかにもキム候補者の子どもらに対する便法および変則贈与、次男の特恵就職、配偶者の防衛産業関連企業の株式保有、偽装転入、部隊慰問金流用など様々な疑惑に包まれている。自らと親しい人物が運営している会社の酵素食品広告に登場したりもした。
 ファン・ギョアン候補者は2011年8月、釜山高検長を最後に退任した直後、大形ローファームである法務法人「太平洋」の顧問に座を移して17カ月間に16億ウォンの報酬を得た。月給が1億ウォンに肉薄した勘定だ。ユン・ビョンセ外交部長官候補者も青瓦台の外交安保首席退任後、国内最大のローファーム「キム&ジャン」の顧問として今年の1月まで4年間、勤務した。この期間に「キム&ジャン」からユン候補者が受け取ったカネは5億ウォンに達する。
 チョン・ホンウォン国務総理候補者は法務研修院を退任した後、法務法人「ロゴス」に身を置いた後、再び中央選挙委員会の常任委員を経てローファームに舞い戻った。彼はローファームで仕事をしていた間に毎月3千万ウォンの月給を受け、現金・預金だけで5億4700万ウォンが増えた。
 チョン候補者は聴聞会で「庶民に比べて多くもらった方ではあるが、正当に稼ぎよく使えば、それで良いのではないか」という反応を示した。慶南・金海の土地と釜山・栽松洞のマンションなど、提起された不動産投機の疑惑については「投機ではない」と主張した後、「かつて我々の観念にはカネがあれば土に埋めておこうとする思考があったではないか」と反問した。
 これらのほかにも偽装転入、論文剽窃、投機疑惑など伝統的な検証から自由たりうる公職候補者を見つけ出すのは、むしろ難しい状況だ。2月20日、与党セヌリ党所属のチョン・ウィファ元国家副議長でさえ、「前官礼遇によって天文学的金額の月給を得た、そのような方が今さらながらに出世までするというのだから国民にとんでもない違和感を与えかねない」し「そのような方々は自ら冷静に判断し、再び高額俸給者に戻ることはどうなのか公式に問題を提起する」と語った。彼は「パク当選人がそれらの座を提案したとしても、公職の経験を利用してカネを稼ぐ道に踏み出していたのであれば、その座を遠慮するのが良心というもの」だとして、このように語った。
 チョ・スニョン前議員も「今回の人選を契機に、前官礼遇を通じて不当に社会的通念に反する報酬を得た人は2度と公職に就けないようにすべきだ。(問題になった)候補者たちは辞退すべきだ」し「準備された大統領だと訴えて当選したパク当選人だけれども、人事などいろいろな点を見れば新しい政府発足のための準備は全くできなかったようだ」と皮肉った。

依然続く与野の対立

 パク当選人は2月25日に就任式を行い公式的な大統領業務に入る。けれども政府組織法の改編と関連した与野の対峙が解消されておらず、キム・ビュングワン候補者を筆頭として検証の壁を越えがたそうな長官候補も幾多だ。それに加え、大選の道を開いたという経済民主化の約束も、統合や相手候補を支持した民心に対する慰めのメッセージもどこかにいってしまって久しい。「未熟な(大統領職)引き継ぎ委員会」と「1人で、ゆっくり人事」によって大切な時間を浪費したパク当選人は、すぐにも初の国務会議(閣議)をイ・ミョンバク政府の長官たちと開かなければならない。父親から独善的リーダーシップを受け継いだ、準備されていない大統領の「見切り発車」だ。
 パク当選人は、イ・ミョンバク大統領の当選直後に行われた総選挙で親パク系の人々が大挙落選すると、「国民を騙し、私をも騙した」と語った。5年の歳月が流れ、今やその人が大統領になった。新政府が発足する過程で、かつてのその発言はそっくりそのままパク当選人自身に戻ってきている。「約束のパク・クネ」? 51・6%をも騙し、48%をも騙した。(「ハンギョレ21」第950号、13年3月4日付、ソン・ホギュン記者)

どこに行った、正義

パク・クネの公約違反と野圏の支離滅裂

 イ・ミョンバク大統領が2月19日、退任の演説と官邸出入り記者との昼食会などで、このような発言をした。「私が大統領になって韓国数百年の辺邦から世界の中心へと進んだのは誰もが否認できない」「知らないものがいらいらする。仕事をした人間は分かるだろう」。実に特異な人だ。離れる瞬間まで省察することのない自らの認識は微動だにしない。お願いする。「大韓民国のためにささやかなことでも奉仕することのできることがあれば喜んで行う」という誓いはそれぐらいにして、「今や私は平凡な市民へと戻る」というお言葉のように静かに過ごすことを。
 2月25日0時を期して大統領が代わった。パク・クネ政府の国政のビジョンは「国民の幸福、希望の新時代」だ。ところで政府発足時の期待や希望を感じがたい。パク・クネ大統領の初の内閣・青瓦台高位職の人選をめぐる論難が大きかったことがその大きな理由だ。自らの腹を肥やすのに不法や脱法を日常茶飯事としていた「雑犯」については取り立てて言及したくもない。パク大統領が先の大選(大統領選挙)の期間に、機会あるごとに強調した信頼と法治、経済民主化などは今、どうなっているのだろうか。
 「韓国版ドレフュス事件」と呼ばれたカン・ギフン氏の「遺書代筆でっちあげ事件」の捜査検事だったクァク・サンド弁護士が青瓦台(大統領府)の民政首席になった。「遺書が代筆でないというのはナンセンス」と言う人を、大法院(最高裁)の再審決定が下されたこの時に、民政首席に任命した「パク・クネ式法治」は確固不動、いささかも揺るがない。肝がんで闘病中のカン氏はフェイスブックで「1991年6月、ソウル地方検察庁11階の特別調査室で眠らせないことを担当なさっていた検事両班、こうお出ましになったか」と慨嘆し、各人権団体は声明を出し「政治検察出身のクァク・サンド氏が行くべき所は青瓦台ではなく監獄」だと指摘した。パク大統領からは何の言葉もない。
 経済民主化はどこかに行ってしまった。パク・クネ政府の5大国政目標に、それは入っていない。公正取引委員会のある幹部でさえ「各財閥が『遂にやったな』と快哉を叫ぶだろう」と嘆いた。コンヤク(公約)はコンヤク(空約)だという憎まれ口が万古の真理となるのか。ともすれば「安企部、サムスンXファイル事件」に関連してノ・フェチャン議員に有罪判決を下し議員職を喪失させた大法院のあり様は、「パク・クネ式法治」の意味深長な予告編なのかも知れない。不法盗聴をほしいままにした国家機関、財閥からカネをもらった政治人、公職者たちと、彼らを買収した財閥は問題としないのに、これを告発した国会議員は国会から追い出された。2005年、ソウル中央地検第2次長としてノ議員の事件を捜査した検事がファン・ギョアン法務部長官候補だ。これまた「パク・クネ式の法治」だ。
 新政府と与党セヌリ党(153議席)の暴走を牽制しなければならない野圏は支離滅裂だ。第1野党の民主統合党(127議席)はまとまらず、それどころではない。統合進歩党(6議席)のありようは依然として時代錯誤的であり、進歩正義党(6議席)も共同代表であるノ・フェチャンの議員職喪失に続き、ユ・シミン前議員の「政界引退宣言」で混乱に陥った。
 1985年「ソウル大フラクチ(スパイ)暴力事件」裁判の控訴理由書でネクラソフの詩句を引用して「悲しみも怒りもなしに生きて行く私は祖国を愛していない」と咆哮していた青年ユ・シミンは、2013年1月19日「余りに遅くなってしまう前に、私が望んでいる人生を生きたくて『職業としての政治』を離れます。私をお許し下さい」と語った。進歩政治の大衆化に邁進してきたノ・フェチャンの強制下車や、改革政治に進歩の息吹きを吹き込み政党改革を実現していくとしていたユ・シミンの挫折を個別政治人の問題としてのみ見ることはできない。進歩・改革勢力、さらに広くは韓国社会の限界をさらけ出す徴候でもある。個々人に対する好き嫌いを離れ、深く悩んでみるべきところだ。
 日は傾いているのに、船頭はどこにも見えない。渡し場で長い夜を耐えなければならない立場の人民にとっては、どんな運命が待っているのだろうか。(「ハンギョレ21」第950号、13年3月4日付、イ・ジェフン/編集長)

 


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