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    かけはし2013.年4月8日号

戦前の植民地収奪の再現


「六ヶ所村の記録」鎌田慧著によせて (2)

核の終末処理半島化当初から

もくじ

?お前だち(県職員)は、会社の味方だ、それともおれたちの味方なんだか、どっだべ(前号)
?寺下村長の正論 ゼニでふみつけ
?開拓ではなく 帝国主義の収奪
?最悪の終末処理半島(今号)
?自治、民主主義の破壊 人権侵害のあとには
?むすび

寺下村長の正論
ゼニでふみつけ
 七二年七月、寺下力三郎村長が、衆議院建設委員会で「全国総合開発法案」に反対する社会党推薦の公述人として意見を述べている。「わたしは昭和一三年に北朝鮮ではたらいたことがございます。日本が大陸へ進出中のころでございますが、その体験からこの開発の動向をみて直感しましたことは、いまでは忌まわしい記憶となったあの進出のやり方と、一〇〇%とは申し上げられませんけれども、その手口はよく似ています。こういうことでございます。植民地主義者といいますが、侵略者とでも申しましょうか、そうした人たちは現地住民に対話を必要としなかったわけでございます。
 もしあったとしても、現地の住民の反対の意見は聞く耳をもたない。民主社会における対話とは全く縁の遠いようなやり方であったわけでございますが、この開発でも、第一に開発の内容は全く巨大な虚構であるということでございます。こうした虚構を前提としたものに対話も合意もあるはずがない。
 またさらに重大なことは、自然破壊の前に人間破壊が意識的に先行して行なわれていることでございます。
 外地では実弾というと鉄砲でございましたが、私の村では銭でございます。銭には理屈もへちまもないのでございますから、住民の弱点をねらって攻撃を加えてくるのでございます。この内容につきましては、時間の制限もございますので詳細に申し上げることは控えますが、おもとめがございますならばあとで資料として先生方に御提出したいと考えております。わたしどもはこのやり方を銭ゲバと呼んでおりますが、この状況を政治公害と理解しているものでございます。
 とくに、最後にお訴えし、お願い申し上げることは、開発の内容はいっさい秘密にされていることでございます。これはあきらかに民主主義の否定であるばかりでなく、開発そのものの危険性を物語っているわけでございます。こうしたことを一方的に押しつけることは、あきらかに自治権にたいする重大な侵犯であるということでございます。いまさら申し上げるまでもないことでございますが、地方自治の本旨は憲法そのものでございます」(同前、二四七〜八頁)。
 村長の正論は、開発派から「損長」と皮肉られ、七二年一〇月一日、寺下村長の出張中にひらかれた村議会の「むつ小川原開発対策特別委員会」で、突如として開発推進を決議した。村長の不在を狙ったかのように、日曜日、傍聴者や記者を締め出しての決議だった。
 開発の虚妄に浮き足だち、村内の土地は仮登記や貸したカネのカタに権利書を預かるなど、ぬけ道を使って三五〇〇ヘクタールも売買されていた。“農業に展望を与えない国の政策が、その根っこにある”と著者は指摘する。
 農業に展望を与えない国の政策については、地方に限らず東京都も同じであった。都の農業改良普及員だった薄井清氏「ノー政の悲劇」で指摘する。
 工業生産方式による農業生産、農業も企業、土や太陽に頼らず、資本に頼るのが近代化経営、――その批判は次のようだ。
 「近代工場を思わせる牛舎。搾乳機械と化した乳牛。トーチカのような汚水浄水施設……外観だけは〈工業生産〉や〈企業〉が整っていても、その中で行われている生産が、いったいどんなものであるか、貴様たちは、考えたことがあるのか!
 乳価はメーカーが固定し、飼料はアメリカの意向しだいという、資本の恣意と巨大国の国益がつくりだす流通のしがらみの中にただよう生産が、どんな生産であるのか、考えたことがあるのか!」(三一六頁)。
 資本による農業構造改善は、壮大な農民の生産実験であり、「実験の失敗は農民抹殺の一つの過程であった。資本側からみれば、失敗ではなくて成功というべきかもしれない」と苦しかった経験を語っている。
 七三年一二月、開発反対派の寺下力三郎村長は、七九票の差で惜敗した。一票一万円とも三万円ともいわれ、買収は公然たる事実であった。

開拓ではなく、
帝国主義の収奪
 上弥栄の婦人会長だった林さんに、満州と青森、どっちの開拓が辛かったですか、こうたずねる場面で、匪賊の姿がむき出しになる。
 こっちの方が酷かったです。むこうは肥料もいらないし、種をバラ撒きさえすれば芽が出ましたから。中国は日本を理解する鏡、半世紀以上も前の姿が、あたかも現在の六ヶ所村を映し出しているかのようだ。ただし、六ヶ所村の開拓者、農民を匪賊として。
 満拓(注)は農地の開拓ではなく、あり体にいえば略奪によって一挙に広大な耕地を手に入れた。土地を奪われた農民からは、どんな泥棒よりもひどい、土地まで奪う泥棒はいないといわれた。
 日本人の移民が行なった「営農の実態が開拓でなく収奪である限り、また彼らが在満中国人、朝鮮人との経済競争で勝利者でなく敗北者である限り、彼等は関東軍の武力がなくなると同時に、満州の農地から追いたてられざるをえなかった」(「日本帝国主義下の満州移民」、小林英夫、四八六頁)。
 日本人の農業移民は、日本帝国主義の崩壊以前に、直接的生産者として、中国人農民に敗退していたのである。帝国主義の様々なうらみつらみを背負って。
 関東軍が最後に下した決断、これまた人々を驚かした。ソ連軍の参戦が明らかな段階で「このままの状態ではとうてい戦闘にならないとして、昭和二〇年六月四日、満州の四分の三の放棄をひそかに決めた」(「死の逃避行・満州開拓団二七万人」、合田一道)。
 開拓民を避難させれば、敵に関東軍の動きが察知されるとして、開拓民をおきざりに軍だけ撤退。それが作戦的にのみ利用するという意味であった。何が欠落しているかは、あまりにも明きらかである。
 「外務省の調査によれば、満州開拓者は青少年義勇軍もふくめて二七万人だった。死亡者は戦死または自決で一万一五二〇人、病死が六万六九八〇人、合計七万八五〇〇人とおよそ三人に一人を数えている。
 敗戦時に満州にいた日本人は一五五万人、このうち二七万の開拓者は一七%にすぎないが、日本人の死亡者一七万六〇〇〇人のうち、ほぼ半数を占めた。文字通り“醜の御楯(しこのみたて)”となったのである」(鎌田、(下)二〇頁)。
 「国も軍も無責任でした。満州に行った経験を通してそう考えざるを得ねえです。……愛国心、愛国心と騒ぐ奴は信用できねえ……。
 終戦のとき中国人のやった開拓民への仕打ちに対しては腹はたたねえですよ。日本の軍隊のほうが、よっぽど残虐だったですからね。日本兵が中国人にやったことにくらべりゃ、開拓民が受けた被害なんて屁でもねえですよ」(「満州に消えた分村」山川暁、二四八頁)。

満蒙開拓団 926団 
24万2300人
義勇隊   102隊  2万2800人
報国農場   74場  4900人
計 27万人
逃避行の戦病死、自死  7万8500人

(注)
 満拓公社。一九三七年設立。出資は日本政府、満州国政府、満鉄があわせて四千万円、東拓、三井、三菱、住友あわせて一千万円、合計五千万円。公社は土地取得、管理、金融、助成を行なった。用地買収は「極めて強権的であり、廉価であり、既墾地、未墾地の別なく買収し、短期日で巨大な面積を確保した」(「日本帝国主義下の満州移民」満州移民史研究会編、二二七頁)。
 確保したのは二〇〇二万ヘクタール、国内耕地の三・七倍、百万戸、二〇カ年計画で送り込まれた日本人移民が分与され、営農にあたった。

最悪の終末処理半島
 八四年四月二〇日、電気事業連合会(電事連)が青森県に核燃料サイクル基地の立地を正式に要請した。
 「青森駅からクルマで一〇分ほどの古いホテルにやってきたのは、平岩外四会長、大垣忠雄副会長、玉川敏雄東北電力社長などで、使用ずみ核燃料の再処理工場、ウラン濃縮、低レベル放射性廃棄物の貯蔵施設など「三点セット」を立地したい、と北村知事に申入れた。
 それは二日前におこなわれた、九電力社長の決定事項であった。
 依頼する側の民間企業の経営者たちが、一国の主(あるじ)ともいえる知事のいる県庁に出むかず、逆にホテルに呼びつけるのは不思議な風習といえた。しかもその日は、“立地地点も事業規模もまだなにもきまっていない”として、具体案がなんら示されないままの“包括的要請”(平岩会長)にとどまった」(鎌田、(下)七四頁)。“不思議な風習”と著者が暗示しているのは、民主主義の作法、“?”、ブルジョアジーは人と人とのあいだに、ろこつな利害、無情な金勘定のほかには、なんのきずなをものこさなかった。いっさいの仕事から、その優先をはぎとった。医者や法律家や僧侶や詩人や学者を、自分たちのおやといの賃金労働者にかえてしまった。(共産党宣言)
 周到に根まわしされた準備の仕上げ、儀式にすぎないともいえる。新日鉄やトヨタの名前を出すまでもなく、県、市町村と独占資本、企業連との力関係を冷厳に見せつける一コマである。住民、農漁民の民意、市町村の民主主義、県の行政は、電事連からすると下請けという寸法である。
 ブルジョアジーが台頭してくるとき農民を味方につけた自由民権運動(ブルジョア民主主義)、戦後の戦時体制解体に伴って再生した戦後民主主義が、独占資本の復活によって無力にされる一歩一歩が、目の当たりに展開される。
 むつ湾小川原湖大規模工業開発調査報告書には、「わが国で初めての原子力船母港の建設を契機として原子力産業のメッカとなり得るべき条件をもっていることである。当地域は原子力発電所の立地因子として重要なファクターである地盤および低人口地帯という条件を満足させる地点をもち、将来、大規模発電施設、核燃料の濃縮、成型加工、再処理等の一連の原子力産業地帯として十分な敷地の余力がある。
 原子力基地は地盤が強固で周辺の地理的社会的環境条件の良い老部地区一帯を利用する。ここでは当面は原子力発電を中心に使われることになるが、将来は核燃料の濃縮、成型加工、再処理の核燃料サイクルセンター、アイソトープ化学、造水プラント等の配置を考慮する。
 このように、たんに原子力発電所の集中地点としてこの地域が狙われていたのではなく、発電、再処理、濃縮のサイクルを備えた大原子力センターとして構想されていたのだった」(同前、七八頁)。
 むつ小川原巨大開発計画は、出発点から“核燃料サイクルセンター”を想定していた、と著者は喝破。
 壮大な工業立地をちらつかせ、候補地を他の地方、島などに見せかける陽動作戦をおりまぜ、「明治末期の八幡製鉄所の建設以来、開発はつねに本命を正式発表せずに誘致合戦を激化させ、反対運動を弱めてから本命地に割りこむのを常套手段としてきた。
 ……結局、巨大開発、地元の繁栄を唱える地元紙の大キャンペーンと県職員、ブローカーの暗躍によって、すでに地元の農家をたちのかせ、公有地もふくめ五五〇〇ヘクタールの空閑地を創出していた六ヶ所村が、絶好の“適地”とされたのだった。
 こうして、むつ小川原開発地帯にとって、核廃棄物処理施設が、石油備蓄基地につぐ第二号の進出企業となった。一方ではバラ色の繁栄を描き、もう一方の手で“国家的事業”と脅して農民を叩きだし、首尾よく“大規模原油基地”と“核処理工場”を押しこんだ。開発の夢に乗せられた最悪の結末、ともいえる」(同前、八八頁)。
 中曽根首相は八三年末の選挙に際し、下北半島は原子力のメッカと語ったが、ひき受け手のないトイレになることまではいえなかった。核の終末処理半島となれば、不吉な冥界と結びついてしまう。(つづく)
(くどう ひろし)

 


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