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    かけはし2013.年3月4日号

全体が煮えたぎっている


アラブ

ジルベール・アシュカルへのインタビュー(上)

歴史を止めることはもう不可能

イスラム勢力の危機も急速に露呈

 以下に紹介するものは、アラブ地域全体、並びにその発端から現在までの全体を対象とした、「アラブの春」に対するアシュカルによる政治的評価、あるいは歴史的位置付けである。結論的には、この地域の歴史を画する長期的革命過程の幕が明けた、と診断されている。またその一要素として、イスラム勢力の急速な危機の進行についても分析が加えられ、得がたい分析視角が提供されている。(「かけはし」編集部)

 ジルベール・アシュカルの今度の著作である『人々は欲している:アラブ蜂起に関する根本的探求』(バークレイ、CA:カリフォルニア大学出版)は、今年後半に出る予定だ。彼は二〇一二年一二月に『インターナショナル・ソーシャリストレビュー』からインタビューされた。その許可の下にこのインタビューを以下に転載する。

全域貫きものす
ごい早さで変化
――扱うべき問題は数多くある。中東は、ガザ攻撃からチュニジア情勢まで、エジプトにおけるモルシの権力掌握からイランに対する脅しまで、ものごとがいくらもニュースとなってきた。そこでまずアラブの春と呼ばれたもの、チュニジアでの二〇一〇年一二月一七日とほとんどきっかりとした日付けまでさかのぼるほぼ二年前に始まった、アラブの春の全般的な評価から始めたい。この地域に意味をもったものの全体的な評価は?

 行うべきもっとも全体的な論評は次のようになる。つまり、この地域の歴史上初めて、ものごとが本当に動く途上に、変化の途上に、それもものすごい早さでの変化の途上にある、ということだ。こうしてこの地域は、私が長期的革命過程と呼ぶものに入った。それはこの地域の歴史ではものすごい変化だ。あらゆる種類の障害物は砕け散ろうとしている。これから来ようとしているものはわれわれの下に長い長い年月留まることになる。私はそう考えている。

――あなたは障害物と言及した。あなたはそれに、機能不全の存在、あるいは老化した独裁体制という意味をある程度与えていますか。最初のものはチュニジアにあるかもしれない。それに関し、あるいは現在のチュニジア情勢に関し、あなたは何かを言うことができますか?

 半分イエスだが障害物は単なる独裁体制以上のものだ。もちろん独裁体制の問題はそのもっとも可視化されたものだ。そしてそれは、現在までに勝利を達成した諸国での蜂起によって、もっとも直接的に弱められた。しかしこれは、経済的な障害物を含んだより包括的な障害物の一部分だ。この地域は、極めて重要な天然資源に恵まれているにもかかわらず、経済成長において、さらにより全般的に発展という点で世界の残りの部分から遅れている。この地域は、失業率で世界記録保持者であり、それは何十年間にもわたる事例であり続け、こうしてあなたは、女性の条件に関連した極めて明らかな一つに触れるまでもなく、今も続く社会的障害物を前にすることになる。そのようにあなたの前には障害物の全ひとそろいがあり、私はほんの二、三、もっとも目立つものに言及したに過ぎない。そしてこれらすべては今、チュニジアで始まった巨大な爆発の中で砕け散ろうとしている。
 そのすべてはチュニジアで、二〇一〇年一二月一七日に始まった。その日付は、モハメド・ブアジジが自身に、国全体に、次いでこの地域全体に火を放った日付だ。
 それがチュニジアで始まったという事実は、この国での二〇〇〇年代の一〇年間全体にわたる諸闘争に関連している。そしてその闘争自身そこにおける、この国の労組ナショナルセンターであるUGTT〔チュニジア労働総同盟〕を通じてほとんどが活動する重要な左翼の伝統の存在と関係している。チュニジアがその他の前に爆発が起きた国であったという理由を説明するものは、この特別の状況だ。しかしそれは、チュニジアでの爆発が他の諸国における全一連の爆発を起動させたという事実から知ることができるように、諸条件が他のどこかよりもチュニジアでより熟していた、ということを意味しているわけではない。モーリタニアとモロッコという西のはずれからシリアとイラクという東側まで、この蜂起による病変を受けることのなかったアラビア語を話す国などほとんどない。

イスラム組織の
勝利は至極当然
――アラブの春から直接に政治的勝利を得た者が組織をもつもの、エジプトのムスリム同胞団のようなイスラム諸組織であったということは、エジプトの、またそれ以前のチュニジアの選挙結果として確かに、一つの段階であるように見えた。それに関してまずチュニジアについて、次いで話題をエジプトに移して、論評ができますか?

 やりましょう。もちろんこれはまったく予想できたものだ。この地域に関するもっとも共有された予測は、社会的爆発、政治的爆発がある、あるいはあるかもしれない、ということだった。それをあなたは、ウィキリークスによって公表された米国の諸大使館報告から、つまり米国自身多くの幻想はもっていなかったということから知ることができる。彼らは、情勢がどれほど張りつめていたか、どれほど危険かを知っていた。これに関してもっとも共通した予想は、これから来る爆発は、これが米国の利益に対する一つの脅威と見なされた――ワシントンから見て――時期に、イスラム原理主義の運動を前面へと一気に押し出すと思われる、というものだった。ところが蜂起が始まったその時、何かの奇跡によって浮上する新たな諸勢力がこの歩み全体を導きそこに力を与え、そしてイスラム勢力をまさに後景に退ける、などといった希望的観測、また信仰に向かう諸傾向が出てきた。
 新勢力が現れた、特に新しい世代の中に、若者たちの中に、ということは本当だ。インターネット情報源を全面的に使用する若い人々の新たなネットワークが、これらすべての諸蜂起を形作り、組織し、調整するという点で、中心的な役割を果たしたということはその通りだ。それに関して疑いはまったくない。しかし自由選挙を求める蜂起との関係では、そしてその要求は民主主義を渇望する人々にとっては至極まともな要求なのだが、事実が示すように、短期的な選挙の場合すべて、勝者として現れる者は選挙での勝ちを得るために必要な諸手段をもつ者たちなのだ。それは明白だった。選挙というものは、米国の例からあなたもよく知っているように、インターネットを手段としては勝つことができない。必要なものは政治的機構だ。カネだ。また、田舎やその他のような、有権者の塊があるところに根を張った草の根の諸組織が必要だ。それ故これは、二、三週間の内に急造されたり間に合わせられたり、が可能なものではなかった。イスラム原理主義の諸勢力、特にさまざまな支部や組織といった姿をもつムスリム同胞団が勝つだろう、ということが極めてはっきり予想できたのはまさに今見てきた理由からだ。それらの勢力は、特にエジプトのようにそれらが公然と活動できた諸国では、ネットワークを築き上げる多年の活動を裏付けに力を蓄えてきた。チュニジアの場合はそうではなかった。しかしそれは、これらの勢力が大量のオイルマネーとテレビの力から利益を得てきたという事実で補われてきた。この地域のテレビネットワークの多くは、これらの種類のグループに向けて合わせられている。その通路は、あなたの前には大量の宗教チャンネルがあるように宗教的な番組か、あるいはこの地域の主要な衛星チャンネル、つまりアルジャジーラだがそれがもつ特定の政治的役割か、そのどちらかだ。アルジャジーラは非常にはっきりとムスリム同胞団の利益のために活動している。ムスリム同胞団は、その取材陣の中に非常に目立つ存在であり、またカタール政府から後援を受けてもいる。そしてカタール政府はこのメディアを所有し経営しているのだ。このように彼らは、こうした決定的な諸資源を、そしてもちろん湾岸首長国から来る巨額のマネーを保持していた。

イスラム派の弱
さこそ真の驚き
 ムスリム同胞団が票の最大の分け前を得るだろうということは完全に予測可能だった。それ故そのことに驚きはなかった。希望的観測にふけった人々はこれらの選挙結果に、当初固執していたバラ色の構図を非常に陰鬱な構図にひっくり返すことで反応した。そこには、「春は冬に変わりつつある」というようなコメントが付随した。しかし、実際にもっとも驚きだったことは、これらの宗教勢力が達成した選挙での勝利というものの弱さだ。それが真の問題なのだ。それがもっとも顕著であるところがエジプトであり、もちろんそこで人は、ムスリム同胞団の影響力と選挙上の成果がどれほどの速度でやせ細っているかを見ることができる。議会選挙から大統領選挙まで、そしてその一回目から憲法の国民投票まで、その間にムスリム同胞団が得た票数をじっくり見ればよい。驚くべき速度で彼らが影響力を失いつつあるということは明白だ。彼らは基盤を失いつつあるのであり、そのことこそもっとも驚くべきことだ。同じことをチュニジアについても言うことができる。そこでは、左翼の分裂という問題があったにもかかわらず、さまざまな左翼に向かった票数を合算するならば、それが結び付けられさえすれば、極めて意味のある議席数になったはずという結果を得ることができるのだ。ところがその左翼は、ばかばかしいほどの数のグループと組織に分裂していた。実際首都には、互いに競合する何十もの左翼と急進左翼の候補者名簿があった。それらすべてにもかかわらずムスリム同胞団の得た票は、半分以下の投票率の中で四〇%であり、それが意味することは、彼らが実際に得た票は登録有権者の二〇%程度ということだ。これは地滑りではまったくない。その時からチュニジアは社会的諸条件における一つの退歩を経験してきた。そして有力なイスラム勢力を含んで権力に到達した連合は、足場を失い続けてきた。この連合勢力は、この国の本当の問題に対する解決の入り口を何らかの形でもたらす点での無能力の故に、次第次第に信用を傷付けられている。ここで言及した解決の必要な問題を挙げるならば、失業、経済的諸問題、社会的諸問題などの類だ。われわれはチュニジアでもエジプトでも、両国のムスリム同胞団支配の政権と社会的諸闘争の間の衝突激化を伴った、社会的諸闘争と労働者の諸闘争の高まりを見てきた。
 これはチュニジアの場合、暴力に転じた政権とUGTT(労働総同盟)間の衝突を伴う劇的なレベルにまで到達した。この国は新たな選挙に向かっている途中だが、その選挙上での勝負以前にもまた、社会的、政治的衝突が猛烈な勢いを増しつつあるのだ。こうしてすべてが煮えたぎりつつある。すべてはすごい早さで、非常な急速で変わりつつある。最初にあった希望的観測とそれがあっという間に転じた陰鬱なコメント双方共が、まったくの印象主義であり、また間違っている。真実の核心は次のことだ。つまり、われわれは長期の革命的上げ潮、長期的革命過程を前にしつつあるのであり、その過程は、二〇一〇年一二月に始まり、その上げ潮が最初の勝利に到達した国々、またまだ意味ある程度までは揺るがせられていない国々双方で維持されるだろう、ということだ。

チュニジアがな
ぜ変化の先頭か
――私が注目したそれは取り消されたのだが、一二月早くのUGTTによるゼネスト呼びかけに何が起きたのか?

 確かにそれは、ある種の妥協に達した後で取り消された。基本的に、UGTT指導部は、衝突がまずい結果となる可能性があることを恐れた。というのもこの国では、ゼネストの呼びかけはこれまでにただ一度しかなかったこと、そしてそれが一九七八年のことであり、極めて残酷な衝突になったからだ。そのために、起こるかもしれないことに関し一定の恐れがあった。そしてそれが、誰も面子を失わない一つの妥協へと後戻りすることを彼らが今受け入れた理由だ。しかし出された警告はそこにあり、UGTTは、政権に対する攻撃において、彼らが権力として振る舞うやり方に対する批判において、これまでまったく遠慮がなかった。そして依然として、イスラム政党が支配する民間軍事部隊の解体を要求している。エジプトであれチュニジアであれ、この種の組織された暴力を行使するという点で、ムスリム同胞団はムバラクよりももっと長けているということを証明した。
 あなたが見ているものがそれであり、そして、チュニジアに関する見通しには非常に興味深いものがある。なぜならばこの国は、実質的にこの間の過程を導いている組織された労働者運動をもつ、唯一の国だからだ。その運動はすでに、二〇一〇年一二月から二〇一一年一月の蜂起の実体的指導部だった。ベンアリは、ゼネストが二〇一一年一月一四日に首都に到達しようとしていたその日に国から逃げ出した。
 労組活動家たちは、ブアジジの自殺後に蜂起が始まった都市であるシジブジドから、蜂起が首都で頂点を迎えたその日まで、闘争を率いた人々だった。基層部分の組合活動家たちと中間部分の指導者たちは、この闘争の真の指導部だった。
 しかしながら独裁崩壊後、UGTT指導部の中で一つの変化が起きてきた。そしてこの変化が、急進的左翼を含む左翼を指導的立場に引き出した。チュニジア左翼は最終的に直近の経験から教訓を引き出し、彼らが人民戦線と呼ぶものに何とか統一できた。左翼勢力のこの連合がUGTT内で支配的であるという事実は、非常な重要性をもっている。つまりそれが、この地域のいかなる他の国よりも明白に闘争のより前進した段階に、チュニジアを置いている。

問題含みのリベ
ラル・左派連合
――チュニジアからエジプトに話題を移すとすれば、そこでは、昨年夏のモルシの大統領選出以来、ムスリム同胞団に対抗する反対勢力を結集しようとの試みが起きてきた。革命以後のそこでの左翼諸勢力に関して何か言えることは。

 さてしかし、エジプトとチュニジアの間には大きな違いがある。それは、チュニジアでは左翼の役割がはるかにより重要だという事実だ。その理由は、チュニジアでは左翼が、UGTTという労組ナショナルセンター内部で、労働組合運動の中で、非常に長期、何十年もの間極めて活動的であり続けたという事実だ。そして、ほとんどの時期官僚化した指導部が政府の支配下、あるいは影響力の下に置かれていると思われたとしても、それでも左翼は常に、地方の支部での活動を活発化することを何とか成し遂げ、労組のもっとも傑出した活動家は左翼に所属している。
 不幸なことだが、エジプトも入れてこの地域に他に同じところはない。エジプトでは反対派は、旧体制の何人かの遺物を含んで、左翼とリベラル勢力の連合に結集した。もちろんこのことは、ムスリム同胞団、イスラム原理主義諸勢力との衝突の中で、左翼および労組のいくらかの人々が旧体制の残存勢力との連携に心引かれるかもしれないという意味で、チュニジアでもまた起こり得た。しかしエジプトではそれが、連合の一部であるアムル・ムーサとの間ですでに起きて進行中だ。しかし言うべきことだがムーサは、旧体制のリベラル分派を代表しているのだ。彼は、シャフィクとは異なる。シャフィクはこの前の大統領候補者であり、ムバラク体制の継続性を公式に代表していると見られた。しかしムーサは実際にシャフィクに対立する大統領選挙運動を行った。それ故あなたがエジプトで見ているものはリベラル―左翼連合だ。それが民主的諸要求をめぐる一つの戦線である限り、それは正統と見られ得る。しかし問題は、それが先の戦線を超えて選挙連合へと進んだ、ということにある。
 幅広い意味の左翼それ自身は、ハムディーン・サバヒによってほとんど代表される。そして彼は、先の大統領選の候補者であり、しかもそこで第三位につけ、二つのもっとも重要な都市集中点であるカイロとアレクサンドリアで勝利までするという成果を上げたことで、あらゆる人を驚かせた。それはまったく驚くべきことだった。サバヒは、旧体制とイスラム勢力両方に対する左翼的オルタナティブを求めた人々を代表することとなった。選挙後彼は、そこに急進左翼グループのほとんどが参加している人民潮流を設立した。不幸なことに人民潮流は今、大統領選第一回投票の際にサバヒを中心に結集した左翼の潜在的可能性を拡大する代わりに、幅広連合にとって代わられている。(つづく)


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