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    かけはし2013.年3月4日号

新しい情勢局面のもとで何が問われているのか?


脱原発運動と衆院選が示したもの (上)


 二〇一一年の福島原発事故の惨事を契機にかつてないほどの高揚を見せた脱原発運動は「あじさい革命」と言われるほどの社会的現象となった。しかし昨年末の総選挙は民主党の惨敗、安倍自民党の政権をもたらした。この情勢をどう見るか、危機の時代の脱原発運動・労働者市民運動の展望と左派の課題について、真剣な討論と実践による検証が今こそ必要である。(編集部) 

新しい情勢局面、新しい
大衆運動構想力

 二〇一一年三月の東日本大震災と今なお収束の目途さえ明らかになっていない福島第一原発事故以来、社会の深部にさまざまな亀裂が広がり、数知れぬ人びとがそれぞれの立場で行動し始めた。
 社会党―総評運動の崩壊からすでに二十数年がたち、全国大衆運動ヘゲモニーを体現しうる運動構造が存在しないなか、大衆運動はさまざまな複合的・断絶的様相を呈していて、ひとつのまとまりからはほど遠い状態にある。しかも、「一九八〇年代の敗北」に抵抗する大衆運動は、残念ながら全国的な潮流を築くには、はるかに遠いところにいる。それでも、「自分たち」が生きるための自治と「自分たち」の民主主義を内包する新しい大衆運動が、政権基盤の弱い民主党政権下でやっと始まった。これまで数十年ものあいだ見ることのなかった大衆的自然発生性が芽吹き出した。
 しかしながら、昨年末の衆院選では自民党が「圧勝」する形になった。自民党の得票数は、前回(二〇〇九年)と比べると、小選挙区で一六五万票の減、比例区で二一九万票の減であり、比例区獲得議席はわずか二議席の増にとどまっている。それにもかかわらず、二九五議席を獲得し、議席占有率は約六一%に達した。こうした小選挙区制のマジックにもかかわらず、自民・「維新」・公明が圧倒的多数を占める議会(議席占有率約七九%)が、さまざまな駆け引きを伴いながら、現実の「政治」に強い主導力を及ぼしていくことになる。
 他方、衆院選が示した内容は、「五五年体制」の崩壊はいうにおよばず、議会政党と大衆との関係、国家と社会との関係がまったく新しい情勢にすでに入ってしまっていたこと、国家・議会と社会・大衆との距離が大きく広がり、それぞれが別々の動きを見せることもあらわしている。

二つの「選挙ブロック」
の登場
 
 今回の衆院選を前にして「未来」と「維新」という二つの事実上の選挙ブロックが登場した。
 うち、「未来」は、五二減の九議席になった。その結果、亀井は早々と離党して「みどりの風」に行き、七議員が「生活」、一議員が「未来」という形で「分党」した。
 これまで「小沢」が代表してきたのは、地域での個人後援会、利権にもとづく各種業界団体など自民党的な基盤をもった「反自民」勢力、いいかえれば「五五年体制」の残滓を引きずる「古い反自民」である。二〇〇九年に掲げた「国民の生活が第一」が保守層に向けたものであってプロレタリアートは眼中になかったように、この勢力にとってスローガンは集票のためのイメージ操作の意味しかなく、「脱原発」もまた票をかすめ取るための偽装看板にすぎなかった。
 これに対して、急ごしらえの「選挙ブロック」のもう一方である「嘉田」が代表していた(しようとしていた)のは、「卒原発」のスローガンに象徴されるように、資本との親和性を保持する「リベラル市民」勢力である。
 この二つがミックスされることによって七議席が比例復活したとはいえ、「古い反自民」はもはや終わっているとともに、「リベラル市民」勢力結集の困難性を示す結果となった。
 他方、マスメディアの脚光をあびる「日本維新」は、新自由主義+徹底した労働者敵視の「大阪維新」が、新自由主義+公務員労働者敵視の「みんな」とのブロックから切り替えて、極右国家主義の石原を媒介として超保守主義+国家主義の「たちあがれ」とのブロックのもとで形成された。
 結果として、小選挙区で八増の一四議席(うち一二が大阪)、比例区で三五増の四〇議席と、一挙に四三議席も増やした。そのため直ちに分解はしないとしても、与党か野党かの立ち位置さえ明解にしないなど、その「不明解さ」が最大の「力」になるか、分解の要素になるかのいずれかであり、またその両方でもある。ただし、誰が最終的に「ボナパルト」になるかは別にして、情勢がはらむボナパルチズムの要素(後述)がこの勢力を登場させ押し上げていることには、十分な注意をはらわなければならない。
 一〇議席増の一八議席となった「みんな」は、新自由主義と「反官僚依存」(その実態は公務員労働者敵視)を旗じるしに掲げるデマゴギーの党といえよう。たとえば、この党は、廃炉と使用済み核燃料処理にかかる費用をすべて電力会社が負担するようにすれば、経済的に釣り合わないから原発はなくなる、と主張する。原発は、国家の庇護がなければ経済的に成り立たないという点で、それ自体は核心をついているとしても、まったく実行する気のない「脱原発」を平気で語る。また、消費税についても、「財務省の要請だ」として、「反官僚依存」の煙幕をもって、国際資本への「公約」と法人税と所得税の軽減を求める産業資本の意図を、選挙民から覆い隠す役割を買って出ている。

ブルジョアジーとプロレタリアート


 階級闘争は、マルクスが言うように革命が近づけば単純になるとしても、今のところ単純になるどころかますます複雑になっている。
 今日の情勢を特徴づけているのは、第一に「一九八〇年代の敗北」以来引き続く労働者階級の抵抗力の極度の弱さであり、第二にブルジョア的な政策上の選択肢の極度の狭さである。
 第二の点を条件づけているのは、グローバル化して世界を覆い尽くす新自由主義という枠組みそのものであり、その枠組みのもとで賃金(可変資本)を含めてすべてコスト(不変資本)に変えてしまった資本が、循環してGDPの上昇に結びつくことが困難になっていることであり、そのため税収が縮小して国家財政が減衰していることである。また、歴史的衰退過程を深め、もはや「万能」ではなくなったアメリカ帝国主義の国際戦略のもとにがっちり組み込まれているため、その枠内にとどまる限りアメリカ帝国主義の戦略にふれる選択肢は完全に限定されていることである。
 さらに、多国籍化した資本も含め(多国籍資本はあっても無国籍資本はない)、明治以来今日にいたるまで常に国家の庇護を求める産業資本のケチくささなどがある(「成長戦略」とは、国家財政の私的資本への分捕り要求にほかならない)。これに加えて、自民党長期政権のもとでそこに慣れ親しんだ国家官僚の保守性がある。
 このため、少なくとも二〇〇六年の第一次安倍内閣以来、政府危機は完全に常態化してしまった(あまりにも常態化してしまっており、また労働者階級の闘争力があまりにも弱いため首相の首のすげ替えで済んでしまうので、ほとんど誰も「政府危機」とは思わなくなっているが)。この政府危機の常態化は、今日の情勢に構造的に組み込まれてしまっており、自民党の議席数をもってしても容易に克服されることはないだろう。
 こうして、情勢はボナパルチズムへの道を絶えずはらむことになるが、プロレタリアートの抵抗力のあまりの弱さが、ブルジョアジーの支配(「ブルジョア民主主義」)をかろうじて許している。ボナパルチズムへの道が全般化するのは、労働者階級の闘争力が高まるときになるだろう。「維新」は、教育労働者や自治体労働者を執拗に攻撃するなど、労働者階級の闘争力への予備的な防止・攻撃勢力としての役割を担っている。

民主党の分解と選挙民の
政治的漂流


 鳩山・菅・野田と続いた民主党政権は、普天間基地「移設」問題でも、原子力(エネルギー)政策でも、国家財政と社会保障問題でも、上記のような政策上の選択肢の狭さという壁にぶつかったが、それを明らかにして選挙民に公然と訴えるのではなく、むしろこの制約と融合・妥協する道を歩んだ。その結果、民主党は分解し、選挙民に見限られた。
 「連合」はヨーロッパのような社会自由主義化した社会民主主義政党をもっていない。民主党は、そのような「連合」を支持基盤としつつも、自民党から派生した勢力なども含めて成り立っている。そのため、徹底した新自由主義にもリベラル市民派にもなりきれないし、「国家」主義にも「社会」主義にもなりきれない。大衆運動を恐れ、かといって地域の個人後援会や各種業界団体という、ある程度保守層を巻き込んだ独自の支持基盤もつくれなかった。そのため、あっけなく一七三議席も減らして五七議席にまで転落した。
 二〇〇九年に民主党に投票した選挙民にとって、今回現れたのは、さまざまな政治傾向が錯綜する組み合せだった。新自由主義、(極右)国家主義、(超)保守主義、リベラリズム、(公務員)労働者敵視、「古い反自民」、(社会民主主義)……。どの議会政党も、これらのうちの一つの顔ではなく、二つも三つもの顔をもって登場した。かつて民主党に期待した選挙民は政治的に漂流して「未来」と「みんな」の区別さえつけられず、棄権した人たちも少なくなかった。投票率は戦後最低の五九・三二%だった。

政権基盤の弱い民主党政権下での脱原発運動


 福島第一原発事故をつうじて、多くの人たちが原発について考え、多くのことを知ることになった。「アトム・エンジン」のようなものが電気エネルギーを生み出すのではなく、湯を沸かすのに核分裂によって生じる熱を使っているところだけが火力発電と違うということ。原発事故は現に起きたし、これからも起こりうること。「火山列島」・「地震国」であることを考えれば、さらにその危険は大きいこと。活断層のすぐ近くにいくつかの原発施設があるらしいこと。事故が起きた場合、放射能被害はこれまで言われてきた一〇キロ圏内ではなく、三〇キロから五〇キロさらにもっと広い範囲で長期間にわたって続き、健康と生活が根底から破壊されること。「事故は起きるはずがない」とされてきた日本の原発は、他国と比べて相当ずさんな安全基準のもとで運転されているらしいこと。原発を稼働すれば必ず使用済み核燃料が生産・蓄積されていくが、その最終処分場はいまだに見つかっていないし、少なくとも日本国内には見つからないだろうということ……。
 したがって、八〇%近くの人が「原発はないほうがいい」と考えるようになった。同時に、「しかし、原発に替わるエネルギーなしに、社会は成り立つのだろうか? 明日の安全のために今日の生活を放り投げていいのだろうか?」とも自問する。この両面をかかえながら脱原発運動は全国津々浦々で持続的に展開されてきたが、さまざまな色あいの「脱原発」政党が登場した今回の衆院選での投票行為は完全にバラバラになってしまった。
 今日の脱原発運動の前に大きく立ちはだかっているのは、日本においてすでに半世紀にわたって原発が稼働してきたという事実そのものの中にある。その点で、一つひとつの原発建設に反対してきた一九七〇‐八〇年代の反原発運動とは異なるレベルの運動を前進させることが求められている。
 この間、「民主党政権だから」「政権基盤が弱いから」、脱原発という「民意」の実現に現実的可能性を感じて、多くの人々が脱原発運動に参加してきたが、今回の衆院選が示した事態によって、こうした状況は大きく変化せざるをえない。
(つづく)
(岩堀敏)

コラム

映画「家族」から見えるもの

 映画監督の山田洋次というと「男はつらいよ」や「釣りバカ日誌」を思い浮かべる人が圧倒的に多いと思う。渥美清が演じたフーテンの寅さんや、西田敏行の浜ちゃんなどが人情喜劇の面白さをスクリーンいっぱいに展開してくれた。かつてこれらは、盆と正月の定番となり、ファンならずとも映画館の窓口に並んだ人も沢山いたのに違いない。
 また、山田映画の魅力は、舞台となる場所の選定、そしてさくら役の倍賞千恵子など脇役をしっかり固めていることだ。「地に足をつけた日常の描写」を撮らしたら追随できる監督はいないだろう。そこには、社会的弱者に対する優しい眼差しが常に存在している。小津安二郎監督の名画「東京物語」(一九五三年松竹)をリメイクした今話題の「東京家族」は、公開初日の二日間で興行収入二億九六一万円余、観客動員数一九万五千人を数えたという。これは、内容もさることながら希薄で殺伐とした現在の家族のあり方、東日本大震災で改めて気付いた家族の絆を再認識した国民の意識変化によるものだと言い切れる。
 そんな折り、「山田洋次名作映画DVDマガジン」(講談社)が発売された。創刊号は、高倉健主演の「幸福の黄色いハンカチ」(一九七七)。以下、隔週で全二五巻が刊行される。現在、第四号の「遙かなる山の呼び声」(一九八〇)まで手にしたが、第三号の「家族」(一九七○)は秀逸。物語は、長崎県伊王島から始まり、日本を縦断し、新天地北海道を目指す一家のロードムービーだ。ここには高度経済成長に取り残された家族の葛藤と希望を、美しくも切ない鉄道風景とともに描き出し観る人をあきさせない。万博、巨大な製鉄所から上る煙、通勤ラッシュ、出稼ぎ、パイロットファームと、すべて鉄道が繋いでいく。配役もいい。井川比佐志、倍賞千恵子が演じる夫婦に、笠智衆が父役を演じている。
 簡単にストーリーを紹介するとこうだ。炭坑の閉山を前に、先に北海道に入植し酪農家となった友人の誘いで、風見精一(井川)と民子(倍賞)ら家族五人は、故郷伊王島を出て、長崎本線、山陽本線、そして新幹線、東北本線と乗り継ぎ、青函連絡船で渡道。そこから函館本線、根室本線に揺られ道東の根釧原野の街中標津へと向かう。ジェット機が当たり前になった今ならいざ知らず、子ども、老人を連れ鉄路三千キロを移動するのは容易なことではない。
 父源蔵を福山の大企業に就職した力(前田吟)のもとに預けようとしたが断られ、東京では乳飲み子の早苗を急病で亡くし、家族の悲しみを抱えながら雪の北海道を列車は寡黙に走り続ける。ようやくたどり着いた中標津の二日目、歓迎の宴ののち源蔵は疲れから静かに息を引きとった。地面が凍る大地に立つ神父と二つの十字架。希望の代償はあまりに大きすぎたと自分を責める精一を「春になればあたり一面緑になる」と励ます民子。翌春、初めての子牛が産まれ、民子にも新しい生命が宿った。
 家族の絆と希望の大切さを教えてくれた一○六分間だった。   (雨)


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