脱原発の伝道師となったオルシン同志
体を張って建設工事を阻止
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昨年の1月中旬、いくつかのメディアに短信記事が載った。「密陽、送電塔反対の70代農民が抗議の焼身」。記事の内容を確認してみると、765`ボルトの電気が流れる超高圧送電塔建設に反対していた74歳の老人が自ら全身に石油を浴びせて火を付けたというものだ。
記事を読みながら心の中をかすめていく記憶があった。以前に、送電塔建設に反対するという慶尚南道・密陽の住民たちに会ったことがあった。もう6年以上にもわたって反対運動をしていた住民たちは「我々は合理的な対案を出しているのに、韓国電力公社(韓電)は馬耳東風で工事を強行している」と訴えた。
発言者も聴衆もともに泣いた
記事を読んだ瞬間、鳥肌が立ったのは、その時のあの訴えが浮かび上がったからだ。その訴えを聞いた後、私は何をしていたのかという自責の念に襲われた。
その数日後、密陽に暮らしているイ・ゲサム先生から電話があった。彼はさまざまなメディアに琴線に響く文章を書いていたし、私が知っている教師たちの中で最も情熱的な教師だった。そんな先生が「夢の職業」という教師を辞めて帰農のための教育機関を準備しようとしているという消息を聞いていたところだった。彼が、送電塔反対対策委員会を発足させようとしているが来てくれることができないか、という問いかけだった。罪責感にさいなまれていた私にとっては、その電話にそううれしがることはできなかった。
事件が起こって半月後、密陽市内で行われた集会の場に行った。その日、私は他の場所ではおよそ見ることのできない不思議な光景に出会った。集会の舞台としてしつらえられたトラックの上で、神父さんが司会をしながらスローガンを叫び、イ・ゲサム先生は集会の実務をみるのに夢中だった。集会の主たる参加者は人生を「百姓」として生きてきた農民たちだった。
抗議焼身した農民の弟さんが壇上にあがり、こう訴えた。「我々の田畑のどまん中に送電塔を建てるとして雀の涙ほどの補償金をくれると言った。これまでの人生、農業一筋に生きてきた我々兄弟は一瞬にして全財産を奪われる破目になった。居ても立ってもいられず工事を阻止しようとしたが、若い用役(反対行動を抑えるために雇われた人々)らは、歳のいった老人たちを物理的に制圧し、からかった。がまんがならなかった兄は自分が死ねば問題は解決されるだろうとして抗議の焼身をした。あまりにも悔しい。万が一、韓電が工事を強行するのなら90歳の老婆と共に私も兄の後を追う」。
その日の壇上にはハルモニ(おばあさん)、尼さんも登場した。誰もが、これまで被った侮辱や暴力について吐露した。寒い冬の山を上り下りしながら工事を阻もうとしていた田舎のオルシン(年長者を敬って使う言葉)たちは聞いてはならない言葉を聞き、味わってはならない体験をした。集会は涙の海となった。発言する人も泣き、聞いている人々も泣いた。
集会が終わった後、イ・ゲサム先生と若干、お茶を共にする時間があった。「これからどうするのか」という質問に、イ・ゲサム先生は「抗議焼身対策委員会の事務局長を担って仕事をすることになりそうだ」と語った。「帰農教育機関を作ろうという計画は、どうするのか」と言ったところ、「それも一緒に進めなくちゃね」と特有の純粋なひとみで語った。だが彼も分かっていたし、私も分かっていた。今後、期限のない闘いを続けざるを得ないことを…。
原発に賛成する商人をも説得
その後、私も密陽の送電塔反対運動にいささかなりとも連帯することとなった。脱核(脱原発)に賛同する「希望のバス」が組織されて密陽に通うと、密陽の事情がメディアや人々の口を通じて外部に知られるようになった。密陽に行った人々は、送電塔を建設するからと言って伐採した場所に木を植えた。
韓電は3カ月ばかり工事を中断した後、再び工事を行った。オルシンたちは山の上に籠城の場を作り、送電塔建設を身をもって阻んだ。韓電がヘリコプターで工事の資材を積みこんで運び、工事を強行しようとすると、ヘリ機を体を張って阻止した。韓電は住民らを相手として仮処分訴訟を出し、10億ウォンの損害賠償請求訴訟を行った。
実定法に違反して工事を妨害しているとする韓電の主張に対して、住民らは「国家が国民を無視して国民の生命や財産を奪い、脅かしているのは正当なのか」と反問した。「電気を多く使っている大企業や大都市のために原発を建て、その電気を引っぱって行こうとして田舎の農民たちの土地を奪い、マウル(村)を破壊し、墓を暴くことが正当なのか」と反問した。
大変な闘いが続けられた。そのような合間、合間にイ・ゲサム先生に会えば、「大丈夫か」と聞く以外には、痛々しくてかける言葉がなかった。つらいことはつらそうだが、彼はオルシンたちに会うとエネルギーをもらうと言った。実際にオルシンたちは、いつの間にか他の人々に力を与えていた。
私が会った密陽のオルシンたちは「脱核の伝道師」になっていった。送電塔問題の根源が原発にあるということを知るに至ったからだ。釜山と蔚山の地域に推進中の新古里原発が建ちさえしなければ密陽の送電塔も必要なかった。そうしてオルシンたちは、たった数分で原発はなぜ悪いのか、送電塔問題とは何なのかを誰に対してであれ解き明かし説明することのできる人々となった。あるとき、密陽のオルシンたちと共に新規原発が推進中の慶尚北道盈徳に行ったことがある。市場の商人たちの中に原発に賛成する方がいると、いつの間にか密陽のオルシンたちはその方をつかまえて、原発がなぜ悪いのかを説明していた。
このようなオルシンたちを見ながら、吐き出したい言葉が多くなった。原発がそんなに必要ならば、ソウルに建て、少なくとも田舎のオルシンたちに苦痛を与えないようにしよう。送電塔がそんなに良いものならば、韓電社長の社宅を送電塔の真下に建てよう。権力を持った人々の土地の上に送電塔をじゃかすか作ろう。それが嫌ならば田舎のオルシンたちを「ニムビー(NIMBY、公益のためには必要だが、自分が属する地域には得にならないことに反対する利己的な行動。not
in my back yaydの略)」だの何だのと罵倒すまい。このような言葉などが頭の中でぐるぐる回る。
密陽のオルシンたちは、あらゆる困難の中でもこの1年間、送電塔の工事を阻んできた。密陽に建つ予定だった69個の巨大な送電塔は70〜80代の老人たちによって阻まれていた。大選(大統領選挙)が近づくと共に、オルシンたちの期待は大きくなった。大選を通じて送電塔問題解決の糸口を見いだしたかったのだ。イ・ゲサム先生は送電塔問題が解決されれば帰農学校に集中したいと語った。農業と教育を一緒にやるのは彼が夢見ている「素朴ながらも良い人生」だった。私も1日も早く彼がその夢を実現し遂げられることを願った。
高空籠城の労働者たちを激励
大選当日、結果を見ながら何よりもまず考えたのはイ・ゲサム先生と密陽のオルシンたちのことだった。そして数日間、イ・ゲサム先生の携帯電話は消えていた。心配にはなったが、よしんば電話が通じたからといって何か言うことができただろうかと思った。
ところで数日後、電子メールが来た。密陽のオルシンたちは大選の結果にもかかわらず、堂々と送電塔反対運動を継続することにしたというのだ。そのメールを見た瞬間、涙が出た。そのような論議をするまでに、どれほど大変な思いをしたことだろうか。
それ以降、密陽のオルシンたちは自分たちよりも困難な人々を訪問しはじめた。「我々は大地の上で籠城しているのだから楽な方だ。送電塔の上に登っている人々はどうだろうか」と言って蔚山で高空籠城をしている現代自動車非正規職労働者たちをたずねて行った。蔚山の労働者たちは、このオルシンたちを何と呼ぶべきか分からなかったのか、「オルシン同志」と言ったそうだ。オルシン同志たちは釜山の韓進重工業、京畿道・平沢の双龍自動車、忠清南道・牙山のユーソン企業労働者たちをも訪問した。たずねていっては心配し、涙を流して「それでも踏んばらなければならない」と激励した。
いつの間にか密陽は韓国の脱核運動におけるシンボルとなった。チョン・テイルという1人の労働者の死が労働問題に対する人々の覚醒をもたらしたように、1人の農民の死と密陽の「オルシン同志」は原発や送電塔問題に対する認識がなかった人々を限りなく恥ずかしがらせている。
だが解決されたものは、まだ何もない。相変わらず密陽のオルシンたちとイ・ゲサム先生は、あてどのない闘いをしなければならない。少なくとも、この方々をさびしがらせてはならないという誓いを新たにするばかりだ。(「ハンギョレ21」第946号、13年1月28日付、ハ・スンウ/緑の党・共同運営委員)
常識と歴史の敗北
大統領選は「花よりパン」
高齢化と世代間戦争 思い返したくない。常識と歴史の敗北だ。ほかに説明する能力がない。「パン」を名分としてクーデターと独裁とを事としていた墓場の中の過去が、完璧に復権した。それも、民主主義の名によって。残酷なパラドックスだ。今後5年、これを土台として生き方を組み立てなければならない。避けることのできない現実だ。恐ろしい。底も知れない深淵の前で。見知らぬ世の中が我々を待っている。不似合いな感嘆符よりも、たくさんの疑問符が必要な時だ。
それでも1つだけは明らかにし、再び始めよう。多数の有権者の選択は、いつも正しいものとみなされる。それが多数決代議制民主主義の規則だ。だから多数の選択が「私の選択」と違ったからとて恨んだり非難することではない。
(12年)4月の総選挙でセヌリ党が多数党になったのに続き、今回の大選(大統領選挙)でもセヌリ党パク・クネ候補が当選し、立法府と行政府を掌握することになった。こうして韓国代議民主主義のシステムの軸が一つの方向へと確実に傾いた。少なくともシステムのレベルでは代議民主主義の核心的原理である「けん制とバランス」が効果的に機能しがたくなった。傾いた軸を建て直す機会は当分の間ない。全国レベルの選挙は最も早いのが2014年の地方自治体首長選挙だ。次の総選挙は2016年4月、大選は2017年12月だ。その時までは「市民政治」と「街頭の民主主義」に傾いていた軸を補正しなければならない。
大選を前にして政権交代の世論が高かった。だが多数の有権者たちはイ・ミョンバク政府の失政をただす代案として野圏のムン・ジェイン候補ではなく執権党のパク・クネ大選人を選択した。これを、どう説明すべきだろうか。ムン候補が優勢な地域はソウル、湖南(光州を中心とする韓国南西部)だけだ。嶺南(韓国南東部)でのパク当選人の圧勝を理由に地域主義を想起することもできるはず。けれども地域主義から相対的に自由な京畿(ソウル近郊)、江原(韓国北東部)、忠清圏(韓国中西部)でのパク当選人の優勢を考慮すれば、そうとばかりも言えない。韓国政治に圧倒的保守優位の構造を創り出した「3合合党体制(1990年1月、ノ・テウ民主正義党、キム・ヨンサム統一民主党、キム・ジョンピル新民主共和党の統合)」、すなわち「傾いた競技場」論が相対的に説明力が高いかも知れない。だが、この2つよりももっと強い威力を発揮した第3の変数に注目しなければならないようだ。
「不安」が「不
満」を圧倒した
それはまさに人口構造の高齢化に連動した「世代戦争」だ。20〜40代ではムン候補が優勢だった。反面、50代以上ではパク当選人がムン候補を圧倒した。特に89・9%という驚異的得票率でパク当選人に票を与えた50代の選択が決定的だ。新自由主義無限競争社会において誰もがみな不安でなく不満がないということがあるだろうかという父母世代の「不安」が息子世代の「不満」を圧倒したわけだ。よくよく問いたださなければならないところだ。
ただ、12月19日夜のソウル光化門広場でパク・チョンヒの写真を掲げ熱烈に支持した市民たち、「もう1度、『元気に生きよう』の神話を作ろう」というパク当選人の当選あいさつは示唆するところが大きい。まずは、こう語ることができるだろう。「パン」への欲望が、「思想や表現の自由」への熱望を圧倒したのであり、パク・チョンヒがキム・デジュン、ノ・ムヒョンを破った由縁だと。パク・チョンヒ式成長主義のパラダイムの威力は相変わらずだ。「パン」と「自由」の共生は、いまだ韓国人のものではない。
国外の情況は一層、厳しい。東北アジアの主導権をめぐって米国と中国が綱引きをしているその中で、日本では「A級戦犯容疑者」岸信介の外孫であり極右政治家である安倍晋三が総理に回帰した。北ではキム・イルソンの孫キム・ジョンウンが核とミサイルで情況を揺るがそうとし、南ではパク・チョンヒの娘が大統領当選人となった。革命元老の2世たるシー・チンピン(習近平)の中国国家主席まで含め、東北アジアに「21世紀版世襲政治」の全盛期が開かれた勘定であり、20世紀の冷戦の秩序が復元される危機に直面した。
国内では民主主義が、国外では平和が、風前の灯だ。気がかりだ。それでも暮らしは続けなければならないし、時間は無情に流れるものだ。人間のことは人間が解いていかなければならない。さればこそ余りにも長きにわたって絶望することのなきことを。さあ跳べ、ここがロドス島だ! (「ハンギョレ21」第942号、12年12月31日付、イ・ジェフン編集長)
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