映画案内
チャン・フン監督/韓国/二〇一一年公開
『高 地 戦』 朝鮮戦争最末期の闘い描く |
南北分断と
戦争の勃発
朝鮮戦争最後の戦闘を描いた韓国映画『地戦』。評判を呼んだ映画「JSA」の原作者パク・サンヨンが脚本を担当している。朝鮮戦争は予想外の結末で終わりを告げた。映画は、そのことを鮮烈に描いている。
朝鮮戦争終結までの概略を見ておきたい。四五年八月に日本帝国主義が敗北し、日本はポツダム宣言の受託により朝鮮半島の統治権を放棄した。朝鮮半島は朝鮮人民に解放されたと思われた。そのとき半島には連合国軍としてのソ連軍が展開中であった。米国は、ソ連軍が朝鮮半島全体を掌握することを恐れ、南北分割占領を提案した。ソ連もそれを受け入れ、朝鮮半島は北緯三八度線を境に北部はソ連軍、南部は米軍に分割占領された。
連合国による朝鮮半島の信託統治案は、朝鮮国内の左派と右派の対応の違いや、米ソの思惑の違いにより頓挫し、統一国家の建設は困難になった。日本の降伏の直前からそれを見越し、新生国家建設に向けた人々の活動は存在していたが、その活動は内部対立や占領軍の弾圧で解体された。その後それぞれの占領体制下で南部は大韓民国(韓国)、北部は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が建国される。このようにして朝鮮半島は分断された。その後、第二次大戦終了前後から危ぶまれていた米ソの対立は次第に冷戦へと顕在化していった。
歴史評価の
大きな転換
日本の左翼やリベラル層の間では、七〇年代頃までは韓国はカイライ国家と見なされていた。韓国に対する呼び方も南朝鮮という呼称を使っていて、もっぱら、北の共和国の方が正当な国家であると思われ、心情的にも支持されていた。朝鮮戦争についても、韓国側が先に侵攻したとか、あるいは、北の侵攻を祖国解放戦争とみなし支持する傾向が強かった。その後、史実が次第に明らかになるにつれ、そのような考えは修正されていく。
朝鮮戦争は、一九五〇年六月二五日午前四時、三八度線での北朝鮮軍の奇襲攻撃で始まり、北の一〇万の兵力が三八度線を越えた。六月二七日、国連安保理は、北朝鮮弾劾決議を全会一致で採択した。
北朝鮮軍は半島南部のほとんどを制圧し、韓国軍は総崩れとなった。米軍中心の国連軍が参戦し苦戦するが、仁川上陸作戦が成功し国連軍の大規模な反撃が開始され、ソウルが奪還され戦局は一変。韓国軍は三八度線を越えて北進する。国連軍も米国提案の国連総会決議を根拠に、三八度線を越え平壌を占領し、さらに北上する。この段階で、北朝鮮支援を目的に中国人民志願軍(人民解放軍)が参戦する。
休戦協定への
かけひきの中で
国連軍司令官マッカーサーは解任される直前に、中国軍の物資補給を絶つために東北地方や平壌に原爆の使用を検討したと言われている。戦局は一進一退の膠着状況になり、五一年六月二三日ソ連から休戦協定の締結が提案され、七月一〇日から開城で休戦会談が断続的に繰り返され、五二年一月実質的な休戦状態になった。五三年七月二七日に、三八度線付近の板門店で北朝鮮軍・中国軍・国連軍の間で休戦協定が結ばれ、現在も休戦中である。
朝鮮戦争では戦局が二転三転し地上戦の戦線が絶えず移動し、両軍の犠牲は膨大になったが、加えて犠牲になった市民は一五〇万から三〇〇万人と言われている。離散家族も大量に発生した。敵側のスパイ容疑とか、敵側に協力したとの嫌疑をかけられた二〇万人から一二〇万人の民間人が韓国軍や警察に虐殺されたといわれる。その逆の場合もあったかもしれない。
ちなみに、朝鮮戦争の特需で日本資本主義は復活するが、もうひとつ忘れてはならないのは、日本は国連軍の要請により、国会の承認なしに海上保安庁の掃海部隊八〇〇〇人規模を編成し、第二次大戦後初めて参戦したという事実である。
映画は、一進一退の戦局の頃から始まる。休戦交渉に臨んでいる米軍の中将は、地図に記されている南北境界線を見ながら協定を締結しようとすると、北朝鮮の将軍は境界線を引き直す。昨日は国連軍が奪取した地は、今日は北側の軍が奪還していたというわけだ。
この東部戦線の最前線エロック地は、奪取したりされたりの繰り返しを幾度となく繰り返していた。中将は、地を直ちに奪還し領土をひろげてから締結したいというのだった。
精鋭部隊の
実態とは?
休戦交渉が難航する中、両軍交戦中の真っ最中のエロック地で戦死した韓国軍中隊長の死体から自軍の銃弾が発見される。軍上層部は敵と内通しているものがいるのではないかと疑い、防諜部の中尉をこの東部戦線に派遣し、調査を命じる。
この地の最前線を担っているのは鰐中隊と呼ばれていた精鋭部隊だった。そこでは、ひよわな学生で死んだとばかり思っていた友人が、中尉の階級で実質的なリーダーとなっていた。彼らは、以前北朝鮮軍がソウルを占領したとき(?)に逮捕されたが、彼は釈放され友人は連れて行かれたのだった。そのとき敵軍の将校は「この戦争は一週間で終わる」といい、韓国軍が弱いのは、戦争の目的を知らずやっているからだと告げる。
鰐中隊では、名声とは違い、寒いからといって北朝鮮軍服を重ね着しているものもいるし、二〇歳になったばかりの青年が大尉として部隊を率いている。友人は、二年間の間に二等兵から中尉に特進している。何か怪しい。彼は疑いを深めていくが、その後赴任した新任中隊長の無理な作戦で思いもよらない危機に直面したとき、若い大尉と友人の中尉の決断で危機を免れる。新任中隊長は、友人の中尉により射殺された。上官殺害に彼は動揺し、報告して軍法会議にかけるとはいうが、最前線のあまりにも過酷な状況の中で、自分の考えが揺らぎそうになる。
しかし終り
ではなかった
前線の兵士は南北を問わず、休戦協定が始まって二年が過ぎるというのに、一向に交渉がまとまらないことにうんざりしていた。しかし、戦争である以上、敵を殺さなければ、自分が死ぬ。生きて帰らなければいけないから、戦闘では負けられない。
あるとき、エロック地を占領したとき、陣地壕の真ん中に四角に仕切った穴があり、その蓋をはがすと、酒の瓶と南の親族に宛てた手紙が置いてあった。毒入りではないかと一度は疑がってみたが、みんなで飲んでしまう。この地を北側が奪還したとき相手側に渡そうと、新たな物資を入れて蓋をするのであった。
戦闘が続いているある日、戦場に休戦協定が締結されたというニュースが伝わり、両軍とも戦闘を中止する。谷川で休憩しているとき北の軍隊に遭遇する。北の軍隊は銃を構え一瞬緊張が走るけれど、何事もなく分かれていく。その後、野戦の陣営に集められた兵士を前に、司令官が休戦協定を読み上げた。
映画を見ていたものとしても、これでやっと戦争が終わったという安堵感を持った。そして、次の言葉に衝撃を受けた、「この協定は今から一二時間後に発効する」。後のことはおそらく予想できるはずだ。これで帰還できると思っていた兵士たちは呆然としながら再び敵の攻撃に備えた。濃い霧を通して敵方から歌声が聞こえてくる。それは南で流行している歌であった。兵士たちは感激し、それに合わせて歌い始めるのだが、やがて霧が晴れ、爆撃で丸裸になった地が見えてくる。双方とも休戦発効の時刻になるまで攻撃を自粛するのではと一瞬思ったが、まさかそんなことになるはずはなかった。
戦闘の終わりは韓国でもほとんど記録が残っていないというが、映画制作に際してその点については徹底的に考証を重ねたそうである。
休戦協定が締結しても直ちに戦闘停止ではなかったことをつくづく知らされた、また戦争は政治なのだということも。でも、なぜ即時休戦にならなかったのであろうか。日本が直ちにポツダム宣言を受託していたらということも思い出した。戦争をするものたちは、人の命は考えないのだなということ痛感した。
(津山武生)
1.14日雇全協反失業総決起集会
被曝労働者と共に闘おう
佐藤さん・山岡さん虐殺弾劾
政府・東電の
責任追及を
一月一四日、台東区の玉姫公園で日雇全協反失業総決起集会が行われ、全国各地で越年闘争を闘い抜いた日雇、野宿の仲間や支援者が結集し、悪天候の中、集会、デモを闘った。
集会は天皇主義右翼暴力団、国粋会金町一家のテロに倒れた佐藤さん、山岡さんへの黙祷から始まった。
発言は争議団連絡会議、差別排外主義と闘う連絡会、東京労働安全センター、全国一般福島連帯ユニオン、竪川弾圧救援会、渋谷・のじれんと続く。
東京労働安全センターの飯田さんは一一月九日に被曝労働を考えるネットワークを結成したことを報告し、「原発事故によって多くの労働者が被曝労働に動員されている。政府は福島原発事故は収束過程に入ったとしているが、だれがそれを信じるのか」「被曝労働者の命と権利を守るために闘おう」「被曝労働は原発労働者だけの問題ではない、政府東電の責任を追及しなければならない、福島現地の仲間と連帯して闘おう」と発言した。
全国一般福島連帯ユニオンの佐藤隆さんは「原発事故以降、被曝労働が否応なく押し付けられている、被曝労働は究極の使い捨て労働だ」「今、福島には北海道から沖縄まで全国から被曝労働者が集められている」「除染は国家プロジェクトだが、危険手当一万円を真っ当にもらっている労働者はいない。ゼネコンがピンハネしている」として被曝労働者を守る取り組みを訴えた。
大雪の中を
元気にデモ
続いて竪川弾圧救援会と竪川の仲間、渋谷のじれん、三多摩より立川サンキューハウスが発言。
次に日雇全協各支部の発言に移る。釜日労、笹日労、寿日労、山谷争議団が発言。釜日労の仲間は経産省前のテントを激励してから山谷に来たことを報告。「反原発の闘いはエネルギー政策の転換に留まらず、原発を誘致せざるを得ない地方の疲弊の問題でもある」と発言。昨年末、大阪で少年たちに野宿者が虐殺された問題や、越年闘争を報告し、「働いて食える釜ヶ崎を!」と訴えた。
山谷争議団の仲間は「福島での被曝労働者支援の闘いに行くと、被曝労働の問題は寄せ場の問題と同じだということが良くわかる。」として、被曝労働者問題の問題を始め、労働や貧困の問題に大きく取り組んで行こう、と提起した。
集会の後は朝から降り続いていた雨が雪に変わる中、山谷一周のデモに出発した。 (板)
コラム
大寒の一日 およそ一〇年ぶりに、隅田川を下る水上バスに乗った。
昨年六月、「隅田川サミット」なるシンポジウムが開催された。東京新聞が中心になって呼びかけたこの企画。隅田川に関わる歴史と観光情報の発信をめざすもので、五月に開業した東京スカイツリーもテーマになった。周辺自治体四区の区長と、タレントのなぎら健壱が出席した。
なぎら見たさに「だめもと」で応募し当選した。仕事を定時で切り上げて連れ合いと待ち合わせ、会場の「すみだリバーサイドホール」へ向かった。
中央、台東、墨田、江東の首長が一堂に会するのは、稀有な機会だという。コーディネーターを陣内秀信法政大学教授が務め、今後の街おこし、地域おこしの方向性を探った。数日後、東京新聞は見開き二頁でこの内容を報告した。
半月後、自宅に「特別乗船券」が郵送されてきた。シンポのアンケート回答者から、抽選で選ばれたらしい。有効期限は今年一月末。間際になってようやく出かける決意をしたのである。
自宅からバスで十五分の東武浅草駅前。そこから徒歩で二天門発着場に並ぶ。船内は十分に暖房が効いているが、デッキにあがるとさすがに寒い。ボランティアなのか、法被を着た白髪の男性がマイクでガイドを始めた。子ども連れがしきりに家族の写真を撮っている。進路はほとんど逆光である。
私たちは、レインボーブリッジをくぐった折り返しの「浜離宮」で降りた。ここでは下船も乗船も園内にあたり、別途入園料が必要になる。二天門の受付でそれを聞かされ、窓口に苦言を呈したが、連れ合いが「障害者手帳」を提示。付き添い扱いで私まで無料になった。
東京湾に面した広大な庭園も、この季節は人影まばらである。茶店の熱い甘酒が、五臓六腑に浸み込んでいく。手入れの行き届いた松、足跡のない残雪が、昼下がりの斜光を受けて、まばゆいばかりに輝いている。背景には高層ビルが無機質な姿を晒している。この異空間を抜けると、どこか懐かしい新橋駅前の雑踏にたどり着く。
路地を何本か過ぎて、ある中華料理店に入った。日曜の地下1階、他に客はいない。不安になりながらランチを注文。サラダと杏仁豆腐とコーヒーはおかわり自由。メニューの「半チャン」は、どうみても半量ではない。そのうえ酒もつまみも三百円均一だ。当地のような外食業激戦区のみならず、飲食店はどこも今、厳しい価格競争を強いられている。
腹ごなしに日比谷まで歩くことにした。東電本店前を通り、帝国ホテルの横を抜ける。いつも仕事やデモで通る道を、渡る川を、どこか落ち着かない気分で眺めた。そんな真冬の一日であった。
(隆)
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