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    かけはし2013.年1月28日号

やめろ「集団的自衛権」行使


米戦略に組み込まれた自衛隊の実戦態勢

中国軍との戦闘を想定


 安倍新政権は、一月二八日からの通常国会を前にして、中国の海洋進出を阻止するために「領土を守る決意」を示すとして、きわめて好戦的な外交・軍事戦略への布石を着々と打ちだしている。それは、米国のアジア・太平洋に焦点を絞った新「国防戦略」にあくまで寄り添いながら、「強い日本を取り戻す」という見栄っ張りの極右ナショナリズムに貫かれた改憲路線の一環である。
 安倍政権は、民主党政権時代の防衛大綱、中期防衛力整備計画の見直しによる防衛予算の拡大と自衛隊の増員、一九九七年の日米防衛協力指針(ガイドライン)に代わる新ガイドラインの構想、集団的自衛権行使を違憲とした従来の政府見解(一九八一年五月)の見直しなどを次々に打ち出している。
 安倍は当初、一月中に早々と訪米し、オバマとの日米首脳会談によって、「日米同盟」の強化のアドバルーンを上げるつもりだった。しかし一月中の訪米が、オバマ第二次政権発足のための多忙なスケジュールによって不可能と見るや、ベトナム、タイ、インドネシア訪問、岸田外相のフィリピン、シンガポール、ブルネイへの訪問によって、中国の海洋戦略をにらんだ「対中包囲網」形成を打ち上げる作戦を取った。
 それとともに「尖閣有事」=中国軍との交戦の可能性を視野に入れた臨戦体制構築の準備も進められている。一月一三日には陸自第一空挺団(千葉・習志野駐屯地)の年頭行事「降下訓練始め」で、空自、海自を含む航空機二〇機、戦車など車両三〇両、隊員三〇〇人が参加して「敵に占領された島の奪還」訓練が初めて行われた。「島の奪還」作戦とは、「尖閣諸島」などに中国軍が上陸したことを想定したものであることは言うまでもない。
 また「尖閣」付近での中国空軍との戦闘を想定して、先島諸島の下地島空港(宮古島市)に空自戦闘機を配備する検討に入っている。こうした強硬な方針は、日中間の軍事的緊張を自ら意識的に作り出そうとするものだ。
 安倍政権は、「中国の脅威」を想定した、民主党政権時代の日米の「動的防衛協力」構想をさらに「領土紛争」に即して実戦化する方向にはっきりと踏み出した。ここでは「集団的自衛権」の行使を違憲とする従来の政府見解の見直しの意味について、もう一度再確認することにしたい。何よりも安倍首相が二月の訪米とオバマ米大統領との首脳会談の場で、「集団的自衛権」行使容認のために従来の政府見解を見直すことを積極的に提起しようとしているからである。

「安保法制懇」の論議

 安倍は前回、二〇〇六年に首相となった時にも、「集団的自衛権」に関する従来の政府見解を変更することにきわめて積極的であり、そのために「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)という「私的諮問機関」(座長:柳井俊二・元駐米大使)を設置した。安保法制懇は二〇〇七年五月から八月までの間に五回の会合を行ったが、報告書がまとめられたのは安倍が退陣して後の二〇〇八年であり、実質上「お蔵入り」になってしまった。この時、安倍が安保法制懇に提起したテーマは、大きく言って二つだった。Aは「日米同盟がより効果的に機能する」ために「同盟国相互の強固な信頼関係を築く」こと、Bは「PKOを始めとする国際的な平和活動に我が国が一層積極的に関与していく」上で「日本の要員が、同一の国際的な平和活動に参加している他の諸国の要員と同じチームの一員として、共通の基準を踏まえて活動し、緊密に助け合っていく」ことである。
 Aの中にはさらに二つのケースがある。@「共同訓練などで公海上において、我が国自衛隊の艦船が米軍の艦船と近くで行動している場合に、米軍の艦船が攻撃されても我が国艦船は何もできないという状況が生じてよいのか」とA「同盟国である米国が弾道ミサイルによって甚大な被害を被るようなことがあれば、我が国自身の防衛に深刻な影響を及ぼすことも間違いない。……仮に米国に向かうかもしれない弾道ミサイルをレーダーで捕捉した場合でも、我が国は迎撃できないという状況が生じてよいのか」である。
 Bの中にも二つのケースがある。B「同じPKO等の活動に従事している他国の部隊又は隊員が攻撃を受けている場合に、その部隊又は隊員を救援するために、その場所まで駆けつけて、要すれば武器を使用して仲間を助けることは当然可能とされている。我が国の要員だけそれはできないという状況が生じてよいのか」とC「補給、輸送、医療等、それ自体は武力行使に当たらない活動については、『武力行使と一体化』しないという条件が課されてきた。このような『後方支援』のあり方についてもこれまでどおりでよいのか」である(以上の安保法制懇をめぐる論議等やその前史については『ピープルズ・プラン』40号[二〇〇七年一一月]所収、国富建治「『集団的自衛権論議』はどこへ行く」参照)。
 そしてこの四類型についての安保法制懇の論議のまとめは、@Aについては「集団的自衛権の行使容認」とするものだった。

第3次アーミテージ報告


 ところが今回、安倍がバンコク訪問中の一月一七日に行った記者会見では、二〇〇七年の四つのケースを超えて「集団的自衛権」行使を認めるケースを拡大しようとするものになっている。それは米国の「エア・シー・バトル」戦略下での日米の「動的防衛協力」構想においては、アジア・太平洋の全域、あるいはそれを超えた範囲で米軍の指揮の下に自衛隊が作戦展開することが想定されているからであり、そこでは必ずしも日米両軍が「肩をならべて」作戦行動をするわけではないからである。
 つまり遠く離れた場所にいる米軍が攻撃された場合にも、自衛隊は米軍を攻撃した「敵」に対して攻撃を加えることが「集団的自衛権行使」として「容認」される。安倍が四類型を超える場合として想定しているのは、そうしたケースなのではないか。
 すなわち「深化」した日米同盟においては、米国を攻撃した「敵」はどこにいようと自動的に日本の「敵」として「集団的自衛権」行使の対象になりうる、ということを意味する。
 第一次安倍内閣当時の「集団的自衛権」をめぐる論議は、一九九七年の日米ガイドラインを経て、アーミテージとナイらの二つの報告(第一次報告は二〇〇〇年一〇月の「米国と日本 成熟したパートナーシップ」、第二次報告は「日米戦略合意」「米軍再編」以後の二〇〇七年二月に出された「米日同盟 二〇二〇年に向けアジアを正しく方向づける」)によって促進されたものだった。二つのアーミテージ報告は、いずれも新たなグローバルな「日米同盟」の下で「集団的自衛権」の行使を違憲とする一九八一年の政府見解の変更を厳しく迫る圧力となった。
 そして昨年八月一五日に出された第三次アーミテージ報告(「米日同盟――アジアの安定を保持する」)も、「日米同盟の関心領域」が「南へ、そして大きく西へ――遠く中東まで――拡大している」ことを評価するとともに「われわれの軍事的・政治的・経済的国力の包括的組み合わせとともに、より広い地理的視野を含むべきである」と述べている。そして日本の側の「集団的自衛権の行使禁止が同盟にとっての障害物」であると指摘している。また「PKOへの日本の参加を通じて、自衛隊はその国際的関与と、対テロ作戦や核の非拡散、人道的援助、災害救助への準備態勢を拡げてきた。さらに完全な参加のために、われわれは日本が必要な場合には武力をもって他国の平和維持要員だけでなく市民をも防護するために、日本の平和維持軍に与える法的許容範囲をも拡大すべきであると勧告する」としているのだ。
 そして、今回の安倍内閣による「集団的自衛権」容認への急ピッチな動きも、明らかに米国の戦略的要請に従属したものである。二月のオバマとの会談で「政府見解見直し」を確約しようとする安倍の発言は、その露骨な現れである。
 安倍の「集団的自衛権行使違憲論見直し」の立場は、集団的自衛権行使が現憲法の下でも完全に「合憲」である、とする見解に基づいている。したがって「集団的自衛権」行使のために改憲せよ、と言っているわけではない。
 今回の総選挙にあたっての自民党政権公約は「国家安全保障基本法の制定」という一項を起こし、その中で「政府において、わが国の安全を守る必要最小限度の自衛権行使(集団的自衛権を含む)を明確化し、その上で『国家安全保障基本法』を制定します」と述べている。
 この「公約」も改憲を前提とするものではない。しかし「集団的自衛権」容認へのピッチを上げることが、同時に憲法改悪プロセスの促進と軌を一にしていることも、また間違いない事実だ。米国に押し付けられた「占領憲法」に代わる「自主憲法」を主張する勢力は、「集団的自衛権容認」を米国に強要されて約束し、それをバネにしながら改憲過程を加速化しようというみじめな姿をさらけ出している。
 オスプレイ配備撤回、沖縄の米軍基地撤去の闘いとともに「集団的自衛権」見直しに反対し改憲を阻止する闘いを作り出そう。
       (平井純一)

 
追悼:熱田 一さん(三里塚空港反対同盟・前代表)

空港建設阻止へ激しい闘志
をみなぎらせて先頭に起つ

 一月一三日の三里塚・芝山連合空港反対同盟の旗開きで柳川秀夫さん(反対同盟世話人)からの報告により昨年暮れに元副婦人行動隊長の小川むつさん、そして今年の一月五日に熱田派反対同盟の代表であった熱田一さんが亡くなられたことを初めて知りました。享年九三歳。小川むつさん、熱田一さんには生前数えられない程多くお世話になりました。心から哀悼を送ります。(編集部)


この土地は自分
を育てた親だ
 私が初めて熱田一さんに直接話を聞かせてもらったのは駒井野や天浪の要塞戦があった一九七一年の三里塚第二次強制収用阻止闘争の後でした。目的は「三里塚支援パンフレット」作成のためのインタビューで、朝倉の現闘団の仲間に車に乗せてもらい横堀に向かいました。しかし当時は道路も舗装されてはおらず、山も谷津も自然のままで周りを見渡す場所もなく、どこをどう通って横堀に行ったのか全く覚えていません。
 熱田さんは家の前で、木を組んだ上に小さな油缶のようなものを乗せ、下から火を燃やし落花生を煎る作業中でした。私は三里塚で初めて落花生の畑も、どのように育つのかを知ったので、熱田さんとの出会いは今でも鮮明な形で残っています。「最初(闘争を)がんばり始めたのは、自分の土地は自分を育てた親と考えていたから。ここまで自分が中心となり培ってきた土地であって、自分を育ててくれた土地は簡単には切り離せない。……だから、よその土地へ行って帰って来るとここが一番いいと思う。そんな土地だから明治政府でさえ宮内庁牧場(御料牧場)を設定したわけだっぺ。それだけ親しみが深い土地だ。何でも作れるし採れる。それをいたずらに札束で離すことはできねえ」と何回か「三里塚の百姓」という言葉を繰り返したのが印象的でした。

横堀要塞戦
死守隊で逮捕
 次に強く記憶に残っているのは一九七八年二月六〜七日の横堀要塞戦の時です。この要塞戦には反対同盟から熱田さんの他に内田寛一行動隊長、長谷川タケ婦人行動隊長、小川むつ副婦人行動隊長、木の根の小川源さん、辺田の石井英祐さんの六人が死守隊として要塞に残りました。要塞戦が始まる二月五日の夜、打ち合わせが終わり要塞に出掛ける時、熱田さんと小川源さんが周囲を冗談で笑わせながら「ちょっくら行ってくるべ」と明るく手を振ったのを記憶しています。それは毎日畑に向かう時のように日常の姿そのものでした。
 留置所から奪還された二月末に再びインタビューに出掛けると「水のかけ方がすごかった。機動隊がわれわれに対し『野郎ら騒いでいるから水をかけてやれ』ということでどんどん放水してきた。もうずぶ濡れになってしまった。そしてガス銃で火災が起こり、真っ白い煙の中で、奴らは殴る蹴るの暴行を働いた。俺も内田さんも何度も蹴飛ばされた。見えなかったがみんなやられたんじゃないか。……しかし一番の心配は砦のことだった。まだ未完成であっただけに、惨めな姿になってはいないだろうか。また復活できるだろうか心配だった。一番最初の面会の時に、弁護士さんに聞いたのはそのことだった。『また建設を始めている。近いうちに完成する』ということだったので安心した。……何としても、われわれは自分の土地を守る。反対同盟でもあるから闘いに責任を持っている」。
 留置所から出てきたばかりなのにもう次の闘いの話であり、権力に対する怒りは一層激しく燃えていたのには驚きました。そして三・二六闘争の直前の集会では「一三年間にわたって培ってきた決意を軸にして全力で闘いたい」と壇上から鬼気迫る形相で呼びかけました。
 一九八三年夏には「一坪共有地の再共有化運動」をめぐって反対同盟が分裂した時、再共有化運動の断固たる推進を呼びかけ新しい反対同盟の代表を「がんばっぺ」と言って自ら引き受けてくれたのも熱田さんでした。開けぴろげでいながら人懐こい熱田さんを支援は「熱田のおやじさん」と呼んでいたが、反対同盟の人たちは「デーズカのおやじ」と親しみを込めて呼んでいました。五〇年近い歳月を空港反対闘争に捧げた熱田一さんに心からご冥福をお祈りします。
 二〇一三年一月二〇日
        大門健一


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