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沖縄闘争論の深化のために

嘉手納包囲の成功は新しい可能性を切り開いた 平井純一 「かけはし」1645・6号、2000年8月14日

可能性を現実化するための挑戦を

サミットは何を発信したか

 八月一日付の沖縄タイムス朝刊はサミット後の県民意識についてのアンケート調査結果を発表した。二十歳以上の県内在住者八百人を対象としたこの調査によれば、サミットを成功だととらえた人は六六%で、成功しなかったと考える人の一五%を大きく上回っている。この結果によれば沖縄の人びとの大半はG8サミットの沖縄開催を歓迎したように見える。しかし内実は決してそうではない。
 「成功」とされたサミットの中で沖縄が世界に何をアピールしたかとの質問には、「平和を希求する県民の心」と「米軍基地の重圧」の二つの項目が合わせて六三%で、他の「国際観光地としての沖縄」、「国際会議を開催できる場所としての沖縄」、「県民のもてなしの心」、「多様な文化」といった五項目を大きく上回った。すなわち沖縄の民衆は、サミットを契機にあらためて米軍基地の重圧に対する抵抗の意思と「平和の希求」を全世界に発信したところに「成功」を見いだしているのである。そのことはサミット前日に嘉手納基地を包囲した「人間の鎖」行動が「世界に基地の整理・縮小や平和を願う県民の心をアピールできたと思いますか」という質問に、実に八〇%もの人が「思う」と肯定的に答えていることから見ても明らかである。
 政府・稲嶺県政やマスメディアが盛り上げようとした「サミット・フィーバー」に対する正面きっての批判を避けながらも、嘉手納基地包囲行動に表現された反基地の意思をしたたかに表現しようとした沖縄の人びと。米軍基地による「平和と安定」への貢献を打ち上げ、新たな基地建設の負担を受容させようとしてきた「本土」と沖縄の支配層の思惑に彼らは立ち向かい、民衆としての主体的意思を示したのであった。
 そして依然として少数であるとはいえ、G8サミットを資本主義的グローバリゼーションと軍事的グローバリゼーションを結合させた西側大国の世界支配を体現するものとしてとらえ、アジア・太平洋をはじめとする国際的な民衆の抵抗運動の中に沖縄の反基地闘争を位置づけようとした人びとが、「人間の鎖」行動の成功のために最も積極的に活動してきたことの意義を、われわれは強調しなければならない。
 六月二十二日〜二十五日の「国際女性サミット」、六月三十日から七月二日にかけて行われた〈民衆の安全保障〉沖縄国際フォーラム、七月一日〜三日の「規制緩和に反対する労働者サミット」、七月十三日〜十六日の「環境NGO国際フォーラム」、七月十八日の生協運動を中心にした「TOES国際会議」、そして七月十九日〜二十一日の「ジュビリー2000沖縄会議」というサミットに対する一連の民衆による対抗会議は、G8サミットの意味を問い返し、サミットが前提とする不平等と抑圧に貫かれた世界秩序に対する多様なオルタナティブの必要性を喚起する上で、きわめて重要な役割を果たしたのである。

嘉手納基地包囲成功の意義

 G8サミット開催を翌日にひかえた七月二十日、肌を焦がす真夏の太陽が照りつける中で、先島地域(石垣、宮古など)をふくむ沖縄の各地、そして「本土」や国外からも、東アジア最大の米軍の戦略拠点である嘉手納基地を包囲するために二万七千人以上の老若男女が集まった。
 沖縄の民衆の参加の形態は、まさに自発的なものであった。労働組合や反基地・平和の市民団体だけではなく、子ども連れの家族、友人・恋人どうし、地域の人びとがお互いに語らいあって、広大な基地のフェンスや、昨年冬に作られたという刑務所の塀を思わせる高い石の壁の前に続々と結集した。全長十七・四キロメートルにおよぶ嘉手納基地は完全に「人間の鎖」によって取り囲まれ、三回目の包囲アクションの後にはウエーブが何回となく起こった。二万七千百人という参加人員は、過去二回(一九八七年、九〇年)と比べても最大である。
 「沖縄から基地をなくし、世界の平和を求める市民連絡会」(平和市民連絡会)事務局長の崎原盛秀さんは「従来の基地包囲行動にあっては、各市町村に地域実行委が結成され、取り組まれた。中央実行委にも青年団体、婦人団体等の中央組織も参加し、三百を超える団体で中央実行委は組織されていた。しかし今回は、それらの組織化がまったくみられなかった。中央の取り組みがとても弱かった。民衆の危機感は、基地包囲実行委の意識を乗り越えたところにあった。沖縄基地の無期限使用に反対し、その撤去を求める声は、沖縄からの『平和』の発信という形となって嘉手納基地に集中した」(全国FAX通信8月8日付)と書いている。
 基地包囲行動の成功は、沖縄での既成革新勢力の吸引力の衰退とはうらはらに、一九九五年の少女レイプ事件以来の女性たちの闘いや、名護をはじめとする自立した住民・市民運動の力量が着実に蓄積されていることをあらためて確認するものだった。島袋博江さんたちの「レッドカード」運動がインターネットなどを通じて短期間のうちに広がり、「赤いリボン」が今回の行動で大きな注目を浴びたのはその典型だった。
 沖縄で最大の動員力を持つ連合に結集する労働組合勢力(平和運動センター)は、サミット期間中の七月二十二日に基地包囲行動を行う、という平和市民連絡会などの提起に対して、一貫して拒否し続けた。それはサミット警備などとの関連で動員が極度に困難だという口実によるものだったが、「サミット自身に反対することはできない」という政治的態度がその最大の理由であったことは間違いない。
 しかし七月二十日の基地包囲行動の成功は、「反サミット」を掲げたものではなかったにせよ、明らかに沖縄の米軍基地が「地域と世界の平和と安定に寄与している」という日米両政府などG8の主張に対する明確なノーの意思表示となった。嘉手納を取り巻いた「人間の鎖」に、反基地・平和運動だけではなく、女性たちの運動、環境保護運動、そして第三世界・重債務貧困国の債務帳消しを訴えるジュビリー2000の活動家たちも自らの闘いとして加わった。
 そればかりではない。サミット期間中、地元名護市ではサミット反対実行委員会が三日間連続で数百人を結集したデモを貫徹するとともに、ヘリ基地反対協などで結成されたピースウエーブ実行委員会が名護への新基地建設反対・ジュゴンの住む海を守ろうという訴えを、ピースウォークなどさまざまな形態で繰り広げた。沖縄環境ネットワークなどNGO連絡会の諸団体は、サミット終了後、名護への新基地建設反対などの要求を盛り込んだ共同宣言を発表した。
 G8サミットにあたって米軍基地撤去を求める沖縄の闘いにさまざまな社会運動が合流したことは、昨年末のシアトルでのデモとは異なった形態をとってはいるものの、資本のグローバリゼーションと結びついた軍事的抑圧体制に対する広範な民衆の抵抗の気運を表現したものだった。世界のメディアは沖縄民衆の闘いを報道した。嘉手納を包囲する「人間の鎖」は、G8サミットへのはっきりとした対抗軸を打ち立てたのである。

反基地運動の後退と稲嶺県政

 七・二〇の「人間の鎖」行動の成功は、沖縄・名護にサミット主会場を誘致することを通じて、在沖米軍基地の存在意義を再確認させ、普天間飛行場に代わる新たな米軍基地を名護東海岸に建設することを受け入れさせようとした日米両政府の思惑にくさびを打ち込んだ。中学生の少女に対する「強制わいせつ」=性暴力や引き逃げ事件など、七月になって続発した米軍兵士の犯罪は、あらためて沖縄民衆の怒りをかきたて、米軍や軍事基地の存在が民衆の「平和と安全」に真っ向から敵対するしろものであることを深く印象づけた。
 嘉手納を包囲した「人間の鎖」は、韓国、プエルトリコなど米軍基地の重圧と闘い続けている世界の人びとの共感を得たとともに、沖縄の反基地闘争の「反転上昇」の基盤となりうるものである。この「反転」の萌芽を新たな闘争のサイクルの開始として打ち固めていくためには、この間、沖縄民衆の闘いの前に立ちはだかっていた困難についてリアルに認識していくことが必要である。
 一九九五年九月の少女レイプ事件への憤激と反省を契機にした沖縄の「第三次島ぐるみ闘争」とも言うべき米軍基地の縮小・撤去を求める運動の高揚は、翌九六年九月の県民投票直後の橋本―大田会談を経て、大田昌秀県知事が、軍用地強制使用手続きとしての「公告・縦覧」に応じたことによって後退局面に入っていった。当時「チルダイ」(気が抜けた)現象と呼ばれたこの気分は、明らかに同年十二月に発表されたSACO報告による普天間基地の「県内移設」や、翌九七年四月の米軍用地特措法の強行成立といった政府の攻撃が加速していく条件を提供するものであった。
 同時期の沖縄の闘いの総括については本紙97年6月16、23日号の平井純一「新たな展望のために――新安保体制と改悪特措法下の沖縄闘争」を参照されたい。私はこの九五年九月から九七年五月にいたる沖縄の闘いの中間総括文書の中で、大田県政を前面に立てた「本土」政府との闘いの一つの特徴である「行政ぐるみ闘争」の「意義と限界」についてふれ、反戦地主会や「基地・軍隊に反対する行動する女たちの会」などの運動が、大田県政から自立した運動の展開の基盤を防衛したことを積極的に評価した。それとともに、大田県政が「国と当該自治体の問題」として事実上容認した名護市へのヘリ基地建設に反対する運動が「今後の自立的な運動の創出にとって試金石となるべき位置を持っている」とも述べた。
 名護市のヘリ基地反対闘争は、九七年十二月の市民投票で、政府・防衛施設庁の露骨な切り崩し攻撃にもかかわらず「受け入れ拒否」の立場を示した。しかし九八年二月の市長選ではヘリ基地推進派が推薦した岸本建男候補が千票の僅差で当選した。そして同年十一月の県知事選では大田三選がならず、自民党など保守派が押し立てた稲嶺恵一の保守県政が樹立されることになった。
 国政とゆ着し、それを代弁する保守派は、「沖縄だけが基地反対でがんばっても勝てない」という気分を煽り、「県政不況」(沖縄の失業率が全国で一番高いのは県政のせいだ)という巧妙なスローガンを持ち出した。つまり国からの公共事業の引き出しを通じた振興策による不況の克服と、その代償としての基地との「共存」を主張したのである。
 もちろん稲嶺県政も普天間飛行場に代わる新たな基地建設に「十五年期限」をつけるなど、沖縄の反基地・平和意識に妥協せざるをえなかったことは確かである。しかし国政を代弁する稲嶺県政の登場は、沖縄の大衆的な反基地運動の再構築にとって重大な試練を課すことになった。限界を持ったものだとはいえ、大田時代の「県ぐるみ」の「本土」政府との対決の構図は決定的に変化し、県当局とそれを支える現状追認的意識との決別、そして新たな闘いの構想が求められたからである。

現状追認ムードとサミット

 「本土」政府が全面的にバックアップする稲嶺保守県政は、沖縄の既成革新勢力の基盤であった強力な平和主義意識を解体するために全力を上げた。それは大田県政当時に計画された新平和祈念資料館の展示改ざん指示、名護・辺野古地区への新基地建設受け入れ表明、右翼が提出した一坪反戦地主の県の公職からの排除を求める請願書の採択、として連続的に進められた。
 高良倉吉ら琉球大の三教授による基地の積極的肯定と日本への従属と統合を完成させる「沖縄イニシアチブ」提言は、稲嶺県政の推進する政策の最も意識的なイデオロギー的表現であった(「平和祈念資料館」と一坪反戦地主排除問題については本紙・本年4月17日号平井論文、「沖縄イニシアチブ」批判については同7月3日号国富論文を参照)。
 沖縄の反基地闘争は、「本土」政府の忠実な代弁者として現れた稲嶺県政の攻勢に対して有効な大衆的抵抗を組織しえないまま後退を余儀なくされた。今年初頭から始まった名護のヘリ基地反対協が中心となった市長リコール運動は、市民投票の時を上回る受任者を獲得したににもかかわらず、市長候補をめぐる対立の折り合いがつかないまま一時停止を余儀なくされた。この後退局面は六月十一日の県議選で稲嶺与党が議席を伸ばすところまで続いたということができるだろう。
 私は、本紙97年6月16日号掲載の前掲論文「新たな展望のために――新安保体制と改悪特措法下の沖縄闘争」(上)において、岡本恵徳琉球大教授の「一時期、『特措法』の改正で抵抗の手段を奪われた沖縄は、『チルダイ(気抜け)』状態になると言われたりしたが、そのことがかえって、復帰運動の先頭にたった大山朝常氏が『独立論』を展開するなど『自治論』『独立論』に活気を与えるようになったのは皮肉なことに思える」「日本の政治が衆目にさらされることになって……国の足許をみすかしてしまったという気分が醸成されたような感さえある」という言を引用して、次のように述べた。
 「この『足許をみすかしてしまった』という気分は、昨年(九六年)秋以後一時はやった『チルダイ』現象とは異なり、もっと『したたかな』気分を示すものである。しかしそれ自身としては『本土』への心情的離反ないし優位性を示すものではあっても、直接に闘争へと発展する積極的意識を代表するものではない。/だがこの『みすかした』気分は長期的に見て、沖縄の『本土』からの『自立』意識の基盤に転化する可能性を秘めている」。
 ここで指摘した「みすかした」気分と闘争的意識の距離は埋められることはなかった。もちろんそれは沖縄の民衆レベルにおいて「本土」への心情的統合がもたらされたということを意味するものではない。しかし「本土」政府ならびに稲嶺県政、あるいは高良倉吉らのイデオローグたちによる「沖縄の平和主義意識」を解体する攻撃と、「本土」大衆闘争の後退の中で「沖縄だけ反基地で闘っても事態は改善されない」という意識が相乗効果を発揮して、基地と日米安保を現状維持的に追認するムードが拡大していったことは否定しがたい。サミットの沖縄開催には、それをさらに定着させるという意図がふくまれていた。
 沖縄の芥川賞作家、目取間俊がいらだちを持って語った「『日本復帰』後、いや、戦後五十五年を顧みても、日本政府に対して沖縄がこれほど隷従の地位に甘んじたことはあるまい」(沖縄タイムス2000年1月4日)という状況は、たしかに今年前半の沖縄の現実の一端を鋭角的にえぐり出していた。

嘉手納包囲と変化の始まり

 しかし、サミットを目前にして本土からの警察官二万人以上を動員した地域厳戒体制が敷かれ、「サミット成功」のキャンペーンが文字通り連日連夜繰り返される中で、着実な変化が始まった。
 そこにはさまざまな要因が働いていた。朝鮮半島の南北首脳会談のドラマティックな開催がその一つである。朝鮮半島情勢の推移についてわれわれが楽観的な予測を立てることは早計であるにしても、「緊張緩和」の趨勢が、沖縄の米軍基地の巨大な存在をあらためて沖縄の人びとの意識に上せ、基地の固定化・強化に対する疑問と批判を再浮上させる役割を果たしたことは間違いない。
 六月二十五日の総選挙で、沖縄市、名護市など多くの基地を抱える中北部の沖縄三区において、「基地の県内移設反対」を鮮明に掲げた社民党の東門美津子候補が自民党や民主党の候補を破って当選したことも一つの契機になった。相次ぐ米軍犯罪(復帰以後、米兵の起こした刑事事件は約五千件に及ぶ)は、基地や軍隊と住民の「いのちと暮らし」とが根底的に両立しえないものであることを改めて人びとの意識に焼き付けた。
 こうした中でサミット直前に一点集中的に設定された七月二十日の嘉手納基地包囲行動の成功は、沖縄の反基地闘争を闘う活動家や大衆の意識の中にあった「押し込まれている」といういらだちや孤立感を払拭する手がかりを与えた。開放感に満ちたその日の行動は、これからも続く沖縄の長期にわたる困難な闘いへの自信をもう一度取り戻させるものとなった。
 一坪反戦地主会代表世話人で沖縄大教授の新崎盛暉さんは、包囲行動直後にかでな文化センターで開催された平和市民連絡会の「平和交流集会」の中で、行動の成功を「ささやかな一歩」と評価しつつ、その成果を第一にさまざまな対抗サミットや韓国、プエルトリコ、フィリピンなどの反基地闘争との交流を通じて「孤立感を闘いへの確信に転化できるきっかけをつかんだこと」、第二に「金持ち国家の世界的市場支配、経済支配に反対する運動とそれを維持する軍事的枠組みである軍事基地、軍事同盟に反対する行動が一つの接点を見い出しつつあること」と整理している(本紙7月31日号参照)。つまり、改めて今日の国際的な民衆運動の文脈の中で沖縄闘争の位置を対象化してきたことの積極的な意味を押し出しているのである。
 われわれは、この視点を自らの責任において共有していく必要がある。嘉手納基地包囲行動の中でアジア連帯講座の仲間たちが掲げた「沖縄・日本・韓国から米軍基地を撤去せよ! 資本のグローバリゼーション反対! 軍事的グローバリゼーション反対」という英文の横断幕に、たまたまそれを見たジュビリー・サウスの仲間が共感し、その翌日に長時間の交流と討論ができたというささやかなエピソードは、今日のどのような流れの中で沖縄の反基地闘争が展開されるべきかを提示している。

可能性を現実化する挑戦を

 もちろん、七・二〇行動の成功は、新たな反転攻勢のための自動的な保障にはなりえない。新ガイドライン体制の下での憲法改悪を射程に入れた「戦争ができる国家体制」づくりの展開は、沖縄において最大の重圧となっているからである。「沖縄イニシアチブ」の提言が、「本土」における多数派世論は日米安保と在沖縄米軍基地を容認していることを、最大の理由にしていることからも明らかなように、沖縄の民衆が直面する困難のまず第一の要因が、「本土」の反安保闘争の衰退にあることをわれわれは深く自覚しなければならない。
 嘉手納包囲行動と同日に設定された神奈川の厚木基地に対する闘争が、沖縄の人びとにとって大きな励ましになったように、沖縄と手をたずさえた「本土」での闘いの着実な構築こそが、沖縄の反基地運動の「孤立感」の突破にとって決定的な要因なのである。
 同時にわれわれは、日米両政府にとってもSACO報告に基づく普天間基地の名護移設=新たな米軍基地建設という最大のテーマの実現が決して容易なものではない、ということを見定める必要がある。
 第一は稲嶺知事の公約であるとともに、岸本名護市長が基地受け入れの条件としている「十五年期限」問題である。言うまでもなくアメリカ政府は、新たな基地の使用期限を区切ることを絶対に認めようとはしていない。何よりも名護に作ろうとしている新基地は「運用年数四十年、耐用年数二百年」というまさに半永久的なしろものである。そしてアメリカ政府当局者は、朝鮮半島が将来かりに統一されることがあったとしても、韓国、東アジアにおける米軍の駐留を継続する、とうそぶいているのである。
 日本政府はと言えば、「使用期限問題について米国政府との話し合いの中で取り上げる」という昨年十二月十八日の閣議決定にもかかわらず、せいぜいのところ「沖縄の意向を伝達する」に止まっている。つまり米政府に対して「沖縄はこう言ってますが、日本政府としては十五年という条件に同意しているわけではありません」という言い訳に終始しているのが実際のところである。
 第二次森内閣の虎島和夫防衛庁長官にいたっては七月五日の報道各社とのインタビューで「使用期限十五年は不可能かもしれない」とつい本音を語り、同日深夜の緊急会見で「不可能かもしれない」という部分を撤回する始末である。森首相はサミット期間中のクリントン米大統領との首脳会談でも使用期限問題については話題にもしなかった。
 稲嶺沖縄県知事も岸本名護市長も「十五年期限」が不可能であることを十分に知った上で沖縄の反基地意識との折り合いをつける建前として、それを条件としているにすぎない。しかしまた、十五年期限問題が稲嶺らの重大なウイークポイントになっていることも確かであり、この点を徹底的に衝くことは反基地運動にとって有利な局面を切り開く可能性がある。
 第二に、名護移設=新基地建設にあたっての具体的工法や建設場所の問題である。小淵内閣当時の昨年十二月の閣議決定では、工法・場所についての膠着状況を打開するためとして地元との協議機関を設置することになっていた。しかし、これもすでに八カ月を経過しているのに依然として設置されていない。中川官房長官(沖縄開発庁長官)は、八月中にも協議機関を設置したいとの意向であるが、地元との調整をつけるメドはたたないままである。
 森政権にとって事態はまさに「八方ふさがり」である。ここにおいて「敵の出方を待つ」待機主義に陥ることなく、SACO合意の全面的見直し、普天間基地の即時無条件返還の政治的攻勢へのチャンスをつかみとっていくことが求められている。
 そしてわれわれは、この間の闘いの中でつちかってきた沖縄現地の反基地運動との交流と討論を意識的に発展させ、沖縄の動向に生き生きと反応する連帯運動を強化するとともに、七月二十八日に閣議了承された二〇〇〇年版「防衛白書」でも明記されている有事法制策定に向けた具体的動きと対決し、新ガイドライン安保の下での「有事・危機管理体制」構築を阻止する共同行動のネットワークを地域・全国で作りだしていかなければならない。
 九月三日、東京で行われる「防災」に名を借りた自衛隊の治安出動演習に反対する闘いはその一歩である。七・二〇嘉手納包囲行動の成功でつかみとった可能性を現実のものにするための挑戦を!   (平井純一)

 


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