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沖縄闘争論の深化のために

われわれの沖縄闘争路線の再構築のために(中)「世界革命」998号1987年6月22日

本土復帰の要求と「沖縄民族主義」めぐる諸問題

「自治・自決」論の二つの考え方

 わが同盟の沖縄闘争路線は一九七二年五・一五の「復帰」を前後して、転換に向けた模索が開始されることになる。それは、「極東解放革命」というわれわれの綱領的総路線の見直しと転換の一環であった。だが沖縄闘争方針の戦略的見直しは極東解放革命の再検討に先だって始まった。
 この見直しを要求した契機は、言うまでもなく七二年五・一五をもって沖縄の施政権がアメリカから日本へ「返還」され、日本帝国主義国家権力の支配が沖縄に及ぶという“歴史的変化”である。日本国家への「施政権返還」、すなわち「本土復帰」の実現は、「本土復帰闘争」として展開されてきた米軍基地に対する沖縄労農人民の大衆的抵抗闘争の重大な“曲がり角”を意味する。
 米軍政支配に対する闘いを「本土復帰」を掲げてつらぬいてきた沖縄労農人民がふたたび支配者として登場してきた日本帝国主義を前にしてどのようにその闘いを防衛・発展させ、要求をつらぬいていくことができるのか―ここにおいてこそ、沖縄闘争路線は自覚的に検証され、再構成されなければならない。
 こうして、わが沖縄闘争方針にかんする見直しが、その根幹となる「自治・自決権」論と「大衆的権力闘争―沖縄永久革命」論のところですすめられていくことになった。
 「自治・自決」論というとき、われわれの中には、二つの考え方が未整理のまま同時に存在していた。第一は、日本民族とは異なる歴史的文化的自己意識を持ち、日本民族によって同化・差別されてきた「沖縄民族」としての自己認識の進歩的意義を前提としたものである。それは、沖縄の「軍事植民地支配」というとき、アメリカと日本の両帝国主義による“二重の”植民地支配ととらえる分析につながるものであった。
 第二は、「沖縄民族」意識の意義については敢えてふれず(即ち「日本民族」の一員としての沖縄労農大衆という基本的理解の上に立って)、「軍事植民地支配」をもっぱらアメリカ帝国主義と沖縄との関係においてとらえ、日本帝国主義はその「売り渡し」を積極的・主体的に推進したものと規定したうえで、沖縄「本土復帰」闘争の反帝国主義的・進歩的性格を強調するものであった。
 その「自治・自決権」の主張は、本土帝国主義国家権力の側からする沖縄への無条件に支配権に反対し、沖縄の反軍事植民地闘争が到達した「大衆的権力闘争」のレベルに本土労農人民を獲得しようとする「二重権力」のための闘いの側からもっぱら位置づけられていた。

「沖縄民族主義」と自決権

 第一の主張は、故関義雄同志によって代表されるものである。関同志は「沖縄の人民は日本民族である」という、ブルジョアジーと左翼による共通する「暗黙の前提」を批判して述べる。
 「一定の人民が一個の“民族”であるかどうかということは、その発生の基礎によって決定されるものではない。……一定の人民が“一個”の“民族”であるのかどうかということはその人民が決定することである。つまりその一定の人民が“民族”としての“自覚”をもっているかどうかによって決定されるのである」。
 「沖縄はまず何よりもアメリカ帝国主義の軍事植民地であり、日本帝国主義の軍事植民地である。したがって沖縄闘争は米日帝国主義に対する“植民地解放闘争”なのである。“植民地解放闘争”はその“綱領”として“民族自決権自治権”を要求する。沖縄諸島の人民がこの“原則的立場”を獲得しうるかどうかということは当面、沖縄人民が自己を植民地の“民族”として自覚しうるか否かにかかっている」。
 「沖縄諸島の人民は現在、政治的に社会的にあらゆる分野において日本帝国主義と全面的に闘争する準備を組織することを強制されている。そのことは沖縄人民にとって特殊、“日本”“日本人”に対する全面的な再検討と“理論武装”を要求している……沖縄人民の自治権確立闘争にとって、沖縄人民のこれまでの“本土復帰闘争”を推進してきた論拠、“沖縄人民は日本人である”という意識は、決定的な綱領的弱点となりうるものである」。
 「沖縄人民は自身を民族として政治的に組織し、自身を“民族”として誇りうる政治的自覚を獲得することができるだろうか! “日本”と区別された自分達を独立した存在として政治的に組織していくことができるだろうか! このことは沖縄闘争の今後の展望にとって決定的重要性をもっていると思われる」(「沖縄解放闘争の現段階」一九七〇年四月、『第四インターナショナル』第7号)。
 “日本”ならびに“日本人”幻想からの脱却と、「沖縄民族」としての政治的自覚の必要性を訴えた関同志のこの論文は、その主張においてきわめて鮮明な問題提起であったが、この立場は必ずしもわが同盟全体の主張とはならず、また関同志においても繰り返し強調された、というわけではなかった。
 第二の主張は、酒井同志をはじめとして当時のわが同盟の中心的見解であったといえる。その最も特徴的な立場を以下の文章に見出すことができるだろう。
 「沖縄労農人民の“本土復帰”の要求、つまり沖縄は日本国民国家の直接的な体系の一部になるべきであるという要求は絶対的に正義であり、絶対に正しい。……沖縄労農人民の“本土復帰”の要求、つまり沖縄は日本国民国家の体系の一部になるべきであるという正当な民族的要求は、今日において、米日帝国主義の『沖縄返還協定』を粉砕し、日本国民国家の沖縄にたいする帝国主義的な権力導入の企図一切と闘いぬき、沖縄がその労農人民の自治的権力を樹立し、日本国民国家の帝国主義的権力体系にたいする対等・平等の公然たる二重権力の関係として『日本国民国家の体系の一部』になるべく闘いぬく以外にない―われわれはただ以上のように確信して、沖縄労農人民の日本国民国家の帝国主義的権力体系にたいする対等・平等の自治・自決権の実現を主張するのである」(酒井与七『沖縄返還粉砕』派と日帝復活反対主義)下・本紙二四二号、七一年七月二十一日)。

「自治・自決」論の再把握

 ところで、われわれの沖縄闘争において「自治・自決」のスローガンは並列的かつあいまいに主張されていたのであるが、もちろん「自治」と「自決」は全く異なった概念である。
 「自決」とは民族自決権を意味し、「政治上の意味での独立権、抑圧民族から自由に政治的に分離する権利を、もっぱら意味する」(レーニン「社会主義革命と民族自決権」)。そして「プロレタリアートは、当該国家の国境内に、被抑圧民族を暴力的におさえつけておくことにたいしてたたかわざるをえないが、このことはまた、自決権のためにたたかうことをも意味するのである。プロレタリアートは『自国の』民族によって抑圧されている植民地および諸民族の政治的分離の自由を要求しなければならない」(レーニン同上)。
 このように「自決権」を被抑圧民族の「分離・独立の権利」として原則的に把握したとき、「本土」日本国家の一部となることが無条件に進歩的であり、本土においても沖縄においても一切の「沖縄独立」論に反対するという主張と、本土国家に対する「自決権」のために闘う、ということの間には明白な矛盾が存在することは明らかであった。
 沖縄の「自決権」は、関同志による第一の立場、すなわち「沖縄の民族的自己意識」を本土日本帝国主義に対して断固として防衛する観点からした成立しないものであったろう。
 この点においても、「自治・自決」スローガンの原則的整理の上にたって、われわれの主張の再検討を提起したのは関同志であった。
 関同志は、沖縄の「地域共同体意識」を、マルクス・レーニン主義的な意味での「民族問題」の線に沿って発展する意識であり「沖縄民族問題」としてとり扱わなければならないことを提起した上で、次のように述べた。
 「われわれは『本土日本人民は原則的立場として“沖縄人民が自決権を要求するならばこれを承認する”という政治的立場を採用し、このように公言しなければならない』と主張する。本土日本人民が沖縄人民の自決権を承認することは、本土日本人民が沖縄人民に対する抑圧者としての日本帝国主義の枠内に存在していたことを自覚することを強制し、日本帝国主義の枠内から脱出し日帝と沖縄人民との闘争関係において沖縄人民の側に加担して日本帝国主義との大衆的権力闘争を展開することを強制する」。
 「だがわれわれは沖縄人民が本土日本人民に対して具体的に自決権を要求しないかぎり、この『自決権』のスローガンを直接大衆運動内部に煽動スローガンとしてはもちこまない。『独立反対』という戦術方針についても、沖縄・本土に反動的独立派が大衆的に形成されない限り直接大衆運動内部にもちこまない」。
 そして、沖縄人民が現に「本土復帰」のために闘いぬき、その結果として「自決権」を要求しなかった、という認識にふまえて、同志関は「沖縄民族主義を顕在化せしめあえて二段階的に沖縄民族主義を組織する必要はない」と論じ、わが同盟が沖縄現地において「自決権」の要求を掲げることは誤りであり、「自決権を要求する」ことは沖縄独立派の形成に加担することになると主張したのであった(「沖縄解放闘争における綱領路線上の諸問題」一九七二年五月、『アジア革命序説』所収)。
 一方、「自治権」についてはどうか。これは「属地的な行政自治の要求であり、本質的にブルジョア改良主義的な純然たる地方自治の要求である」と関同志は主張する。
 そのうえで「自衛隊配備阻止、教育委員任命反対、地公法・国公法適用反対、沖縄平和県宣言を、沖縄特別自治区を!」とするそれ自体改良主義的な「行政的自治」の要求が、米日帝国主義の「軍事植民地支配」と真っ向から激突する関係にある、ととらえ「沖縄現地においても本土日本においても、沖縄人民の自治権の要求を支持しこれを日本帝国主義から防衛し、沖縄人民の自治権の獲得のために本土・沖縄を貫いて沖縄人民と共に日米極東帝国主義と闘いぬかねばならない」(同上)としたのであった。

「日本革命の一部としての沖縄解放」

 われわれの沖縄闘争方針の見直し、「自治・自決」スローガンの再検討は、沖縄が「本土」日本帝国主義国家権力の下に統合され、東アジアの反革命戦略拠点たる在沖米軍基地を抱えたまま「本土復帰」を実現したことで、直接の闘争目標、掲げるべき政府スローガンの内容に変更がもたらされざるをえない、ということに裏付けられていた。
 同じく関同志は、先に引用した「沖縄解放闘争における綱領路線上の諸問題について」で、「沖縄解放闘争はアジア革命の一部であり、極東解放革命の一部であり、日本革命の一部である。沖縄解放闘争は日本革命の勝利として以外自身の勝利を獲得することはできない」ことを強調した。
 したがって「沖縄解放闘争」においてまず第一に提起されねばならない政府スローガンは、「日本反帝社会主義労農政府とする日本中央政府のスローガン」でなければならないことになる。
 これは、沖縄における米軍基地撤去闘争の闘いが、東アジアの米帝国主義軍事支配とすでに激突しており、この「客観的に極東における大衆的権力闘争の局面に突入」した沖縄労農人民の闘いが本当の勝利に向けた飛躍を実現するためには、「本土」の日本労農大衆闘争と結合した日・沖の共同の闘争構造をつくり出さねばならない、ということから導き出された提起であった。
 この主張は、すでに“ブルジョア民主主義秩序の枠からはみ出した沖縄人民の闘いの永久革命的発展”、すなわち沖縄人民がもはや単独で在沖米軍基地を実力で解体・撤去する局面に入った、という認識の修正を伴うものであった。
 つまり、「沖縄人民は本土日本人人民と分断された状況の中で単独で在沖米軍基地・日帝を打倒することができない」とする展望の明確化である。
 のちに、関同志は沖縄における「大衆的権力闘争」局面という情勢把握そのものを転換し、そうした段階にまで沖縄現地の闘争は未だ到達していなかった、と総括することになる。
 沖縄「本土復帰闘争」そのものの「沖縄永久革命」としての発展を展望した多分に急進主義的な情勢評価の転換は「本土復帰」闘争を担った沖縄人民の自己認識、その思想の再検討へと関同志を向かわせた。
 彼は、沖縄の大衆運動の直接的延長線上に「革命」や「大衆的権力闘争」を手に入れることができないことをあらためて確認する。
 「沖縄の活動家層と大衆はマルクス・レーニン主義思想に抵抗する政治的傾向をもっている。それはいうまでもなく『絶対平和主義とブルジョア改良主義思想』なのであるが、大衆のこの政治的性格は大衆の意識の中では、沖縄民族主義的に屈折して存在している。沖縄の活動家層と大衆の現在の政治意識はブルジョア民主主義的である。それは日本帝国主義に対する憎悪とこれには勝てないという敗北的意識、そして本土日本人民に対する不信の混合した意識である。その意識とエネルギーは攻勢的ではなく否定的であり、抵抗的であり、屈折している。それは沖縄島内に閉鎖され、巨大な帝国主義の圧力に押しつぶされている意識である」(「沖縄における同盟建設について」一九七二年七月、『アジア革命序説』所収)。
 かくして、この「絶対平和主義」的「沖縄民族主義」と衝突しそれを克服することなくして沖縄における党の建設はありえない、と関同志は強烈に主張した。本土の「国民平和主義」を告発し、解体する闘いとされていた沖縄の反軍事植民地闘争が、実は「絶対平和主義」的なものだ、とされたのである。

何が問われていたのか

 在沖縄臨時組織委員会を指導し、復帰前後における沖縄現地の運動の急速な昂揚と立ちどまり、衰退の渦中で闘ってきた関同志のこの「転換」に対して、わが同盟中央は必ずしも明確な結論を持ちえなかった。沖縄の米軍基地撤去、植民地的社会・経済構造解体のための闘いが、日本帝国主義国家権力の打倒をめざす日本社会主義革命の一環であることを一般的に確認し、「自決権」のスローガンを撤回したのみで、「復帰」以後における沖縄労農人民の闘いと日本における闘いの結合をどのような戦略の下で推進していくかについては方針を明らかにすることができなかったのである。
 「反帝労農自治政府」論に体現されたわれわれの沖縄闘争方針は、ベトナム・インドシナ革命が東アジアにおける波及と「極東帝国主義構造」との激突、「極東解放革命」によるアジアの帝国主義支配の最後的解体という認識に裏打ちされたものであり、沖縄の反軍事植民地闘争は極東解放革命の最先端を構成するものとして把握されていたのであるが、わが沖縄闘争論の総括は、このような急進主義的大衆運動主義、政治力学主義の根底的克服としてなされなければならなかった。
 沖縄の「本土復帰」闘争の爆発的エネルギーに「極東解放革命」の導火線を見、この「本土復帰」闘争によって本土の大衆運動における「国民平和主義」の解体とその反帝国主義的再組織化を願望しようとした、わが同盟の路線は多分に「本土復帰」闘争への大衆運動主義的利用主義のレベルであったことが、まず根底的に切開されなければならなかったのである。
 ここでは沖縄労農人民の政治意識の「絶対平和主義」的性格をあげつらっても問題の解明にはならない。この「本土復帰」闘争の大衆的発展に過大な革命的な意味付与を行い、「願望」を「戦略」に置き換えてきたわれわれの「本土」主義的大衆運動政治力学主義の水準こそが問われなければならなかったのであろう。
 「自決権」を清算し、沖縄「民族主義」を否定し、「日本社会主義革命」の一部としての沖縄闘争を主張したわれわれの“転換”は、日本帝国主義国家と沖縄の歴史的な支配・被支配の関係、沖縄の反ヤマト意識と日本帝国主義の新たな差別的統合の関係が生み出す「復帰」以後の沖縄固有の矛盾に対して闘いを提起しえず、「沖縄問題」を「日米安保と米軍基地問題」一般に解消してしまう結果をつくり出してしまったと言わねばならない。
 「本土復帰」と帝国主義的統合のところで浮かび上がってきた「日本国家」の問題を対象化することに、われわれは成功しなかった。
 沖縄への「自衛隊派兵」にともなう「住民登録拒否」闘争をめぐる戦術の対立は、わが沖縄組織を二分する論争となり「復帰」後の最大の試練であった。(つづく)

 

 


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