11.10第2回「走れ仙石線in東名」
被災住民が主人公のイベント
五〇〇人が参加し共に支え合う |
【宮城】第二回「走れ!仙石線in東名」が一一月一〇日、仙石線東名駅前広場で開催され、地元住民を中心に五〇〇人がつどった。
早朝から駅前広場には一〇張りのテントとパラソルがひしめき、支援団体は出店準備に大忙し。大分からはプロレス団体「プロレスリングFTO」のレスラーが仮面姿で参加(子どもたちは大喜び!)。石巻・東松島の避難所、小中学校を訪れ現地のニーズに応じて物資支援活動を行っている大分を拠点とする「あかちゃん助け隊」は「鶏飯」。ネパリ・バザーロは「カレー」。パスポートはラーメンの出店。地元団体から豚汁、焼きそば、コーヒー・お茶の各コーナー。宮城全労協は準備・会場係を引き受け、大阪全労協は好評を得ている「おでん」の出店。。
一〇時三〇分に開会。司会の第一声は「あの時は吹雪で大変だったね、今日は南国のような天気です!」だった。今年三月一〇日、東日本大震災一周年を前に開かれた第一回「走れ!仙石線」のイベント。宮城県では珍しくはないが、雪が舞い荒れ模様の天候だった。地元の人たちは口々に「あの時(震災の日)も雪が降っていた」とつぶやいていた。どんよりとした雲が暗くおおいかぶさり、復旧・復興を見通せない被災住民の重苦しさを象徴するかのようだった。
一転して今回は最高の好天にめぐまれた。四方八方から、住民たちが三々五々、集まってきた。ボランティアが設営した屋台の手作り料理を食べながら、近況話しの輪を作る住民たち。陽を浴びながら、ゆったりとした時間を過ごす人たち。津波犠牲者を弔う記帳台や仙石線早期復旧の署名コーナーは人がとぎれることはなかった。
イベントの最初は「琉球國祭り太鼓」の演奏。エイサー隊四名による太鼓と舞踏。会場にカチャーシーの踊りの輪が拡がった。独特のリズムにあわせて踊りだす子どもたちの笑顔。芸能イベントの出し物の一つとして楽しむという域を越えて、自分たちと沖縄を結ぶ縁に、被災地住民たちが思いをはせているかのようでもあった。
舞台には前回に続いて「夢ハンカチ」が飾られた。今回は地元の高校生を中心に作成したもので、三〇〇枚のメッセージが集まったというアナウンス。「夢を書こうと言われても、なかなかそういうわけにはいかない。生徒たちの反応も複雑なものがあった」という苦労話も紹介されていた。参加者の手によって繋ぎあわされたハンカチの二本のラインは「仙石線のレール」を表現した。被災地の早期復旧・復興の願いを「みんなの夢を乗せて 走れ!仙石線」に載せたものだ。コウセイ&リュウが歌う「この国に生まれて!」をバックに、右に左に夢ハンカチが揺れ、被災地の人たちも想いを一つにする。
早期全線開通
を強く願って
総じて八カ月前の第一回は、被災住民を励まそうとする各地のボランティアの努力とエネルギーがイベントを盛り上げた。今回は、徐々にではあれ戻りつつある住民たちの存在もあり、被災地がこれからどのように向かうのか、その試行錯誤をより反映したものとなった。イベントの中心は、その意味で住民自身であった。
今回のイベントを前にして、仮設住宅を始め野蒜・東名地域に一〇〇〇枚を超える呼びかけチラシが配布された。地元住民が仮設住宅や被災地に居住する人々の家々をまわって、イベント参加を呼びかけた。ボランティア活動を通して顔見知りになった地元の人達から「一〇日にお祭りがあるんだって」「何にも楽しみがないから楽しみにしてる」という声を聞くようになったのもそのころだ。
野蒜・東名地区は津波で大きな被害を受けた地域であり、防風林が根こそぎ押し流された。JR仙石線、その南側(海側)を平行に流れる東名運河。そこから先は荒涼とした風景が拡がっている。農地や住宅地は冠水したままで、まるで湿地帯のようだ。津波被害地域は、かつてここに人の営みがあったということすら想像すらできない。
地元自治体は仙石線不通区間の別ルート建設(高台移設)でJRと合意した。一年半はかかると言われていた用地買収は既に完了している。JRが着工にいち早く取り組むことが問われている。
今回のイベントで発したアピール「ふたたび走れ!わたしたちの仙石線」では次のように訴えている。「仙石線の早期全線開通は、東松島市野蒜、宮戸地区の復旧・復興のためだけではなく、仙台市と県内第二の都市石巻市をつなぐ大動脈という観点から、通勤・通学・観光客の回復のためにも絶対に欠かせません。鉄道があるところには人がやってきます。人がやってくるところには、商業が成り立ちます。被災し、避難していた住民が戻ってくる基礎ができます。二〇一五年全線開通までわたしたちは待てません。半年でも、一年でも早い仙石線の早期全線開通をわたしたちは望みます。みんなの要望を取り入れた復旧・復興が実現するよう、被災地住民が手をつなぎ、支え合い共に歩んでいきましょう」。
東松島市は二〇〇五年四月、桃生郡矢本町と鳴瀬町の合併により発足した。大震災により一〇〇〇人以上が死亡し、一万棟(全体の三分の二)を超える住宅が全半壊した。そこからの復旧・復興は厳しい。何より大切なのは、被災住民が復旧・復興の主人公だ、ということだ。「走れ!仙石線」につどった住民の知恵と力が、これからの街づくりに発揮されていくだろう。
胸にせまる
住民の苦悩
東松島市を取材したNHKテレビ全国ニュースでの特集があった(二〇一二年九月七日、ゆうどきネットワーク/「被災地忘れじの旅〜宮城県東松島市」)。
〔今もまだインフラの整備が進まず、先行きが見えない中、避難している住民たちは、この先、生活の基盤をどうすべきなのか、迷いの中にいる。八月、高台移転の計画案が発表された。海から二キロメートルの高台への移転、仙石線の新ルートも決定した。新しい街づくりへ向けて、一〇月から市との個別面談が始まる。人々の心は揺れ動いている。九カ月ぶりに当地を訪れたアナウンサーが(野蒜地区を訪ね)、そうした人々の声と被災地の現状を伝える〕という番組だった。
?Aさん。お寺の一室でそろばん教室を開いている。避難した小学校は二階まで津波に襲われ、そこで祖母を失った。市による無償の解体作業は年内が限度。自宅を取り壊すかどうか決断がつかない。
?仮設商店街で理髪店を営むBさん夫婦。自宅で理髪店を営んでいたが、すべて津波に流された。仮設住宅で仕事を再開した。ゼロからの再出発だった。それでも聞きつけて通ってくれるなじみの人もいるし、新しい客もついた。高台移転での面談を前に夫婦で話し合っているが、移転をすると店舗併用住宅を建てて商売できるのか、なじみの客は通ってくれるか、不安だ。
?Cさん。一階が浸水した。同居していた家族は仙台市に引越し、週末だけ帰ってくる。この家に暮らしているのは、先祖から受け継いだ川沿いのこの土地を守りたいからだ。部屋には「住みます、のびるに」と書かれた手作りの布があった。代行バスの窓からがれきに埋まる光景を見ていた乗客たちが「ここには住めないね」と話していた。「それを聞いていた娘が、一晩かけて作った」ものだった。
?八月に帰ってきたばかりという一人暮らしのDさん。四十年来同居していた母と妻を津波で亡くした。妻が使っていた部屋で就寝している。「今は一人だが、この家は自分には何物にもかえられない」「移転したら妻の存在がなくなる」。区長として地域の再建に取り組んでいる。市に街灯をつけてもらったり、旧住民とのカラオケ大会も企画している。
「野蒜を再建したい」という住民の声がアナウンサーの心に残った。「一〇月からの個別面談を前にして、行くか、残るか、仕事はどうなるか、子どもの学校や通学など、思い悩む。事情はみな違う。失った家族や暮らした家への思いは断ち切れるものではない」。「高台に行くのか残るのか、決断は難しい」と結んだアナウンサーは、最後は感極まって声をつまらせた。
集団移転への賛否を迫られる中で、不安はいっそう強まっている。市は「集団移転等に関する意向表明書」の提出を一〇月から住民に通知している。「提出された書類が、各移転先の区画整理や災害公営住宅の戸数を確定させるための大切な資料となる」と市は説明している。住民からは、集団移転に同意しない、参加できない市民への復旧・復興支援策を市に求める声があがっており、住民意思の尊重・配慮に徹した行政サイドの姿勢が求められている。
民謡と踊りで
復旧への意志
東北で大きな被害を受けた岩手・福島・宮城の三県。イベントは、それぞれの被災地で苦しむ人々への思いを込めて「力を合わせて船出だ!」に移った。民謡歌手の山田さんが、岩手県民謡「外山節」、福島県民謡「相馬盆唄」を披露、参加者たちは手拍子で応えた。ホーム上に上がった踊り手と漕ぎ手(地域住民とボランティア)が「エンヤー・ドット」という艪漕ぎの掛け声をあわせ、宮城県民謡「大漁唄い込み」が始まった。参加者と舞台が一緒になって、明日に向かって力強く漕ぎだした瞬間だった。「すばらしい漕ぎ手の皆さんに感謝します」。山田さんのコメントは東北三県の被災者に向けられていた。
みやぎ宅老連絡会が作った音頭「たちあガレイ!」。車いす利用者の皆さんと介護スタッフが「沖縄メロディーのユニークな振り付け」で会場の笑いを誘い「立ち立ち立ち立ち立ちあガレイ!」とノリノリだった。大阪のバンドが仙石線の各駅を歌詞に入れ込んだ「走れ!仙石線」を演奏した。
これまで東松島の被災地支援に多くのボランティアたちが駆けつけた。各参加団体からの一言を受け、主催者から「ありがとう!私たちは元気です」と感謝の言葉が述べられた。
今回のイベントのフィナーレは、塩釜市などで被災したメンバーで活動している「和太鼓演奏連 千賀」(千賀の浦=塩釜
和歌などに読まれてきた)の皆さんの勇壮な演奏だった。大小七張りの力強い和太鼓の音が拡がる。アンコールの声でもう一演奏。「また皆さんとの出会いを楽しみに演奏させてもらいます」という言葉に、少しずつ広がっていく被災住民のつながりを実感した。
最後に主催者を代表して坂本さん(「野蒜・宮戸地区復旧復興を考える会代表」)が挨拶。「……参加した人、実行委、ボランティアの皆さん、ありがとうございます。ご存知のように仙石線はこの線路には戻らず、山側に五百メートルほど登ったルートで二〇一五年に開通の予定です。用地取得は終わったということなので、少しでも早くできればいいと思います」。仙石線の早期全線開通に向けた要望書が読み上げられ、拍手で採択された。「再び走れ、私たちの仙石線!これからも仙石線が復旧するまで続けていきましょう。また、お会いしましょう」。最後の言葉を参加者のみんなが心に刻み、イベントは幕を閉じた。
(高橋喜一)
11.3 みやぎ秋のつどいを開催
女川原発再稼働許さない
県内各地の議員から闘いの決意
【宮城】一一月三日、「女川原発の再稼働を許さない!二〇一二みやぎ秋のつどい」が開催された(主催:集会実行委員会)。宮城全労協ニュースに掲載された電通労組組合員による集会報告を紹介する。なお、報告文の注釈にある田中三彦さんの講演要旨など、全文は宮城全労協ホームページ(ニュース第二三四号)をご覧いただきたい。
田中三彦さんが
原発事故の講演
「二〇一二みやぎ秋のつどい」には約三〇〇人の人々が参加した。集会に先立って一九九九年のJOC臨界事故、東海村の村上村長や福島原発告訴団などを描いたドキュメンタリー映画「主権在民〜フクシマから東海村へ」が上映された。映画終了後、福島原発告訴団・東北の土井さんから「第二次告訴・告発への参加者が一万人を超えて集まった」とのうれしい報告があった。
冒頭、集会実行委員長の鈴木宏一弁護士から、女川原発差止訴訟の証人でもあった田中三彦さんが紹介された。田中さんは科学ジャーナリストとして活躍しておられ、国会事故調(国会東京電力福島原子力発電所事故調査委員会)メンバーとして福島第一原発事故を調査・検証した。
鈴木さんは「スリーマイル、チェルノブイリ、福島の三つの重大事故が起きた。原発が重大事故を絶対起こさないということはあり得ない。事故が発生したときは、周辺全域が放射能に汚染され住めなくなり、住民のすべての生活が奪われる」「再稼働をしなくても東北電力管内の電力は十分まかなわれている」「原発周辺自治体のみなさんとともに、女川原発の再稼働を許さず、廃炉に向けた運動を進めていく」とあいさつした。
田中さんは講演で、事故原因の究明が必要であるにもかかわらず「地震の影響を排除して津波だけのせいにしようとする」国や東京電力を強く批判した。また、究明と対策なくして女川原発の再稼働はありえない、現状は「被災原発」として徹底した安全性の確認が進められているとはいえないと指摘した。
行政レベルから
住民の運動へ
講演に先立ち、「平和を考えるつどいin美里」(九月三〇日)を開催した美里町佐々木功悦町長からのビデオレターが披露された。佐々木町長は政府、経済界の脱原発に逆行する姿勢や発言を強く批判し、「今回の事故により原発の安全神話は完全に崩壊し、原子力発電に対する国民の不安は日に日に高まっている。美里町は女川原子力発電所からおおむね三〇キロ圏内に入っている。女川原発は震災で重大事故と紙一重であった。緊急時防護措置準備区域の自治体の長として、安全性が発表されない原発の再稼働は断じてあり得ないと考えている」「美里町では町議会と共催で“平和を考えるつどい”を開催し、原子力発電に頼らないエネルギー政策への転換を早急に図り、原子力に依存しない社会を目指すべきと強く宣言した」とメッセージを寄せた。
九月三〇日の「つどい」には五〇〇人の町民が参加し、福島県浪江町長が講演した(内容は美里町のホームページで紹介されている)。美里町では一〇月、町民デモも行われた。
なお宮城県内の原発から三〇キロ圏内の自治体は女川町、石巻市(五キロ圏内)、南三陸町、登米市、涌谷町、美里町、東松島市。反対決議をあげた美里町議会、登米市議会、涌谷町議会の議員たちが今回、集会に参加した。
女川原発を
動かさない
講演の次に県内各地からの発言が続いた。
女川町議会議員の阿部美紀子さん。「去年の三月一日〜四月一日で、女川原発のある小屋取で四万四〇〇〇ベクレルのヨウ素が観測されている。東北電力はその事実を住民に知らせないで、原発の体育館に避難させたと思う。住民に恩を着せながら、原発の安全性をアピールするために住民を利用したのではないのか。この間、大崎市田尻、加美町の方から「女川原発の再稼働を許さない」との請願が出された。請願は否決されたが、三〇キロメートル以上離れた所からの応援を受け、励まされた。廃炉に向って進んでいきたい」。
鹿島台「女川原発の廃炉を求める会」代表で元鹿島台町長の鹿野文永さん。「三月一七日、廃炉を求める会を結成し、一〇〇〇万署名に取り組んでいる。脱原発首長会議の結成に参加したが、この動きを全国津々浦々に広げたい。九月には超党派議員の原発ゼロの会との意見交換会にも参加してきた。田中先生の話を承って身の毛のよだつ思いだ。闘いは決して容易ではないと思う。柏崎刈羽の先進的な実例が運動の具体的目標になる。廃炉に向け、ストレートにいければと思う」。
登米市議会議員の佐藤恵喜さん。「昨年九月の原発からの撤退、自然エネルギーへの転換を求めた意見書の採択から、今年六月の「女川原発の再稼働を行わないことを求める」意見書採択に至る過程で、議員の原発への共通認識を高めていった。今や市長も新規増設反対、一〇年以内の廃炉を言うまでになっている」。有機米農家の厳しさ、肉牛の価格の下落など風評被害が続いていることなども報告され、「今後は行政レベルから市民、住民の運動へとつなげたい」と展望を語った。
涌谷町議会議員の只野順さん。「自分が議員になるきっかけの一つは、自宅が全壊したとき、避難所で会った子供たちの「福島原発事故があったけど女川の原発はどうなるの」という問いかけが心に残ったからだ。議員の中でも原発問題に対する温度差があるし、住民の関心が薄れてきているような感じもあるので、しっかり発信していこうと考えている」。
「脱原発・風の会」代表の篠原弘典さん。「女川原発は被災した原発です。そのことをきちんと伝えて、被災の問題を解決できなければ絶対再稼働してはならない。それを皆さんにきちんと把握していただきたい。そして力を合わせ、つなげて女川原発を止め、最終的に廃炉として、原発のない社会を実現することを目的に進んで行きたい」。この閉会のあいさつで、熱気あふれるつどいは終了した。(以下、略。宮城全労協ニュース二三四号/一一月一二日号から抜粋) |