カン・ギフン再審決定、大法院の卑怯な妥協
新証拠の能力を否定 |
まずは、以下の人々の名前を書くことから始めよう。大法官(最高裁判事)ヤン・チャンス、大法官コ・ヨンハン、大法官パク・ピョンデ、大法官キム・チャンソク。これらの人々が事件を受け持ってから3年1カ月ぶりに自らの名をかけて提出したA4用紙28枚分の決定文を話しようと思う。最高の法官(判事)だという人々が完全に責任を取るべき内容だ。
韓国版「ドレフュース事件」
2012年10月19日、金曜日午後6時20分。大法院(最高裁、主審ヤン・チャンス大法官)は、カン・ギフン遺書代筆事件の再審を決定すると「突然」発表した。先立って09年9月、ソウル高裁は新たな証拠を基にしてカン氏の無罪の可能性を強くほのめかす再審開始の決定を下していた。検察は直ちに146ページに及ぶ即時抗告理由書を大法院に提出した。すぐにも結論が出るだろうと予想された大法院の再審開始の決定は、しかしながらただ年に年を重ね3年以上も持ち越され、大法院に対する国政監査(10月23日)を4日後に控えた、それも週末をはさむことになる金曜日の夕方になって突然、発表された。
ソウル高裁が認定した再審開始の事由の中の物的証拠は否定し、一部の虚偽証言だけを認定して再審を受け入れた妥協的な決定だった。肝がんにかかったカン氏は今年5月に肝臓の半分を切除する手術を受けた。カン氏にとって無罪を争う時間はいくらも残されていないのに大法院はぐずぐすと引き延ばしているとの批判の世論が高まった。
遺書代筆事件を初めからおさらいしてみよう。1991年、カン・ギフン氏は27歳だった。その年4月、明知大生カン・ギョンテ氏がデモの途中で警察の鉄パイプで殴られ亡くなった。全国民族民主運動連合(全民連)社会部長だったキム・ギソル氏(当時、25)がこれに抗議して遺書を残し、焼身して亡くなった。全民連総務部長だったカン氏はキム氏の遺書を代筆してやったとの嫌疑(自殺幇助)などによって拘束・起訴された。当時のノ・テウ政権は「民主化運動をしている人々が遺書まで代筆してやりながら焼身を強要した」と追いたてた。大法院は翌年、カン氏に懲役3年を確定した。カン氏は1審裁判の時から一貫して遺書代筆を否定した。韓国版「ドレフュース事件」と呼ばれたこの事件は2007年11月、「真実・和解のための過去史整理委員会」が国家に再審を勧告することに決定し、再び熱い真実の攻防が繰り広げられることとなった。
当時、真実和解委は「焼身自殺したキム・ギソル氏の筆跡が残されていた『全大協(全国大学生代表者協議会)ノート』や『落書き帳』を新たに発見し、検察や警察から提出された事件資料や証拠物と共に国立科学捜査研究院ならびに7つの私設鑑定機関に筆跡鑑定を依頼した。すべての機関において、遺書の筆跡は遺書代筆の嫌疑を受けていたカン・ギフン氏の筆跡とは相違し、キム・ギソル氏本人の筆跡だとの鑑定結果を受け取った」と発表した。真実和解委はまた1991年の捜査当時、国科捜が筆跡鑑定を文書鑑定人1人にのみまかせながらも、複数人が共同で鑑定したかのように法廷で虚偽の証言をしたという事実も明らかにした。
2009年、ソウル高裁は、このような真実和解委の調査内容を根拠としたカン氏の再審請求を受け入れた。反面、1991年にカン氏を起訴した検察は146ページにも及ぶ異例の抗告理由書を大法院に提出し、再審の開始は不当だと主張した。新たに発見された全大協ノートなどはキム氏の死後にカン・ギフン氏らがでっちあげたものだ、との主張だった。 検察の謝罪と反省が必要
大法院は今回の再審開始決定文の相当部分を全大協ノートなど新たな証拠物に基づいた筆跡鑑定の証拠能力を否定することに割いた。無罪を強く推定したソウル高裁が再審開始の事由と見なしていた主要な根拠を根こそぎ否定したわけだ。大法院は真実和解委やソウル高裁とは違って?全大協ノートなどが後になって発見され、保管された経緯をめぐる関係者の陳述内容にいくつかの疑問点が残っており?真実和解委が行った筆跡鑑定はキム・ギソルの筆跡だという予断をもって進められたものと疑われる、と説明した。その代わりに大法院は「国科捜所属の文書鑑定人らが虚偽の証言をした事実が証明された」とし、証言部分だけを問題として再審開始の決定をした。事件発生から21年、有罪確定から20年ぶりにソウル高裁で進められるカン・ギフン氏再審の核心的争点もまた「全大協ノート」と「落書き帳」の真実をめぐることに集中するものと見られる。
1991年から20年余り、カン氏を弁護してきたイ・ソッテ弁護士は「再審開始の決定はうれしいけれども妥協的な部分は遺憾だ」と語った。同弁護士は「真実和解委の筆跡鑑定よりも1991年の捜査当時に偽証をしながらなされた筆跡鑑定が優越するという大法院の判断は認めることができない」し「筆跡鑑定に対する予断もまた2007年の真実和解委の時よりも1991年の時がよりひどかっただろう」と語った。
カン・ギフン氏は大法院による再審開始決定後「これまで検察が主張したように、検察は自分たちが本当にちゃんとやったと考えているのかを問いたい。現在も本当に確信しているのか、承知の上で必要に従って固執しているのかも知れないとしても、今こそ(検察は)気を取り直せば、と思う」「再審裁判(の結果)よりも私にとっては検察の謝罪と反省がより切実だ」と語った。
真実については再審で見分けられたとしても、カン・ギフン遺書代筆事件自体は検察と司法府を泥沼に引き入れるに充分な爆発力を持っている。1960〜80年代に横行した拷問によるでっちあげ事件の数々は主として中央情報部や警察が主導したケースが多かった。捜査自体が不実だったために残っている捜査記録や証拠も、さしてない。余りにも時間が経過したものだから、捜査や裁判を担当した人々も亡くなってしまったケースが少なくない。
それに反してカン・ギフン遺書代筆事件は1987年の民主化以降、ノ・テウ政権末期の1991年に起こった。検察や司法府としては、恐ろしい軍事独裁を口実にして自分たちの暗い過去史にふたをしてしまうことのできない時期だ。捜査や公判の記録も大方は残っている。捜査を行った主任検事から有罪を確定した大法官たちまで、そのほとんどが生存している。検察と司法府は事実上、ひとつの船に乗った訳だ。再審でカン・ギフン氏の自殺幇助の嫌疑が無罪となれば、捜査・起訴を担当した検察や1、2審、大法院までずっと有罪を宣告していた司法府は、その責任から決して自由ではあり得ない。 検察枠で大法官、憲法裁判所長に
ここに、その人々の名前をもう1度、書いておく。ソウル地検・強力(暴行や脅迫を手段とする犯罪)部長カン・シヌク、主任検事シン・サンギュ、検事アン・ジョンテク。カン・ギフン拘束起訴、懲役7年の求刑。1991年12月、ソウル刑事地裁、懲役3年を宣告。裁判長ノ・ウォノク、判事チョン・イルソン、イ・ヨンデ。1992年3月、ソウル高裁、控訴棄却。裁判長イム・デファ、判事ユン・ソッチュン、プ・クウク。1992年7月、大法院で有罪確定。大法官キム・サンウォン、パク・ウドン、ユン・ヨンチョル、パク・マノ。(部長検事カン・シヌクは2000年、検察枠で大法官になった。主任検事シン・サンギュは2009年、高検長にまで昇進した。大法官ユン・ヨンチョルは2000年、憲法裁判所長になった)。
(「ハンギョレ21」第933号、12年10月29日付、キム・ナミル記者)
2つの門、2つの道
法でさえ都合よく偏っている ソウル・龍山の惨事を背景とした映画〈2つの門〉がオーストラリアに行く。僑民社会の招請によって10月26日に上映される。ところでオーストラリア連邦警察が主催者を訪れてきた。シドニー総領事館に在外選挙管理の任務で派遣されているカン某検事領事が「脅しを受けている」と申告し、主催者に注意の通告をしようとしてやって来たというのだ。主催者は外交官保護法についての説明と警告を受けなければならなかった。
カン領事は〈2つの門〉に声で出演したその時の検事だ。彼は裁判の間中ずっと撤去民(立ち退きを強制された人々)に対する執拗なまでの嫌悪を隠さなかった代表的な検事だった。自ら脅迫され身辺の脅威を感じたのか。脈絡もなく、蓋然性もない怖さは彼がかけていた公安の歪んだ眼鏡のせいだろう。
「法を守れ」の叫び
これら公安の人々が人に接する時の態度は明らかだ。法という公正なルールによって不法な人間と合法な人間が隔てられる。惨事の背景となっていた龍山でも撤去民は、いつも不法な人間だった。当時、龍山区庁長は撤去民たちを指して「賃貸借者でもない、ダダこねの横車集団」だと言った。そう言っていた龍山区庁長自身が、105億ウォンを取りまとめた労役手配業者と深い関係だったというのだから、誰が利権に群らがるダダこね屋なのか分かったものではない。ともあれこのような法を信頼する人々は力のない人々を嫌悪する。そうしてこれらの人々は平凡な賃借人らの絶叫を警察特攻隊の棍棒で鎮圧することができる。
双龍自動車の労働者たちを工場の屋上で、楯でもって切りつけることができる。ユーソン企業やSJMで雇われヤクザの暴力が乱舞しても、正常な企業活動のための合法的行為として保護する。ところが反対側に立った、力なき者たちにとって法は無用の長物と化す。2004年に労働部(省)、2010年に大法院(最高裁)、2012年に再び大法院の判決で不法派遣が確認された現代自動車の非正規職たちは今なお不法派遣の状態だ。法の履行を求めた労働者たちは、むしろ監獄に行き、そして解雇された。そのようなやりきれなさに耐えられなかった現代自動車非正規職の労働者2人が全身にロープを巻き送電塔に上った。彼らの要求は簡潔だ。「法を守れ」。
昨年3月、フォブスが発表したサムスンのイ・ゴンヒの財産は9兆6216億ウォンだった。今年、最低賃金95万7220ウォンをもらっている労働者が84万年間、働きづめで手にできるどうかというカネだ。朝鮮の歴史5000年、地球の歴史を書き改めなければならないほどの差だ。そのような違いだけでも大変な世の中で、法でさえもが都合よく偏っている。
だが人々は、とどまってはいない。10月5日済州島・江汀を出発した「2012生命と平和の大行進」が11月3日、ソウル市庁広場に到着する時まで歩き続けている。「労働者、クロムビ(江汀を象徴する岩)、追い出される人々がハヌル(天、神)」だというかけ声を叫びながら上京している。彼らが出会う人々は、この世の中で迫害されているすべての人々だ。送電塔で闘争中の慶尚南道・密陽の住民たち、大型マートで苦しめられている中小の商人、追われた解雇者、暴かれた4大河川と共に。彼らが出会った、原発23号機を阻止しようとして高圧送電塔の建設現場で闘っている慶尚北道・清道のハルモニ(おばあさん)の言葉。「面(行政単位)」も支署も何の役にも立たなかった。どれもこれも韓電の肩を持つ。わしは、きょう面事務所に行って、どなりつけるつもりだ。見ていろ。わしがどなりつけるかどうか」。19で清道に嫁いできて70年間、サムチョン里で暮らしてきた果樹農家のハルモニは雹(ひょう)にやられて柿が台無しになり、やることもないので精一杯、闘うのだという。
どの道を歩むのか
カン領事が〈2つの門〉に対処しているやり方があるように、「2つの道」がある。他人の痛みの上に踏んばって立ち、沈黙と無視を選択する道。奪われたものを取り戻そうとする道。これ以上、命をかけて85号クレーンや送電塔に登らなくともよい世の中は、どんな道だろうか。あなたは1人ではない。どの道を歩むのか。(「ハンギョレ21」第933号、12年10月29日付、「ノー、サンキュー」欄、パク・チン茶山人権センター常任活動家)
|