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    かけはし2012.年11月26日号

迫害と弾圧への対決


フィリピン

バンサモロ革命戦線
の自決のための闘い

歴史的パースペクティブと今日の現実(中)

民族的結集の核心はそこに

2 自決権求める闘いの歴史

五〇〇年前から
闘いは始まった


 モロ民衆による植民地権力に対する闘いは、五〇〇年以上前に始まった。当時のモロの経済的・政治的・社会的構造はフィリピンの中部や北部に比較して、特に南部ではより高度のレベルに達していた。したがって植民地権力、特にスペインによる占領に対する闘いは、国の南部ではきわめて強力だった。スペインの植民者たちはミンダナオで足場を手に入れたが、自分たちの領域を守るモロのスルタン(イスラム教国の王)の戦士たちが占拠する内陸部では、完全な支配を打ち立てることはなかった。
 植民者たちは宗教とキリスト教伝道団を利用して、モロや非モロを問わずこうした住民たちの地域の植民地化を助けた。この時期、スルタン統治地域ではすでに一神教が支配的だった。ムスリムの貿易商人とこの地域への伝道団によって、数世紀前からイスラム教が導入されていたからである。イスラムの信仰は、宗教(キリスト教)を使って利益を拡大しようとする植民者への抵抗を支えた。スペイン人の教会と要塞の名残りは、現在でもミンダナオの主要地域、とりわけ水路に沿って見ることができる。現在のダツ・オディン・シンスアトにあるタモンタカ教会、現在のダツ・ピアンにあるドゥラワン教会はマギンダナオ州に、ピキト教会は北コタバト州にあるが、言及されることはあまりない。
 スペイン人植民者に対する闘いは、南部ではスルタンによって、北部では知識人によって指導された。北部の知識人は、スペイン人植民者が押し付けた新しい経済システム、社会的・政治構造、すなわちエンコミエンダ(王がスペイン人入植者に一定の先住民を委託する制度)、アシエンダ(大農園制)システムの中で登場した新しい階級の産物であった。農業生産は植民者とかれらの出身国の需要に対応しようとするものであり、地域の需要や植民地化された地域の需要に応えるものではなかった。
 こうした世代の一部の家族は息子を学業のために欧州(スペインのような植民地保有国)に送り、息子たちは盛んだった平等・友愛・自由の思想に影響された。このような学生たちや知識人は、新思想を国に持ち帰り、「カティプナン」(訳注:アンドレス・ボニファシオが指導者として一八九二年に組織したスペインからの独立をめざす革命組織)の下でスペイン植民者への闘争を指導した。同時に南部ではモロによる闘争が続いていた。

闘う相手はさら
に米国、日本へ


 一九世紀末の、フィリピンにおけるスペイン植民地権力の敗北前夜、新しい植民地権力であるアメリカ合衆国が、一八九八年のパリ条約として知られる歴史的な買い取り(訳注:スペインは米国にフィリピンを二〇〇〇万ドルで売却)により、スペイン人のぬけた穴を埋めるためにやってきた。敗北した植民者はその領域を売り払ったが、かれらは決して新しい植民者に全面的に服従したわけではなかった。そして残ったものは新しい植民地的残虐の悲痛で血まみれの歴史であり、この国の北から南までの民衆の民族解放闘争を帳消しにし、打ち負かすための占領だった。
 一九三〇年代に、ミンダナオとスールー(訳注:ミンダナオ島の南西に位置するスールー海の諸島)のスルタン王国は事実上力を失って儀礼的な存在になり、「カティプナン」指導部と地域の反乱は実質上消滅に近い状態になった。新しい労働者階級の運動(フィリピンの共産党と社会党は一九三八年に統合)はいまだ初期段階にあった中で、アメリカの帝国主義権力は、若い民族ブルジョア階級を打ち固めて植民地政府を形成した。フィリピンの最初の憲法が一九三五年に作られたが、その条文は米国憲法の条文にならったものだった。このプロセスに、ミンダナオ島とスールーなどの諸島から多数派民族の新しい支配階級の代表が積極的に参加した。
 新しい民族政府の生命は、日本帝国主義権力が攻撃をかけ、全土と国民を従属させようとした時に中断させられた。祖国防衛の民族統一戦線が、敗残米軍やモロの戦士たちとともに組織された。モロの戦士たちは北部と南部でフィリピン軍に参加した。一部は新たに統合したフィリピン共産党(PKP)にも参加し、日本の占領軍に対する強力で、信頼性の高いゲリラ戦争に従事した。重要なのは旧共産党が第三インターナショナル(レーニン、トロツキー後)の呼びかけに基づいて、ファシズムに抗し祖国を防衛する戦争で重要な役割を果たした事実を銘記することである。フクバラハップ(抗日人民軍)はこの目的のために作られた。

米国が操る政権
との継続的闘い


 第二次世界大戦後、新しい憲法(一九四六年)が北と南の新興ブルジョアと支配階級が参加して作られた。アメリカ帝国主義権力は、憲法の中でその存在を謳いあげることによってフィリピン共和国の生活の全側面で影響力を確保した。
 フィリピンの産業化の発展が、帝国主義国が望む植民地が果たす役割にかなうよう、米帝国主義が保障した。フィリピンは外国の植民者に天然資源を供給し、外国からもたらされる物資を受け取るよう保障しなければならなかった。この種の輸入指向型・輸出依存型経済は、外国の利益のための一方的な経済発展を作り出した。新興の民族ブルジョアジーは、その政策が実行されることを保障し、政治的上部構造――民族国家――の発達とその方向性は、政策が正しく行われることを課題とするものだった。
 フィリピン北部・中部の農民の不穏な状況は、南部――ミンダナオ――を新しい希望の地、農民が自分の農地を所有したいという希望が現実になる地という政府の宣伝に従って、農民を移住させることで、うわべだけでは解決された。ほとんどが北部で起こったこうした闘争のすべてにおいて、米帝国主義とかいらい政権に反対する決定的役割を担ったのはフィリピン共産党(PKP)だった。一九五〇年代、米帝国主義はかいらい政権を通じて、PKPが降伏を拒否するならかれらは敗北し、絶滅させられるだろうと請け合った。フクバラハップはフクボン・マグパパラヤン・バヤン(人民軍、HMB)に組織替えし、強力な農民軍を建設して、直接的だが偽装した形態での帝国主義の介入がなければ、かいらい政権をほぼ打ち負かす事態にまでいった。
 米帝国主義によるこの植民地制度の中で、すべての民衆の「主流化」と統合は、宗教と教育を通じて可能となった。そしてミンダナオでのモロと非モロ民族は、この政策とプログラムの適用を受けなかった。スルタン制や先住民族の権力構造といったかれらの政治制度は薄められ、無力なものになっていき、紛争の解決や統治に関する西側の概念や方法が支配的になった。大体においてモロと非モロ民族の支配階級は、搾取と周辺化、および彼らの民族を支配的民族とそれ自身の支配階級の単一民族国家の枠組みに統合する中で、こうした明示的かつ潜在的プロセスに参加していった。
 モロ民族の支配階級は、かれらの利益(経済的、政治的)が直接に脅かされた時は真剣に反応した。一九六〇年代後半、フィリピン政府のかいらい性が暴露され、不人気になった時、一九六八年に新たに結成されたフィリピン共産党(CPP)に主導された新民族主義運動と知識人たちは、民族的民主的利害のために闘った。こうした運動の一部には、モロの知識人たちが積極的に参加していた。
 この時期において、伝統的政治指導者の利害と民衆の民族的利害のために闘うモロの知識人と学生たちの合流が一定程度存在していた。こうしてかれらは一九六九年にミンダナオ独立運動(MIM)を結成した。同年の後半には、若いモロの知識人と学生の最初の一団が軍事的訓練を受けるためにマレーシアに送られた。後にそれに続く一団も送られた。訓練生の最初の一団が、ヌル・ミスアリ(後のMNLF指導者)に指導されていたことに留意することはきわめて重要である。彼はフィリピン大学で教えていたモロの専門家であり、後に新フィリピン共産党議長となったホセ・マリア・シソンとともに活動に参加していた。

OIC諸国支え
にMNLF結成


 若いモロの戦士たちの軍事訓練を財政援助していたイスラム諸国は、英国の傭兵を雇い、マレーシアにその活動を支援するよう指名した。その前年(一九六八年)、若いフィリピン人ムスリムの新兵が、フィリピン政府のためにサバ(ボルネオ島北部に位置するマレーシアの州)に潜入するという命令を拒否して起こったジャビダの虐殺を記憶にとどめるべきだ。「オプラン・メルデカ」と呼ばれたこの作戦任務は、サバをマレーシアから奪い返そうとするものだった。したがってマレーシアは、フィリピン政府に反対するモロの青年の軍事訓練支援にきわめて乗り気だった。
 ヌル・ミスアリとともに、モロ民族の著名な支配的家族の子弟たちも参加していた。そしてMIMは、ムスリム諸国のイスラム教コネクションを持っており、とりわけリビアやサウジアラビアから財政的支援を得ていた。サウジアラビアはハシム・アラマトが学び、民族闘争に積極的になっていった国である。
 外国の資金提供者たちは、実際のところ、モロの伝統的指導者たちが青年運動を支援することに安心していたわけではない。歴史が実証しているように、かれらはフィリピンのかいらい政権に協力するかもしれないからである。こうした資金提供者たちは、若い知識人や学生たちの主張によって、直接かれらに財政的支援を行うべきだと確信したことが明らかである。この取り決めによってモロ民族解放戦線(MNLF)が一九六〇年代末と七〇年代初頭に形成された。それはおもにフィリピン内外の大学で学んだ若い知識人によって構成されていた。初期の段階ではモロ民族の支配階級の息子たちの一部が加わっていたが、しかし後に彼らは闘争をあきらめ、主流の生活や政府の一員に舞い戻る最初の存在となった。彼らにとって革命的なゲリラのライフスタイルは、彼らにとって持続するには荷が重すぎたのだ。
 真の民族的アイデンティティーのための意識化であるこの時期は、組織を形成し、それを打ち固めていく始まりだった。それ以前、モロ民族はミンダナオのさまざまなエリアや領域に見られる独立したエスニック集団だった。かつてマギンダナオとスールーのスルタン王国を構成していたこれらの領域は、次第に弱体化し、分解し、統合性を奪われていった。MNLFはモロ民族の民族的意識の確立を支援することから始め、民族自決闘争のための民族的政治運動を開始した。それは伝統的政治構造の外部でなされ、非伝統的な知識人によって指導されていた。
 MNLFが主導する政治運動は、フィリピン国民国家の構成から政治的に分離することをめざしていた。多数派国民が永続化させている民族的抑圧について、全国政府を支配しているキリスト教徒のルソン島とビサヤ諸島がこのような抑圧の象徴であると言及され、MNLFもそれをマニラ植民地主義と呼んだ。かいらい政権内での米帝国主義の積極的役割や、ブルジョアジーの路線については、決してその要因に組み入れられることはなかった。
 イスラム諸国(ほとんどはイスラム協力会議=OICのメンバー)が直接的・間接的に支援する闘争の主要な形態は、武装闘争であり、現場でのゲリラ戦と通常戦を結合したものだった。

MNLF主流
派の体制内化


 一九七二年、フェルディナンド・E・マルコス大統領は、CPP(フィリピン共産党)とMNLFが主導する青年たちの運動を効果的に弾圧し、無力化させるために戒厳令を布告した。同一の敵と闘うために、この二つの集団の間に緩やかな協力関係が打ち立てられた。モロの一般市民への虐殺と大規模な強制移住により、OIC諸国は公然・非公然の形でMNLFを攻勢的に支援した。これら諸国は、ヌル・ムスアリの脱出とそれぞれの国に安全な基地を作ることを促すほどだった。
 OIC諸国の介入は、MNLFに対して二重の影響をもたらした。第一は、生き残った組織を支え、問題を国際的レベルに投げかけたことである。第二は、MNLFがこうした諸国にきわめて従属的になってしまうよう促したことである。実際、こうした構図がもたらした影響は、MNLF指導部がその勢力を打ち固める活動や、かれらの民族主義のための闘争を理解させる政治意識を持続的に高揚させる活動を無視することであった。
 MNLF指導部は、一九七〇年代半ばのフィリピン政府との和平交渉で、文字通りOIC諸国の脇に座ることを強制された。この交渉は、一九七六年のいわゆるトリポリ協定につながった。協定の調印後、MNLF指導部の間で不一致と分岐が発生した。その直接的結果とは、組織の指導部と一般メンバーの双方にじわじわと広がった政治的動揺、方向喪失、意気阻喪だった。指導部の降伏によって、独裁政権が組織に重大な打撃を与えることが容易になった。トリポリ協定の後には、MNLFが高レベルの闘争に達することはもはやなかった。MNLF指導部の弱体化の大きな圧力により、和平交渉でマルコス政権が優位を占め、その仕組みを支配することになった。それはMNLFのブルジョア指導部が仕掛けた政治的ワナであり、それ以後のこのプロセスの方向は、MNLFがフィリピン政府の国民国家の構成に主流派として入るということになった。一九九六年の最終和平協定は、まさにこの政治的適応と主流化のプロセスの定式化だった。

3 何がMNLF分解の根拠か


 MNLF内部で起きた分岐は、内部の組織的確立という点での深刻な弱さの結果であることは明らかだ。それはまた、OIC諸国とフィリピン政府の双方による外部からの介入の直接的結果でもあった。フィリピン政府は大規模かつ強化された軍事化を通じてMNLFの部隊に攻撃を加え、和平交渉では在外のMNLF指導部がOICの受け入れ諸国と積極的に協力した。上述した理由が、マルコス独裁政権の分割統治を成功させ、MNLFが指導するモロ民族の民族解放闘争の弱体化と無害化を引き起こしたのである。
 実際のところ、MNLFの分岐の主要な基盤は、エスニック的相違と特有性に沿ったものだった。イデオロギーと方針(政教分離VSイスラム主義)、指導部のスタイル(ミスアリの自己中心主義VSハシムの集団主義と諮問優位)の相違は、戦線の深刻な分岐において実質的な役割を果たした。「バンサ」あるいは民族という民族的意識は、しっかりと打ち固められることはなく、完成されることはなかったし、エスニック紛争と分岐はモロ民族の意識を再び引きずり下ろすことになった。モロ民衆の民族的アイデンティティーは、多数派国民が支配する統治システムによる迫害と弾圧の歴史的プロセスの結果であり、それがMNLFのような民族的・政治的運動を形成する必要性を作り出したのである。
 自決権のための民衆的闘争の政治意識は、強固に打ち固められるべきであり、民衆の最も広範な層が支配システムの民族的抑圧を効果的かつ持続的に一掃するところにまで到達させるべきである。MNLFの例を取れば、モロ民衆、とりわけ政治的運動と組織の一般メンバーの民族的意識の確立を、きれいさっぱりと無視していた。フィリピン政府との和平交渉では、MNLFは自らその弱点をさらけ出し、その指導部(外国在住)からの物理的あるいは地理的距離が、自分たちの政治運動と組織からの疎外をもたらすことになった。
 その結果、マギンダナオのエスニックグループがモロ・イスラム解放戦線(MILF)を結成することになった。MILFの指導部は、主にマギンダナオ族の知識人と専門的職業人によって構成されている。MNLFの改良主義グループは自らの分離組織を形成したが、この組織はマラナオ・エスニックグループの専門的職業人と知識人が指導している。それにより、タウスグと呼ばれるスールー諸島のエスニックグループが指導するもともとのMNLFは政府と交渉しているが、他のグループは別に交渉している。
 この期間、モロ民族の民族的アイデンティティーの意識と、自決のための民族的闘争のためにもともとのMNLFが開始した民族的政治運動は、停滞し、利用され、再び分解し始めている。
 トリポリ協定の後に出発したが、一九八四年に公式のものとなったモロ・イスラム解放戦線(MILF)の結成は、MNLFの内部的組織強化の失敗、他国(OIC諸国)からの強力な圧力、そして現場における大規模なフィリピン軍の攻勢の現れだった。(つづく)

 


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