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    かけはし2012.年11月19日号

革命に有害な実践はその名で呼ばれるべき


シリア 非妥協的アサドと中間的勢力

民衆の抵抗と体制の暴力を同列に置くことはできない

グハヤス・ナイセ




 シリアにおける民衆的革命は依然極めて苛酷な状況にある。一方で、その革命の行く末を左右する一つの要素であるシリア国内外の反政権勢力については、アサド政権側の、あるいは西側の思惑の入ったプロパガンダを交えて、さまざまな情報が流されている。以下ではその反政権勢力について、政治的位置取りについての分析も加味された貴重な情報が伝えられている。(「かけはし」編集部)

アサドに譲歩する意志はない


 八月二九日の、シリアの独裁者、バッシャール・アサドへのテレビインタビューは、革命と反対派に対する独裁体制の戦略をはっきりした言葉で明らかにした。当地の勢力と国際勢力に送られたメッセージもまた鮮明だった。革命派はもはや過去のように、「侵入者」、あるいは「病原菌」とは表現されなかった。しかし、体制を支持しないシリア市民はいかなる者も、打ち砕かれるべき「国内の敵」の一部であると、はっきり告発された。
 この放映の中でアサドは、「今回敵は外からではなく内側から現れている。……そして外国の敵の計画を実行するシリア人はいかなる者も敵となり、もはやシリア人ではない」と語った。そうである以上、イエメンやその他のところのように中間の立場での解決を追い求めた――あるいは今も追い求めている――反政府派の諸部分にとって術策の余地は、まったくないわけではないとしても狭くなっている。
 われわれはこの場合、「民主的変革勢力全国調整委員会」(注一)、並びにいずれにしろその政治戦略を採用している人々について語っている。
 独裁者はここで止まることはなかった。つまり彼は、彼らを「危機の商売人」と呼んだ。そこで彼が彼らの名前に言及しなかったとしても、彼が話に上げたのは「対話」を求めた反政権派だった。「われわれは対話に驚かされている。彼らは対話への参加を拒否してきた。国家とそれらのグループの間のものと、対話に彼らが条件をつけていたからだ」。このように語った上でアサドはこれらの姿勢を、「日和見的に、国家と交渉する政治的立場を勝ち取ろう」と試みるもの、と決めつけた。
 「シリアの救出のための」大会を九月中旬ダマスカスで開催することに向け「調整委員会」が発行した招待状に直接応えて、独裁者は次のように語った。つまり「最近われわれは、彼らが対話について語り始めたということを知った。……しかし君たちがこんなにも遅くなって来たいと思うのであれば、その時君たちは、真剣に、そしてまたもや日和見的なやり方になることなく来なければならない」と。そして彼は、彼らが過去に嘘をついたということ、あるいは少なくとも「判断ミスを犯した」ということを認めるように要求した上で、「君たちは暴力と武器の拒否を今語っている」と彼らに告げることで締めくくった。
 この発言は、議論のレベルでは中間主義、実践においては日和見主義であるこれらの勢力の指導部が抱いている野望に対する肘鉄砲だった。彼らは彼らが計画した大会をダマスカスで開催する希望をもった。しかし独裁体制はその承認に条件を、つまり彼らは「押しつけられた枠組みに」参加する、「そうでなければ、反政府勢力の残りの部分と同じく、彼から見て国内の敵となる」との条件をつけたのだ。

中間の立場と日和見主義の実践


 シリアの政治的反政権勢力の実践と主張を批評することは、特に民衆的革命という背景の中でそうすることは、知的虚栄ではなく一つの必要性だ。なぜならば、革命の進展に有害な結果をもたらす政治的実践はそう呼ばれなければならないからだ。
 「調整委員会」とその連携相手の「民主フォーラム」(注二)は民衆革命の始めから、彼らの考え方と実践を通して、革命と政権に関してあいまいな立場を取ってきた。
 委員会は事実上、革命にも政権の打倒にも与しなかった。とはいえ革命運動の圧力に押されて発表されたいくつかの新しい新聞発表があり、それは先のこととは反対の幻想を与える可能性をもっていた。しかし彼らはいつの時でも、元々の立場に立ち戻り、マアン運動やワタン連合(注三)のような他の勢力を彼らにならうよう導こうと試みた。「調整委員会」は体系的に、いくつもの会合や出会いからそれらに内包されていた革命的な駆動力を取り去ってきた。それらの指導部――左翼の側にあると見られていた――の立場における変動は、シリア左翼全般のイメージ並びに革命運動内部で活動するその能力に打撃を与えるものとなった。
 「調整委員会」に合流した左翼勢力、たとえば「マルクス主義左翼の結集」(注四)のような諸政党は、短期間その旗を独占した。この「左翼」は、「調整委員会」を通してその政治活動を展開することを決定し、独立した実践を放棄した。他方公式的共産党勢力は、権力内部の派閥にはせ参じることによって、シリア左翼の遺産をもっと早々と汚していた。こうして革命を支持しその中で闘っている急進的左翼は、これらすべての日和見的「左翼」、それが体制の連携相手であろうが体制に対する中間的敵対者であろうが、そことの違いを素早くはっきりさせなければならなかった。これこそが、「シリア左翼潮流」(注五)のような革命を支持するいくつかの左翼グループの役割だった。
 「調整委員会」の立場は、八月一四日に公表された暴力に終止符を打つその働きかけの一構成要素として、機能し始めた。そしてそれは、「他の部分を圧倒する二つの部分の勝利を許さない国際的均衡」に庇護された体制諸勢力と、革命諸勢力との間の、「力のバランス」についての分析を基礎とするものだった。これらの仮定を基礎として「調整委員会」はみずからを、指導者の何人かは拒否したとはいえ、仲介という役割に置いた。その主導の下で「軍事行動を遂行している諸党派間の一時的停戦での合意」が求められた。言葉を換えればその働きかけは、革命勢力と民衆の抵抗を、政権の暴力及び残忍行為と同等の関係においている。
 「調整委員会」はこの中間的立場を事実上、この組織が背骨となっていた会議後に発表された、七月二六日のローマコミュニケの中で強調していた。この会議にはまた、ワタン連合のような他の勢力から諸個人も出席していた。このローマコミュニケは、「武器は解決ではない」と、さらに、情勢は「誰一人排除しない交渉に達するために……武器を放棄すること」を求める「政治解決以上のもの」を必要としている、と謳っている。この最後の章句は、「調整委員会」にはまさに大切な、政権との対話と交渉に向けた序曲だ。
 「調整委員会」は、暴力的階級闘争が進行する只中での中間コースへの最終的移行を、「シリア救出のための国民会議」開催に向け八月二八日に発表された最新アピールにおいて行った。アピールは、政権の暴力――言葉の上での規定と言うに等しかった――は「対抗暴力の原因だった」ということを考慮しつつ、大会が九月一二日にダマスカスで開催されるだろう(注六)、と語っていた。
 こうして民衆的抵抗は「対抗暴力」にまで切り縮められている。このような問題への向き合い方を正当化するために、先のアピールはその声明の力点を、シリアが「全面的に外国の、さらに国際的また地域的な諸決定に依存するようになって」以来、シリアが民族的主権を失っていることに集中している。「調整委員会」によればシリアは、国として社会として国家として、今やそれほどまでに海外に「完全に依存」しているようだ。そしてこれが彼らにとっては、国を救い、シリアにおける「紛争関係者」となっている諸勢力間の仲介者の役割を演じるための正当化となるようだ。それはもはや、人々の革命の問題でも、血塗られた独裁体制との対決で生まれた犠牲の問題でもない。「委員会」の立場は、一方にも他方にもつかず、自身に仲介者の役割を割り当てる、という形をとっている。

シリア「左翼」に見る知的破綻

 「マルクス主義左翼の結集」がもはや「調整委員会」の政策を支持する付属物以上のものではなく、いかなる自立的な活動も行わなくなっていることに応じて、その発行物、『左翼の道』の最新版(二〇一二年八月、第三九号)論説には、「反政権派の暴力に反対」との標題が掲げられ、そこでは次のような内容が明らかにされた。すなわち、体制は、「反政権派の道義的影響力を失わせ、反政権派が体制と同じもののように見えるようにする」ために、「武力使用」へと敵対者を追いやるよう懸命に努力してきた、と。独裁体制の機構による殺害に対する武装した民衆的抵抗は、一撃で自動的に、「道義的に腐敗しているもの」となっている。事実においてこれらの特徴は、一定部分のシリア左翼の知的破綻を劇的に示している。
 先の論説が語るところによれば、シリアで今起きていることは、一九八二年のハマの悲劇の、つまり、イスラム主義者とムスリム同胞団、そして体制の間の衝突の再現である。さらにまた、ムスリム同胞団は「後ろに下がり、多くの反政権派は彼らと共に、シリアの体制の寿命を引き延ばすこととなったその悲劇からの三〇年を振り返っている……」とも語る。「調整委員会」とその連携相手である「マルクス主義左翼の結集」の懐柔的な立場を正当化するためのこの悲惨な主張は、本当に惨めなものだ。狭量な魂だけが、八〇年代のできごと――当時の政権に対するムスリム同胞団の武装闘争――を、一八カ月もの間われわれの国で進んでいる深く民衆的な革命と同等視できる。そしてこの革命では、ムスリム同胞団とイスラム主義者は、カタール、サウジアラビア、トルコから受け取った財政支援や派手なメディアの支援にもかかわらず、ほんのわずかの影響力しかもっていない。革命の最初の数カ月彼らは、二〇〇六年以来の休戦と対話への取り組みを続けつつ、革命運動には姿を見せなかった。
 こうしてわれわれは、「調整委員会」の働きかけの下に独裁政権に参加しているカドリ・ジャミルとアリ・ハイデルの日和見主義に対する「人民戦線諸党」の合意を理解できる。民衆革命という事実がある中で彼らの立場が近づいたことに加えて、その合意は、九月始めにおける「人民戦線政府」と「調整委員会」との間の調整諸会合で達成された。

急進的左翼に新しい空間が発展


 われわれは、日和見主義者と中間主義諸勢力のそれ、また急進主義諸勢力のそれといった、二つの友好回復として、政治的「左翼」勢力のいわば再編成を今目撃しつつある。これは、マアン運動やワタン連合内部の煮え切らない勢力、それらの本当の政治的立場をすぐさま明快にすることを必要としている諸勢力、それらに対する、新たにされた圧力となるだろう。それらは、懐柔的な日和見的政策への結集か、それとも革命についての鮮明かつ急進的な立場か、その間での選択を行わなければならない。
 独裁的なブルジョア体制に対決するシリア人大衆の急進化という背景の中で、前述した「左翼」日和見主義者や中間諸勢力とは分離し、民衆的革命に取り組んでいる、そのような急進的左翼活動家が発展できる諸条件が存在している。
(一〇月三〇日)

注一)この委員会は、主には、民族主義諸党(ナセル主義者とバース主義者)、「マルクス主義左翼の結集」の諸党、早々に抜けた(トルコのPKKと連携しているシリアクルド党、PYDを除いて)いくつかのクルド諸党、そして無党派の諸個人によって、二〇一一年六月三〇日に設立された。二〇一二年九月一一日、委員会の一定数の活動家は、そこからの分裂を公表した。理由は委員会の中間的政策だった。二〇一二年九月一四日、マアン運動(二〇一一年六月二三日に創立された急進的な民主運動)も委員会からの分裂を公表した。一方「シリア共産主義者委員会」もまた九月一八日、委員会から離れようとしている、と公表した。
注二)委員会からの離反者と他の人々(中でも、ミシェル・キロ、ファイェズ・サラ、ハズメ・ナハル、そしてサミール・アイタ)は二〇一二年二月から、「シリア民主フォーラム」と呼ばれる新しい組織をつくり出してきた。それは、「対話、議論、和解を進める行動のために反政権派を統一する入り口、をめざす一つの空間」であり、四月一三日から一六日にかけてカイロで最初の会合を開いた。
注三)一四の民主派と急進左翼のグループによって、二〇一二年二月一三日に創立された。
注四)「共産主義行動党」を含む元急進左翼の生き残った五つのグループによって、しかし改良主義的綱領に基づいて、二〇〇四年に創立された。
注五)革命の歩みに関与している革命的マルクス主義者の活動家グループ。彼らは二〇一一年一〇月に結集し、月刊の発行媒体、「アマミ」を出している。
注六)大会は結局、わずかの参加者の下で九月二三日に開催された――その最終宣言は、政権の退陣と移行期を準備するための国際評議会を呼びかけた――。
▼筆者はフランスに亡命しているシリア人外科医であり、「シリアにおける民主的自由と人権防衛委員会」(CDF)の創立者。(「インターナショナルビューポイント」二〇一二年一〇月号)
 
【訂正】本紙前号(11月12日号)3面の「東電前アクション!抗議行動」の最初の小見出しの「日立社員」を「日立社長」に訂正します。


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