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    かけはし2012.年9月24日号

残虐な専制を倒す民衆的革命の戦略とは

シリア ジルベール・アシュカルへのインタビュー

民主主義憲章を中心軸に結び合う
民衆的抵抗のネットワーク構築へ

 一年半以上に及ぶシリアのアサド独裁体制に対する民衆的抵抗運動は、アサド政権からの残虐な弾圧にさらされてきた。この中で運動は次第に軍事化の様相を深め、国内外を巻き込むある種の内戦的状況も含め、情勢は混沌としている。この状況に対し欧米の中でも日本の中でも、抵抗運動を欧米の反アサド(反イラン)介入と見なし、抵抗運動への反対を主張する論調も出ている。シリアの現状をどうとらえ、左翼はどのような立場で望むべきなのか、抵抗運動のはじまり以来早くから軍事化の不可避性を指摘してきたジルベール・アシュカルの現在の見解を以下に紹介する。(「かけはし」編集部)
 以下は、ロンドン大学東方アフリカ校(SOAS)教授のジルベール・アシュカルに対するインタビューを初めて英訳で発表したもの。インタビューは、日刊紙「アル―クヅ・アル―アラビ」向けにクダイ・アル―ヅオビによってアラビア語で行われ、同紙八月二五日号に掲載された。同インタビューは、インプレコールのウェブサイト上で、フランス語で読むこともできる。

シリア革命は民主主義革命

――左翼活動家の何人かは革命のイスラム化に脅威を感じ、それが彼らを革命に反対する方向に、あるいはいずれにしろそれを支持しない方向に導いている。シリア革命に対し採用されるべき立場に関し、マルクス主義者としてのあなたの見解は?

アシュカル(以下A)――民主主義――そして民主主義は明らかに世俗主義を前提としているが――に信頼を置いているすべての人が、立法の源として民衆の意志よりも神聖な文書を取り上げる原理主義的な宗教勢力の権力への到達に恐れを抱いている。それは正常なことだ。われわれすべては、われわれが多くの希望の基礎としてきた偉大なアラブ蜂起が反動的な退化に転換されるかもしれない、ということを恐れている。これに関しては歴史に前例があるのだ。つまりイラン革命であり、それは民主主義革命として始まり、原理主義的国家へと帰着した。それ故この恐れは、民主主義を信頼するすべての人々にとっては自然なことだ。
 これに付け加えることとして、アラブ地域の現段階では、宗教勢力が権力を引き受ける上で最良の位置にいる、ということがある。左翼と民族主義勢力は弱体すぎ、あるいはあまりに弱体化されてきた。しかしこのように述べているすべてを前提としても私は楽観的観点を維持している。実際に、イランでホメイニが権力に着いたことと、アラブの反乱でイスラム主義者が権力に到達したこととの間には、巨大な違いがある。ホメイニはイラン革命の頭であり、その実体的指導者だった。しかしそのような条件は、現在のイスラム運動にはない。それらはアラブ革命を率いた源ではなく、革命に合流したのだ。さらに私がチュニジアとエジプトに関して認めることができるように、それらの権力への到達には、一般に民衆内部の、特に若者内部の、極めて鋭い批判的な精神の発展が一体となっている。
 それ以上にわれわれが語っているものは終わった革命ではなく、引き延ばされた革命過程だ。それは何年も続く可能性があり、発展に対する主な障害を表現する社会・経済的諸矛盾によって形作られている。これらの障害は、既成の社会・政治システムの底深い性格に結びついていて、表面に見えるものとなり、すべての者から非難されている腐敗とだけ関係しているわけではない。そして実のところイスラム運動は、これを変革するための真剣な計画などまったくもっていない。彼らの綱領を読めば、既成の体制あるいは打倒された者たちのやり方での新自由主義的処方箋から彼らが離れられないでいることは、はっきりしているように見える。私が触れてきた諸矛盾の解決まで、現在の過程が続くと思われる理由こそこれだ。

――シリア革命を階級的に読み解くことはできるのだろうか?

A――それがシリア革命を、たとえば労働者とブルジョアジーの間の「純粋の」階級闘争として分析するということであれば、私の回答はノーだ。シリアにおける闘いは世襲の専制との対決によって揺り動かされている。運動は、労働者、農民、プチブルジョアジー、さらにブルジョアの諸分派までもが加わって作り上げられている。現在の局面のシリア革命は、私が言及した社会・経済的諸矛盾によって形作られた動力を背景とした、何よりも民主主義革命だ。長期にわたる前者の解決は、ただ現在の階級構造を放り出すことによってのみ、また国家を中心とした、しかし一九六〇年代の事例であった独裁的な枠組みに代えて、民衆的な民主的枠組みの中での開発政策の採用によってのみ、あり得るものとなるだろう。
 結局のところ階級の境界線は、人々が専制から逃れ出た時に、革命過程の中で現れるだろう。自身を左翼と考えるすべての者に可能なことは、専制に対決する闘いの中でシリアの民衆と並んで立つことだけだ。

シリア革命には武装闘争が必須


――あなたはその最初の局面から、革命の不可避的な軍事化を予測してきた。それはなぜか?

A――平和的な革命が成功したエジプトとチュニジアを見てみよう。エジプトで二〇一一年一月二五日に送り出されたアピールは、キファヤ(「もう十分だ」)のような諸運動が率いた政治的抗議に加えて労働者の大ストライキの頂点として現れた。そこには、組織された宗教的反政権勢力の街頭における強力な存在感も伴われていた。一月二五日のデモは火薬に火をつけたが、その火薬を蓄積したものはそれに先立つ諸闘争だったのだ。それとは逆にシリアでは、国の主要都市への運動の拡張が遅れた主な理由は、極度の抑圧だった。それらの都市はそれまで、エジプトやチュニジアの例であったようなストライキや抗議の事前の蓄積を、まったく経験していなかった。拡張の遅れは、主張されていたような、これらの都市が政権に忠実であったという事実に起因するものではなかった。アレッポやダマスカスの都市が反乱に入ることが遅れた理由に、政権の社会的基盤は、抑圧部隊の大量配置や諸闘争の先立つ蓄積の欠落と同じほど大きな意味をもつわけではない。
 その上で軍事化の問題に入りたい。私は軍事化のファンではなく、平和的な革命進行の方を好んでいる。軍事化は、途方もなく大きな破壊、並びに生まれ出ようとしている民主主義を脅かす反政権派の退歩、これらを導く。軍事組織が民主的であることなどほとんどないからだ。
 しかし――その始まりから私が強調してきたように――、シリア革命の軍事化は不可避であることを私は断言してきた。自由シリア軍グループの形成の始まりをもって、シリア国民評議会のメンバーたちは、彼らの思いでは軍事化の統制を可能とすると思われた外国の直接介入を求めた。この要求は危険であり、私はそれに反対している。他の人々――特に、国民調整委員会――は、軍事化を非難しつつ、平和的闘争に自身を制限するよう運動に求めた。
 私の観点から見ると、この二つの立場は戦略のいわば貧しさを反映している。シリアの体制は、エジプトやチュニジアのそれとは原理的に違っている。シリアではリビアで以前にあったように、軍隊制度と支配家族の間に有機的な結びつきがある。それに反してエジプトやチュニジアでは、ムバラクやベン・アリは、軍隊制度の創設者というよりもその出身者というものだ。カダフィとハフェズ・アル―アサド(現シリア大統領の父親:訳者)による国家の、特にその軍部隊の再組織化は、彼らの体制の平和的な打倒を完全に幻想にした。
 ハフェズ・アル―アサドがシリアの軍部隊を宗派的な基盤の上に再建したということはよく知られている。そこに言及することで私は、特定の宗教的共同体(アラウィ派)を非難するわけではまったくない。私が厳しく非難するのはむしろ体制の宗派主義だ。それが問題にしていることは、一つの宗派主義を別のそれで代えることではなく、非宗派的基盤の上に国家を再構築することだ。
 人はリビアやシリアのような国では、エリートの軍部隊が専制者を見限ることに賭けることはできない。このような国において平和的な体制の打倒はありそうにない。民族解放闘争のような革命は、いつも平和的なやり方で達成できるとは限らない。戦略は、望ましいことにしたがってではなく、国家の性格にしたがって明確にされる。私がその始まりから、シリアの打倒は武装闘争を通してのみ達成可能だ、と言ってきた理由こそこれだ。

外国の介入を求めることは誤り


 しかしながら、外国の介入を求めることは深刻な誤りだ。私はストックホルムにおけるシリア反政府派の会合に対する私の発言の中で、そしてその後ベイルートの日刊紙「アル・アクフバル」に発表した論文の中で、そのような介入が生み出すと思われる危険一覧を明らかにした。実際にそれらの危険のいくつかが西欧自身を、始めから軍事化を拒否する方に導いてきた。西側の指導者の見方は今日、シリアにおけるアルカイダの伸長によって極めて深刻に悩まされている。確かに彼らは非常に懸念している。そして、彼らが今直接介入を想定し始めているとしても、これは確実に、シリア民衆に対する愛情から出たものではなく、もっぱらアルカイダや同類のグループに対する彼らの恐れの故だ。リビアでもまた彼らを介入に突き動かしたものは、変革の歩みに統制を及ぼそうというもくろみと並んで、情勢の成り行きに対する似たような恐れだった。もっともここに挙げたもくろみは失敗した。
 シリアに関しては、米国が宣伝している第三の幻想がある。これはいわゆるイエメン型解決であり、中でもオバマが主唱してきた。その核心は、サウジがアリ・アブダラー・サレー(辞任を余儀なくされたイエメンの前大統領:訳者)を退かせたと同じやり方でアサドを退かせるべく、アサドの主な後援者であるロシアと合意することにあると思われる。これは純粋の幻想だ。私がこれまで示してきたように、中央国家機構は有機的にシリアの支配家族と結びついている。そして宗派的基礎の上に構築されている。イエメンのアリ・アブダラー・サレーと同じような形のバッシャー・アル―アサドの出国をたとえわれわれが仮定するとしても、戦場で敗北することなしに彼らが権力を手放すなどとは考えることができない。
 これら三つの幻想は、一方におけるシリアと、他方におけるエジプトやチュニジア、またイエメンとでさえ、その間にある違いと現実に対する理解における、戦略的貧弱さの結果だ。この貧弱さの故にシリアの反政権派は、堅実な基礎の上に軍事化を組織する主導権をとることに失敗した。要するにシリアの民主主義は、体制の機構を打ち壊すことによって、つまり、宗派的でも独裁的でもない基礎の上で軍部隊を組織する目的をもって武装勢力を解体することによって、はじめて勝利するだろう。

宗派的論理に確固とした対決を

――ある人たちは、軍事化は内戦に導くだろうと考えている。シリアは内戦に入ったのだろうか?

A――確かに今のところ何カ月間は。しかし内戦は宗派戦争を意味してはいない。内戦は同じ社会の部分間を相対立させる何らかの武装衝突を意味している。その事例としては、一九三〇年代のスペイン内戦、あるいは一七八九年革命後のフランス、またあるいは一九一七年の後のロシアがあった。内戦は必然的に宗派戦争であったり、宗教戦争であったりするわけではない。私が一年以上前にシリアは不可避的に内戦に向かうと言った時、私はそれに宗派戦争によって意味を与えたわけではなかった。私が強調したかったことはただ一つ、それなしには体制が打倒され得ない軍事的対立の不可避性だった。
 その上に体制は、この点では反政権派内のいくつかの反動的な勢力の助けを受けて、宗派戦争を解き放とうと追求していたし、今もそうしている。体制が早くから、どれほど蜂起を復古的宗教グループやアルカイダに帰せようとしたかを、われわれは見てきた。体制からのこの宣伝は二つのメッセージを伝えていた。西側諸国に向けられた第三のメッセージには触れないとしても、一つは少数派に向けたものであり、他はワッハービズム(ワッハーブ派と言われる宗派の主張で、もっとも復古的な宗教規律を復活させようとする宗派運動:訳者)を拒否しているスンニ派住民に向けられている。現実には、対立が進むほどに、宗派勢力はそれだけ力を強めている。宗派的論理が優勢となることを防止することが絶対必要だ。そのために反体制派は、宗派的主張に反対する確固とした立場を採用しなければならない。
 他方で、宗派主義に対する警戒という口実の下で厳密に平和的な運動を求めることは、シリア左翼のいくつかのやり方の形で、政権との対話の呼びかけに同調するものとなった。これらの呼びかけが何ものも生まないということは最初から明白だった。左翼勢力は運動の始まりから、急進的な立場を採用していなければならなかった。彼らは、体制との幻想に満ちた対話ではなく、その打倒を呼びかけていなければならなかった。シリア左翼の何人かに対する深い敬意と親近感にもかかわらず私は、これらの呼びかけは誰もいない荒れ地での説教であった、そして今もそうあり続けている、と信じている。

――他方で軍事化は、革命の平和的で民衆的な性格を押しつぶすことに導かないだろうか?

A――私がすでに語ってきたことだが、シリア革命の主な戦略的なジレンマは、平和的な大衆運動と武装闘争の結合に成功することだ。シリア政権の本性を前にした時、平和的な闘争が際限なく継続可能だとは考えられない。それは、来る日も来る日も羊のように殺戮されるために平和的なデモを続けることを主張するに等しいだろう。
 それは、殺害を何とも思わない専制体制と対決する民衆的な革命における古典的なジレンマだ。そのような諸条件の下では、平和的な運動を守るための革命の武装した翼を生み出すことが、政権の軍部隊とその殺人民兵(「シャビハ」)に対するゲリラ戦争を行うことが、必要となる。
 他方で宗派戦争への転落は、対立の長期化に、そしてアサド体制の基盤の収縮というよりもむしろ広がりに導くだろう。それを解決する道は、宗派主義をはっきり拒否する、われわれがその始まりを見ている、そのような民主主義憲章を中心に、民衆的抵抗のネットワークを築き上げることだ。それは、革命並びにシリアにおける国家の未来にとって決定的だ。

▼筆者はレバノンで成長し、今はロンドン大学東方アフリカ校で教鞭をとっている。『野蛮の衝突(邦訳)』をはじめとして著書多数。(「インターナショナルビューポイント」二〇一二年九月号)


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