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    かけはし2012.年9月10日号

スト鎮圧から代替要員まで
一括提供する暴力請負業

国家が育てた暴力を売る怪物

  「用役」とは本来、生産や消費に必要な労務を提供することを意味する。従って「用役会社」と言えば人材派遣などが連想されるが、以下に紹介する記事中の用語はそれとは違って、企業主や依頼主の「注文」にそって撤去民(都市再開発などに伴う強制立ち退きに遭っている人々)の強制排除や、労組活動への介入(スト破り、集会破壊など)を組織的、体系的に暴力をもって実施する請負業を意味する。(「かけはし」編集部)


 「地上に、さらに力ある者はいないのに、誰が彼と競うであろうや」。
 トマス・ホブスが書いた〈リバイアサン〉は国家の誕生を、こう伝える。聖書ヨブ記から採ったこの言葉は、「リバイアサン」の絶対権力を見せつける。〈リバイアサン〉初版の内表紙には数多くの人々が集まって巨大な人間の形状をなした、かの有名な絵が載っている。国家にして絶対君主であるリバイアサンは教会の尖塔と家、山や野、海を見下ろす。王冠をかぶったリバイアサンの右手には鋭い剣がかざされた。暴力を統轄する国家の力だ。絵をさらに詳しく見てみると、駆幹をなしている個々人の目はリバイアサンの顔、つまり国家だけを「見上げて」いる。
 「国家は、すべての人間が放棄した権利、すべての人間が使用を留保した暴力の集合的構成物だ。国家はその一切の暴力を自らの中に吸収することによって、それ自身が暴力となり、圧倒的な力の非対象性の中で、あえてどこの誰であれ暴力を使用できないようにすることによって平和を維持する」(コン・ジンソン、〈暴力〉)。自分たちが譲渡した小さな諸暴力、そのようにして集まった巨大な力に委託して生命や安全が保障される。暴力の合法的独占体、国家の誕生だ。

撤去とスト、用役たちの稼ぎ場


 「すべての高き者を見下ろし、すべての高慢な者たちに君臨する王」(ヨブ記41章)と言っていたリバイアサンは、今やすべての物を売り払う王となった。国家の権能は「民営化」した数多くの諸領域に分割され代替された。リバイアサンが見下ろしているのは今や「市場」だ。遂に、手にかざした自らの剣さえも商品の陳列台に並べた。あらゆるものを売り払う時代に、国家だけが所有していた「暴力」さえも市場の陳列台で、カネによって取り引きされる。公権力の民営化、暴力の外注化だ。
 7月27日未明4時50分、京畿道・安山市タンウォン区のパンウォル工団(工業団地)にある自動車部品企業SJM工場に鎮圧棒と楯、ヘルメットで武装した私設用役警備会社の職員200人余りが「進撃、突破」を叫びながら「鎮圧作戦」に突入した。事業主が電撃的に職場閉鎖を断行した工場内には賃金・団体交渉問題で籠城中だった150人余がいた。
 「CONTACTUS」という用役警備会社名が印刷された楯を下げた人々は、長さ1mほどの鎮圧棒を、やたらめったに振り回した。工場内にあった鉄のかたまりまで放り投げた。労組員らの歯が陥没し、頭が割られた。
 まるで1990年の「救社隊」を連想させる暴力が続けられ、労組員数十人が倒れた。女性労働者が「助けてくれ」と112番(日本の110番)通報を4度もかけたけれども、出動した近くの派出所所属の警察官らは工場に入ることさえしないまま、用役警備会社と会社側関係者の話を聞くだけで、帰って行った。5時30分になってやっと警察機動隊3個中隊が工場正門前に配置されたものの、労組員に対する不法な暴力は事実上「黙認」した。現場にいた警察の中隊長は、ガラス窓が破れる音など職場の騒乱を確認しながらも、特段の措置を取らなかった。
 とんでもないことだ。だが韓国では、ざらにあることだ。珍しいことではない。個別の連帯を通して数限りなく目撃されたことだ。1970年代までは都市再開発の現場で国家が直接、自らの力で押しつけていた撤去の暴力が横行した。そうしていた都市開発事業が1983年、合同再開発という形式によって民営化する。建設資本が再開発事業に割り込むようになると「速い回転」を命とするカネの論理が働き始めた。撤去の暴力もまた、短時間で確実に終える無慈悲な用役たちの腕力によって取って替えられた。「用役暴力」全盛時代が到来したのだ。
 労働現場での用役暴力は撤去の現場よりも時期的に少し遅い。国際通貨基金(IMF)の救済金融が押し迫った1990年代末、労働争議の現場で会社側が雇用した用役警備会社の職員らの物理的暴力行使が急増し始まった。労組集会の解散、労組事務所の封鎖の過程で「用役やくざ」が乱入し、暴力を振るった。「施設警備」という名目で角材や自転車のチェーンを振り回す用役警備会社の職員らが工場を占拠し、労働者を締め出した。昨年、牙山の自動車部品会社ユーソン企業での労働争議の過程で用役警備会社が振るった暴力が社会的に大問題となった。2010年には慶北・亀尾の半導体会社・KEC、大邱と慶州の自動車部品会社・サンシンブレーキとパレオ電装でも職場閉鎖後、直ちに用役会社の職員らが「作戦」に投入されたり、警備として配置された。
 「労組の集団行動→職場閉鎖→用役投入」は会社側が労組を破壊するシステムとして「定着」した。このような一連の過程を暴力的にコントロールする用役警備会社の「専門性」が市場で売り買いされる。イ・ゲス建国大学法学専門大学院教授(行政法)は、今年1月に出版した〈用役暴力根絶のための政策対案報告書〉で、「用役やくざらは国家が許可した企業に雇用され、営業の一環として持続的かつ体系的に暴力を行使する」と指摘した。「暴力・物理力の行使が1つの資本主義の事業となった」というのだ。

我々はやくざ、くず拾いではない?


 今回、問題になったCONTACTUSはインターネット・ホームページなどを通じて、自らを「用役やくざ、用役くず拾い」ではなく、「デモ・集会のソルーショナー(解決)、シチュエーション・マネージメント」と呼んでくれ、と語った。洗練されたこぶしを振るう、というわけだ。彼らは最大で3千人までの警備・警固の人材を動員することができるし、デモ鎮圧用の放水車、損害賠償請求のための不法行為採証用の無線操縦ヘリ、警備犬など「国内最大規模のデモ鎮圧装備」を保有している、と宣伝した。ストなどによって操業に支障が生じれば即座に「代替人力」を投入することのできるシステムまで備えた、と広報した。2009年には労働争議が進行中だった自動車部品業界に自社の職員らを偽装就業させ、労組破壊の工作を繰り広げもした。
 CONTACTUSは前触れ的現象だ。韓国で取り引きされている「暴力」が、ストの鎮圧から代替人力の投入までノンストップで処理してくれる、それなりのシステムを備えた「企業型暴力」へと進化する一定の地点に到達したことを示している。その時その時ごとに日当を払って町内のやくざなどを動員していたそれまでの用役業者たちとは画然と異なる、ということだ。
 ホン・ソンス淑明女大学法学部教授(人権法)は「かつての用役やくざは愛嬌のレベル」であり「(現在は)警察が担っている業務の中で最も暴力的分野である鎮圧の領域にまで、組織化された形態へと踏み込んだ」と評した。「進化」した、ということだ。「労使が法的に対等に争うように力のバランスを取ったのがスト権と職場閉鎖(ロックアウト)だ。その過程で発生する不均衡を国家がコントロールするのが労使関係のルールだった。それなのにカネのある側が公権力の領域である暴力を買い入れるやいなや、力の不均衡は極大化した」。
 ちゃんとした革命は1回も起きなかったけれども、米国はどの国にも負けず劣らず鮮血の入り乱れる労働運動の歴史を経験した。これを暴力によって押さえつけたのが用役警備会社だった。急速な経済成長の過程で疎外された労働者たちの反発が激しくなった19世紀の中・後半から20世紀初め、用役警備会社・ピンカートン社は労組破壊によって悪名をとどろかせた。その代表的な例が1882年、ペンシルベニア州ホームステドゥ市にあったカーネギー製鉄所でのスト鎮圧だ。やくざと浮浪者などで構成されたピンカートン所属の警備員300余人と労働者たちが武力で衝突し、この過程で10余人が命をなくし、数百人が負傷した。探偵業務もやっていたピンカートンのロゴ・マークは「巨大な目」だった。「目」の下には「我々は眠らない」という言葉が書かれていた。ピンカートンは武力鎮圧のほかにも工作員らを活用した労組への浸透、幽霊労組の設立、暴力の煽動などを専門的に遂行した。1世紀後に韓国に現れたCONTACTUSがしでかしていることと、さしたる違いはない。
 用役警備会社の暴力が問題になるたびに、警備会社に対する許可、管理、監督の権限を持っている警察は「許可、管理、監督を強化する」と確かに答えている。昨年9月に警察庁はユーソン企業の用役暴力事件の対策として「今後、暴力を行使した警備・用役会社は組織暴力に準じて厳正に処理し、雇用した事業体も請負暴力に準じて処理する」との方針を発表した。「初期から警察権を発動し、用役暴力を予防、制止、制圧する」との意志を明らかにしたりもした。
 わずか10カ月後、リバイアサンから暴力を切り取ってもらったCONTACTUSという「怪物」は、警察が見ている前で凶器をかざし、人々を殴りつけた。イ・ゲス教授は「撤去の現場、労働の現場で暴力が行使されたり、行使の可能性が予見されるにもかかわらず警察が介入しないのは、警察がその問題を私的所有権の問題だと認識しているからだ」と指摘した。
 暴力の民営化は責任や処罰、統制を困難にさせる。国家が行使している暴力、公権力の一部として警察が行使している暴力は、比較的に統制が容易だ。労使問題に警察力が発動される時、国家は完璧ではなかったとしても、人事・予算・情報公開など多様な方式の民主的統制を加えることができる。ホン教授は「警察力を統制することのできる多様な諸手段が作られ続けてきた。反面、利潤創出が目的の資本に解き放たれてしまった暴力を制御する手段は当然のことながら、ない」と語った。

「使用者を処罰してこそ」

 職場閉鎖などの法的・行政的「手続き」を踏んだ後になされる暴力に対して警察・検察・裁判所は無限の寛容を施してきた。昨年の国政監査資料を見ると、それ以前の3年間に処罰された労働者や撤去民と用役警備会社職員の現況は明らかな対比をなす。労働者らは実に4197人が立件された後、3832人(91・3%)が起訴(拘束43人を含む)された反面、暴力を振るった用役会社の職員らは288人だけが立件され、それさえも裁判に付された人間は116人にすぎなかった。拘束者は、ただの1人もいなかった。
 公益弁護士グループ「コンガン」のユン・ジヨン弁護士は「暴力を放置し、緩く取り調べ、ゆるゆるに処罰している警察・検察・裁判所の責任は大きい」「用役暴力を買い入れる使用者(会社)を処罰しない限り、このような暴力は繰り返されざるをえない」と指摘した。
 国家は基本的に労働よりも資本の側に傾いている。資本はこれを信じ、暴力を買い入れ、私兵化する。法曹の黙認下で公々然と暴力を行使する。イ・ゲス教授は、新自由主義が本格化した時期と民間警備産業の「勃興」が連結していることを指摘する。
 コン・ジンソン朝鮮大学政治外交部教授(西洋政治思想専攻)は「親資本」だけの問題ではない、と考える。彼は「国家性の弱い社会から先に武力の独占が弱くなる現象が始まる」と説明した。「そうであってもヨーロッパでは依然として国家が市場を統制している。暴力の統制も同様だ。反面、米国は建国の過程でも武力の統制を担保できなかった。米国式自由主義の文化が移植された国であればあるほど、市場が押しよせてくれば簡単に武装解除される」。コン教授は「領主たちが私兵を率いていた中世という特権的時代が終わり、近代国家が登場するとともに民主主義が可能となった。各企業が、工場が私有地だという理由で、まるで治外法権があるかのように私的に暴力を使用しているのは『国家の中の国家』『新たな中世』になるということ」だと批判した。彼は「右派や保守が語っている、いわゆる『国家の公権力に対する挑戦』は警察と衝突したソウル・龍山の惨事や双龍自動車のストよりも、むしろ暴力をカネで売り買いしても国家がこれを問題視しない用役暴力現象において、よりずっと深刻に現れる」と語った。
 2010年9月、韓国議政研究会が国会事務処の政策研究課題として提出した報告書は「警察業務と民間警備業務の相互協力方案」だった。「労使紛糾などに警護警備要員を投入、迅速に財産権の保護ならびに身辺の安全と施設保護業務を遂行していく」というCONTACTUSの事業モデルが模範事例として提示された。
 警備業界は不満だ。一部の不法暴力を振り回している業者たちのために本来の警備・警護業務を受け持った自分たちまでが、ひっくるめてののしられるというのだ。だが「安全の市場化」は「暴力の民営化」とそうかけ離れてはいない。ホン・ソンス教授は「ホブスから継承してきた国家の正統性の基礎は国民の安全を保障する、ということだ。その機能に生じた空白を『エースワン』や『セコム』を通じてカネのある人々が買い入れることになれば、安全に対する不平等が現れることになる」と語った。
 市場よりも国家を一層信頼するという、あるいはそうあるべきだと信じている人々でさえ、誰かの家に付いている保安ベルや閉鎖回路TV(CCTV)を当然のこととして受け入れる。それが一時は警察の領域だったという考えは、いまや通じない。カネがありさえすれば、さらに安全になるだろうという信念は無意識の中での何ものかになった。コン・ジソン教授は「能力の限りに自己を守る世の中、自分たちだけの保安システムを別々に持つことになれば、国家の意味は消える」。

富者と貧者、安全の2極化

 国家だけが安全を保障し、暴力を独占するというホブス・ウェーバー式の政治哲学は論争的テーマとなり得る。マイケル・サンデル米国ハーバード大学教授は、彼の著作〈カネによって生きることのできないことども〉で「我々がすべてのことを売り買いできる社会に向かって進んでいるという事実を心配」する。彼は暴力と安全をカネで占有する民間軍事企業や私設警護員などに言及する。「豊かさが持つ唯一の長所がヨットやスポーツカーを買い幻想的な休暇を楽しむことのできる能力を備えることであるならば、収入や富の不平等はそれほど重要な問題ではないだろう。…すべてのものの商品化によってカネが一層重要になるとともに、不平等のゆえに発生する苦痛が深まっている」。
 イ・ゲス教授も同じ指摘をする。「安全は、次第に各自が判断して、備えなければならない何ものかになる。安全の自己責任化がもたらす結果は安全の市場化や商品化、それによる安全享有の2極化だという事実を看過してはならない」。
 「誰が彼と競うであろうや」。リバイアサンによって誕生した国家は、そのようにして死んで行く。国家の自殺だ。(「ハンギョレ21」第923号、12年8月13日付、キム・ナミル記者)

 


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