エジプト
革命は続いている
ムスリム同胞団の反革命との
協調を新しい闘争が揺るがす |
中東に対するメディアの注目は今シリアに集中している。しかし中東の今後を左右する存在としてのエジプトの重要性は否定できないものとしてある。事実シリアに関しても、先頃イランで開催された非同盟諸国会議でのモルシによるアサド政権非難の発言は諸方面に大きな波紋を起こした。アラブの春を決定づけたエジプト革命の今について、主流メディアが伝えない側面からの分析を以下に紹介する。〈「かけはし」編集部〉
二つの極が真っ向から対峙 独裁者のホスニ・ムバラクを権力から追放した大衆的抗議とストライキから一八カ月、エジプトの蜂起を駆動した基本的な熱望は大部分が果たされないままにある。以下は、モルシによるタンタウィ解任(八月一二日)以前に書いた論文だがいずれにしろ、人口の大多数は、生活諸条件での実質的な改善をほとんど経験してこなかった。政治的決定の作成に関しては、米国と緊密に結びついている軍事政権による支配が続いている。旧ムバラク体制の機構要員の多くが影響力ある地位にしっかり収まったままであり、彼らが不正に得た富や何十年にもわたる腐敗が変えられたと考えるものは、ほとんどいない。新しい政治勢力が国家の諸構造に入り込んだところでさえ――直近の議会選や大統領選後の場合がそうであったように――、ほとんどは、有力者との和解や旧体制と協調した実践に熱を入れているように見える。
そうであったとしても、エジプト革命の現局面を、ムバラク時代そのままの状態の再形成という外見だけを基礎に、退却の一つと判断することは間違いだろう。二〇一一年蜂起の直接的余波の中で、そこに存在した国家諸機構の重要な諸要素は、部分的で一時的な分解を経験した。これは、大部分が街頭から姿を消した警察と治安機関の中に、またムバラクの支配政党、国民民主党(NDP)が解散させられた政治空間の中に、もっとも明瞭に例証されている。職場では、国家のもっとも重要な支配機構の一つであったエジプト労組連合(ETUF)もまた、新たな独立労働組合が登場し始めるにしたがい、その影響力を失った。
これを背景にここ一年半は、エジプトの支配的エリートによる決然とした闘い――米国と他の大国が固く支援した――を見ることとなった。国家機構の弱体化を逆転させ、革命を指導部の単なる表面的な変更に止めようとする闘いであり、それは、米国政府の指導者がしばしば繰り返す文句、「秩序ある移行」の中に象徴されている。
彼らの主な目標は、ムバラク打倒の展開の中で解き放たれた新たな政治的かつ社会的な諸勢力を士気阻喪させることであり、国家諸機構の正統性、並びに支配の以前のやり方を復活させることだ。この過程における指導的な国内の主体は、昨年二月のムバラク追放以来この国を基本的に支配してきた米支援の軍事政権である軍最高評議会(SCAF)であり、旧体制のメンバーを復帰させるために行動し、デモとストライキを抑圧する動きをしばしば見せている。国家機構の中のSCAFの主な制度的連携者は、この国の最高の司法機関である最高憲法法廷(SCC)だ。そしてこの機関は、ムバラクの下で指名された判事によって運営され続けている。
反革命のこの極に対抗して、二〇一一年に初めて街頭を占拠し、その経験を通して政治意識が急速に根底的に転換させられてきた、何百万という民衆が勢揃いしている。これらの人々は、生活の本質的な改善を見たいと願い、真の変化を求めて闘い続けている人々だ。少数の人々は、新たな政治グループを通して、また姿を現した無数の労働者運動と社会運動の中で組織化されている。彼らは強力な(そして十分論証可能なことだが成長途上の)力をなお保持し、その力は革命をさらに進める圧力をかけ続けている。この革命の歩みは依然として、革命と反革命の二つの極の間にしっかりと留まっている。
選挙をめぐる諸勢力の闘い
これらの力学の確証は、二〇一二年の最初の六ヶ月を通じて展開した複雑な連なりの中に見ることができる。その主な結果は、かつて非合法化されたムスリム同胞団を政権に着けたことだった。二〇一一年一一月二八日から二〇一二年一月一一日まで、五〇八議席の人民会議(エジプト議会の名称)に向け議会選が行われた。約五四%の投票率の下、ムスリム同胞団の「自由と公正党」(FJP)が支配する選挙ブロックは約三八%を得た。もう一つのイスラムグループ、アル・ヌール党が率いるサラフィストブロックは約二八%を獲得し、議会第二勢力となった。革命継続ブロックという形に統一した左翼と社会主義諸政党の連合は三%を少し下回る票を得、議会に七議席を得た。
これらの選挙におけるムスリム同胞団の強力な外観は驚くことではなかった。ムバラクの下でムスリム同胞団(MB)は、国中で相対的に深い根付きを達成した半合法組織――禁止されていたとはいえ――だった。何年もの間それは、ムバラク体制に対する主な反対派と見られていた。他の多くの諸政党(左翼政党のいくつかを含んで)は最近になって形成されるか、公然と活動を始めたに過ぎない。そしてそれらが同胞団の組織能力に近づくことを期待することはあり得ないことだった。しかもイスラム諸政党には十分な資金が供給された。それは国内の資金源と湾岸諸国双方から来た。そしてそれが、全国キャンペーンを展開する能力に重要な違いをもたらした。その上地方での他の諸政党の存在感は、MBよりはるかに弱体であり、一方MBは何年もの期間を通じて、確立された保護と援助のネットワークを築き上げてきていた。
これらの議会選の後には、二〇一二年五月二三、二四日の大統領選第一回戦が続いた。投票率は五〇%に届かず、三方向への分裂が出てきた。MBのムハンマド・モルシ(二四・七八%)、エジプト空軍前司令官でありムバラク下の最後の首相であったSCAFの望んだ候補者、アハメド・シャフィク(二三・六六%)、そして左翼の多くが支持したナセル主義の候補者のハムディーン・サバヒであり、彼は二〇・七二%を獲得した。サバヒの高得票――特に、カイロ、アレクサンドリア、そしてポートサイドといった鍵となる都市センターで――は、しばしばイスラム主義支持者によって支配されていると言われる地域は多くの評論家が思い込んでいるようながっちり固まったものではない、ということの部分的な指標だった。これらの権力中心地におけるサバヒの強力な選挙結果は、革命が主に都市的な性格をもっていたことをも確証した。
大統領選第二回戦は六月一六、一七日に行われ、モルシとシャフィクの間の決選投票となった。しかしながら投票日二日前SCAFは、一月に選出が終わっていた議会を解散させ、政治過程への軍部支配を制度化する動きに出た。彼らはこれを一組の布告を通して行った。その布告は、軍部と国家情報部に抗議に立ち上がる者たちを逮捕する権限を与え、SCAFに新憲法起草の権限、並びに新議会が選出されるまで議会の責任を引き受ける権利を与えた。それはSCCからの前もっての裁定によって正当化されていたが故に、SCAFの行為は、「憲法的手段による軍事クーデター」となった。そしてSCCは、議会選は憲法違反だと宣言し、アハメド・シャフィクの運動をもムバラクとの緊密な関係にもかかわらず認可した。SCAFとSCCの組になった努力は基本的に、あらゆる立法事案と予算事案に関する最終的な権力を軍部に与え、彼らをいかなるシビリアンコントロールからも外すものだった。
SCAFの行為は大衆的抗議に導き、いくつかの政治勢力は大統領選第二回投票のボイコットに対する呼びかけを発した。しかしながら投票率は第一回よりも大きかった(四六・四二%に対し五一・八五%)。とはいえ、投票者の三%以上は無効票を投じた。結果を公表する点で一週間の遅れの後、この緊張した時間の間、MBとSCAFの間で非公開の交渉が行われていたのだが、五一・七三%対四八・二七%でモルシが勝者と宣言された。そして二〇一二年六月三〇日、彼は大統領に就任した。
軍とムスリム同胞団は敵対?
多くの評論家がモルシの勝利を、SCAF支配に対する重大な挑戦と、また、シャリフがまさにその緊密な協力者であったムバラク体制の選出拒否と描いた。たとえばウォールストリートジャーナル誌とニューヨークタイムス紙社説は、モルシを「初めて自由に選出されたエジプト大統領」と記述し、MBと軍事政権との間の想定される敵対について多くを費やした。しかしながらそのような評価には、大量の意図的な虚偽がある。選挙は「自由」とはほとんど言えない――それらは軍部支配の諸条件の下で行われ、登録有権者の半分からボイコットされた――。アハメド・シャフィク――旧体制の鮮明な顔――の立候補は、ムバラク時代を代表する者の立候補を禁じたいわゆる政治隔離法を打ち壊した(SCCがこの法を憲法違反と宣言した)。軍部の権力の大きさは、大統領選投票日のわずか二日前に議会が単純に解散させられたやり方で示された。選挙不正のおびただしい数――特に大統領選第一回投票後の――は、多くが選挙ボイコットや無効票投票を呼びかけることに導いた。
それ以上に、MBとSCAFとの間で、モルシが大統領になることを認めるよう後者を導いた、何らかの種類の取引が成立したことは確かだ。SCAFによる議会解散に対する言葉だけの抗議はあったものの、モルシとMB双方は選挙の後に続く期間、すぐさま軍部にだまって従った。これは、大統領宣誓実施をめぐってMBが組織した道化芝居という形で、これ以上ないほど直接に示された。モルシは、軍部が希望したSCC前ではなく、「人民」の前で、タハリール広場で宣誓すると主張した。彼はそうしたが、しかし次の日即座にSCC前でそれを繰り返した――議会を解散させたことを事実において認めた行為――。その上モルシとMBはすぐさま、SCAFによる議会解散は合法であり軍部に帰属させられた権力は適切なものとして維持される、というSCCの次の裁定をも受け入れた。
共通の階級利害に立った競合
以上を背景とした時、MBと軍部の間にある外見上の紛争をどう理解すればいいのだろうか。この地域における最大のイスラム運動としてのMBは、地方と都市部の貧困層からの、同時に都市部の「中間階級」からの支持(弁護士、医師、技術者また他の専門職の自治団体に関する選挙の中での彼らの強力な外見によって示された)を頼りとしている。同時に彼らの指導部は、公然とした親資本主義者であり、新自由主義的経済綱領を明瞭に取り入れている。クハイラト・アルシャテルやハリサン・マレクのような組織の中央指導者は百万長者のビジネスマンだ。MBと協力している他の中心的ビジネスマンには、エジプトの最大の乳製品・ジュース企業であるジュハイナグループのサフワン・トハベト、エジプトで最大のファストフードチェーンを経営しているモメングループのモハメド・モアメン、さらにスーパーマーケットチェーンと農産物輸出企業を経営しているアブデル・ラフマン・セオウディが含まれている。これらの個人たちはその経済綱領と組織の決定策定過程を完全に支配している(いわゆる諮問ビューローを通して)。彼らは、私有化の継続、世界の金融市場に対するより一層のつながり、労働市場の一層の規制緩和、IMFや世界銀行のような国際金融機関からの借り入れに対するさらなる依存、これらを支持していることを、数多くのインタビューの中で明確にしてきた。
これらの理由から、MBのいとこであるトルコのAKP(公正発展党、同国の政権党)とまったく同じに、エジプトのイスラム運動は、この国のブルジョアジーの(成長途上にある)部分の政治的表現として理解され得る。MBが代表する階級分派は、ムバラクの下で、国家並びにムバラクと連携するエリートからの周期的な抑圧に同時に直面しつつも、大きな金融帝国を展開することができた。MB、軍部、そして旧ムバラク体制のエリート、これらの間の紛争は残っている。しかしこれらは、同じエジプト人資本家階級の諸分派並びに国家機関要員の間、あるいはその枠内の競合的闘争としてもっとも良く理解可能だ。根底において、彼らは同様の階級利害を代表し、労働者運動と対決する形で団結している。
こうして彼らは、MB指導部と下部の基層間における緊張を発展させる可能性は大いにあるとしても(たとえば、二〇一一年半ばに「エジプト人潮流党」形成のため団を離れたMB青年部の重要な翼の分裂が示すように)、また社会的公正に関するこの組織の言語上の表現と団の経済綱領との間には疑いなく矛盾があるとしても、MBを左翼のある人たちが描いてきたように「改良主義」組織と表現することは正しくない。MBはエジプト社会のすべての層から支持を引き出し、この支持は、この組織の外見上の反帝国主義的、反SCAF的言葉遣いを通して力を得ている(ただしこれはしばしば誇張されている)。とはいえMBの軌跡は、反革命との妥協を構成する一つなのだ。
政治エリートの有益な道具
以上の評価は、大統領選以来のMBとモルシの行動によって確証されることとなった。二〇一二年八月二日、モルシは新しい内閣を指名した。そしてこの内閣は、新政権とムバラク時代との連続性をはっきり示した。指名された大臣のほとんどは、ムバラクとの緊密な連携者か旧体制に忠実に仕えた最上級レベルの官僚だった。国防相の地位は、現在まで二〇年もの間その地位を保ってきたSCAFの首座、モハメド・フセイン陸軍元帥によって保持された(ただし八月一二日解任:訳注)。新首相のヒシャム・クヮンディルは、一九九九年から二〇〇五年まで灌漑・水資源省での最上級官僚として、その後新自由主義的なアフリカ開発銀行で勤務した。彼は軍部から大いに認められ、昨年、SCAFによって灌漑省の責任者に指名されていた。
モルシはさらに、アハメド・ガマル・エッディンをも内務大臣に指名した。エッディンは二〇一一年当時には内務大臣代理であり、この地位において、昨年を通じ抗議に立ち上がった者たちに向けられた抑圧の多くに責任があったのだ。彼の指名のその日、アラビア語新聞の「アル・マスリー・アル・ヨウム」は、エッディンは「内務省の最優先事項として治安を回復する」と誓約した、と報じた。特に彼は、抗議とデモを「治安と経済安定を達成する上での障害」と決めつけ、「道路を封鎖し鉄道を止める(ストライキに決起した労働者が取る通常の戦術)市民たち」を処罰すると誓った。エッディンは国家の抑圧機構における彼の実績に加えて、今は解散させられているムバラクの国民民主党(NDP)議会ブロック前指導者の甥にあたる。
経済閣僚に関するモルシの選択もまた、エジプトの経済政策がムバラク時代のそれから外れるものではない、ということを強く示した。金融大臣のムムタズ・アルサイードはそれ以前に軍部が指名した内閣からそのまま残っている。アルサイードは、これまで新自由主義政策の熱烈な支持者であり、IMFと世界銀行からの国際的な借り入れを強く後押ししてきた。実際に、内閣選出直後にサイードは、三二〇億ドル以上にのぼる借り入れの議論をまとめるためにIMFがエジプトに招待された、と発表した。それ以前に彼は、広範な抗議がありながらも、世界銀行からの二億ドル以上の借り入れを仕切っていた。新しい投資大臣はオサマ・サレハだがこの人物は、外国投資に対する低賃金の場としてエジプトを市場に売り込む推力に導いた一つの制度である、「投資と自由ゾーンのためのエジプト総合公社」総裁としてムバラクから選ばれていた。貿易産業相はハテム・サレハであり、彼は、中東地域最大の持ち株会社の一つであるシタデル・キャピタルの子会社、ゴズール食品工業グループCEOだ。
これらの指名、並びに過去の時期を通じたSCAFとMBの全般的な協力は、支配の古い方式の部分的解体という背景の中で、イスラム勢力の政治が政治エリートの有益な道具としてどれほど浮上してきたかを示す、強力な指標だ。この組織は、ムバラクのNDPとまったく同じほど、地方を含む国中に深く根を張った勢力を持っている。エジプトブルジョアジーの重要な部分との密接なつながり、SCAF並びに米帝国主義に便宜を図る意志(パレスチナに関するその恥知らずな実績によって確証された)、湾岸諸国の地域権力との強力な諸関係、これらは、この組織がこれまでのあり方の回復に対して魅惑的なモデルを提供する、ということを意味する。これは、この組織の実践と言葉の間の矛盾を大いに生み出すかもしれない。しかしトルコのAKPの場合と同じくこれらはおそらく、資本主義国家の統治という全般的な利害に容易に従属させられるだろう。
革命後退との速断は誤り
ムバラク時代とのこの外見上の継続にもかかわらず、それでも、エジプト革命を流産として、あるいは内的な後退にあると速断することは、大きな間違いだと思われる。多くの道筋で、革命の刷新された深化に向けた潜在的可能性は、ムバラクの倒壊以来のどのような時よりも今、もっと現実性がある。そのような慎重な楽観主義に対する決定的な理由は、革命を推進した社会的階級的力学の明確化の成長であり、労働者運動と他の社会運動の進行中の動員だ。
自由主義的メディアと企業メディアが描く構図とは異なり、二〇一一年蜂起は、独裁政治を対象とするだけでは決してなかった。二〇一一年一月と二月に街頭に出た何百万という人々が、ムバラクを除きたいという願いによって主に駆り立てられた(そして統一した)、ということは明らかに真実だ。しかし、エジプトの独裁という政治的構造の外見は、常に、より深い内容から生まれた結末であった。内的に関連する以下の三つの要素が、先の内容を理解する上での鍵だ。
1)中東地域における米帝国主義との主な同盟者としてのエジプトの役割。
2)何十年にもわたる新自由主義の作用。
3)この国の、世界経済に対する特有のはめ込み。これは直近では、世界的な経済危機の衝撃を通して見られた。
エジプトの資本主義はこれらの三要素を特徴とし、そしてそれは、富の分極化と大衆的な不安定性、互いに固く結びついた政治的、軍事的エリート、地域における米国権力の計画との共謀、世界市場の浮沈に深くさらされた国、これらを特徴とする政治経済をつくり出した。ムバラクの独裁は、この政治経済の必然的な帰結だった。エジプト資本主義の政治的経済的特徴は完全に編み合わされている。この理由のために、権威主義に対する闘いはすべて、それが成功を見るべきだとすれば、エジプト社会の階級的性格との闘いへと不可避的に成長しなければならない。
これが今起きつつあることを示すいくつかの希望に満ちた兆候がある。二〇一一年九月にさかのぼれば、教員、医師、公共交通、砂糖精製、郵便部門の労働者による戦闘的なストライキの波が、労働者による闘争の、政治的かつ経済的な問題を結び付け始める深化を告げた。このストライキの波は、特定の職場にもっと限定されていた二月における以前のストライキの波とは異なり、全産業部門を貫いて起きたが故に特に重要だった。いくつかは、教員のストライキのように、その頂点では五〇万人近い労働者を包含した全国規模のものだった。これらのストライキは、賃金や労働条件をめぐる労働者の日々の経済的利害を、より幅広い社会的政治的問題に結び付けた。たとえば教員たちは、教育大臣の辞任を、そして学校へのもっと多くの投資とより良い教育条件を要求した。医師のストライキは、医療改善とより良い病院という問題を提起した。九月ストライキの波の主な主題は、公的諸制度から旧体制の遺物を「取り除く」という考えだった。
このストライキの波はまた、独立した労働者の行動を掘り崩すために繰り返し行動する組織という形で、MBの有害な役割にも光を当てた。この教員のストライキも結局は、MBが進行中の決起への支持を拒否し、この部門に対する支配を旧ETUFとつながる教員組合に戻すように仕向けた後で、崩壊した。医師の中でも同様にMBは、医師組合に対する支配を通して、諸行動の中止を指令した。しかしながら重要なことだが、このストライキの後下部組合員活動家グループの独立候補者は、医師組合総評議会で議席の四分の一内外を勝ち取った――組合事案に関するMBの独占権に対する重要な挑戦――。
反革命に闘争の新しい波が対抗
その時以来ストライキは成長を続けている。たとえば鉄道部門では最近、エジプト国有鉄道当局の責任者が、革命以来ストライキと抗議行動が八七〇以上にのぼると愚痴をこぼした(それゆえ、鉄道の妨害を処罰するという、新内務相の甲高い叫びがある)。それ以上に、モルシの選出と二〇一二年八月初めの内閣船出以来、ストライキの新しい波が噴出している。この波には、国全体を貫いて、繊維労働者、窯業労働者、医師、大学職員、郵便労働者、保健部門労働者が含まれている。このストライキ行動の一つの焦点は、マハッラ・アルクブラの工業都市であり、そこでは、国有のマハッラ・ミスル紡織会社で七月中旬、二万五〇〇〇人の労働者がストライキに入った。これらの労働者は、ムバラク打倒において、さらにムバラク政権の正統性をはぎ取り労働者の戦闘性の新しい中心を築き上げることを助けた、それ以前の二〇〇六〜二〇〇八年のストライキの波において指導的な役割を果たした。
今回のストライキへの対応としてMBは、行動を終えるよう労働者を説得するために代表を工場に派遣した。しかしこれは追い払われた。エジプト紙の「アル・マスリー・アル・ヨウム」にひとりの女性労働者は、「大統領になってモルシが最初にやったことは、われわれを忘れることだ。彼が考え続けていることはただ一つ、二〇万、あるいは五〇万を稼ぐ人たちのことだ。彼は血を流し続けている労働者のことなど考えていない。われわれの権利はどこにあるのだ? われわれには一切れのパンを買う余裕もない」と語った。別の労働者も同紙に「革命は、マハラのミスル紡績の労働者には何ももたらしていない。…ここの労働者は革命をもう一度最初からやっている最中だ。来る革命は労働者の革命となるだろう」と語った。
これらのストライキは、他の重要な社会的闘争――もっとも重要なものとして女性の運動――と並んで据えられる必要がある。これまでの関係を復旧しようとするもくろみの決定的な特徴は、公共空間における女性の可視化を終わらせ、抵抗の前線への活動的な参加者としての女性を排除することだ。この意味でMBの(そしてサラフィストの運動の)女性に対する保守的な非難は、より幅広い反革命的目標の切り離せない構成要素だ。女性(そしておそらく男性)は、抗議と公共空間に対する女性の権利を強調する街頭デモや他の行動を通して、これらの攻撃に対決し続けている。女性の地位はこうして、革命過程の健全度に対する決定的指標だ。
これらの諸闘争は、MBの選挙上の勝利とSCAFとのその協調が必然的に革命にとっての後退を意味しているわけではない、ということを確証している。その逆にそれらは、政治的明確化過程の本質的な部分だ。もちろんこの明確化は自動的なものではなく、運動が直面する主な弱点の一つは、それを通して将来の戦闘を組織し、結び付け、建設する、何らかの統一した政治的媒介物の欠如だ。しかし、反革命勢力がエジプト国家の中で統一し、米国のような外国の権力の支援を基に進行中の社会的闘争を社会のあらゆる側面で静めようと試みることと平行した、労働者と他の諸運動の成長が示すものは、圧倒的に革命衰微の兆候ではない。 ▼筆者は、ロンドン大学東方アフリカ学科開発研究科の教員。『湾岸諸国家における資本主義と階級』の著者であり、『史的唯物論』誌の編集者であると共にソーシャリスト・レジスタンスのメンバー。(「インターナショナルビューポイント」二〇一二年八月号)
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