スリランカ
最前線社会主義党(FSP)結成大会が成功
FSPには労働者運動と左翼の再生
への開かれた共同作業と貢献を期待
ニエル・ウィジェシラケ、K・ゴヴィンダン |
スリランカは、タミール人の民族的要求に敵対する残酷な内戦とシンハラ民族主義煽動の長い時期を過ごし、社会は今もその余波の下にある。その中で労働者と民衆の運動も後退を強いられてきた。スリランカ左翼の最大勢力であったJVPがシンハラ民族主義に支配され内戦を積極的に支持したことも、間違いなくその重大な一因だった。そのJVPに分裂が生じ、その過去への一定の自己批判に基づき新たにFSPが結成された。スリランカの労働者、民衆運動にきざす再生への動きを示す重要な出来事だと思われる。以下は現地から、その歴史と背景を伝えている。(「かけはし」編集部)
運動沈滞の中、新党の船出成功 二〇一二年四月九日、「ペラツガミ・サマジャワディ・パクシャヤ(FSP、最前線社会主義党)」結成大会に詰めかけた五〇〇〇人以上の人びとが、コロンボのスガタダサ・スタジアムを埋めつくした。参加者のほとんどは、「ジャナタ・ヴィムクティ・ペラムナ(JVP、人民解放戦線)」と袂を分かったこの新しい左翼政党の党員もしくは支持者だったが、多くの他の左翼諸政党の代表、左翼知識人、進歩的社会活動家も参加した。FSPの登場とその組織的確立は、数十年におよぶ労働運動と左翼運動の後退に続く内戦終了後のスリランカにおける民衆運動の復活にとって、重要かつ希望に満ちた展開である。
新党の国際主義を強調し、資本主義に対する全国的かつ国際的な闘争の関係を理解するものとして、この集会は国際ゲスト(1)や、英国、フランス、イタリアのFSP支部からのスピーチ、メッセージで溢れかえった。スリランカ国内の左翼グループ――ナバサマサマジャ党(NSSP、第四インターナショナル・スリランカ支部)を代表したヴィクラマバフ・カラナラスネなどおもにトロツキストや毛沢東主義者――も歓迎のあいさつを行った。
新党結成にいたる数週間のキャンペーンでは、ポスターや社会的メディアで、「われわれの党」という点が打ち出された。それは現在の政治システムでは代表されることのない、さまざまな階級、職業、民族出身の貧しい搾取された人びとのイメージを引き立てるものとなった。
現在、労働者階級の運動は受動的であり、伝統的指導部は、耐えがたい生活苦をもたらし、政府債務支払いのために労働者の蓄えを略奪し、株式市場を刺激しようとしている政府に挑戦しようという気はない。ストライキ数、ストライキに参加した労働者数は大きく減少しており、二〇〇六年には五二のストライキ、二〇万人のスト参加者だったのが、二〇〇九年にはストライキ数はわずか八件、スト参加者は五三二〇人になってしまった。
政権に参加している左派の政治的影響力は、前連合政権に比べてもはっきりと弱体化しており、ラジャパクサ政権の権威主義的資本主義を穏和化することさえできないのである。政権外の組織化された左翼は、数の面でも社会的比重の面でも後退しており、自らの再生のために闘っている。昨年、自由貿易地区の労働者、大学教員、漁民の間で幾つかの重要な社会的闘争があったものの、それは最善の場合でも部分的な防衛的成果を獲得しただけの短期的エピソードに終わった。
またも権力による活動家誘拐
このすばらしく組織化され、実行された結成大会の興奮は、大会前夜における新党の二人の指導的メンバーの誘拐事件(訳注:本紙四月二三日号7面記事参照)によって暗い影を投げかけられた。この事件は明らかに大会を妨害し、党員の間に混乱の種をまこうという企てだった。
大会を前にした四月七日の指導部前段会議の後、一時間以内にプレマクマル(クマル)・グナラトナムとディムス・アティガラがそれぞれ別々に誘拐された。かれらの党は、二人の誘拐事件が国家の責任であることをはっきりと述べ、それがスリランカで見下げはてた傾向となっている超法規的殺害の前兆である、という広範に行きわたっている感情を表明した。
ジャナタ・ヴィムクティ・ペラムナ(JVP)でさえ――かれらの元同志たちとの関係が敵対的であるのは驚くべきことではない――グナラトナムとアティガラの「行方不明」事件に関してラジャパクサ政権を率直に非難し、捜査プロセスへの広範な不信を表明した。JVPの国会議員であるアヌラ・クマラ・ディサナヤケは「政府が、殺人、誘拐、行方不明、反対派の政治的活動家への弾圧に関与している以上、法執行官(警察)は救い難く役に立たない」と語った。
実際、二〇一一年一〇月以後だけでも、約六〇人がいわゆる「ホワイト・ヴァン」事件(容疑者のお気に入りの車両の色をとってそう名付けられている)で、誘拐され、「行方不明」(2)となっている。行方不明者のほとんどは内戦期間中のようにタミール人ではなく、シンハラ人、ムスリム、そして先住民族(ワニヤレット)コミュニティーの出身である。
しかしこの行方不明者の中には、新党の支持者でタミール人のラリト・ウェーラライとクガン・ムルガンダンがいる。二人とも二〇一一年一二月九日にジャフナ(訳注:スリランカ北部の半島、LTTE[タミール・イーラム解放の虎]の拠点だった地域)で誘拐された。かれらはジャフナで、内戦の最終段階において「行方不明」になったり、行方不明と報じられている人びとの家族への正義を求める活動を行っていたのである(3)。ウェーラライとムルガンダンの行方と身の安全は、依然として明らかではなく、かれらの釈放を求める国際的キャンペーンを強化しなければならない。
こうした誘拐事件のほとんどは、全能の権限を持った国防相で大統領の兄弟であるゴタバヤ・ラジャパクサの指令で、軍/民間軍事組織/旧軍人の部隊が組織したものであると広く信じられているが、その処分は政権にとって脅威、あるいは不都合なものになると考えられており、あるいは証拠がないために彼を法的手続きによって拘留することはできないとされている。
国内外の抗議に当局が後退
「強制的行方不明」というやり方は、スリランカのすべての政権に蔓延していたものであり、シンハラ人、タミール人双方をターゲットにしていた。シンハラ人に対しては、おもに一九八七〜一九九〇年にかけたJVPの武装蜂起の期間中になされたものであり、タミール人に対しては二〇〇九年五月に終わった二六年間に及ぶ内戦期間中を通じて行われてきた。
こうした性格を持つ秘密裏の「対テロリスト」作戦は、二〇〇五年のマヒンダ・ラジャパクサの大統領選出によって復活した。そしてゴタバヤ・ラジャパクサによる国家治安機構の再組織化が行われた。スリランカ陸軍の前将校である彼は、一九八〇年代後半のシンハラ人青年の反乱を残虐に弾圧することが積極的な義務だと考えていた。
かつてなかったような展開の中で、グナラトナムとアティガラは二人とも四月一〇日に釈放された。かれらの無事の釈放は、二人の誘拐に抗議するスリランカ国内での広範で多様な政治的連合、オーストラリア政府の外交的圧力、第四インターナショナルを含めて速やかに組織された国際的連帯キャンペーンによってはじめて出来たことだ。
政府はかれらの誘拐事件への責任を否定し、グナラトナム――彼はタミール人――の分離主義者「タミール・イーラム・解放の虎」(LTTE)との関係を異常なまでに追及し、彼がオーストラリア国籍であり偽名を使ってスリランカに入国したことに焦点を当てている。
これはきわめて荒唐無稽な主張である。グナラトナムは(「クマラ・マハッタヤ」という偽名で)第二次武装蜂起の期間にJVPの活動家だったのであり、後には昨年の分裂まで指導的メンバーだった。そうした経歴を持つ彼は、歴史的にタミール人の武装闘争に非和解的に反対し、実際に現政権ならびにかつての政権の軍事作戦を声高に支持してきたのである。
さらに彼はJVPの第二次蜂起後の地下指導部であり、また彼の兄であるランジタム(一九八〇年代において唯一のタミール人JVP政治局員)が国家治安勢力によって殺害されたことを考えれば、彼が海外に自分の住居を確保し、彼自身の身辺の保護のために偽名で旅をしていたことは驚くべきことではない。
グナラトナムはただちに妻と子どもたちが住むシドニーに追放された。到着直後、彼はスリランカの彼の党が組織した記者会見でインターネットを通じて発言し、彼が拘束されている時にどのような拷問、性的攻撃を受けたかを語った(4)。彼は、社会主義のための闘いと新党への彼の政治的関与を再確認した。
ディムス・アティガラ(変名:「クリシャンティ」)は最も有名なFSPの女性リーダーであり、JVPの公式の政治局員だった。彼女の責任の領域はJVPの女性部門(社会主義女性連合)だった。新党では、彼女は女性戦線組織(自由女性運動)に加えて国際関係の調整役に任ぜられている。
四月一〇日、アティガラの釈放後にFSPが組織した記者会見で、彼女は辛い体験を語り、自分が誘拐されたのは新党の国際的コネクション、とりわけ政治的・財政的ネットワークを発見するためだったと思う、と述べた(5)。彼女を捕まえた者は、FSPがLTTE支持のタミール人離散民組織と連携しているかどうかを執拗に彼女に問いただした。彼女は、自分が国家治安部の職員によって誘拐され、尋問中は軍のキャンプに拘留されていたことに疑いを持っていない。
JVPのシンハラ民族主義
昨年後半にメディアは、スリランカ最大の左翼政党(スリランカの左翼組織の多くは、タミール民族問題に関するシンハラ民族主義のスタンスのために、JVPを社会主義者と特徴づけることに異論を提起しているが)だったジャナタ・ヴィムクティ・ペラムナ(JVP)の大分裂について報告記事を掲載し始めた。
JVPの起源は一九六〇年代後半の毛沢東派セイロン共産党であり、その党員と支持者はシンハラ人農村地域と半都市的なプチブルジョアジーからもたらされた。その中心的指導者であるロハナ・ウィジェウェラは北京派のセイロン共産党から除名され、彼自身の秘密組織を結成した。その組織は一九七一年と一九八七年の二度にわたり武装蜂起を行ったが、残酷に壊滅させられ、数万人の若者たちの生命が失われた。第二次蜂起では、一人を除くすべての指導部メンバーが肉体的に絶滅された。
一九九〇年代初頭、JVPはその組織を再生させ選挙政治に入っていった。一九九四年の連合政権形成以後、ブルジョアポピュリストのスリランカ自由党が、右派の統一国民党の新自由主義政策を採用したことにより、JVPは社会的・政治的不満から利益を得るようになり、ラディカルな学生と青年労働者を引き付ける極になった。その議会グループは一九九四年の一議席から、二〇〇〇年には一〇議席へ、二〇〇一年には一六議席、二〇〇四年には三九議席(二二三議席中)とピークを迎えた。さらにJVPは、とりわけ国営部門と民間部門の労働者の組織化で重要な成果を上げたが、それはしばしばライバル組合のメンバーを引き抜くことで実現された。また戦闘的な学生自治会を通じて大学の政治でも支配的な勢力になったが、それは暴力の行使をもためらわず、その権威を当局と学生の双方に無遠慮に行使するやりかたで行われた。
しかしJVPは二つの道に直面することになった。JVPはスリランカにおける社会主義革命のために闘う反帝国主義・反資本主義勢力であると主張していたが、同時にシンハラ人仏教文化に根差し、国家の統一と領域的統合に責任を持つ愛国的民族主義組織であるとも自らを押し出していた。
JVPの前書記長リオネル・ボパゲ――彼は一九七〇年代後半と八〇年代初頭において彼の党がタミール民族問題の存在を認識し、平等と正義をめざすタミール人の闘争を支持するよう主張した――は、次のようにコメントした。「一九九〇年代後半以後、JVPはタミール民族に対して声高な排外主義的攻撃を支持しただけではなく、国家が遂行するタミール民族への残忍な弾圧の積極的協力者となってしまった。このようにしてJVPは、この島の勤労人民が現在経験している社会・文化的、経済的結果への一定の責任を負わなければならない。国民の意識を曇らせることによって分裂させる点で、JVP、とりわけその排外主義ブロックは、最大限の効果を持つ排外主義的・原理主義的スローガンを使った。JVPはそのウルトラ民族主義的スタンスを、社会主義的言葉使いでカモフラージュしたのである」(6)。
JVPは、タミール民族との権力共有のいかなる提案にも猛烈に反対してきた。JVPは、二〇〇〇年憲法草案、休戦協定期間中(二〇〇二年から二〇〇五年まで)に討論された政治的提案にきわめて批判的であり、憲法改正に関する全政党代表委員会プロセスから引き上げた。かれらは、各地域への限定的な権力移転を導入した一三回目の憲法改正に対して、これらの州議会選挙に参加しているにもかかわらず、反対し続けた。
JVPは、内戦、ならびにLTTEを弾圧するための軍事力の使用への声高な支持者だった。かれらの見解によれば、タミール人の独立ホームランド(「タミール・イーラム」)の創設を通じたこの島国の分割は、米帝国主義とこの地域における「インド拡張主義」を利することになるというのだ。こうした展望の論理的な政治的結論は、戦争を遂行してきたスリランカ自由党(SLFP)主導の政権と連合を形成するということだった。
こうしてJVPは――何十年も前の「旧左翼」、ランカサマサマジャ党(LSSP)やスリランカ共産党と同様に――SLFPと結ぶことによって「連立政治」(人民戦線主義)に屈服した。最初は、二〇〇四年にチャンドリカ・バンダラナイケ・クマラツンガ政権に参加することによって、次には二〇〇五年にクマラツンガの後継者、マヒンダ・ラジャパクサの大統領選出を精力的に支持することによってである。
二〇〇六年八月以後、「和平プロセス」にひび割れが生じ、全面的戦争が勃発する中で、JVPはシンハラ人社会を戦争挑発に動員した。政府は、JVPの国会議員ウィマル・ウィーラワンサを、最前線で兵士に士気高揚訓練を行う役割に任じさえした。
クマラツンガとラジャパクサの新自由主義政権と協調するこの対になった政策は、タミール人の諸権利に反対するシンハラ排外主義と区別のつかない態度とともに、JVP内部において、その革命的社会主義アイデンティティーに関する討論の口火を切ることになったのである。
排外主義者の分裂と異論派浮上
公的な視野からは隠されたまま、シンハラ排外主義者のウィーラワンサの陣営が他の一〇人のJVP国会議員とともに二〇〇八年四月にラジャパクサ連合政権に参加した時、様々に異なった視点の存在が明るみに出された。JVPは最もカリスマ的なスピーカーを、仏教僧と信徒のフロント組織とともに失うことになった。この組織は民族問題に関する政治決議に反対する扇動の前衛的存在だったのである。
その時ウィーラワンサは、タミール問題に関する政治決議を再考することを望み、「トロツキスト」的逸脱をあいまいに警告するグループが存在したことを明るみに出した。
これは明らかにJVP内のシンハラ民族主義ブロックの脱走であった。それによってJVPは、ラジャパクサ政権からの政治的独立を再確認することができるようになった。実際、二〇〇九年半ばの内戦終結直後にJVPは一八〇度の転換を行って、非常事態の終結、テロ防止令の撤廃、LTTEの戦士たちとタミール人政治囚のすみやかな復権と釈放、民主主義と人権の尊重を要求し始めた。かれらはラジャパクサ政権への批判に態度を取りなおしたが、自ら過去に行った支持という政治的事実への自己批判はなかった。
異論派のグループが党の伝統的指導部を獲得しようと企てる中で、JVP内部の討論が継続した。異論派にとってJVP内には民主主義的スペースが存在しないことが明らかとなり、「ジャナ・アラガラ・ブヤパラヤ」(民衆闘争運動―MPS)として知られる公然分派の形成のために決定的に踏み出したのは、ようやく二〇一一年八月になってからである。
異論派は不利な状況で出発した。かれらは、プブドゥ・ジャゴダ(ラシス)、チャメーラ・コスワッタ、ワルナ・ディープシ・ラジャパクサ、ドゥミンダ・ナガムワなどのように、おもに一九九〇年代に獲得された第二世代のリーダーたちである。セナディーラ・グナティリケ(オパタ)のような古いメンバーは党内で知られているだけで一般には知られていない。JVPは一般的には公的なスポークスパーソンとして国会議員を押し出し、かれらを最高指導者であるソマワンサ・アマラシンゲやイデオローグである書記長のティルヴィン・シルヴァが補佐していたからである。JVPに対するMPSの批判の一つは、その指導者たちが、闘争によってではなく議会など選挙機関への進出によって形成されている、ということだった。
主流のメディアは、異論派をすぐさま「過激派」と描き出し、JVPを軍事的冒険主義に引き戻そうとする傾向を代表している、と示唆している。かれらの中心的指導者の一人がプレマクマル・グナラトラムだという特定がメディアにリークされた。そして彼がタミール人であるということが、新組織を中傷するために利用され、スリランカの人種差別的政治文化が表明されている。
しかしMPSは、JVPの専門部局のほとんど(たとえば学生、教育、出版など)の支持を獲得し、アナラダプラ、ハムバントタ、クルネガラを別にすれば地区組織の多くを獲得した。さらに、おそらく日本を除けばJVPの在外党員の多くも新組織に参加した。
新政党は、他の左翼政党と比べれば明らかに財政的基盤がしっかりしている。新組織は幾人かの専従活動家と有能で規律ある組織構造を有している。新組織は新聞「ジャナララ」(以前、親JVPの週刊新聞「イリダ・ランカ」を発行していたチームが編集)を支持している。新組織は、この数カ月間のうちにメンバーを打ち固め、JVPとの違いを説明するために幾つかの公開イベントを組織した。かれらは、たとえば指導者たちの最近の誘拐事件が起きるやただちに、数時間のうちに全島でポスターを貼りめぐらすことができた。JVPと同様に、かれらは無私無欲で自己犠牲的なカードルと支持者を当てにすることができる。その在外委員会もまた組織の財政、ならびに海外の友好的組織との関係の発展にとって決定的な役割を果たしている。
JVPは二〇一〇年に当選した四人の国会議員のうち三人の支持を得た。ガレ地区を代表したアジス・クマラだけがFSPに参加した。JVPはその労働組合と組合員の支持も確保している。しかし、JVPの農民戦線の指導者(そして前議員)であるS・K・スバシンゲは異論派に参加した。JVPはまた本部事務所や多くの地区事務所をふくむ組織資産のほとんどを確保した。
あいまいさ残るが異論派も分裂
当初MPSはJVPの指導権獲得を目指していたのであり、したがって自らをロハナ・ウィジェウェラ(JVPの創設者)の遺産の確実な、あるいは真の継承者であると主張していた。したがって昨年一一月の「英雄の日」とされているロハナ・ウィジェウェラの死を記念する日には、異なった分派による二つのJVP殉教者追悼集会が行われた。
新党は過去の自己批判(それは結成大会で書籍の形式で配布された)を行っているが、それは二〇〇四年以後のJVPの足跡、とりわけ資本家政党であるスリランカ自由党への支持に焦点をあてている。したがってかれらは、失敗に終わったJVPの二つの「革命」における冒険主義に依然として立ち向かうこともできないし、タミール人プランテーション・プロレタリアート(比較的最近までインド籍)はインド拡張主義の第五列であるという主張に代表されるウィジェウェラの立場や、彼がタミール人解放闘争に反対したことがマルクス主義からの決裂であるという点にまで踏み込むこともできないのである。
この分裂は、すでにJVPに有益な影響をもたらしている。二〇一〇年一月、JVPは統一国民党(UNP)やタミール民族連盟にも支援された前陸軍司令官サラス・フォンセカの大統領選挙運動を支持し、彼や彼の支持者(UNP党員やSLFP党員の不満分子や軍の要員までの広がりを持っていた)とともに民主全国連盟(DNA)と呼ばれる寄せ集めの選挙戦線を形成した。この戦線はいまや死んでしまった。JVPはフォンセカと結んだのは誤りだったことを認め、今後は親資本主義政党と連合協定を結ぶことはない、と主張している。さらにJVPは、タミール人が多数派である北部州・東部州の軍事化を、より強く批判するようになり、これら地域の民主主義と人権の蹂躙を焦点化している。
FSPはタミール民族問題に関するJVPの立場に批判的だが、かれら自身の展望は依然としてあいまいで漠然としたものである。FSPはスリランカの複数的民族性の存在を認識しているが、被抑圧民族の自決権を支持していない。事実FSPの指導者は、「分離主義と連邦主義」に反対すると語り、タミール人が「自分たちへの平等と民主主義を保障する解決策を受け入れる」よう納得させたい、と述べた(7)。
われわれは現在の一三次修正憲法が民族問題の解決策にはならないこと、そして民族抑圧の根源に攻撃を加えるためには資本主義を超える必要があることに同意できる。しかし出発点として、州政府が土地の分配を行い警察力を行使するという、論議の的になっている問題をふくめ、その権限の全面的履行の必要性を、FSPは受け入れるのか。そしてかれらは「一三+」(訳注:一三次憲法修正を補充する運動)のキャンペーン、すなわちタミール人や他の少数派の権力分有と北部と東部での自治政府のための運動に参加するのか。これはFSPにとって困難な課題である。それは部分的にはJVPが一三次憲法修正に反対し、JVPの第二次蜂起の期間中に導入された憲法修正であるインド―スリランカ協定を支持(批判的に)した左翼活動家を殺害したためである。
MPS/FSPが、社会に蔓延しているシンハラ民族主義的エートス(倫理・風潮)に屈服せず、元LTTE戦士たちとの対話を公的に宣言し、かれらを自分たちの隊伍に受け入れる意向を表明しているのは賞賛に値する。抑圧されたシンハラ人とタミール人の統一を打ち固め、両民族の搾取され周辺化された人びとを分極化させてきた相互不信と疑惑を克服する運動に敵対するために政府は、悪辣な宣伝を行ってきたのである。しかし新党は、タミール人と他の少数派は民主主義的要求の実現のために社会主義を「待たなければならない」というJVPのすりきれた立場を隠すことはできない。
それでも希望を育むことは可能
さらにわれわれが「社会主義」と言うとき同じものを指しているのか、社会主義への道はどのようなものかについてはっきりさせる必要がある。民主主義と社会主義の関係はどのようなものなのか。われわれ自身の組織と大衆組織の中で民主主義的実践をどのように守り抜き、同化するのか。労働者運動が政党の政治路線に沿って分裂しているとき、社会主義者はその中でどのように活動すべきなのか。民族的抑圧に対決する闘争と社会主義をめざす闘争との関係は何か。
たとえばFSP結成大会はJVPの大会をモデルにしたもののように見える。それはオープンな討論が行われて指導部が透明性を持って選出される代議員を基礎にした大会ではなく、忠実な者たちの集会であった。そこではFSPの新指導部(一八人の中央委員会)が大会の場で発表されたが、内部のコアなメンバーによって事前に選ばれたことは明らかだった。それに続いて中央委員会はセダデエラ・グナチリケを書記長に選出し、プレマクマル・グナラトラムとディムス・アチガラをふくむ九人の政治協議会の組織書記としてG・クララトネを選出した。
最前線社会主義党(FSP)がその当初から、他の政治的伝統を持つ人びととオープンに協力し、対話していることは、かれらの信用を高めている。JVPの政治的実践との鋭い決裂は誇張ではない。JVPはつねに、広範な運動よりも自己利益を優先するセクト主義的党であった。かれらはラディカル左翼との関わりを避け、労働組合運動や社会運動においてさえも共同のキャンペーンで協力することができない。JVPは自分たちだけが真の左翼政党だと見なしていた。これはかれらを孤立させ、その政治的停滞の要因になった。
それとは対照的に、FSPの同志たちは労働者階級は均質ではないこと、多様な政治的傾向があることを理解している。したがってFSPは、革命運動においては左翼は複数であるべきこと、全体としての運動はその参加者たちの多様な経験をつかみ取り、回路を開くことによってのみ前進できることを認識している。
FSPは、自分たちがすべての問題への回答を持っていると主張しないし、自分たちが汚点のない過去を持っているなどとも主張しないという考え方を採用している。この精神においてFSPは、自身の党を建設しつつ、広範な戦線として継続しようとしている民衆闘争運動(MPS)に他のグループが参加することを歓迎した。FSPの同志たちのこの啓発的アプローチと、NSSPのようなトロツキストを含むラディカル左派との対話で示された尊敬すべきマナーは、こうした政治的伝統へのJVPの敵意にもかかわらず、陰鬱で不利な時期における最も励ましとなる出来事である。
行方不明事件や誘拐に関する共通のキャンペーンなどに加えて、現在の政治的対話はラディカル左派をベースにして行われるべきであり、またコロンボの指導部の間での話に封じ込められるべきではない。FSPはその新聞のページを、左翼内部のよりいっそうの理解を促すためだけではなく、社会主義の思想と政治への信頼性の危機を克服するために開くことができる。NSSPはFSPに対して今年もメーデー式典を、他の左翼政党や労働組合とともに開催することを提案した。このような統一したイニシアティブは、左翼のより大きな合流への決定的なステップとなり、今日と明日の闘いの中で希望を育むことができる。
原注
(1)国際ゲストは、労働者インターナショナルのための委員会(CWI・英ミリタント派系国際組織)のクレアー・ドイル、CWI参加組織であるパキスタン社会主義運動のカリド・メフムード、イタリア共産主義再建党の指導部、イタリア労働総連合(CGIL)の代表、ベラルーシの左翼活動家。
(2)The Island
二〇一一年四月九日
(3)”Two Activists
missing in Jaffna” BBC Shinhara.com 二〇一一年一二月一〇日
(4)”Man returns
after Sri Lanka Ordeal” News on BBC 二〇一二年四月一一日
(5)”We were White
Vanned” Daily Mirror 二〇一二年四月一一日
(6)Lionel Bopage
“Sinusoidal nature of the JVP policy on the National Questiion”
Groundviews.org 二〇〇九年七月二六日
(7)Daily Mirror
二〇一一年一〇月六日
▼ニエル・ウィジェシラケは企業・協同組合・商業労組(CCMU)書記長でナバサマサマジャ党(NSSP、第四インターナショナル・スリランカ支部)政治局員
▼K・ゴヴィンダンはNSSP国際委員会メンバー
(「インターナショナルビューポイント」二〇一二年四月号)
コラム
帰 省 先週ヤボ用で帰省した。毎年お盆に帰省してきたが、この時期の帰省は六年前に母が肺ガンを患って手術入院したとき以来のことだ。
当時、母は担当医から「もってあと二年」と宣告されていた。その母以上にヨボヨボになった父が動揺していたのを思い出す。しかし母は、抗ガン剤治療などがうまくいき、ガン細胞を封じ込めて八〇歳になったいまも歳相応の生活を送っている。
そんなことを思い出しながら、一番安い航空会社の狭い座席でウトウトしていた。着陸態勢に入ると、気圧の影響で耳が痛み出した。まともな航空機ならば、機内の酸素、温度、気圧は自動調整されているはずなのだが、この機はまともではない。これまでに経験したことのない痛みだ。
高度と気圧が表示される登山用の腕時計をつけていたのでそれを見て驚いた。室内の高度は四〇〇〇メートルを超えている。気圧は相当低い。そこから急角度で下降していくわけだからたまったものではない。唾や水を飲み込むぐらいではどうにもならない。鼓膜はパンパンに張った状態になり、音がほとんど消えた。
こういう時にはアクビが一番なのだが、耳の痛みでドタバタしているものだからそれも期待できない。偽アクビを何度か繰り返しているうちに、ようやく本物のアクビが出た。一件落着である。通常の音が耳に入ってきた。
「到着地の気温は八・九度です」……。寒気が入り込んでいることは知っていたが、北の大地とはいえここまで気温が低下しているとは予想していなかった。長袖のシャツは着ていたが、ザックの中にはジャンパーは入っていないし、詰め込んだパジャマも夏用だった。
寒い空港からバスに乗って実家近くのバス停で降りると、冷たい霧雨が出迎えてくれた。傘も忘れている。雨に濡れて実家に入ると、石油ストーブで暖められた室内で母が夕食をこしらえていた。
「傘は持ってこなかったのかい!」「きのうまでは暖かかったんだけどね!」。母は思っていた以上に元気そうだった。
翌日中にどうにかヤボ用もすませて、次の日の夕方に帰京することにした。その日は朝からいい天気になり、近くの砂浜へ散歩に出かけた。
ハシボソガラスが貝を遊歩道に落として、割って食べている。「あっぱれ!」である。帰り道、小高い木の上から「ギャーギャー」と鳥の鳴き声がするので、そっと近づいて見ると、黒くて長い尾羽に黒いカラス顔で腹だけ白い鳥が私を威嚇する。三羽はいるようだ。
実家で父の野鳥図鑑を見ても出ていない。五〇年前の百科事典でカラスを調べてもそれらしきものはないが、末尾に「カササギ」と手書きされている。父の字だ。
帰宅してから私の野鳥図鑑で調べてみると、「カササギ」に間違いない。しかし、生息地は九州になっている。結局、ネットで調べてみて答えが出た。一九九〇年ころ、韓国船舶によって持ち込まれたようだ。父もその答えにたどり着いていたのかもしれない。 (星)
|