もどる

    かけはし2012.年11月5日号

大統領選の選択基準は人権

選挙の思い出―30年の投票の追憶

彼は良心に従い、私は所信に反して

 選挙の季節がやってきた。与党セヌリ党は早々とパク・クネ氏を大選(大統領選挙)の候補として押し立て、民主統合党はムン・ジェイン氏を大選候補として選出した。党がないアン・チョルスが大選出馬を宣言し、統合進歩党のイ・ジョンヒ氏も大選出馬を既成事実化している。今こそ大選の雰囲気が熱くなっている。今回の選挙では誰を選択するのだろうか。

屈辱に満ちた生涯初の選挙


 私は1983年4月、軍隊に引っ張られて行った。江原道・楊口にある陸軍21師団、白頭山部隊が私の所属師団だった。男たちが集まると軍隊の話をするのには、うんざりする方だけれども、わが人生初の選挙はいつだったかを考えてみるに、当然にも軍隊で25歳の時に行った選挙だ。
 新軍部勢力が光州で市民らを虐殺して執権した後に執り行われた、事実上の最初の総選挙(総選)とも言える第12代総選(1985年)、その時はチョン・ドゥファンが総裁だった民主正義党(民正党)と官製野党だった民主韓国党(民韓党)などがあった。事実上、新軍部が政治をすべて掌握している時だった。ところが総選までもう2カ月も残っていない時点でキム・ヨンサム氏ら正統野党勢力が新韓民主党(新民党)を作り、米国に亡命中だったキム・デジュン氏が総選の4日前に帰国すると、2月12日の総選への熱気が燃え上がった。総勢276人の国会議員を選ぶ選挙で、執権与党だった民正党は148議席、民韓党は35議席を得る反面、新生政党たる新民党はソウル、釜山、大邱、仁川などの都市地域で圧勝して67議席を得るという突風を巻き起こした。よしんば議席数では執権与党が多数党になったとは言うものの、このような結果は極めて衝撃的だったし、野党勢力はこれに自信感を得て直選制改憲闘争を展開し、2年後には6月抗争(民主化闘争)へと発展する政治的契機を用意することとなる。
 当時、軍隊では野党に票を投じることはおよそ不可能だった。不在者投票日が近づいてくると大隊長は公言して回った。反乱票が出れば必ず懲罰する、と目を怒らして話して回ったものだ。大隊長は、光州で自分がどれほど勇敢この上なく暴徒らを鎮圧したかを自慢していた人であり、怒り出すと拳銃を持ち出しては騒ぎを起こしていた無識たることこのうえない指揮官だった。そのような彼が、たったの1票であれ野党票が出るのは許せないと公言していた。
 大隊全体の視線は私のような強制徴集者に注がれた。大学で学生運動をしていて引っぱられてきた我々のような強制徴集者が、わが小隊をはじめとして大隊全体には少なからず存在していた。中隊長は特別に我々を呼びつけ、いらぬことをして他の人々にまで被害を及ぼすことのないようにしてくれ、と頼んだ。

落選運動がもたらした自信感


 不在者投票をする有権者に送る選挙公報も見ることができなかった。不在者投票は中隊の行政室で行われた。扉を開けて入ると、内心では野党に投票したいという戦意は消え去った。中隊の人事係が与党の欄だけを示して、投票しろと言ったからだ。
 次の日だったか、大隊に騒ぎが起こった。大隊全体を通じて反乱の1票が発見されたからだ。大隊長は大隊員全員を練兵場に集合させ、背信者のごとき部隊でやっていくことはできないとしつつ反乱票が出た12中隊に完全軍装での集合を命じた。彼らは夜を徹して練兵場をぐるぐる回らなければならなかったし、反乱票の主人公は他の部隊に転出させられた。その主人公もまた強制徴集者だった。彼は良心に従って野党に投票したのであり、私は所信に反して、されるがままに与党に投票した。私の最初の投票の記憶は、屈辱だった。
 多分、キチンとした選挙をやったのは1987年の大選が初めてだったようだ。もちろん、その時もKAL機の爆破事件やキム・デジュン、キム・ヨンサムに分かれた野党候補のゆえにチョン・ドゥファンと陸士同期のノ・テウが当選した大選、17年ぶりに国民が直選選挙で大統領を選んだものの九老区庁の抗争などに見られるように、不正選挙の染みついた選挙だった。
 その後も60万の大軍の票はそっくりそのまま執権与党の票になる状況が続いた。1992年3月22日の夜、陸軍9師団所属のイ・ジムン中尉が当時、ソウル・鍾路5街にあった公明選挙実践市民運動協議会の事務所で記者会見を行い「軍不在者投票の過程で幹部らが与党候補の支持や公開投票を強要した」と暴露した。選挙を2日後に控えた時だった。イ・ジムン中尉は、この良心宣言によって2等兵に降格され、強制配転を被った(彼はその後、4年余の法廷闘争の末に1995年8月、大法院=最高裁から罷免取り消しならびに取り消し確定判決を受けた)。彼の暴露によって軍隊内で行っていた軍不在者投票は営外で行うように変わった。
 以降、私は大選、総選、地方自治体選挙などを何回か行った。そして何回かの選挙では、はなから投票所に行かなかった。私の地域区には、これといった好ましい候補が立たなかったからだ。与党も野党もどっこいどっこいの候補が乱立する選挙で、棄権もまた意思表示の1つの方法だとの考えが支配的だった時があった。
 けれども2000年以降、私の考えは変わった。2000年に行われた第16代総選では各市民団体が落薦・落選運動を展開した。それまで市民諸団体が公明選挙監視運動を主として行ってきたとするならば、この時はより積極的に政治圏の変化を目的とする不服従運動戦術を採ったのだった。全国の市民諸団体は総選市民連帯を立ち上げ、選挙法に真っ向から挑戦した。
 当時の選挙法によれば、選挙期間中は労働組合以外の諸団体は選挙運動をすることができず、落選運動や事前運動も禁止された。選挙は民主主義の華だの祝祭だのと言ったとしても、わが国の選挙法は市民たちの自由な選挙運動を一方的に規制する内容で満ち満ちていた。まるでフランス市民革命の時に「能動的市民」と「受動的市民」を区分し、能動的市民にのみ選挙運動をする資格を与えることと同じ形だった。
 総選市民連帯の活動で公薦(公認)に反対した一部の政治人が政界引退をしたり選挙への不出馬をすることになり、市民の力を意識した各政党が公薦反対者の相当数を公薦から除外した。市民団体の圧力が政治圏を変化させたのだ。落選運動の結果、当時の落選対象者86人中59人が落選したのだから、落選率は実に70%に肉薄したのだ。そして選挙法の一部を改正する成果も挙げた。この市民不服従運動の最大の成果は、市民の力によって政治構造を変えることができるという自信感を与えたことだと言える。政治の対象でしかなかった市民たちが政治の主体となり得ることを知らしめたのであり、私も最善でなければ次善であっても選択しようという態度に変わることとなった。

まだ完全ではない投票の自由

 それならば今はどうか。軍が、野党には従北勢力がいる式の教育を選挙の時期に進めているだとか、非正規職労働者の半分が選挙当日に勤務なので投票できないだとか、選挙のたびに要求しているにもかかわらず投票当日に障がい者の接近権が保障されず投票できないだとか、社会福祉施設で施設長がまとめて投票を誘導し事実上の公開投票をしていることはないのか。今もなお公薦や選挙の過程で金品がやりとりされているのが摘発され、地方自治体では選挙のたびに当選した首長が監獄に行き、補欠選挙を行わなければならないということが繰り返し起きている。このようなすべての行為は国民の選択の権利を妨害する犯罪だ。
 今回の選挙では何だかんだの理由で選挙権を行使できないことがないように選挙管理委員会や政党がキチンと準備したならば、と思う。選挙に参加する権利さえ行使できない時の悲惨さに向き合う選挙は、少なくともダメだ。
 一時期、選挙に心が向かなかった私が、今回の大選では人権という価値によって大統領を選択しようと本まで出した。今回の大選で誰が大統領になるのかは極めて重要なことだ。現政権が金持ちや土建勢力中心の政策を施行するものだから大韓民国という国全体が重病にかかった患者の態となった。重病を治療することのできる大統領をどうやって選ぶのだろうか。
 わが社会で最も深刻な現象は自殺率が経済開発協力機構(OECD)平均の3倍に迫っていて名実共に1位という点だ。1日に42・6人が自殺している国、1年なら1万5千人以上が自殺によって死んでいく国が大韓民国だ。さまざまな強力な対策があるにもかかわらず凶悪犯罪は増えるばかりだ。性暴力犯罪の対策として出された閉鎖回路テレビジョン(CCTV)の設置も、電子足タブも、化学的去勢も何の効果もなかったということが既に立証されたのに再び死刑の執行や保護監護制を復活しようとし、この機会に不審検問を復活するとも言う。セヌリ党のある議員は始めから物理的去勢法案まで提出した。
 このような即興的な対策では自殺の行列も、凶悪犯罪も減らすことはできない。自殺にせよ殺人致死犯罪にせよ、何よりも予防が重要だ。既に解答はある。単にそれを人々が、あるいは政治圏が無視しているだけだ。人が安心してその寿命を全うできる社会、人間は尊厳だという平凡な真理が疑いなく受け入れられる社会を作ることのできる大統領を選べばよい。そうしようとするならば経済も福祉も平和・安保問題も人権の観点から接近し、再構成しなければならない。人間が生計の脅威や恐性のゆえに生きることのできないことほど深刻な問題はない。従って今回の大選、大統領の選択基準は人権だ。

再び奴隷とならないために

 ところで大選の候補たちや大統領になる人よりももっと重要なのが国民だ。有権者が、選挙には行ったと言ってそのまま手をこまねいている時、福祉国家を主張していた大選候補が財閥の顔色をうかがう大統領にならないという法はないからだ。啓蒙主義時代の哲学者ルソーの言葉は今なお大切だ。「彼ら(英国民)が自由なのは、ただただ議会の議員を選挙する期間だけだ。選挙が終わる瞬間から彼らは再び奴隷となってしまい、何の価値もない存在となってしまうのだ」。(「ハンギョレ21」第930号、12年10月8日付、パク・レグン/人権財団サーラム常任理事)

支持率ゼロ%

イ・ミョンバク政権の対北外交

 イ・ミョンバク(MB)政府は6・15南北共同宣言や10・4首脳宣言を抹殺しようとして「努力」してきた。この5年間、2つの宣言を南北関係の下絵として認めることを拒否し、その結果として南北関係は葛藤と敵対の泥沼にはまりこんだ。
 任期初年度の7月、パク・ワンジャ氏の被撃死亡事件を理由として金剛山観光の門を閉ざした。2010年3月に天安艦が沈没すると、開城工団を除くすべての交流・協力事業を遮断する「5・24対北制裁措置」を取った。この5年間、将官級の会談はただの1度も行われなかった。このような惨たんたる南北関係の断絶をMB政府は北側の挑発のせいだと言い繕うけれども、実際にはMB政府が意図したことだ。ドルは核開発に使われ、コメは軍糧費に転用されるとして経済協力や人道的支援を徹底した遮断した。
 北韓(北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国)はすぐにも崩壊するはずだから交流や協力によって延命を手助けするのではなく、関係を断って圧迫し崩壊を促進するという政策だ。だが南北関係の断絶は北・中関係を強化させただけであり、北韓の崩壊へとは結びつかなかった。MBだけが知らない、そして誰もが予想した当然の帰結だ。
 MB政府は異常な政府だ。安保を重視するとしながらも、天安艦の将兵46人と延坪島の海兵隊・民間人4人の罪なき死にも、誰も責任を取っていない。大統領が突然に独島(日本政府の言う竹島)を訪れ、日王(天皇)の謝罪を促すものだから日本側の反発が高まると、「発言は歪曲して伝えられた」として白旗投降した。口を開きさえすれば「北核の廃棄」を叫ぶものの、北韓の核能力の強化には術なしだ。
 米国、中国などが北核問題を解決しようとして6者会談開催の環境作りをしようとして努力するたびに足払いをかけてきた。6者会談は4年目に至るも作動不能だ。MB政府は東北アジアの軍備競争や新冷戦を煽る焚きつけの役割に余念がない。さだめしスティーブン・ボズワース前米国国務省対北政策特別代表が「北韓に我々の対話の意志を明らかにすれば北韓に負けるのだという認識に接するたびに『話にもならないナンセンス』ではないかと考えた」と慨嘆したことだろうか。

「失われた5年」
評価は冷ややか
 世間の評価は冷ややかだ。現代経済研究院の保守、進歩、中道を含む北韓関連専門家112人を対象とした調査で、112人すべてが「対北政策の転換」が必要だと答えた。政策支持率ゼロ%だ。事情がこうなので、民主統合党のムン・ジェイン候補や無所属イ・チョルス候補だけではなく、与党セヌリ党のパク・クネ候補でさえ6・15共同宣言など既存の南北合意を尊重しようとしつつ「対北包容政策」を主唱する様子は、ぎこちなくはあるが当然だ。パク候補式の語法を借りれば、MB政府の対北政策の廃棄は大選(大統領選挙)勝利のための「不可避な選択」のはず。誰が大統領になるにせよ、次の政府は6・15共同宣言と10・4首脳宣言などを土台として南北関係を解いていかざるをえない、という意味だ。「失われた5年」という言葉は、まさにこういう時に使うべきものだ。
 それでもMB政府の穴掘り作業はやむことがない。9月26日、MB主宰の外交安保長官会議の後、青瓦台(大統領府)代弁人が「最近、急増している北韓の、わが大統領選挙への介入の試図」「北韓の政略的な企画挑発」などを公式に論じた。9月中旬以降、北側の漁船が何回か西海(黄海)北方限界線(NLL)を越えてきたことを、このように規定したのだ。警備艇でもない、秋のワタリガニ漁のシーズンでの北側漁船の越線を、大統領までが乗り出して「企画挑発」を云々するのはMB式のギャグなのか、時代錯誤の北風煽りなのか。けれども私はそれを大統領や統一、外交、国防長官らが、実際には釣魚島(ティヤオウィダオ、尖閣)をめぐる中日の葛藤や米国航空母艦の近隣海域への進入、中国の初の航空母艦就役式などと緊迫して回っている東北アジアの情勢を主に論議したのであろう、と信じたい。大統領や長官たちが北側漁船のNLL越線の意味を判断するのに1時間余りも没頭したのが事実であるならば、我々の立場はあまりにも悲惨というものではないか。(「ハンギョレ21」第931号、12年10月15日付、イ・ジェフン/編集長)


もどる

Back