パク・クネとイメルダ・マルコス
独裁者の父を擁護し続ける娘たち
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父娘関係において、両国はよく似ている。
大統領は1972年9月22日、戒厳令を布告した。彼は1965年の民主的選挙で大統領に当選し、任期を終えた。1969年、再選に成功した。大統領は再任のためにカネをばらまき人々を買収した。大学生らが街頭に出てきた。
単純に不正選挙のせいではなかった。貧しい国の大統領は1965年の当選直後、経済発展を約束した。基幹産業を作ると公約した。方法が特異だった。軍人を建設事業に動員し、将校を重用した。米国の支援を得ようとしてベトナム戦争に若者たちを派兵した。このような状況で、不正選挙で再任したのだ。
ともに1972年に戒厳令布告
学生や市民がデモを繰り広げ、野党政治家らが批判の声を高めた。大統領は1972年、戒厳令を布告し「伝統的な民主主義の手続きを受け入れるには、我々の時代が余りにも深刻かつ危険だ」と語った。大統領は深刻な危険として共産主義とイスラムの抵抗を挙げた。「1972年の戒厳令」という単語だけを聞いて「10月維新」と錯覚してはならない。
フィリピンのフェルナンド・マルコス元大統領は戒厳令が「バゴン・リプナン」を作るための礎石だと主張した。タガログ語の「バゴン・リプナン」は「ニュー・ソサエティ(New
Society)」という意味だ。「新社会」だ。マルコス元大統領は議会を解散し、言論を停止させた。新たな憲法を1973年に通過させた。大統領が憲法や法律になりかわった。その時節の韓国大統領と驚くほどに瓜二つだった。
パク・チョンヒ元大統領は1972年10月27日、非常国務会議で「維新」憲法を議決した。すべてのことを一新するという意味だった。「バゴン・リプナン」の韓国版だった。
娘たちの人生も似ていた。フィリピン〈ヤフー〉は、去る9月9日、「マルコス元大統領が戒厳令を布告した9月はフィリピン民主主義の歴史において最悪の暗黒期と記憶される」し「同時に9月はマルコス元大統領の誕生日(9月11日)をずっと記念してきたイロコスノルテ州の住民たちにとって重要な月でもある」と報道した。マルコス大統領の故郷であるイロコスノルテ州は今年も盛大な記念行事を催した。マルコス元大統領の長女イメルダ・マルコスが現在、州知事だ。息子フェルナンド・マルコス・ジュニアはイロコスノルテ地域区の上院議員だ。パク・クネ・セヌリ党候補の大邱を想起させる。
「イミー(Imee)」という別称でしばしば呼ばれるイメルダ・マルコス州知事は熱烈な父の擁護者だ。母と同名だ。1955年生まれで、1952年生まれのパク・クネ・セヌリ党大選(大統領選挙)候補よりも3歳若い。パク・クネ候補と父に対する認識が一緒だ。インターネット百科辞典「ウィキペディア」を見ると、イメルダ・マルコスは父の独裁について「最も立派な道路や橋などが戒厳令の時節に建設された。そればかりか、映画でさえその時節の作品がはるかに良かった」と語った。チリの独裁者アウグスト・ピノチェトの娘ルシア・ピノチェト(69)は2006年、父の葬儀で「父は自由の炎を燃え上がらせた」と讃揚した。国会議員選挙に出ようとして、脱税の容疑で有罪判決を受けて、あきらめた。サンチャゴ市ビタクラ区の区議員を務めた。
パク・クネ候補、イメルダ・マルコス、ルシア・ピノチェトの歴史観は互いに似ている。論争を招くという点さえ一緒だ。パク・クネ候補が9月10日、MBCラジオ番組〈ソン・ソッキの視線集中〉で行った発言が歴史観論争に火をつけた。進行者ソン・ソッキ誠信女子大教授が維新時節に言及し「人革党事件の被害者たちに対して謝罪する考えはあるのか」と質問した。パク候補は「その部分については大法院(最高裁)の判決が2つ出ているのではないですか。だから、その部分についても、さらに今後の判断に委ねるべきではないでしょうか」と答えた。パク候補は再三にわたって「なぜならば、違った判断が出てきたから、しかも同じ大法院で」と答えた。
セヌリ党の代弁人も異なる見解
「人革党事件」はパク・チョンヒ元大統領がしでかした代表的な司法迫害として論じられる。一群の知識人や学生らが人民革命党を作り、北韓(北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国)の指令を受けて反乱を企てた、という嫌疑だった。捜査、起訴、裁判の過程中ずっと論難が繰り広げられた。中央情報部が捜査を担い、「拷問捜査」「無理やり起訴」の論難がやまなかった。
第1次人革党事件の時、中央情報部が1964年に41人を拘束した。だがソウル地検公安部のイ・ヨンフン部長検事など主任検事らが、証拠が不充分であるとして不起訴の決定を下した。当時のソ・ジュヨン・ソウル地検長が政権高位層の指示を受け、夜間当直検事に命じて再び起訴した。だが法院(裁判所)は北韓の指示など主要な嫌疑について無罪と判断し、被告人らに懲役1年などの軽い判決を下した。
パク・チョンヒ元大統領は維新後、恐怖政治の素材として再びこの事件を持ち出した。人革党関連者たちと全国民主青年学生総連盟(民青学連)を一把ひとからげにした。「人革党再建委」と名付けられた。1974年、非常普通軍法会議と非常高等軍法会議が有罪判決を下した。大法院は1975年4月8日、36人に有罪を宣告した軍事法廷の判決を確定した。極めて異例なことに、大法院宣告の翌日、人革党再建委の被告8人の死刑が執行された。大法院判決が宣告される前の4月8日未明、軍法会議検察部に死刑判決の通知があり、死刑を執行した拘置所には執行後の4月9日午後3時に死刑宣告の通知が来た。最小限の法的形式や時間の順序も守られなかった。法曹界で「司法殺人」と呼んでいる理由だ。拷問捜査が認められて再審が行われ、ソウル中央地裁は2007年に無罪を宣告した。再審の判決を根拠として遺族らは国家賠償を受けた。
パク候補の発言によって大騒ぎになった。人革党再建委被告人の家族、市民団体、野党が一斉にパク候補を批判した。セヌリ党内でも論難が高まった。代弁人や党代表が(パク候補とは)異なる見解を出した。弁護士出身のチョ・ユンソン代弁人は9月11日、「セヌリ党は、この事件に関連した2つの判決が存在するけれども、再審の判決が大法院の最終的な見解だということを尊重する」という曖昧な論評を出した。
ホン・イルピョ・セヌリ党代弁人は9月12日、パク・クネ大選候補の人革党関連の発言について「パク候補の表現に一部誤解の素地があり謝罪する」とブリーフィングしたが、パク候補はこれを全面否認するハプニングが繰り広げられた。この渦中でセヌリ党チョン・フィファ議員は9月13日、ツイッターにチャン・ジュンハ先生の他殺疑惑を提起するとともに、セヌリ党が過去史の過ちを認めるべきだとの意向をほのめかした。パク候補は与党でも論難が高まると9月14日、人革党再建委の遺族らに会う意思を明らかにした。だが謝罪する意向や自らの歴史観に誤りがあったことを認めるというニュアンスはなかった。
民自党時節の法院史で維新批判
与党でさえ論難が高まった理由がある。パク候補は、それ以前にも自身の保守主義の信念を隠したことはない。だが今回の発言の政治的衝撃は違った。司法府に対する根本的無知、あるいは無視をさらけだしたからだ。セヌリ党の政治人たちの反発はパク候補の歴史認識が中道の有権者攻略に大きな障害となるだろうとの判断に起因する。
まずは「2つの判決」という表現自体が常識とは大きく外れる。刑事訴訟法上、再審は以前の判決の証拠物が偽造・変造された事実が証明された場合など、捜査や裁判の過程に問題があった時に行われる。言葉そのままに、再審の判決が事件にかかわる最終の判決だ。イ・ジンソン憲法裁判官候補者が9月12日、パク候補の発言にかかわる質問に「(パク候補が)そう語ったのであれば、再審の構造に対する理解がいささか足りないのではないのかという思いがする」「(司法府の最終判決は)いつも1つ」だと答えた理由が、ここにある。
維新時節の政治的暴圧に対する無視も、またもや憂慮を生んでいる。パク候補はラジオで「全く同一の大法院が」と強調する。維新時節の大法院と民主化以降の大法院は事実上、別個の大法院だった。維新時節の大法院はパク・チョンヒ元大統領によって「不完全な裁判所」の立場におかれていた。
「改正憲法(維新憲法)に描かれた司法府の姿は民主主義の土着化、国力の組織化など、いわゆる維新の理念に押されて憲法上の地位が相対的に格下げされ、その権限が従前よりも大幅に縮小された状態だった。法官(裁判官)推薦会議が廃止され、大統領が大法院長などすべての法官の任命権を持つこととなった。違憲法律審査権も削除され、憲法委員会がこれを行使することになった。9人の大法官と40余人の法官が再任用からはずされた。捜査の能率が強調されるあまり、人権保障の側面では刑事手続き上の後退をもたらした」。
民自党(現セヌリ党)が執権党だった1995年に法院(裁判所)が公式に編集した〈法院史〉が維新時節を評価した記録だ。〈法院史〉の著述に参与した判事たちは進歩・保守的信念を表したことのない中道・合理的法曹界に分類される人物たちだ。大法官を務めたソ・ソン弁護士(法務法人・世宗)が当時の法院史編纂委員会委員長だった。法院行政処にいたイ・ジョンウク弁護士(法務法人・太平洋)が副委員長で、ソウル中央地裁民事首席部長を務めたクォン・クワンジュン弁護士(法務法人・広場)、ソウル高裁部長判事を務めたユン・ジェユン弁護士(法務法人・世宗)らが実務委員だった。
民自党の時節に編纂された〈法院史〉が記録している維新の時節は、「法院の暗黒期」に要約される。パク・チョンヒ元大統領は法官の司法部からの独立の信念を嫌悪した。クーデターをひき起こすやいなや大法院監督官職を新設し、1961年にホン・ピリョン大領(大佐に相当)を任命した。ヤン・ホン判事が1964年5月20日、反政府デモの学生に対する拘束令状を棄却した。翌日、武装軍人13人がソウル刑事地裁の当直室に乱入した。大韓弁護士協会、法科大学生らが抗議声明を発表した。法院はトンペンニム事件に一部無罪の判決を下した。政府に有利となるように改正された国家賠償法改正案に対して違憲判決を下した。
独立的政治人の停止した認識
パク・チョンヒ政府は黙ってはいなかった。1971年、検察を動員して一部の判事や書記官を横領の嫌疑ででっちあげ、拘束令状を請求させた。司法史上、未曾有のことだった。ソウル刑事地裁(現ソウル中央地裁刑事部)の判事37人がこれに抗議して集団辞表提出をした。次いでソウル刑事・民事地裁の判事数十人が「司法権守護建議文」を発表した。ここまでだった。維新以降、数十人の法官が再任用で脱落した。緊急措置9号違反の被告人に無罪を宣告した永登浦地裁イ・ヨング判事は、無罪判決を下してから2カ月も経たずに全州地裁へと転籍された後、辞職した。以降、判事たちは自尊心を捨てた。パク候補はアボジ(父)が作った「維新の法院」を民主化時代の法院と同じ法院だと判断している。
2009年に法院が編纂した〈歴史の中の司法部〉も「改正憲法(維新憲法)は大統領に国会の解散権および国会議員定数の3分の1に該当する国会議員に対する実質的指名権、法官の任命権、法院の権限に対する緊急措置権などを付与し、行政府、立法府、司法府の相互けん制と均衡を図るための3権分立の原則を大幅に後退させた」と記録した。
維新時節の民青学連事件で有罪判決を受けたパク・ヒョンギュ南北平和財団理事長は、9月24日のCBCラジオ番組〈キム・ヒョンジュンのニュース・ショー〉で、パク候補の歴史観について「アボジがやったことについて子どもが責任をとることはできないけれども、自分のアボジがそうであったならば、アボジであってもこうするのは間違ったことだ、私はこう考えると話をすれば国民は納得するが、どうしようもなくそうせざるをえなかったという事情があったのだ、こう言えばそれを正当化するというものです」と批判した。人革党の遺家族を代弁している「4・9統一平和財団」イ・チャンフン史料室長も同日、平和放送のラジオ番組で「無罪も受け、賠償も受け、今は苦しみを忘れて生きようとしているのに。反省なき一部の無自覚な人々が今も遺家族を苦しめています。今回のパク・クネ候補の発言は、まさにそのような地点に立っているのです。なんで2つの判決が云々と言うことができるのですか」と語った。
パク候補は9月10日のラジオ番組で「私が政治を始めてから15年になるが、もちろんアボジ―私のアボジなので―いろんな考えを話すこともできるだろうが、同時に私は15年間、政治をしながら私なりに絶えず国民の評価を受けてきたとの考えを持っています」と語った。自身は、ただずっと「独裁者の娘」ではなく、「独立した政治人」という意味だ。今回の歴史観をめぐる論難は、このようなパク候補の主張に対しては、信念というよりも疑心を与えたようだ。パク候補の歴史観は政治人入門以前に作成した日記の見方にとどまっているように思える。彼女は1988年10月17日の日記に「国家のために命を捧げた人は国家を自己と同一視したのであり、国家の主人でもある。自らの主人であるかのように」と書いた。(〈ハンギョレ21〉919号特集記事参照)。1989年5月19日に放送されたMBCの番組〈パク・キョンジェの時事討論〉では2時間中、維新体制が正当だと主張した。パク候補は「5・16は救国の革命」であり「5・16(軍事クーデター)が先か、共産党が先にせめ込んでくるかという時に、からくも5・16が先にやってきて破滅直前の国家が救い出された」と主張した。
フィリピンが多少ましな理由
パク・チョンヒ時代に対する評価は、歳月が流れ極めて多様になった。最近、ある新聞は5・16と維新とは異なるという一文を載せた。5・16は肯定的だけれども、維新は誤りだという論理だった。進歩陣営内ではペク・ナッチョン・ソウル大学名誉教授が2005年に〈創作と批評〉誌でパク・チョンヒ元大統領について『持続不可能な発展の有功者』と評価した。パク・チョンヒ政権の経済発展は、ある程度の成果があったけれども、そのモデルが持続する可能性は低かったし、ましてや現在の韓国経済の役割モデルでもない、との趣旨だった。パク・クネ候補の歴史観は一方的な擁護と讃揚に立っている。
フィリピンと韓国の独裁者の娘は似ている。だが異なった点がある。パク・クネ候補は有力な大選候補者だ。反面、フィリピンでイメルダ・マルコスは州知事だけれども、イメルダ・マルコスの父が殺した野党政治人の息子ベニグノ・アキノが大統領だ。(『ハンギョレ21』第929号、12年9月24日付、イ・ジウン記者)
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