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    かけはし2012.年4月23日号

民主主義的権利を守れ!抑圧
下のジャーナリストに連帯を!

スリランカ メディア弾圧に反対する連帯アピール

 スリランカで現在、民主的諸権利に対する暴力的抑圧が激しくなっている。政府批判がすべて、「タミール・イーラム解放の虎」と結びついた「テロリスト」と中傷され、暴力的襲撃すら煽動される中、著名な政治活動家の誘拐も起きている。これらの抑圧の停止を求めた二つのアピールを以下に紹介する。(「かけはし」編集部)

閣僚が暴力的襲
撃の指示を自認


 スリランカでの民主主義的自由は、ますます攻撃にさらされている。激しい排外主義的気運の中で、政府への批判、日増しに強まる権威主義的・抑圧的政策への批判は、いっそう危険に直面している。すでに亡命を余儀なくされたジャーナリストですら、脅迫と中傷キャンペーンの的になっている。政府の高官は、スリランカ政府を批判したり、国内での人権侵害に注意を喚起してきたメディアの人びとに対して、個人的な形で暴力行使を呼びかけている。
 政府閣僚のマーヴィン・シルヴァは、政府を批判したスナンダ・デシャプリヤ、ニマイカ・フェルナンド、パキアソシ・サラヴァナムツの「手足をへし折る」と公的集会の場で脅迫した。シルヴァはまた、スリランカ勤労ジャーナリスト協会(SLWJA)前委員長で亡命ジャーナリストのポッダラ・ジャヤンタが、誘拐され、誘拐犯によって両足をへし折られた件に関して、彼への犯行を指示したのは自分だ、と認めた。ジャヤンタの件に関して、シルヴァは「反逆者は処刑されるべきだ」と示唆した。

政府批判沈黙狙
うキャンペーン


 われわれは、批判的意見を沈黙させようとするキャンペーンを見ている。とりわけ、政府軍と「タミール・イーラム解放の虎」(LTTE)との内戦期間中の戦争犯罪責任者を訴追するよう政府に促す、国連スリランカ人権委員会決議の後で、それが強まっている。政府とその支持者たちは、この訴えに対し、極度の敵意と反タミール排外主義の新たな爆発をもって応えた。戦争中とその後に起きた、数えきれないほどのタミール人の生命を奪った大規模な人権侵害は、無処罰の気運を生みだし、罰せられることのないままに終わっている。
 この中傷キャンペーンのターゲットの一人は、現SLWJA委員長であり、ナバサマサマジャ党(NSSP、第四インターナショナル・スリランカ支部)の指導的メンバーであるわれわれの同志グナナシリ・コスシゴダである。もう一人のわれわれの同志で、メディア従業員組合のメンバーであるダルマシリ・ランカペリも攻撃の対象になっている。
 スリランカ政府は、このキャンペーンで国営メディアの支援を得ている。政府が支配するTV局である独立テレビネットワーク(ITN)は、コスシゴダを「反逆者」と繰り返し名ざしにしている。ITNは、ジュネーブで開かれた人権評議会のセッションに参加したかどで、ジャーナリストや市民社会の代表者たちに「テロリスト」のレッテルを貼った。同様に「レーク・ハウス」として知られる国営のセイロン連合新聞社は、ランカペリや他の政府批判者を、テロリストの支持者でありLTTEと協力しているとして非難した。

民主主義の切
り縮め許すな


 政府の高官が公然と批判派への襲撃を誇らしげに語り、人権侵害が不処罰のままですまされるという状況の中で起こったこうした攻撃は、決して過小評価されるべきではない。ジャーナリストへの嫌がらせ、危害、さらに殺害は、警察が事件として取り上げないことがしばしばであり、処罰されないままに見過ごされている。われわれの同志たちは、民主主義的諸権利と自由への原則的スタンスのゆえに、こうした攻撃の対象として選び出されたのである。かれらへの攻撃は、民主主義的諸権利と自由への攻撃である。
 ジャーナリストや民主主義的活動家への攻撃に国家主導のメディアが関与していること、ジャーナリストや政府批判者への暴力と脅しの長い歴史、そして政府の有力なメンバーが果たしてきた役割を見れば、これらの攻撃が、組織的に計画された国家主導のキャンペーンであることは明らかである。スリランカ政府は、民主主義を切り縮めることを狙っている。それはスリランカ、南アジアそして全世界の民主派・進歩派が民主主義的権利のために立ちあがることにかかっている。われわれは、「民衆のSAARC(南アジア地域協力連合)」のような進歩的組織が、スリランカにおける民主主義の根本原則を防衛しようとしていることを嬉しく思う。
 われわれは、コスシゴダ、ランカペリ、そして攻撃にさらされているすべてのメディア関係者、民主主義活動家への連帯を宣言する。われわれは、公正で民主主義的なスリランカをめざすかれらの闘いを支持する。

二〇一二年四月五日

パキスタン労働党/バングラデシュ共産党(ML)/日本革命的共産主義者同盟(JRCL)/国際主義労働者全国協議会(NCIW、日本)/人民解放党(インドネシア)/社会主義オルタナティブ(オーストラリア)/ジョン・パーシー(革命的社会党全国書記、オーストラリア)/ラディカル・ソーシャリスト(インド)/革命的労働者党―ミンダナオ(フィリピン)/フィリピン労働者党/社会主義連盟(オーストラリア)

スリランカ ナバサマサマジャ党の緊急アピール

最前線社会主義党の同志の
即時解放と弾圧の停止を!

 最前線社会主義党(JVPの異論派グループ)の二人の指導者、クマル・グナラトラムとディムス・アチガル(女性部門、国際部門書記)は、二〇一二年四月七日の土曜日の早朝、それぞれキリバトゴダとゴダグマ(いずれもコロンボの郊外)で別々に誘拐された。
 二人は連合政権の政治に反対し、タミール民族の正義と平等のための闘争に連帯してジャナタ・ヴィムクティ・ペラムナ(JVP、人民解放戦線:訳注)から分裂した新しい左翼政党の、著名な指導者である。
 タミール民族出身のクマル・グナラトラムはジャナタ・ヴィムクティ・ペラムナ(JVP)の長きにわたる指導者の一人であり、JVPからの分裂以後、当局から身を隠していた。ディムス・アチガルもJVP前政治局員で女性戦線の指導者であり、都市の議会の議員だった。
 二人の誘拐のタイミングは、二〇一二年四月九日に予定されていた最前線社会主義党の結成大会と直接の関係がある。それが、この新しい社会主義政党の党員や支持者を脅し、意気をそぐための企てであることは明らかである。この凶悪な行為は、二〇一一年一二月に起きたジャフナ半島のラリスとクガンでの二人のタミール人活動家党員の行方不明事件に続くものだ。この二人の行方も安全も依然として不明である。
 ナバサマサマジャ党(NSSP、新平等社会党=第四インターナショナル・スリランカ支部)は、最前線社会主義党の同志の即時釈放を要求する。そしてかれらの政治活動へのあらゆる脅しと妨害をただちにやめるよう求める。われわれは全世界の左翼政党に対して、スリランカ大使館や外交施設の前で連帯活動を組織し、スリランカ政府への抗議のメッセージを送るよう呼びかける。
二〇一二年四月七日
(「インターナショナルビューポイント」二〇一二年四月号)
【追記】二人の活動家は、四月九日夜、四月一〇日朝に、共に無事釈放された。

 訳注:JVP(人民解放戦線)は、一九七〇年代のシンハラ人青年の武装反乱から出発した組織。マルクス・レーニン主義を掲げているが、その後多数派シンハラ人の反タミール排外主義キャンペーンを極端な形でくりひろげ、タミール人の自決権のための闘争に敵対し、LTTEへの弾圧に積極的に加担するようになった。二〇一〇年の総選挙では七議席を獲得している。

コラム

「さんさカフェ」訪問記

 本紙前号に紹介された宮城県南三陸町の「さんさカフェ」を急きょ訪問することになった。この間の反原発運動の中で集まった、退職した郵政労働者たちや現役の郵政ユニオン組合員による「原発も核兵器もいらない おじさんおばさんの会」(通称ジジババ会)がこの訪問を企画したのだが、病気のために欠席者が出た。そこで郵政ユニオンの組合員で「ジジババ会」の仕掛け人である連れ合いが「穴埋めのため、代わりにあんたも参加しなさい」と私を引っ張り込んだのだ。津波の被害が最も甚大で、住民の一割が亡くなった三陸海岸の被災地を訪れたのは初めてだった。
 仙台駅からレンタカー二台に分乗し、二時間以上かけて南三陸町に向かった。近づくにつれて目に飛び込んでくるのは美しい真っ青の海と、病院や役場の建物の残骸が点在するものの、後は更地と瓦礫のままの旧志津川町中心部の惨状との対照だった。しかしその中でも人びとは生きているのだ。
 「さんさカフェ」は、裏手に仮設住宅が作られた高台にある志津川高校の下、線路も寸断され復旧のメドがたたないJR気仙沼線志津川駅からも近い場所にある。プレハブで作られた「仮設商店街」も傍にある。
 「さんさカフェ」のランチで昼食。「かき揚げ丼」に三品ほど小鉢がついて五〇〇円では、確かに利益などあがらないだろう。次に「さんさカフェ」で出す料理の食材などの買い出しをすることになった。買い出しの場所は、「イオン」の大型店で、みんなそれほど遠くないという印象だったのだが、その店はなんと車で四〇分もかかる登米(とめ)市にあった。登米と言えば、一九七〇年代初めに農村部の進出企業で宮城合同労組が組合づくりを行い、登米労働者連帯闘争委員会(連闘委)の闘いが戦闘的に繰り広げられた地域だ。ところが今は、その光景は一変し、巨大店舗が幾つも立ち並ぶショッピングモールになっている。そこで買い出しを済ませ、「さんさカフェ」に届けた時はもう午後五時を過ぎていた。
 翌日は、スタッフの内田さん(弟)の案内で、あの「三・一一」に彼が、どのように行動したかを追体験した。彼がやっていた食堂は、志津川駅前にあった。港から駅、そして志津川高校にいたる地域は、町の中心街で公共施設、店舗、住宅が立ち並んでいたが、今や廃墟となった庁舎、病院などの建物が無残な姿をさらすだけだ。そこには「復興」の気配もない。前日に訪れた登米のショッピングモールとは驚くほどの違いだ。
 内田さんからは、「三・一一」後の町政へのさまざまな批判や葛藤についても率直な話を聞かされた。帰りにもう一度立ち寄った「さんさカフェ」には、地元の高校生たちも客として来ており、少しホッとした。
 「復興」への道は険しく、遠い。それは南三陸からの帰途、立ち寄った女川でもあらためて実感したことだった。脱原発の闘いに参加してきた「ジジババ会」にとっても、被災者の復興支援とどう結びつけて運動を続けていくのかがあらためて問われるのだろう。  (国)
 

 


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