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労働者の民主主義的ヘゲモニーの
衰退とスターリニズム体制の確立
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学習
ヘゲモニーと永続革命――
トロツキーとグラムシ (7)
西島 栄(トロツキー研究所)
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6、十月革命の衰退と
スターリニズムの台頭
(1)ヨーロッパ革命の敗北と国際的陣地戦への転換
だが十月革命の勝利は、すぐさま革命の困難をもたらした。最初の困難は、都市部におけるプロレタリアートの革命的ヘゲモニーの強さと、プロレタリアートの少数性およびそれを取り巻く環境の後進性との矛盾という国内的アポリアから生じた。ソヴィエト選挙では多数を取れたボリシェヴィキは、全国規模の憲法制定議会選挙では全体の四分の一しか獲得できなかった。
ここでは、基本的な国内的アポリアに加えて、革命の地理的不均等発展という問題があった。しかしこの問題は、憲法制定議会の解散という強硬手段によって何とか乗り切られた。これは、ブルジョア的な正統性機関を、プロレタリアートのヘゲモニー機関であり新たな正統性機関であるソヴィエトが粉砕したということであり、選挙原則や民主主義の否定とはまったく意味が異なる。そして、このような「平民的」な乗り切り方が可能であったのは、この時点での矛盾がまだ初歩的なものであったこと、革命的プロレタリアートの主体性がまだ圧倒的であって、憲法制定議会に対する国内的支持が非常にわずかだったからである。
しかし、国内的アポリアにおけるより深刻な問題は、内戦の勃発と穀物調達の困難さから生じた。一九一七年の怒涛のような革命的上げ潮に不意を打たれていた反動勢力は、一九一八年以降しだいに陣容を立て直し、ヨーロッパ帝国主義の支援も受けて、ボリシェヴィキ権力に武力で挑戦するようになった。そして、経済的崩壊状況は正常な手段での穀物調達を不可能にし、ボリシェヴィキ自身の政策的誤りもあって、ますます強行的に穀物が集められるようになり、農民の離反を生んだ。そして決定的だったのは、二月革命から始まった革命の上昇気流――それは内戦を通じてボリシェヴィキの権力が全国的に押し広げられる拡張過程において持続していたとはいえ――が国境線で阻止されたことである。トロツキーが一九〇六年の展開で想定していたプロレタリアートの「主体的ヘゲモニー」と「客体的ヘゲモニー」との矛盾は、国際プロレタリアート、とりわけヨーロッパ・プロレタリアートによるヨーロッパ社会主義革命の成功と、その国家的支援によって前向きに打破されるはずであった。
しかし、ここで、西欧におけるブルジョアジーの「客体的ないし構造的ヘゲモニー」が、世界戦争の混乱にもかかわらずなお強固であることが証明された。ブルジョアジーの「客体的ヘゲモニー」にプロレタリアートもその党も取り込まれており、かつて第二インターナショナルが宣言したように戦争を革命に転化させることができず、むしろ戦争に協力し、積極的に革命を阻止した。レーニンとボリシェヴィキは第三インターナショナルを作って、世界中で社会民主党を分裂させ、共産党を即製的に作ったが、長期間にわたる陣地戦を経ていない若い共産党には革命を遂行する「主体的ヘゲモニー」を発揮することはできなかった。こうして、ロシア・プロレタリアートの国内的アポリアは国際的に打破することができず、革命の上昇気流ははけ口を失い、内攻し、そして激烈な内戦の中でしだいに使い果たされていった。ボリシェヴィキとプロレタリアートとの隔絶がしだいに広がり、プロレタリアートと農民との隔絶も広がった。
しかし、レーニンとトロツキーの予想に反して、プロレタリア独裁は、ヨーロッパ革命の不発にもかかわらず崩壊しなかった。それは、ヨーロッパ革命が――最終的には勝利しなかったとはいえ――いくつかの国で実際に勃発し、それがブルジョアジーの帝国主義介入の手を一定縛ったこと、一九〇五年当時のトロツキーとレーニンが想定していなかった独裁的手法をボリシェヴィキが広範に用いたこと、そして、トロツキーもレーニンも予想していなかったほどロシア・プロレタリアートの革命的潜在力が大きかったこと、による。またロシアの地理的広さは、ボリシェヴィキにマヌーバーの余地を広く残した。
レーニンとトロツキーは、一九一七〜一九二〇年の革命的攻勢を西欧の帝国主義ブルジョアジーがしのぎ切ったのを見て、世界革命の展望をも機動戦的なものから陣地戦的なものへと切り替える必要性を悟った。結局、ロシアの十月革命でさえ陣地戦として勝利したとすれば、ロシアのブルジョアジーとは比べものにならないほど強固にブルジョアジーが「構造的ヘゲモニー」を確立している西欧において機動戦的に革命が勝利することなど不可能なのは明らかだった。
レーニンとトロツキーは、コミンテルンの第三回大会において統一戦線戦術に転換し、国際的陣地戦を長期にわたって遂行する路線に切り替えた。これはけっしてスムーズにいった過程ではない。戦前の反動期および二月革命から十月革命までの期間がロシアにおける陣地戦的局面であったことがいつの間にか忘れられ、あたかも単純に機動戦的なものであったかのように広く理解されたために、このような機動戦的やり方で西欧でも革命が成功しうると考える革命家は、ロシア国内でも西欧でも多かった。レーニンとトロツキーは粘り強く批判と説得を積みかさね、しだいに攻勢理論(機動戦の物神化)的潮流を克服していった。この過程でレーニン=トロツキーの陣地戦論に獲得された一人が、グラムシその人である。 (2)ヘゲモニーの衰退とスターリニズムの成立
さてここで再びロシア国内の状況に話を戻そう。内戦と帝国主義的干渉という過酷な試練を通じてロシアのプロレタリア独裁は自己の権力をかろうじて維持したとはいえ、その中で民主主義的ヘゲモニーの方はしだいに掘りくずされていった。その代わり、ボリシェヴィキは自己の権力を制度のうちに刻み込むためのあらゆる措置をとった。民主主義的ヘゲモニーが弱いがゆえに、なおさら強固に権威主義的で揺るぎのない「構造的ヘゲモニー」を構築する必要があった。ヘゲモニーの民主主義的内実が空洞化するにつれて、その外殻はますます固くなっていった。
この過程は、一九二一年におけるボリシェヴィキ一党独裁と、分派禁止措置による一分派独裁の成立によって、制度的に決定的なものとなった。ソヴィエト多党制の否定は、ヘゲモニー機関としてのソヴィエトの衰退を意味するし、ボリシェヴィキ党内分派の否定は、革命的梃子としての党の衰退を意味した。
しかし、それにしても、革命の過程であれほどヘゲモニーの理論を有機的に発展させたはずのレーニンとトロツキーが、どうしてヘゲモニーの自己否定につながるようなソヴィエト多党制と党内分派の禁止という致命的な誤りを犯したのだろうか? 当時の厳しい政治情勢やネップの導入によるブルジョア的な経済的反革命の危険性といった客観的諸条件が決定的なものであったことは間違いないが、それだけでは十分説明のつかない問題である。ここには、権力獲得過程におけるヘゲモニーのあり方と、権力獲得後のヘゲモニーのあり方との大きな差異という問題が横たわっている。
レーニンが一九一七年二月革命後に、ボリシェヴィキがソヴィエト内で少数派であったにもかかわらず「すべての権力をソヴィエトへ!」と訴え、これがヘゲモニー獲得の上で非常に重要な役割を果たしたことはすでに述べた。ここで重要なのは、ボリシェヴィキが少数派であるにもかかわらずソヴィエトへの権力集中を言うことは、ボリシェヴィキ独裁ではない権力のあり方をあえて要求したことであり、このことが労働者大衆の同意と納得を得る上で決定的だったことである。しかし、ヘゲモニーを獲得する以前は、ソヴィエトに全権力を集中させても、ボリシェヴィキ自身の陣地が一ミリたりとも後退するわけではない。それどころか、ソヴィエト内ではボリシェヴィキは少数とはいえ有力な構成党派だったのだから、ボリシェヴィキの陣地を拡大することにさえなっただろう。それゆえ、ボリシェヴィキは安心して、「すべての権力をソヴィエトへ」と訴えることができた。ここでは、大衆の願いに従うことと陣地戦とヘゲモニーの拡大とがすべて順接的に結びついていた。
ところが、いったんボリシェヴィキが多数派となり、権力を握った暁には、自派が多数ではない権力機関への権力移譲はありえないことになる。すでに述べたように、憲法制定議会選挙でボリシェヴィキは少数派だったので、ボリシェヴィキはソヴィエトから憲法制定議会に権力を移譲するのではなく、憲法制定議会を解散することでこの矛盾を解決した。
しかしより深刻な問題は、労働者大衆の革命的情熱が衰え、内戦過程でしだいにひどくなっていったボリシェヴィキの強権主義に対する大衆的反発が起きたことである。その際、ボリシェヴィキはそうした大衆の意思をどのように自己の権力に反映するべきだったのだろうか? 権力の獲得をめざす過程ではヘゲモニーの問題と陣地の拡大とは一致していたが、すでにすべての陣地を獲得し権力を独占した後には、民主主義的ヘゲモニーの弁証法はどの点に示されるのだろうか? 権力獲得過程と同じようにヘゲモニーの拡張的あり方を考えるならば、大衆の離反をものともせず陣地を死守するということになるだろう。だがそれは、ヘゲモニーの民主主義的内実を絶えず掘りくずしながらその外形的維持をめざすものになってしまうだろう(民主主義的ヘゲモニーの権威主義的ヘゲモニーへの転化)。
すでに述べたように、プロレタリアート自身がきわめて不均質な階級なのであり、とりわけ過酷な内戦を経たあとでは、それは大幅に縮小するともに、その中の最も革命的な部分は内戦の中で死んでいた。ボリシェヴィキは、権力から自立した政党や分派のうちに表現されるプロレタリアートのヘゲモニーの民主主義的内実を保障するのではなく、それを禁止した上で、ボリシェヴィキ自身がプロレタリアートの状態や気分や動向に必要な注意を払い、しかるべき政策を時宜を失せず実行すること、プロレタリアートの文化性を高めていく啓蒙活動を行なうこと、計画経済を通じて経済成長を実現してしていくことなどをしていけば、そうした利害対立をプロレタリア独裁の全体的利益に反しない形で調整することができると考えた。もちろん、不均質な階級内の利害対立を階級全体の利益のために適切に調整することはヘゲモニーの重要な一側面なのだが、それだけではまったく不十分なのだ。それぞれの異なった意見の公然たる表明、議論、そうした意見の政治的組織化、対抗的行動、といった民主主義的過程が必要なのであり、それこそがヘゲモニーをヘゲモニーたらしめるのだ。それを欠くヘゲモニーは、たとえ「革命的前衛」によって正しく利害調整されたとしても、ヘゲモニーの内実を空洞化させているのである。そして、階級内民主主義の内実を欠いた階級独裁は、すでに述べたように、階級内一分派の独裁にならざるをえない。
しかも、このようなボリシェヴィキ指導部による単独調整方式は、権力を握っている側(つまりボリシェヴィキ指導部)が真にプロレタリア独裁の全体的利益を理解しており、かつそれを本当に実現しようとしているという前提が必要になる。だがもしこの前提が成り立たない事態になったとしたらどうか? 官僚独裁を願う人物やカーストが権力の支配層を独占した場合にはどうなるのか? レーニンもトロツキーもこのことを十分に考えなかった。革命前レーニンは農民的パートナーが制約するだろうと考えていたし、トロツキーはヨーロッパ革命が助けてくれるだろうと考えていた。プロレタリア独裁の長期にわたる孤立と革命的熱狂の衰退という事態は両者ともまったく想定していないことだった。その中で、どのように新しい形で民主主義的ヘゲモニーを維持し発展させていくのか、これこそ、ヘゲモニー論におけるまったく新しい独自の探求領域をなしていた。両名ともその解決に失敗した。それは、ボリシェヴィズムがスターリニズムへと堕落していく上で、その他の諸条件とともに、一つのきわめて重要な要因になったのである。
こうして、民主主義的ヘゲモニーの内実を保障する制度的仕組みを欠いたまま、ボリシェヴィキは絶対的な孤立状態の中で、広大な農民国家を統治せざるをえなくなった。レーニンが死に、トロツキーが権力の中枢からはずされるにつれて、民主主義的ヘゲモニーは急速に衰退していった。一九二三年以降における反トロツキスト闘争を通じて、この権力はしだいにデマと排除の論理にもとづくようになり、ヘゲモニーの民主主義的内実をいっそう空洞化させた。一九二〇年代末から一九三〇年代初頭における穀物調達危機を利用したスターリンの「上からの革命」と、キーロフ暗殺を利用した一九三〇年代の大量粛清はこの過程を完成させた。
この全体主義化の過程において決定的な役割を果たしたのは、ソヴィエトという本来多元的な民主主義的ヘゲモニーの機関が衰退し空洞化するにつれて、党という一枚岩的な上意下達の機関(分派禁止規定と上級への無条件服従)がソヴィエトを代替し、それが量的にも膨れ上がって(レーニン死後の入党運動を通じて)、「革命の梃子」から、官僚層(国家および党の)が社会と人民を隅々まで支配する全体主義的監視・強制装置と化していったことである。
こうして成立したスターリニズムは、十月革命の時と逆の意味でヘゲモニーが消失した権力状況であると言える(ヘゲモニーなき権力)。十月革命の頂点においては、大衆自身がボリシェヴィキの活動家並みの能動性と高い革命性を獲得したがゆえに、ある主体が客体に行使するものとしてのヘゲモニーが止揚=消失したのに対して、スターリニズムにおいては、大衆の納得と同意を民主主義的に調達する能力を失った官僚権力が、プロパガンダと秘密警察による弾圧、民衆の恐怖と諦念を通じて支配する状況が普遍的に生じており、ここにおいては退行的・反動的な意味で(民主主義的)ヘゲモニーの衰退=消失が生じてしまっているのである。 (つづく)
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