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攻勢的陣地戦の成功を基礎にした
機動戦への転化―十月革命の勝利
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学習
ヘゲモニーと永続革命――
トロツキーとグラムシ (6) 西島 栄(トロツキー研究所) |
5、一九一七年革命とヘゲモニーの実現(承前)
(3)「攻勢的陣地戦」と「戦略的ヘゲモニー」
「四月テーゼ」以降における「陣地戦への転換」は、それ以前の反動期における「陣地戦」論や「ヘゲモニー」論とどう違うのだろうか?
何よりも、反動期におけるレーニンの「陣地戦」は、おおむね「守勢的、防衛的陣地戦」だった。反動の巻き返しの中で、何とか獲得された陣地を防衛し、カデットとのイデオロギー闘争を通じて、労働者階級の中へのブルジョア・イデオロギーの浸透を食い止めようとするものであった。したがってまた、その「ヘゲモニー」論も、こうした状況に規定されて、組織防衛的なものであり、ボリシェヴィキという一枚岩の組織を中心にして同心円状に拡大し行使されていく「組織的ヘゲモニー」という認識だった。多くのセクトの「ヘゲモニー」論とは、だいたいこういうものであり、自己の組織を中心とする同心円的な影響力と支配力の拡大というイメージである。このような「ヘゲモニー」像は、いかなるセクト主義とも両立しうる。もちろん、そうした局面も必要ではあるし、運動の中心となる強固な組織が必要であることも当然なのだが、にもかかわらず、運動の発展、革命の発展を、一枚岩的な組織を中心とする一方向的で単純な同心円的な影響拡大過程とみなすのは一面的にすぎるのであり、ヘゲモニー概念の矮小化に他ならない。
それに対して、「四月テーゼ」以降におけるレーニンの陣地戦は「攻勢的陣地戦」であり、そのヘゲモニー論は、単なる同心円的な影響力拡大過程としての「組織的ヘゲモニー」ではなく、「過渡的綱領」の戦略と統一戦線の戦術(どちらの用語も当時は用いられていないが)にもとづいて、革命化した大衆との有機的で弁証法的な関係を通じて確立される新たなヘゲモニー概念へと、すなわちまさにグラムシのヘゲモニー論との連続性を強く持ったヘゲモニー概念へと発展している。
この、より豊かで有機的な、真のヘゲモニック・プロジェクトとしてのヘゲモニー概念を「戦略的ヘゲモニー」と呼ぼう。これは、単に特定の党派ないし政党による同心円的組織拡大ないし影響力拡大としてのそれではなく、(1)当時においてロシアが当面していた社会的・政治的・経済的危機を打破するための総合的な政治的オルタナティブ(過渡的綱領)を提示しつつ、(2)統一戦線戦術、民主主義的討議と対話、説得と同意、闘争における知的・道徳的模範の提示、大衆自身の生きた政治的経験等を通じて、(3)生きた諸階級およびプロレタリアート内部の諸階層の利害の対立を調整しながら革命的プロレタリア政党の指導のもとにこれらの層を民主主義的に統一する、という有機的で弁証法的なヘゲモニック・プロジェクトである。
さらに、レーニンは、その後の展開の中で、単純で一方向的な「指導―被指導」の関係をも乗り越える視点を提示している。それが、後にトロツキーも好んで引用した、「大衆はわれわれよりも一〇〇倍も左翼的である」という名セリフである。もし大衆がわれわれボリシェヴィキよりも一〇〇倍も左翼的であるとすれば、もっぱらボリシェヴィキが大衆を指導し革命に導くという関係は存在しないことになるだろう。その逆に、ボリシェヴィキは大衆から学び、その指導を受けなければならないことになるだろう。前衛党と大衆との単純な伝統的「二分法」においては、前衛党はつねに指導し教える側であり、大衆は指導され教えられる側である。その両者の関係が機械的でなく、ヘゲモニー的(有機的な指導・被指導関係)であったとしても、ヘゲモニーを行使するのはつねに前衛党=主体であり、大衆は行使される側=客体である。
しかし、このような一方向的な関係は、「労働者階級の自己解放」としての社会主義を理想とする共産主義政党においては、本来、一面的なものであるはずだ。レーニンは、後世のイメージにもかかわらず、そのような一方向的なヘゲモニー関係を大胆にも、二月革命から十月革命の過程で否定し、前衛と大衆との関係を単に有機的であるだけでなく、相互作用的で弁証法的なものとして、とらえなおした。ヘゲモニーを、すでに真理(戦略、戦術、新しい社会像)を持っている人々(革命的ないし反動的エリート)が、まだ持っていない人々(大衆)を自己に従わせるための単なる一方的な支配力行使であるとみなす場合には、ヘゲモニー概念そのものが伝統的支配の方向に沿って機能することになる。そうではなく、ヘゲモニーは相互作用的で、再帰的なものでなければならない。支配層は、既存の支配を維持するか再編した上で新しいヒエラルキーを構築するためにヘゲモニーを行使する。しかし、社会主義者は、そもそもそうした支配―被支配のヒエラルキーを廃絶するためにヘゲモニーを行使しようとするのだから、ヘゲモニー自体が一方向的なものではなく、双方向的なもの、再帰的なものでなければならない。このような「再帰的ヘゲモニー」がまさに、この二月革命から十月革命の過程で発展していったのである。
(4)十月革命の成功とヘゲモニーの止揚
こうして、二月革命以降、レーニンによって主導されたボリシェヴィキの方向転換(永続革命への転換とヘゲモニーとしての陣地戦への二重の転換)の結果、ボリシェヴィキは単に革命の主体勢力として成長しえただけでなく、かつてはボリシェヴィキと深く対立していた部分をも獲得することができた。反動期に見られた偏狭でセクト主義的な批判は影を潜め、あらゆる進歩的・革命的諸潮流のすべてを有機的に包摂していこうとする志向がはっきりとレーニンの中に現われるようになる。正しい綱領的路線は、正しい組織的路線をも可能にする(必然的にするとは言わないまでも)という明白な一例である。そうした中で、トロツキーもまたボリシェヴィキに入党し、レーニンと並んで、十月革命を指導することになる。
機動戦として闘われた二月革命と違い、二月から一〇月までの八ヶ月間(これは絶対的時間としては短いが、その期間に生じた無数の大事件と大衆の意識変化からすれば平時の数十年に匹敵する)にヘゲモニー的な陣地戦として闘われた成果にもとづいている十月革命は、まさにヘゲモニーとしての革命の名にふさわしいものだった。そして九月から一〇月にかけて、首都ペトログラードにおいて権力を獲得する上で決定的である二つの陣地、すなわち、権力の正統性の機関であるソヴィエトと、物質的権力が集中された暴力機関であるペトログラード守備隊とが、説得と模範、大衆自身の経験というヘゲモニー的手法を通じて獲得された。革命を成功させる上で最低限必要なこの二つ陣地が獲得されたことで、実質的に獲得されているヘゲモニーを現実の国家権力に転化させる最小限の準備は整った。
トロツキーは『十月の教訓』の中で、革命化したペトログラード守備隊に対して首都からの移動を命じた臨時政府の命令に対して守備隊がその命令をきかず、首都にとどまるべしとしたペトログラード・ソヴィエト(議長はトロツキー)の命令に従ったとき、十月革命の四分の三はすでに成功していたと述べているが、これはこのような核心的陣地におけるヘゲモニー関係を雄弁に物語るものである。
もちろん、もっと多くの陣地(たとえば革命前には獲得できなかったことでその後いろいろと問題の原因となった鉄道労働組合の中央委員会など)を獲得してからの方がより、ヘゲモニーが安定しただろうが、長引く戦争がますますロシアの経済と社会を崩壊させつつある中で、そんな悠長なことは言っていられなかった。また、ブルジョアジーがいつ何時、まだ帝政に忠実な軍隊を全国からかき集めて反撃に出るかもしれなかった。
ここで問題になっていたのは、時宜を失せず陣地戦から機動戦へと再転換することだった。陣地戦だけではいずれ行き詰まるのである。それは、しかるべき時に機動戦に移行して、権力問題に決着をつけなければならない。すでに述べたように、公式の国家権力と、それと対立するヘゲモニー機関との並存状態(二重権力)はいつまでも維持できるものではない。どちらか一方が他方を打ち倒さなければならない瞬間がやがてやってくる。この瞬間をつかみそこねるならば、革命情勢がやがて衰え、アンシャンレジーム勢力が外国の助けも借りて陣容を立て直し、反撃に出ることができるようになるだろう。しかし、この中で、ボリシェヴィキの一部に、このまま陣地戦をずっと続けようとする傾向が出てきた。それがカーメネフとジノヴィエフを中心とする勢力であった。
レーニンは、こうした惰性に危機感を抱くとともに、敵がすぐさま反撃に出ることを恐れて、ただちに機動戦に移行するよう訴えた。この焦燥とそれにもとづく執拗な働きかけは、トロツキーが後に「十月の教訓」や『ロシア革命史』で述べているように、いったんヘゲモニーの平和的拡大と陣地戦とに慣れてしまったボリシェヴィキ党を機動戦という新しい闘争方法に移行させるのに必要なものだった。
トロツキーは、そうしたレーニンの熱情的訴えを理解しつつも、全国ソヴィエトという残された重大陣地を獲得しなければ、大衆の納得と同意(ヘゲモニーの核心的要素)にもとづいて第二革命を遂行することはできないと考え、蜂起の時期を第二回全露ソヴィエト大会の時期にできるだけ接近させる道をとった。レーニンは不満だったが、結局、この路線が正しいことが明らかになった。十月蜂起(機動戦!)は、事前に獲得されていたボリシェヴィキのヘゲモニー(陣地戦!)のおかげで、きわめて組織的かつ平和的に実行された。
さて、先ほど述べたように、本来のヘゲモニーが開かれた双方向的で再帰的なものになるとすれば、その完全な実現は実を言うと、指導―被指導関係たるヘゲモニーそのものの止揚になる。「労働者階級の自己解放」としての社会主義・共産主義という理念からすれば、少なくともある特定の党派と階級との関係は単純な「指導―被指導」という関係ではなくなり、労働者階級自身の自己統治、自己支配であり、そこにおいては、ヘゲモニーが完全に実現されているがゆえに「ヘゲモニー」としては現われることはなくなり、「真に実現されたヘゲモニー=自己権力」となるのである。
(つづく)
3.10沖縄・辺野古の海を殺すな!集会
環境アセス評価書は違法だ
新基地建設を断念させよう
本土復帰40年
差別への自覚を
三月一〇日、東京・飯田橋の東京しごとセンターで、「沖縄・辺野古の海を殺すな! 新基地建設を断念させよう3・10集会」が行われた。沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック、辺野古への基地建設を許さない実行委員会(辺野古実)、全労協全国一般東京労組の三団体が共催した。
この日の集会は、防衛省・沖縄防衛局が昨年末ギリギリに行った辺野古基地建設のための「環境アセス評価書」提出の違法性を批判し、最終的に辺野古基地建設の断念を迫る運動を作りだすために企画された。
集会の冒頭に、沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックの上原成信さんが主催者あいさつ。続いて平和フォーラムの藤岡事務局長が「石垣空港の米軍使用など沖縄への負担強化と軍事化はさらに進行している。しかし率直に言って労働組合の反応はにぶい。その問題を『本土』の沖縄への差別と重ね合わせて考えざるをえない。『本土復帰』四〇年の今年、沖縄を切り捨ててきた差別性を自覚させるような闘いを作り出していきたい」とあいさつした。
県民の総意を
実現するために
メインの講演は、沖縄の真喜志好一さんが行った。真喜志さんは垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの配備を隠して行われたアセス手続きの違法性は、女性へのレイプ犯罪と評価書提出を重ね合わせた田中前沖縄防衛局長の発言の中に端的に表現されている、と指摘。それが「凶悪犯罪」に他ならないことを、田中発言や、真部沖縄防衛局長を先頭に行われた「未明の評価書持ち込み」によって、多くの沖縄県民も自覚することになった、と語った。
オスプレイ配備問題についてはすでに一九九六年段階から、当時の防衛庁高見沢運用課長がオスプレイ配備を前提とした「想定問答」の作成を米側に申し入れていることが、公開された米側文書によって明らかになっている。それを準備書段階で隠したまま、進められてきたアセス手続きが違法であることを真喜志さんは指摘した。
二月二〇日、仲井真沖縄県知事は二月二〇日に提出したアセス評価書への「意見書」の中で、二五項目一七五件にわたって「不適切な条項」を列挙し、「評価書で示された措置では生活、自然環境の保全を図ることは不可能」として、はっきりと「アセス調査書」を拒否し、「(辺野古)移設は事実上不可能で、国内の他の地域への移設が合理的」と「県外移設」の立場を明記した。この知事意見書の中ではオスプレイの配備がアセス最終段階の評価書で初めて「追加・変更」されたことを厳しく批判している。
二月二七日、沖縄を初めて訪問した野田首相は、「普天間を固定化させないためには辺野古に移転することが唯一有効な方法」と仲井真知事に迫ったが、当然にも「県民の総意」に押された仲井真はそれを拒否した。
真喜志さんは、「オスプレイ配備の想定問答集」を作ったのは日本の政治家と官僚だ、敵は何よりも日本政府だ、と断罪した。
全国一般東京労組の大森委員長が連帯のあいさつを行った後、翌日の「原発いらない!福島県民大集会」出席のために沖縄から駆けつけた山城博治・沖縄平和運動センター事務局長は「講和条約発効六〇年、復帰四〇年の今年、生命を賭けて辺野古新基地建設を阻止する」と熱烈な檄を飛ばした。 (K)
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